はてなキーワード: 前評判とは
http://anond.hatelabo.jp/20140108194144
監督がどうだとか、演出がこうだとか、主演俳優の演技がどうだったとか、そんな話はいったん脇に置いて。
「燃えよドラゴン」をリアルタイムで見た年配の方々が、口々に話すのは、必ずしもブルース・リーの格好よさではないはずです。
彼らが楽しそうに話すのは、肩をいからせながら劇場を後にする観客の姿であり、少ない小遣いを握りしめてヌンチャクを買いに走った幼い自分自身の姿。
「単純に面白かった」映画の上半期ベストとは別モノとお考えください。
第5位 ゼロ・グラビティ(2回目)
第4位 ウルフ・オブ・ウォールストリート
第3位 アクト・オブ・キリング
第2位 ロッキー・ホラー・ショー
委員長(女)と鑑賞。学生時代はいつもツンと澄ました表情を崩さず、どこか近寄りがたい雰囲気だった同級生(当時クラス委員長)(美人)(三つ編み)と、同窓会で再会 → ホラー映画話で盛り上がる という夢のようなシチュエーションを経て、ホラー映画友達に。2013年中は、これまで一人で観に行っていたホラー映画を、委員長(仕事中だけ眼鏡をかける)と一緒に観に行くという、もし学生時代の私ならその場で卒倒してしまいそうな、夢のような時間を過ごしました。つまんなかったな、死霊のはらわた。面白かったな、キャビン。映画の終盤の大虐殺シーンときに目が合って、満面の笑顔だったことは一生の思い出。
しかし、楽しい時間はいつまでも続きません。2014年早々の飲み会の席で、「年末に彼氏ができた」「彼氏が嫌がるかもしれないので、一緒に映画を観に行くのは控えたい」という旨を委員長より告げられます。悲しいけれど、仕方ない。
「じゃあ最後に、普通に面白い映画を観に行こう」と誘って観に行った映画が『ゼロ・グラビティ』。私は2回目の鑑賞でしたが、面白い映画は何回見ても面白い。さみしいけれど、さようなら委員長。
奥さん(スイーツ)と鑑賞。彼氏彼女のころは昔は一緒にホラーやスプラッターも観てくれたのに、今では「王様のブランチで紹介される映画しか観たくない」と言い張るようになった奥さん。『ウルフ・オブ・ウォールストリート』も、事前に予告編や前評判を観て「これは『グッドフェローズ』の方のスコセッシやな・・・?」と判断し「奥さんと観に行く映画リスト」からは早々にはずしていたのですが、「王様のブランチで紹介されていて、とてもおもしろそうだった」という奥さんの強い希望で一緒に観に行くことに。今回ばかりはありがとう、王様のブランチ。
鑑賞後「もしかして、やっちゃったかな?」と不安に思いながら、恐る恐るに感想を聞くと、意外なほどの高評価。今でも、奥さんの中での評価は「『アナと雪の女王』より『ウルフ・オブ・ウォールストリート』。『LET IT GO』より『マコノヒーのチェストソング』」とのこと。「んーんー、んーんー」って歌いながら夕食の準備をする奥さんかわいい。
「もしかしたら今後は、付き合いはじめた頃みたいにアメコミ映画も一緒に観にいってくれるかも?」と淡い希望を抱き、後日ためしに『X-MEN: ファースト・ジェネレーション』を自宅で一緒に観たところ、途中でいびきをかいて眠りはじめました。
高校友人(男×2)と鑑賞。それぞれ個別に食事に行ったり遊んだりすることはあっても、3人そろって会うのは久しぶりだったため、妙に緊張したことを覚えています。少し早く劇場についたので、上映前に学生時代の思い出話に花を咲かせたのち、並んで写真を撮りました。学生時代からはつらつとしていた友人は、今でも若々しく。おっさんじみていた友人は、よりおっさんに。
携帯で撮った写真を見ながら『変わらないものなんか/何ひとつないけど/変わるスピードが/違ったんだなあ』というクロマニヨンズの歌が頭をよぎります。
映画を観た後は、完全に圧倒されてしまい、会話もそこそこに、つけ麺を食べて解散。ベトナム・マレーシアで仕事をしている友人の「現地の人を見る目が、少し変わるかもしれん」という一言が印象的でした。
初見。「『ロッキー・ホラー・ショー』はコスプレをして騒ぎながら、観客が一体となって観るもの」と事前に見聞きしていたので、「昨年の『パシフィック・リム』のように、映画館が一体となって鑑賞したような気分が味わえるかもしれない」と思い、ガチガチにコスプレをして会場に赴いたところ、持ち込みでコスプレをして映画館に来るような頭のおかしい一般客はおれだけだったため、上映中、かつて経験したことのないような孤独にさいなまれました。
好事家たちの間で熱狂的支持を集めるVシネマシリーズの劇場版。委員長(女)と鑑賞。「委員長ともう一緒に観に行くことはない」と言った舌の根が乾かないうちに、ダメモトで誘ってみたところ、まさかのOKが出ました。「どうしても観たいから、彼氏は説得した」とのこと。さすが、Jホラーファン。ほん呪シリーズコンプリートは伊達じゃありません。覚悟が違います。
劇場につくと、そこはホラー映画Tシャツを着た男性客率が非常に高い異空間。twitterアイコンをプリントしたTシャツを着ている剛の者まであらわれるという異様な雰囲気の中、映画が始まると、予想外の展開の連続に、劇場は揺れるような歓声と爆笑に包まれました。終盤の想像を絶する超展開に、委員長が思わず「どうなってるの、これ」と笑いながらつぶやいていたのが印象的。上映中、こっそり横顔を覗き見すると、委員長は本当に楽しそうに笑っていました。今度は振り向いてはくれなかったし、目が合うこともなかった。
上映後、食事をしながら近況について尋ねると「付き合ってから最初に観に行った映画は『永遠の0』」とのこと。彼氏の一番好きな映画は『アルマゲドン』。委員長の一番好きな映画は『エクソシスト』。それでも委員長は彼氏にべたぼれ。がんばれ、負けるな委員長。
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今年も残り5か月。誰と映画を観に行こう??
結論から先に書くと、Splatoonは国内売り上げは10万~50万クラス(10万以上、ハーフミリオン不達)で、ある程度熱心にゲームを遊ぶ人が触ることはあれど、これを理由にゲーム、ゲーム機を買う人はあまりいないでしょう(新パルテナの光が国内で売り上げ約30万本だそうなので、こちらは20万本行くかどうかくらいですかね)。じわじわとあとから売れていくこともせず、蓋を開けてみると半年後に「前評判の割にあまり売れなかったね」と評価される程度の物でしょう。
ゲームとして最低限の成功を収めるとは思いますが、これによって新たにゲーム人口が増えるであるとか、TPSの入門になるであるとか、Wii Uを牽引するであるとか、そういう展開には絶対になりません。
それと、Splatoonの記事に対して「気になる」とか「これ出たら本体ごと買う」とか言ってる人の9割は、間違いなく買いません。彼らは言うだけならタダだと思って言ってるだけです。
アイデアにより、従来のFPS/TPSが持つ問題点を解決はしています。が、解決された先に万能のおもしろさがあるかというと、それはまた別の問題で、そのおもしろさの届く相手は、結局従来の熱心なゲーマーだけのように感じます。
ゲームとしてのおもしろさは間違いなく高いと思いますが、それは万人には届きません。
ぶっちゃけ持ち上げられすぎです。
去年夏から入ってきた同僚に批判されて刺される夢を見た。なぜそんな夢を見てしまったか、書かないといけない気がしてしまったので、夢の内容を覚えているうちに書く。
うちの会社に去年の夏かなり出来る人が入ってきた。その人は自分と同じ職種で入ってきたけど、他の職種のことも(自分から見る限りでは)不自由なく出来る人で、即戦力という感じだった。
実際自分の手が回っていなかったところをその人に振ってみたら、自分が見積もっていた時間の半分以下で終わらせてきて、いい意味で化け物だと思った。
その後も、割と大変な実装をその人がやったり、いつの間にか仕事に役立つツールを作ってきたりしていた。
自分は、その人が入ってくる時の前評判や、前述の自分の手が回っていなかったところを自分が見積もっていた工数の半分以下で終わらせてきた時に「ああ、この人は自分より技術的にはるか上を行っている。だったら少しでも追いつけるよう吸収していけるようにしよう」と思った。ただ、思うだけで実行出来なかった。なぜか。
実は自分の中になんとなく話しかけづらい部分があった。まず前述の自分が手が回っていなかったところに関しては、丸投げに近い形で仕事を振ってしまった。どれだけ丸投げかといえば、
そんな状態から、「いい感じに散らばっているコードをまとめ、いい感じにする」という曖昧な事しか言っていなかったのだ。それでも自分が見積もった時間の半分以下で終わらせてきたのだ。
話を戻そう。話しかけづらくなってしまった理由としてを自分の中で考えて出した答え。それは前述の仕事やその後行った割と大変な実装を通じて、ある程度全体を知っていた自分がサポート出来た部分があったのではないかという後悔と罪悪感。また、話したら何か言われるのではという恐怖。
そしてこれが一番でかいのだが、とある新規プロジェクトにその人がメインに近い感じで参加することになった。それは納品日的にもキツキツでこの三が日にも出勤していたりする。
そんな中、自分は年末ヘルプに入ったとはいえ、基本は違うプロジェクトの担当なので、今のところ出勤しないで三が日を満喫出来ていた。ただ大変なのは伺えていた。
なので、自分も出勤して手伝えるところは手伝ったほうがいいのかと思いつつ、休みたかったので、手伝えるところがあるかなど聞きもしなかった。
しかし、その同僚からしたら「自分はなぜ出勤して大変な思いをしているのに、あの人は休んでいるのか」と思うと思う。自分ならそう思ってしまう。
初夢でもそんな感じで、その同僚のソウルジェムが濁っていき、そして批判され刺される(といっても夢なので、痛くもないし血も出ていなかったが)ことになってしまった。
本当の駄作は見る前から非難して、決して見ない。
最後までやらずに文句を言うな、見てから言え、なんてのは言葉のあやで無理な理屈。
死ぬかどうかは死んでから言えとか、封をあけてはいけない中身を開けずに確かめるなんてこととか、無理なこと。
これはだめだとどの辺りで気付いたか、そこでやめたととか、見る価値はない、だから見ていない、見なくて良いという経験の価値を再確認すべき。
最近のこどもむけアニメはなんでも「先人の知恵、大人の意見はそうあるけど、やってみなくちゃわからない」となんでも無理をして、あげく無知で力ない子供が達成して非合理の優位性を説いたりしてる。
きもくてダメ、嫌いだし見ない。これを「見ていないのに言うな」に簡単に覆されるようでは、これからのよのなかもっと嫌なもの見せられて「勉強になったね」と言われつづけることうけあい。
凱旋門賞とは簡単に言うと世界一のサラブレッドを決めるレースで、これに勝つことが世界中のホースマンの夢でもある。
毎年世界一の称号を目指して世界中の強豪馬がフランスのロンシャン競馬場に集結するけれども、今年で92回目を迎える伝統のレースなのにもかかわらず、未だにヨーロッパの馬以外が勝利したことはない。
44年前、第48回凱旋門賞にスピードシンボリという馬が参戦したのを皮切りに、日本のビッグレースをいくつも優勝してきた数多くの名馬が凱旋門賞に挑戦してきたが、その多くは海外の怪物馬たちに全く歯が立たず、今までの最高着順は2着、かの有名なディープインパクトでさえ3着(のち失格)に敗れた。
欧州のホースマンには彼らの矜持があるために日本には何としても勝たせたくないのであろう、勝利の壁は実に高い。
けれども少しずつその壁が低くなってきていることも事実である。日本の競馬界は44年前とは比べものにならないくらいの発展を遂げてきたのだ。
さて、今夜凱旋門賞に出走する日本馬の一頭の名は、「オルフェーヴル」。第78代日本ダービー馬であり、史上7頭目のクラシック三冠馬でもある。
オルフェーヴルはまさに歴代屈指の名馬で、世界中を見渡してもこの馬を凌ぐほどの馬はなかなか見当たらない。
騎乗した騎手を振り落としてしまうほどの激しい気性の持ち主だが、その気性がレースではプラスに転じ、獰猛な闘争心でもって他馬をあっという間に抜き去ってゆく。
しかしその気性はレース中にマイナスの面を露呈する場合もある。話題になったのが去年の「阪神大賞典」というレース。
このレース中、オルフェーヴルは騎手の指示に背き、本来なら後ろの方でレースを進めるはずのこの馬が、一気に先頭にまで躍り出てしまった。
先頭に立ったことでレースが終わったと馬が勘違いしたのか、何とコーナーのカーブの所で突然失速し、外へ逸走、最後方近くにまで下がってしまったのである。
1倍台前半の圧倒的人気を背負った馬のアクシデントに、馬券を買っていたファンは目の前が真っ暗になったであろう。
だがオルフェーヴルはやはりただの馬ではなかったのだ。失速した直後、まだ一生懸命走っている馬たちを見つけたとたん、レースが終わっていないことに気がつき、負けてたまるかとそこから一気に加速、さすがに最後はバテたものの、結果は何となんと2着であった。運動会の長距離走で、いったん走るのを諦めておきながら再びやる気を興して先頭に迫ろうとすることなど自分にはまったく考えられない。
とにかく、野蛮で規格外で破天荒、この馬は普通の馬ではないのである。
何としても世界一の称号を手に入れなければならない義務を背負う池江調教師、世界的名ジョッキーのスミヨン騎手らは、並々ならぬ闘志を秘めて本番に向かう。
凱旋門賞に出走するもう一頭の日本馬は、「キズナ」。第80代日本ダービー馬である。
オルフェーヴルが5歳という円熟期を迎えているのに対して、キズナはまだ3歳のピチピチの若者だ。オルフェーヴルが嵐だとすればキズナはセクシーゾーン。(ジャニーズのことはよく知らないが多分あってる)
「キズナ」という素晴らしい名前は、武豊騎手や佐々木調教師、前田オーナー、そして負傷する前にこの馬に乗っていた佐藤騎手たちの「絆」を見事に表している。
今年5月に行われた、世代の頂点を決める日本ダービーでは、武豊騎手を背に大外から豪快に差しきって優勝した。
さらに海外デビュー戦となった先月の前哨戦ニエル賞でも、前評判を覆し、大外から豪快な伸び足をみせ、今年の英国ダービー馬を振り切って優勝。
ちなみに、この馬は、7年前やはり武豊騎手を背にして凱旋門賞に挑戦したディープインパクトの子供で、親父の忘れ物を取りにいく意味につけても、実にロマンがあるのだ。
昨年、日本中の期待を受けて出走したオルフェーヴルは、いちどは先頭に立って他馬を突き放しておきながら、最後の最後に失速して人気薄の牝馬に差しきられ、悔しい悔しい2着だった。
新たな歴史を刻む現実味がいよいよ帯びてきたように思えるけれども、実際海外の強豪馬は「怪物」だらけで、欧州ホースマンのプライドもあり、今年もそう簡単には勝たせてくれないと思う。
しかし少なくとも歴代の日本馬14頭が敗れ去った過去の凱旋門賞と比較すれば、今年に最もチャンスがあることは間違いない。
こんなに長々と競馬のことを連ねて申し訳ないけれども、ふだん競馬に興味の無い方々にも、今夜のレースはぜひとも見てほしいと思い書くことにした。
その点に関しては、前評判通り見事な手腕だとおもう。
次に経済対策だけど、まずは、必要だった為替政策に関しては、輸出企業が一息つけたという点に関しては高い評価だろうが
エネルギー政策でガスの価格が高沸する事も意味しているから、早期に原発を稼働させないと、また赤字がヤバイことになるが
このままエネルギー価格が高止まりすると、いずれ、経済に悪影響を及ぼす。
だが、原発を再開させると、それはそれで、また違った利権の話が出てくるから当面は難しかろ。
負の遺産がでかすぎる。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4151101012
SFの古典であると言われる本書でありますが、そうでなくとも昔に話題になった作品なんじゃないでしょうか。ちょっと前に日本でもなぜかドラマ化されてユースケサンタマリア辺りが主演でやっていたようなかんじ。
海外SFを読み始めようと思って有名作品を手当たり次第よんでるねんけども、これも読みたいなぁと思っていて、ふと家の本棚を見たらあった。誰や買ったの。
内容としてはSFといえば宇宙だのタイムマシンだの思い浮かべる方が多いでしょうが全然そんなのではなく、純粋な空想科学小説であり、且つ、知能とは何かを問いかけるような哲学的な思想もふまえた作品である、とかいう感じでしょうか。
話は主人公であるチャーリー・ゴードンの手記(というか報告書)によって読み進められていくという形式になっている。
知能が高いと言うことは、果たして良い事なのか、等考えさせられる作品。そしてとても切ない気持ちにさせられます。
途中中だるみする部分もありーの、最初の方は読むのがしんどい部分もありますが、名書であると言えるんじゃないでしょうか。悲しくはなったけど、泣けはしませんでした。映像作品なら泣いてるな、と思った。SF初心者の方々は是非読みましょう。
なんか「○○に××を」みたいな題名ばっかりですが、筒井康隆の中期くらいの長編作品です。別にまだ生きてはるんで、中期もくそもないんですが。筒井康隆の名前はちょくちょくあがりますが、確実に言える事としては、短編やジュブナイルは読みやすいが、長編は読みにくい、という事。短編やジュブナイル(中高生の若者をターゲットに絞った小説のこと)が読みやすいのは辺り前といえば当たり前なんですが、筒井さんの長編は難解な事で有名でありまして、それが逆にファンを作ってる見たいな所があって、結構どたばたな内容で、よくわからんまま終わってしまうこともあるわけなのです。よくわからんってことも別に無いけど、想像力を最大限に働かせないとついていけないって所はある感じ。まあ普通の人が読んだら、何これ意味わからん、といって切り捨てるでしょう。「残像に口紅を」はそういった筒井長編の中では、かなり実験的な試みがなされている内容になっていて、有り体に言えば「一章を進む事に、1文字ずつ使える文字が減っていく」というトンデモな内容となっているのである。
当然文字が消えれば小説なので、その文字で表す事のできる事象、物、人物名などすべて表記が不可能となり、作中からは存在そのものが消えてしまう。消えたものは意識化では思い出せるが表現ができないので、それこそ残像のような形になってしまうのだ。
また、作中はメタフィクションな構成になっており、作中人物が、自分がいるのが小説の中であると言うことを認識して、文字の無くなった世界でこういう事をやってみるのはどうかなど、提案したりしてより実験度が明るみになるような内容になっておりおもしろい。
しかし、使える文字が半分以下になっても、しっかりと文書を構築できる筒井さんの語彙の深さには恐れ入るばかりなのです。小説家を目指す人はこういう事ができるようにならないと行けないらしいので、一度読んでみましょう。
これかなああああああああああああああああああり前から気になっていて、映画化されたやつも見たかったけど、見る機会なくてやっと文庫買って読んだってやつ。前にも書いたよね。よね。ですよね。でもないんですよね、どこにも。
内容は松本清張や宮部みゆきが書きそうな感じのミステリって感じで、二転三転する展開構成はおもしろいです。話もうまいこと出来てます。後は、現在の日本の死刑制度とか裁判制度とかそいうった所に焦点をあてていて、まあ社会派サスペンスって部分も兼ね備えている大人のミステリって感じですね。
読んだ後少し陰鬱な気持ちになるような感じかしら。そうでもないけど。
しかし、話はようできていておもしろいです。一度読んでみる価値はあり。二度は必要なし。
これはなんとも新しいというかなんというかな設定の本です。この西澤さんという人は、SF的な設定での「縛り」を設けて、その設定の中でミステリを書くというすごい人らしい。本作の主人公はパラレルワールドを関知できる、というと語弊があるが、時間の繰り返しを認識する事ができるという能力を持っている。これは同軸時間上に異なる次元が平行で存在するという科学的概念があってこそ成り立つ仕組みなんでしょうが、要は同じ日が何度も繰り返されてしまい、その事に気づいているのは自分だけであるという設定になる。このSFばりばりな設定上で、主人公の祖父が殺されてしまい、祖父を助けるべく時間が繰り返される度に試行錯誤を繰り返す、といった物で、まあミステリといってしまうと、そんな物でもないんですが、ラストには驚くべき謎が残されていたりして、そんなこととは思わず読んでいたらびっくり、てな具合でした。
設定もおもしろいが、話も計算されていて、尚かつヒントや複線はそちこちにちりばめてあるという素晴らしい構成。いや、こういうのすごい好きです。SFとミステリが同時に楽しめるのだから二倍お得。文章はちょっとライトノベル風って感じではありますが、さらっとギャグがはいったり、随所で笑わせてもらえます。
他の作品もそれぞれ違った縛りが設定されているので、今後西澤さんの本も読んでいきたい所。
いや、これはすごい。この作品はメフィスト賞受賞作品の中でも評価が高く、所謂叙述トリックものである、という前評判を知っていながらもまんまと騙されて、頭が混乱させられた。
まあミステリたくさん読んでる人からしたら大したことないわって感じなんかもしれませんが、これは京極夏彦並、とまではいかんけど、宮部みゆきよりはすばらしいです。あ、比較対象がわるくてあんますばらしくないかも。
設定も斬新で、「ハサミ男」とマスコミから呼ばれている連続殺人犯である主人公が、次に殺人しようと狙っていた女学生を、別人に自分がしてきた手口とまったく同じやり方で、先に殺人ををされてしまい、真犯人を見つけるべく捜査を開始するという、トンデモ設定であります。
「ハサミ男」というとジョニーデップのシザーハンズなんかを思い出しますが、こちらの方はハサミをのどに突き立てて惨殺する連続殺人犯という設定なのだから、いったいどう収拾つけるのか、展開がまったくよめずハラハラドキドキで、最後にドーン、みたいな。
綾辻行人とか、本格推理系が好きな人は一度読んでみて下さい。これは絶対読み返したくなる。ざったい。はざみ。すみとみ銀行。
言わずと知れた、待ちに待った京極夏彦です。発売当日に買って、一ヶ月もかけてやっと読み終わりました。
いやはや、うーん。何はともかく京極ワールドといった所なんでしょうが、やはりこの京極堂シリーズは少し迷走しているというか、方向性が変わってきてる感がぬぐえない。
ただ、今回は「小説」としては楽しめるんじゃないでしょうかね。毎度の妖怪うんちくや、蓄積された謎と複線の解明とか、そういったモノがないといえばないんで、京極ファンとしてはちょっと肩すかしって感じでしょうか。
話にしても構成にしても、人間がたくさん出てきて、時間軸が読めなくて、不思議がもわもわ沸いてくるという辺りは毎度のごとく、さすが京極というような内容ではありました。どちらにせよ京極夏彦のすごい所は単発の話のおもしろさは当然の事ながら、内容の連鎖制というか繋がりというか、壮大的な世界構成といった所にあると思うので、やっぱり最初から読んでるファンじゃないと楽しめないよなぁとつくづく思うわけである。
でも、巷説百物語シリーズとかはほんまに名作だと思うので、まわりに薦めて行きたいけど、それを読むには前知識として、他の京極堂シリーズ等を読んでいる必要があるので、少しハードルが高めなのが残念。
なんかたくさん書いたよ。まったく。書く意味あんのかな。
それはそうと寿司が食いたい。すししししししし。
握るやつでもまわるやつでもなんでもええわ、と思ってしまうあたり
録画していた完成ドリームハウスをやっと観た。
マンションリノベが酷いという前評判を聞いて、気になっていたのだ。
酷いものだった。
リノベーション業界全体のイメージを悪くしてしまったと言っても良い。
救いは、「アレは、酷いリノベーションだった」と個別事例として捉えてもらっていることだ。
迷惑にならないように具体例はボカした上で、何がどう良くなかったのか、どうすべきだったのかを解説してみたい。
良く「国土交通省の定義によれば」などと書いてあることがあるが、国交省は一貫して「リフォーム」という単語を用いている。((と、聞いたが自分で探してみたところ、「大都市のリノベーション戦略」等、違う意味の単語として国交省内で使われているようだ。))
今回の完成ドリームハウスに出ていた空間ディレクターや建築家が所属しているオリエンタル産業もリフォーム工事登録会社としてきちんと登録されている。
そもそも和製英語たる「リフォーム」にあたる英語が、「Renovation」だ。
だからまあ、「住宅の改装で、間取りを変えて雰囲気も変えましょう!という意味」ぐらいにとっておくのが無難だ。
さて、では何が酷いのか説明していこうと思う。その途中、2chの実況で良く出る話に対して違う見方も提示して行きたいと思う。
まず、一番最初に説明しておきたいのだが、どんなリフォーム会社に依頼したとしても、内外装の工事で手を抜かれて困る、ということはまず無い。というか、職人さんを選べないので、結局運になるからだ。ただ、リフォーム瑕疵保険が整備されているので、リフォーム工事登録会社であれば、1施工あたり5万円~15万円程度で保険がかけられる。第三者の検査員が工事検査をするので安心!と謳っているものだが、どちらかというと後で問題が見つかった時に、たとえ業者が倒産していても修理費用が支払われるという点が良いと感じている。
ハウスでも、職人さんが手を抜いている感じはなく、どっちかというと「また変なもん作ってんなー、言われたことはやるけど」という雰囲気を見ていて感じたのでは無いだろうか。
酷い点は主に3つに集約される。
2.変更が難しい空間にしている。
3.番組内での説明が圧倒的に足りない。
例えば「寝室」「居間」「客間」「台所」「食堂」「玄関」「廊下」等だ。
勿論マンションなどできっちりこの通り部屋で分けていることは、まれで、大抵はLDK(居間、食堂、台所)になっていたり、場合によってはここが「客間」として使われることもある。((お茶の間、というのが昔のリビングルームに当たるんだけれども、普通ソコに客は通さないので、現代では寝室が機能的に近い、なんて話もされて面白かったんだが、それは別の機会に))
最もそれがよく分かるのが壁だ。吹き付けウレタン断熱すらしていない。
よくこのテの話題になる結露について簡単に説明しておこう。
結露とは、空気中の水分が冷やされて水になることだ。当たり前だね。
じゃあどうして冬場に窓ガラスの結露が問題になるかというと、窓ガラスが冷えるからだ。
これは露点温度として決まっていて、部屋の湿度が50%なら、だいたい10度以下になると水になる、とおぼえておいて間違いない。
もちろん飽和水蒸気量という中学校の時に覚えたっきりの単語を思い出す人がいる通り、部屋の温度が下がれば空気中の水分量は減る。つまり、部屋が暖かく十分に加湿されているなかに10度以下の物があれば、空気がソコに触れるたびに水に変換されていくわけだ。
コレの対処方法は大きく3つで、10度以下の物を作らない、空気を触れさせない、湿度を下げてから触れさせるとなってる。断熱、換気、防湿だ。詳細はググってくれ。
だから、湿度が高くなることが予想される場所(普通の生活空間)では、どれかの対策をとる。玄関は外気が入ってくるから換気、風呂なんかは結露上等で防湿、そして部屋の中は大抵断熱することになる。
ペンキは断熱しない。それをきちんと施主に対して説明し、説得するのが施工会社の義務であるとも思う。ウレタン吹付け&石膏ボードであれば、ソコまで高くもならない。
独身一人暮らしや、夫婦二人のみの暮らしであれば、施主が強硬に主張すればそのまま施工してしまっても構わないと思うが、番組内ではそういう雰囲気にも見えなかった。
匠の余計なお世話ともいう。
特にマンションの場合、作り付けの家具はかなり注意しないと困ったことになる。
あの真ん中の斜めに走った収納。最悪だ。
もしあれが、無印のスタッキングシェルフセットで構成されていれば、全く違った評価になっていたと思う。(もっと小さく薄いものなので、大量に積むことにはなるが)
ここで2ch実況で良く見られる「子供部屋が無い」「仕切られた部屋がない」という点に関しては、異なる見方を提示しておこうと思う。
良く老夫婦の一軒家の相談を受けた際に聞く話なのだが、夫婦二人には広すぎる、子供部屋は子供が出て行った時のままにしている、などという話だ。もったいない話だと思うのだが、かなりの頻度で遭遇する。
よく考えて欲しい。子供部屋が必要になる期間は、大抵10年前後だ。
中学生になれば、プライバシーの問題もあり、仕切られた部屋が必要だ、という意見には賛同する。それぐらいはあってもいいだろ、という思いもある。
ただ、正直に言って、間仕切り壁の増設は、5万~15万程度のリフォーム案件なのだ。
(あまりこういうことを言って儲けを減らすのもなんだが)子供が小さいうちに子供部屋を作るというのは、無駄が大きい。
そういった意味でも、あの斜めに走る大きな収納は、邪魔以外の何物でもない。間仕切り壁の増設の際にも自由度を下げるし、そもそも模様替えも殆どできない。
例えば、窓際の土間。もしも建築家のオナニーだとしたら最悪だ。
集合住宅において床は、最も揉め事のもとになりやすい地雷なのだ。フローリングは伊達ではない。
また、ここまでに上げた壁の話、風呂の防湿、玄関、作り付けの収納、キッチンまわりの雑さなど、どこまでが施主の希望で、どこからが業者側の責任なのかが判らない。
まあ、番組が番組だから通常運転といえばそうなのだが、ああいったデザインを好む人達が一定数居る(事務所や飲食店などと住居は考え方が異なるので、デザインだけを見れば十分に有り得る)ことを考えると、業界として説明責任はあるのではないかと切に思う。
窓の外の風景はなかなかに素晴らしい。これを活かすというのは同じだ。
だから、(おそらくは施主の強い希望であろう)玄関まわりは土間やシャッターを入れ、キッチンは(換気扇とコンロの前には耐熱ガラスを入れて仕切りを入れた)オープンキッチンにし、部屋は全面をグレード高めのフローリングにして、完全にワンルームにしてしまうのが良いと思う。
後は、備え付けの家具で部屋をしきって使うなり、完全にワンルームとして使うなりを、住んでいく上で決めていけば良いと思うのだ。
壁や天井は、断熱した後に安い石膏ボードを張り、その上にペンキを塗れば良い。
後輩を呼んで鍋をしたりすることもあるだろう。そういう時には衝立なりでベッドを隠し、プライベートを仕切るというのも、あとづけていくらでも工夫できる。
ただ、施工業者に同情する点も無くはない。
おそらく施主の強い希望であろう風呂のデザインをあのまま活かすと、ほとんど手のうちようがない。
リノベーションと口にだすリフォーム業者や建築士は、施主の言いなりになってはならない。職人が言われたことを着実にこなす職人たろうとすることは、ひとつの責任範囲として明確だ。
でも、業者は違う。
家造りの素人である施主が素敵デザインの店舗を創りあげようとしていたら、住宅はこういう点が違いますよ、こうした方が良いですよ、と説明し、説得するのが義務だと思っている。
安く上げるのが仕事でもなければ、高く売りつけるのが仕事でもない。
相手の希望と予算内で、住宅として最低限のものを備えた上で、夢を実現するのがリフォーム業者の仕事だ。
ぜひみなさんは、ガンガンリフォームして、部屋を住み良くして欲しい。
その際に、まずは住宅として快適な部分を目指して欲しいと思う。
教職員の採用については、俗に「定数法」と呼ばれる法律があり、それに基づく各都道府県の条例に基づいて、正採用の教職員の数は明確に決まってる。具体的には、現行の定数法は1クラスを40人としているので、仮にとある都道府県に40000人の生徒がいたら、クラスの数は1000。そうなると、各クラスには担任副担任2名を置くので、正採用できる教職員の数は2000人ということになる。基準の適用の仕方は色々あるし、小学校の定数は最近若干変わってきているし、他にも自治体独自で作る枠もあるし、一方実際のクラス数はもっと多い(全ての学級の「上限」が40人なのだから、それより数の少ないクラスもある=実際のクラス数は40で割ったより多くなる)が、とにかく、大体そんな感じに「正採用の人数」は決まっている。
で、統廃合のときどうするかだけど、当然「いつ」統廃合するかは決まっているから、計画が決まるあたりから採用調整を行う。子どもの数は出生数から分かるわけだから、将来的にどのくらい学校が必要か不要かはある程度分かっているわけで、それを見越して採用調整を行う。特に、この20年間くらいは、子どもの数の急激な減少期だったりしたから、学校の統廃合も激しく進み、相当の採用調整を行う必要があった。
かといって、雇っている教員のクビをぽんぽん切れるわけではないので、教員の数を減らすには、原則「早期退職」とか「定年による自然減」に拠るしかない。統廃合前にそれをある程度進めないといけないので、たとえばある学校を一つ統廃合する前の年には、その一校分くらいの教員数を減らし終わってる必要がある。だから、大体その前年まで採用数を減らして教員の数を減るに任せる必要がある。だから、前年くらいにはその都道府県の中に(足りない分を補う)期限付き講師があふれるという減少が起こるというわけ。まあ、学校を廃校にすると言っても、いきなり全学年が消えるというつぶし方をしなくてもよい。新1年生が入ってこない状況にすれば、教員数は1学年ずつ減らしていくという手もあるから、講師による調整数も、せいぜい1学年分ずつということにもできる。それでも、この10年くらいは、複数の学校を一気に統廃合する関係上、さすがに調整きかない分もあるためか、定年後の再雇用枠とか、教育委員会内への出向とか、研修センターで研修とか、まあいろいろ無理矢理な調整をする必要があることもあった。
上の増田が書いてる「2クラスに教師が3人」というのは、色々勘違いがあって、そもそも「1クラスに2人」が標準だから、2クラス3人ならむしろ教師が足りないことになる。多分(主たる)担任のことを言ってるのだと思うが、3人の教師が付くのは、学級担任とは別枠の何かとして配当されているという事情によるのであって、「教員が余ってるからぶちこむ」とかそういう事情とは違うと思う(そんな余裕はない)。多分、片方の担任の指導力に不安があるとか体調不安があるとかクラスに発達障害の子どもがいるとか、まあそんな事情だろう。
それにしても、期限付き講師は、昔は採用に際し有利になることもあったようだが(逆に、前評判が出回って不利になる人もいたと噂に聞くが)、今は特にそういうことも原則ないと思うので、そうなると本当に、採用試験に受からない限り、使い捨てである。色々と問題は多いと思う。
ストリートファイター4っていうゲームがあるんですよ。
まあ格闘ゲームというジャンルなんですけど、もともとアーケードで登場してからつい最近になってXBOX360とPS3に移植されたわけです。
最近では格闘ゲームはすっかり下火になっていて全然売れないっていう前評判でしたけど、発売1ヶ月立たずして出荷本数200万本を達成しまして発売元のカプコンとしてはわーいわーいって感じなわけです。
ただし内訳のほとんどは海外なわけです。日本国内の出荷本数はこの1割にすら及びません。
で、売る側もはじめっから海外で売ることを考えていて、マーケティング調査って言うんですか?、ああいうのを日本では全然やらずに海外でバンバンやってたわけです。どんなキャラ出して欲しいですかー?みたいなアンケートとかを海外でバンバンやっていたと。つまり日本人の嗜好は置いておいて、海外勢の嗜好に合わせることを目指して作られたのが本作なわけです。
は?日本!?そんな糞みたいな弱小市場なんかアウトオブ眼中だぜ!アメリカ様のご機嫌にかなうものを作ることがすなわち商いの本道じゃーい!はっはっはっ!、みたいな感じなわけです。
で、この日本の嗜好完全無視の本作なんですが、実際遊んでみると相当おもしろいわけです。日本人の自分がやっても超楽しめる。
別に自分が特別ってわけでもなく、日本の格闘ゲームファンの評価も上々で「最近の格闘ゲームの中では一番おもしろい」って声が大多数なわけです。日本人の嗜好を完全無視した本作が。
これ聞いて思ったのは、多数派におもねることは商売的に優位なだけではなく、作品の質を高めるためにも優位な選択なんじゃないかなーということです。
これまでに日本国内で散々マーケティング活動(いわゆるロケテ=ロケーションテスト)した格闘ゲームが「マニアに媚びすぎ」だの「前作と変わってない」だの散々な出来だったのを考えると、本作の出来の良さは異例なほどです。
多数派擁護って全然悪くないじゃん!民主主義最高じゃん!というのが本エントリーの結論です。
つまり、選挙でもなんでも「少数意見を無視するのはいくない!」みたいなことを言う人がいますが、実務的には少数意見はじゃんじゃん無視しても結果的にはオールオッケーってことであって、世界にまで話を広げると、少数民族なんかは完全無視して人口の多い中国やインドに受けるような商品なりサービスなり政策なりを実行すれば、結局のところはまわりまわって一番日本のためになるんじゃないかなーと思います。特にテロなんかで危なっかしいインドよりも今は中国についてが重要ですよね。
だからこのさい献金の件は目をつぶって、小沢大先生を許してはくれませんか。彼なら対中国の件は万全ですし、まわりまわって日本のためになりますよ!民主党こそが日本のためになる真の政党なのです!!
http://anond.hatelabo.jp/20090114195043
http://anond.hatelabo.jp/20090114223358
http://anond.hatelabo.jp/20090114223741
「このあたりは細かい競り合いになっています」
「10手は後手7段には珍しい強い一手ですが、先手の増田6段は乱戦に良しという前評判通り、切り返しの11手はさらに痛烈な強打です」
「後手がポイントを取り返した格好でしょうか」
「そうですね。勝負がまたわからなくなってきました」
「次の一手は」
今、トイレに行きたいんだけど近くにセーブポイントがなくて困っています。
うんこもれそうでテンションあがってるからわけわからないことを書かせてくれないと困る。
主に、括約筋的な意味で。
でね、うんこって偉大だと思うわけ。最初食べ物なわけ。栄養。ニュートリション。
入り口から入ったライトサイドの結晶が出口から出るとダークサイドに堕ちてるわけ。
もうね、ルークもびっくり。アイアムユアファーザー。で穴に落ちてパイプの先で回収されて終了。
何の話だっけ。
エピソード7って出るの?
出せよルーカス。うんこのごとく。スターウォーズっていろいろな文化や技術が詰まってるよね。
宇宙人やメカのデザイン、CG,音楽、パロディ。ジェダイって時代劇からとってるんだぜ。ジダイ。
言語学的にも興味深くて、ジャージャーはジャマイカ人みたいな英語しゃべるし、
結構惑星ごとにしゃべる言葉の発音とかそろえて区別してんのな。
映画って、音楽、美術、演劇、ビジネス、学問とか諸々の人類の文化の結晶って気がする。
高度なテクニックが合わさって最終的に美しいハーモニーを奏でるというか、うんこもれそうというか。
何の話だっけ。
そうそう、うんこです。アウトプット。成果物。エクスポート。圧縮してファイルを送信。ゴミ箱へ。
でね、今うんこもれそうなんですよ。
そこで問いたい。お前らは、いつなんどき、どのようなうんこをするために生きているのかと。
毎日いろいろ食べるじゃん。で消化するじゃん。そのあとどんなうんこしたいの?
はてぶを眺めていて思うんですよ。毎日いろんな人がブクマしていい感じに良エントリが集まってる。
で、それを毎日何百ページか読むわけです。トイレで。iPhoneで。
それらを咀嚼して、俺も純度の高いエントリをかかなければって思ってブログの編集画面を呼び出すんだけどいい感じのテンションで書けない。もし書けたら、そしたら俺、いいうんこをしたことになると思うんですよね。
で、いつまでも閲覧してばっかで自分では何も書かないと、便秘になっちゃうよ!?どうしよう!!?コーラック200粒飲んでピンクの便を噴出しながら西へ飛べ!ああうんこもれそう。
ほら、映画とか好きじゃん俺。前評判の高い新作はたいてい公開一週間で見に行くし、Tsutaya discasで狩り放題プラン入ってるじゃない。いっぱい見てるわけ。そんでね、それらを咀嚼して、良質のうんこを出すべきだと思うわけ。俺も。
個人で映画作る予算とかないから、別のもの、たとえば文章だったりとか予算のかからなそうなうんこひねり出そうとかがんばってみてるわけ。象がどデカいうんこしてる動画みてたら、俺もうんこしなきゃいけない気になってくるっていうか。どこに出したらいいの。
音楽も結構聴くんだけど、それは初音ミクにうんこ出してもらったりしてるわけ。
ニコニコという名の便所に、俺の集めたうんこを凝縮して最後にミクの糞を乗っけてうpするわけ。
雌豚閣下とかニコニコアーティスト(笑)とか、結構いいうんこしてると思う。極太。ワールドイズマインとかTOTOもびっくりだね。
あとはなんだろうなー。あれだな。仕事(笑)とかも、他人のうんこの出し方研究して糧にする。
ああ、あいつはクラウチングスタイルなのかとか、そういうふうにうんこすればトイレも綺麗に保てるのねとか。あんまりアウトプット出せてないからもっときばっていく必要があるんだけども。
ライフハック(笑)とかn個の方法(笑)とかもうんこだと思うのよね。
「俺こういうふうにやってみたら大量に出たよ」とか。やり方共有すればみんなの役に立つじゃん。
きれいな公衆トイレマップ作ったりしてね。トレペの折り方とか共有したりしてね。
でなんの話だっけ。うんこ。
今まで俺はどんなうんこしてきたかなあって思うのよ。ちゃんと「今日のうんこメモ」、つけてる?
つけてないのよなー。たまにでかいの出るから、そんときは写メとって友達に見せたりするんだけど。
もうちょいアベレージっていうか平均値を上げてきたいし、コンスタントにでねえかと思う。
繊維足りてないのかな。乳酸菌とってるぅ?
で、なんだっけ。
映画の話か。ダークナイト二回見たよ。クリスチャンベール、デカイうんこ出しすぎじゃね?なんか老けてた。
老けてたといえば最近のスティーブジョブス、細くね?やばくね?うんこも細そうじゃね?Boom!
そりゃさ、一度の人生でmac,ipod,iphoneなんてでかいうんこ三つもしたら、腸も痛むわ。
でもまあ、この世に生を受けたならば、それなりのうんこ残すべきだと考えるわけ。
たまに恐竜のうんことか化石で発掘されるじゃん。それを目指したいよね。
ピラミッドとかも何千年も残るでっかい石のうんこだし、現代の中東ではドバイなんかもううんこまみれ。
いつ、どんなうんこすりゃいいのよ。
男は女みたいにでかい糞をして後世に残すことができないから、どういう糞するかが問題なわけですよ。
jkondoは京都にいい感じのうんこ残した。アメリカでもちょっと脱糞したみたいだけど、いったん流しちゃったみたい。
hankakueisuuでぐぐってでるブロガーもいい糞出してると思う。引きこもってても糞が世間に公開できる。いい時代だ。
ホリエモンとか結構溜め込みすぎて、「お前そんなに便秘なのずるくね?」とかいって脱糞させられてくさいメシ食ってたけど。
何の話だっけ。
ちょっとトイレいってくる。
ただいま。申し訳ないねなんだか。テンションあがっちゃって。
何の話だっけ?
もちろん、「平等」がどこにかかるかによるのだけど、
元の作者が言いたかったのは
「すべての本を立ち読みしてから買うことができる」(マンガは無理なこと多いけど)
「同じ分野の本を手にとって比較対照できる」
「評判フィルターがかかりにくい」
だと思う。
1つ目は、いくらなんでもネットでは無理。
例えば、「家事の上手なやり方」なんて本をamazonで探しても、タイトルや作者だけではわからない。
書いてあることは良くても、初心者向けか、写真が多いのか、図解してあるのかといった自分の希望どおりの内容かという判断は
せいぜい買った人のコメントを頼りにするしかない。
ネットの評判だけでは分かりにくい本だと思う。
発売してちょい経ったらネットにも情報出るけど、出たばかりの本と古い本を比較できるのは書店のメリット。
特に、自分が必要とするコーナーを両方の本で見て比較すると、どちらが自分に向いた本か分かりやすいよね。
2つ目、上でもちょっと書いたけど
技術書は古い内容のまま変更が加えられていないケースが多いけど、
逆に作者によっては版を上げて、タイトルなんかは一切変えてないけど内容は最新というケースがあったりする。
そういう本の中身を見て、最新の本と比較できるのはやっぱりネットでは難しい。図書館でも難しい。
3つ目、確かに本屋は評判の良い本しか売らない面もあるけど、
でも○○書店の新刊なら一律全部置いてあったり、前評判でどう考えても売れないはずの本がリサーチ不足でしれっと置いてあったりする。
あと、棚の仕入担当の趣味もあるしね(ここら辺はかなり本屋通ってないと分からないかも。趣味が合う担当がいる本屋は通う価値アリ)。
ネットは確かに全部の本が同等に扱われているのだけど、ユーザーが検索がうまくないと見付からない本があったり、
やっぱりある程度の恣意はでてしまうんだよね。
別にもともとの作者は「ネットがよくない!本屋最高!」って言ってるワケじゃなく
引きこもりの子に「ネット以外の良さもあるよ」って言いたかっただけなのだから
そんなに目くじらたてる必要はないと思う。
本屋は発売日ごとに平棚変わるし通う楽しさがあるよ。
例えば何か新しい商品を買うとする。
自分にその商品カテゴリーに関する知識がないため、誰かに聞いて購買判断するとしよう。
ネットをある程度使いこなしている層であれば、掲示板などで前評判を調べた上で購入することが出来る。
それならまだ救いようがあるのだが、一番難儀なのが調べもしないのに買いたがる層である。
この層はほとんど突発的に購買行為に走るため、下調べは全くしない。
そもそもその商品が自分に本当に必要であるかどうかすらも吟味することは無いのだ。
彼らの購買欲で一番先行するモノはイメージ・ブランド・ステータスである。
そして、彼らは身の回りのいわゆる『口コミ』にも満たないような意見に右往左往される。
その彼が言うには、『液晶テレビを使うと目が悪くなる』という。
どこでそんな都市伝説を拾ってきたのか?と問えば、彼の知人の話だという。
実際そんなことはあり得ないのだが、真に受けてしまうのがまた知識の欠如からくるのだろう。
(当然画質設定によっては目が疲労し視力低下を招く可能性は否定できないが当然液晶方式に直接関連はない)
その程度の知識もない人間が正しい購買判断を出来るかと言えば、当然否である。
テレビであれば画像表現性、乗用車であれば運動性や居住性、酒でも香りや風味など、
ありとあらゆるモノを評価する際は基準(=知識)がないと当然評価できない。
その評価基準を他人に委ねる・若しくは抜きにして判断しようというのだから笑止である。
しかも素人のにわか知識では細かい差など解らない。
だからといって知識も身につけず、差も解らずに購買行為に及ぶのはまさに愚の骨頂。
差が解らないうえに大して興味もないモノであれば自分の価値観相応のただ安い物を買えば良いだけなのだが
何故それを出来ない消費者が多いのだろうか?
メーカーに踊らされているのに気付いてないのだろうか?
未だ持って謎である。
どんな作品でも大概のものなら楽しんでしまうんだけど、
他人と話し合い始めたり、その作品のスレ行ったり、批判してる本やらブログやらを見たりすると、自分の中でもその作品に対しての不満が出てくる。その人たちの意見を鵜呑みにしてしまうとかじゃなくて、そういう批判文を読んでるうちに「そういえば俺はここが気になったな」とか気づいてしまう。そういう綻びに気付く前は、何故かその綻びを俺は妙に庇って読んでしまう傾向があるらしく、例えば「ここの設定は矛盾してるだろ」ってな事でも、自分だけが読んで、他人とその作品について語り合ってない、ニュートラルな状態だとほとんど無意識に「でもまあ初期の頃だし」「こういう事は良くあるし話の筋には関わってこないからたいした問題じゃない」とか変に庇ってるっぽい。なんていうんだろ、うまく言えないんだけど。でも批判してる人たちの輪に入ると、そういう空気に触れると、そういうのが途端に気になってきて、「いくら初期の頃ちょっと出ただけっていっても設定の矛盾はダメだろ」とか思えてきたりする。そんで段々その作品に対してアンチモードが入ってくる。最初は「最高!この作品!」状態だったのが最終的には「好きだけど、こことここはいただけない」とかいう感じになってる。
なんだかなあ。後から思うと滅茶苦茶糞みたいな作品でも、最初は大抵「面白い」と見てしまう。よく本なんかにも載ってる、「最初数ページ見ただけであまりのつまらなさにやめた」とか「ちょっと見ただけでつまらないのがわかった」とか「最後まで読んだけど、全然面白く無い。どこがいいんだ?」とか、そういう感想をいえる人ってなんかすげーなーといつも思ってる。一度目はたいていそれなりに面白いと思ってしまう。前評判が「糞みたいな作品だ」って奴でも、面白さを探そうとしてしまう。
多分人に対してもそうなんだけど、なんか「いいところ」ばっかり探してしまう。嫌いな奴だったり嫌いな作者の作品だったりするほど「いいところ」を探してしまう。悪いところは、意識しないと探せない。なんか嫌だ。