はてなキーワード: ゾーニングとは
くそ長い話なので注意
最近、TwitterでロリキャラのR18イラストを描くアカウントへの規制が厳しくなってきたらしい。
そういったアカウントの凍結は前からあったが、最近は特に見つかり次第凍結されている印象だ。
ぶっちゃけてしまうと私はそういうイラストが好きなので、個人的には少し残念な状況ではある。
ただ、だからといって「表現の自由を守れ!」なんてTwitter社にケチをつけたいとは全く思わない。
みんな知ってる通り、日本という国はロリエロ絵に対する規制がかなり緩いが、世界的に見れば法律でNGとしている国も少なくないし、国際的な流れは完全に規制寄りだ。
そんな状況では、いくら日本人ユーザーが多いTwitter社でもロリエロ絵を看過できなくなって当然だと思う。
さて、それではそもそも、ロリエロ絵がTwitterなどのSNS上で投稿・拡散されることの問題とはなんだろう。
ロリコンが増えることも社会的にはマイナスではあるが、これについては言論・思想の自由で見逃されていい範囲だと思う。社会的にプラスな思想のみ肯定する世界になったら、それは単なるディストピアだ。
なので、間違いなく一番問題なのは「見たくない人の目に触れてしまう」ことだと思う。
すこし前に話題になった「お父さん、あれ気持ち悪い」発言だって、見たくないのに目に入ってしまうのが原因だし、他の既出の問題もたいていここが原因だろう。
これの対策は一見すると簡単で、「見たくない人が見ないところで投稿・拡散すればいい」という「自主ゾーニング」なのだけど、私の知っている限りこの試みは何度も失敗している。
これまで何度も、ロリエロ絵のイラストレーター達は「Twitterではやってられない! Pawoo(Pixivが運営するMastodonのインスタンス。Twitterに似ている)に移住しよう!」と発言しているのだが、まあ十中八九失敗している。
なぜかと言えば、Pawooはユーザーが圧倒的に少なく、絵を多くの人に見てもらえないからだ。
クリエイターにとって知名度こそ全てだ。知名度だけ高ければいいわけでもないが、知名度がなければ何もできない。そして、それはロリエロのイラストレーターも例外ではない。
というわけで、結局彼らは絵に修正を入れたりリンクを貼ったりして、だましだましTwitterで活動し続けている。
とまあ、ここまで書くと「そんなもん描くやつ勝手にくたばればいいだろ」と思う人が多数派だろう。
まあその通りなんだけれど、ちょっとだけ待ってほしい。
上で書いたとおり、ロリエロ絵の最大の問題は「見たくない人の目に入る」ことで、それさえ無ければ被害者はいなくなる。
だから、ゾーニングさえ上手くできれば(ほぼ)問題はないのだ。
ではロリエロに限らずweb上で、「見たい人にはちゃんと届くように」「見たくない人には届かないように」上手くゾーニングするにはどうすればいいんだろう。
私は「webブラウザ、検索エンジンを提供する企業が、最初にユーザーに見たくないものを選択させ」、「Twitterなどのサービス提供者が連携する機構を作り」、「投稿者がきちんとカテゴリを選択して投稿する」ことでしか解決できないと思っている。
例えば、Google Chrome(ブラウザ)のインストール時、ユーザーに「ポルノ」「暴力」など見たくないものを選択させる。
Twitterはそれに対応するカテゴリの選択肢を作り、投稿時などに選択できるようにする。
そして投稿者が「ポルノ」にチェックをつけて投稿すれば、ポルノを見たくない人には届かないといった寸法だ。
そして、これらのルールを破ったユーザー、サービス提供者には即座にペナルティを課すようにする。
大仰なやり方ではあるが、web上のゾーニングはロリエロだけでなく大きな問題なのでこれくらいやってもいいんじゃないかと思っている。
そして、この仕組みを作れるのは世界中のwebを席巻しているGoogleくらいじゃないだろうか。
…というわけで、Googleさん、そろそろ(誰も不幸にならない形で)ゾーニングに本気出してください。
お願いします。
はい。
これが言いたかっただけ。
「女性」という特定の「弱者」(実際は違う)の救済を訴え男性にも負担を求めながら、
ここに人権意識はあるのか?これはつまり「女性の人権を守るため、お前らは人権を捨てて滅べ」と言い放ってるのだが。
ここに暴力性がないといえるのか?
もうおなじみの件ですね。
現実から排斥された弱者男性のよりどころたる「オタクコンテンツ」をも、フェミは攻撃する。徹底的に。
全年齢ライトノベルの撤去を要求したり、専門店にまで踏み込んできたり。(そもそも連中のいう「ゾーニング」が噴飯ものだが。)
本邦フェミの巨魁たる上野はこうした同胞の追撃に対して何を言ったか。何も言ってはいない。
「ギャルゲに逃げ込んで平和に滅べ」といいつつ、その逃げ場所すらなくそうとしている。悪辣というほかない。
「ヌキながら、性犯罪を犯さず」などといってるが、これはつまり「恋愛弱者の要求は性的なものだけ」という決め付けに他ならないだろう。
実際には恋愛には承認欲求等のほかの要素が大きく、コレは全く浅はかで、しかも恋愛弱者を馬鹿にしてる発言だ。
暴力的でないといえるのか?
しかし、それをするまで追い詰めることに全くの責任はないのだろうか。
上野のこの言説は、恋愛弱者を飢餓状態まで追い詰めておきながら、「自らに火の粉はかからない事が絶対」だという身勝手さがある。
恋愛弱者が自己責任かどうか、増田でも連日連夜議論があるが、私は明確に「違う」という立場だ。ほぼ、環境要因100%だと思っている。
「特定のパーソナリティを許容できない」というわれわれの未熟さが恋愛弱者(KKOとして増田では通っている)を生み出してるのだ。
その彼らの復讐を、「逆恨み」だとは私は思わない。われわれが受け入れられない未熟さのツケを一身に負わされているのだから。
その彼らに対し、「平和に滅びろ」と言い放つその「平和」とは何か。自分だけの「平和」ではないか。
飢餓に苦しむ恋愛弱者に「平和」などあるものか。全く、暴力的で一方的な物言いであると言わざるを得ない。
納得したか?
芦屋市「日本一厳しい景観条例」施行、「営業の自由」より「景観」が優先される?
https://www.bengo4.com/c_1018/n_4863/
兵庫県芦屋市で、屋上広告を全面禁止し、看板の色や大きさを厳しく規制する「屋外広告物条例」が7月1日に施行された。広告制限で有名な京都市を上回る規制もあり、「日本一の厳しさ」などと報道され、話題になっている。
「実際に、今回の芦屋市の景観条例や、これまで一番厳しいといわれていた京都市の景観条例についても、『憲法違反である』という声が目立つという状況にはありません。
それは、景観条例による広告規制で営業の自由(憲法22条)などが制約されるにしても、市民の良好な景観を求める利益を守るための条例なので、『公共の福祉(憲法13条、22条など)による制約としてやむをえない』という見方が一般的になっているからだと考えられます。
また、憲法上の人権の中でも、営業の自由などいわゆる『経済的自由』と呼ばれる権利は、他の種類の人権(精神的自由や生存権など)と衝突する場面では、ある程度制約されてもやむを得ないという考え方があります。
自分の敷地内で外から見えないようになら好きに家も看板も電柱さえも好きに建ってていいだろうが。
見たくもない人に対しても見せて表現の自由にはならないと思うよ。
俺はエロ漫画を好んで読むけどフィクションはフィクションとして自宅で読んでいるだけだしね。
ま、俺自身はゴミなんで景観が汚くてもまあ良いとしても問題はこれからを生きていく子どもたちだな。
せめて良好な環境で育って欲しい。
35歳まで処女だったがギリシャ人とワンナイトラブでセックスをした。
ちんこをまんこに入れることは思い描いていたような強烈な体験ではなかったが、今後2度とない体験かもしれないので覚えているうちに書き留めておく。
物語に描かれるセックスはとても魅力的にみえたしそう描かれることが多いように思う。
だから興味はあったがセックスには相手が必要なのでこれまでする事がなかった。。。でももしかすると性に関して人並みの興味がなかったのかもしれない。
ネット環境があったのにエロ動画を初めて検索したのは30過ぎてからだし、女性がオナニーをすることを知ったのは19歳の時だった。
浪人生活中のお昼休み、地下のフードコートで高校時代のクラスメイトで同じ予備校に通っていた女子が自分は性欲がないからオナニーもほとんどしないんだと言っていた。
なんと返答したかは覚えていないが部屋に帰り下宿先のこたつの上に設置されたノートPCで「オナニー 女 方法」と検索したことは覚えている。
机の角にこすりつけたり、鉄棒に登る等の方法を目にしたがとてつもなく痛そうに感じられて心底驚いた。
そんなことが気持ち良い事になるとは到底思えず信じられなかったが、しかし今にして思うとはっきりと性的に気持ち良い感覚を私は知らなかった。
性的なイラストや映画を見て乳首が立ったり若さゆえにまんこが濡れまくってパジャマまでびしょびしょになっていたが、それはじんわりとしたものでそれ以上自分の体を触って性的な気持ち良さを追求出来るとは夢にも思っていなかったというか発想がなかった。
オナニー=ちんこを擦って気持ちよくなることだったので、ちんこのない女はできないと思い込んでいたんだと思う。
男性のオナニー描写は成人向けでない漫画や小説や映画に描かれているが女性の描写は少なく、完全な成人向けの表現は当時ゾーニングもされず売っていた雑誌の印象が強く、それがあまりにもグロく映ったので手に取りたい知りたいと思う事もなかった。
3大欲求の食欲も睡眠欲も生まれてすぐに自動的に行われて実施しないと死ぬが、性欲はこれが性欲であると意識しないとわからない人間もいるし別に死なない。
多分自分はとろい。
男性から好意を示されると全く意中にないと強烈に拒絶しそこそこだと2回のデートまでは合わせるがそれ以降どうしても肉体的な接触に進む事が気持ち悪くなり逃げ出してきた。
なのでそもそも男性とセックスがしたくないのかとも思っていたがだからと言ってレズビアンでも無く自認は明らかにヘテロだった。
そして今回初めてセックスしたギリシャ人に会って分かったがセックスしたい人間に会うとちゃんと自分は発情してセックスしようとしていた。
つまりただただ理想が針の穴を通すように小さくこれまでそういう人に出会ってこなかっただけだった。
性欲が沸き起こるというよりはこの男性とならセックスが出来る、みんながしているセックスというものを私も出来るチャンスが来た、という感覚だったので性欲だったのか難しいところだがセックスが出来ると感じれた事は喜びだった。
そのギリシャ人は陸上の選手で大会出場のために来日していた男性だった。
大会中だったので20代後半の筋肉質な非常に良い身体をしていた。それに私は発情した。
セックスする前のただのファンと選手だった時に撮影した写真がありその時の自分の表情が見れるのだが、発情のお手本のように頬に赤みが差し瞳孔が開き目がキラキラと潤んでいてすごく可愛い顔だと自画自賛出来るので撮影しておいて本当によかったと見返すたびに思う。
痩せている色白の小柄な星野源や華丸大吉が好きだったので肉体に惹かれる事に自分自身でも驚いたが頭で考えたタイプではなく原始の欲求が自分に沸き起こった事が嬉しかった。
今回セックスして嬉しかったのは自分にも欲求があるんだとはっきり分かり普通の人間になれたと思えたことだった。
世の中にはセックスという美味しい物があり皆食べたがっているしほとんどの人が一度は食べた事があり又男性はお金を払えば食べる事も出来るようになっているが、女性にはリスクが大きくまたお金を出して気軽に買えるものでもなく社会的にも恋人とのセックスという物が推奨されているが、それは余りにも手の届かない存在だがしかしセックスしたいしする事が普通の人間であり皆セックスの話をするのだ。
私はセックスを食べた事がないので知識だけで得た事をなんと無く言うだけで、セックスの話はあまりしたくないけどした事ないわけではないと言う嘘つき童貞と同じスタンスでいた。
このまとめを見た。
【またお前らか】『なんでここに先生が!?』のブースのツイートに、いつもの連中がイチャモン付けに来た。 - Togetter
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1331836
このおっぱい展示を擁護してる人を見るとある共通点に気づく。それはラノベオタクばかりということだ。
最近は社会学VSオタクという構図になってきているが、同時にほとんどの場合、社会学VSラノベオタクでもある。
なぜラノベオタクはラノベという人文・社会科学の産物を超好意的に嗜んでいながら反文学部的なスタンスなのかは興味深い話題でもある。
ひとつの仮説として考えたのは、ラノベオタクは人文・社会科学系の専門書を大して読んでいないということだ(多くの人は理系なのだろう)。そして彼らはラノベや彼らが「一般小説」と読んでいる類の大衆文学ばかり読んでいるということ。
彼らは人文・社会科学の産物であるラノベを大量に読んでいながらも、その文脈を理解しないままただ漫然とストーリーを楽しんでいるということになる。
これでは人格の涵養など望めないし、ネトウヨ的感性のまま年を取っても仕方がないのかもしれない。
ラノベオタクたちは「俺たちは賢い」「他のやつらはバカ」というスタンスが基本になっている。
とても自信に満ち溢れているように見える。
彼らは自分は「読書家」だから知的な人間だと思っているのだろう。
彼らが読んでいるのはたかが「小説」にすぎないのだが、しかし「小説」も「本」には違いない。
「本を読んでいる=賢い」というような思い込みがあるのではないか?
ラノベオタクたちの高慢さ、傲慢さを見るとそういったものを感じる。
彼らを観察していると、年齢の割に教養のなさ(雑学的な浅い知識だけは豊富)、バランス感覚のなさ、他者への配慮のなさ、といったものをすごく感じる。
深い理解に基づく知識のなさや教養の欠落などは大した問題ではない。問題なのはラノベオタクたちが社会の中で厄介者化していることだ。彼らは被害者意識がとてつもなく強く、他者への攻撃性が高い、ということは外から観察している人にはよく見えていることだろう。
いい大人なら社会というのは人と人との衝突(それも陳腐な衝突だ)が日常的に起きるということを知っている。主義と主義、思想と思想、思惑と思惑、そういったものは衝突するものだ。
彼らが絶対の原理として掲げる「表現の自由」だが、もちろんこれも他の主義・思想との衝突は避けられない。どんなものも絶対不可侵ではいられない。それが社会というものだ。絶対の安全圏などない。ここは永遠安寧の天国ではない。
だが、ラノベオタクたちにはこういったことがわからない。社会とは他者との関わりあいだということが理解できない。教条主義に陥っているラノベオタクたちは結果的に文字通り「信者」のようなものと化す。したがって、思考は粗雑になり、「正義のオタクVS悪のフェミ」という安易な構図・構造がでっちあげられるに至る。ここには「対話」「相互理解への意志」といったものはない。
「表現規制への反対」これは大いに理解するし共感もする。ただし、攻撃的だったり刺激的・煽情的な表現はつねに他の主義・思想と衝突することにもなる。だからそこで「対話」が必要になる。議論をして社会の中で落とし所を見つけていくことになる。もちろん一方的な排除であっては絶対にいけないし、かといって完全な許容にもならないだろう。
社会の中で生きるということは自分を全肯定されることでもなければ全否定されることでもない。こういったバランス感覚がラノベオタクには欠けているように見える。とてもナイーブで0か100かという思考になっている。彼らには「中間」の状態が理解できないのかもしれない。
あるいは溢れる想像力が「中間」から「極端」への推移を瞬時に見越してしまって危険信号を受信するのかもしれない。
だがそれこそが教養のなさというものであり、現実の複雑性を理解していない証拠ともいえる。極めて幼稚な思考といっていいだろう。幼稚な想像力に溢れる彼らには大人の想像力がない。
ここまでいろいろ書いてはみたが、ラノベオタクには何を言っても無駄だろうということも感じている。
したがって、社会でラノベオタクという厄介者をどう取り扱っていくのかという問題になってくる。
今回書いたようにオタクの一方的な排除であってはいけない。オタクにも生存権を与えなければならない。ただ、オタク的表現は社会の規範と衝突することが極めて多い。
しかしオタクは「ゾーニング」を「表現規制」と言い換えて反発している。
さあどうしたものか。
長々と書いてるけど、結局「俺の気に入らない表現は隠せ。従わない奴は教条主義アホ」って言ってるだけじゃん。
「社会とは他者との関わりあいだということ」が理解できてたら、他人の表現をも尊重するだろ。
それが分かってないから規制派は自分のお気持ち一つで人権侵害をする。
落としどころなどない。「攻撃的だったり刺激的・煽情的な表現はつねに他の主義・思想と衝突することにもなる」からこそ、表現の自由は絶対でなくてはならない。
しかしオタクは「ゾーニング」を「表現規制」と言い換えて反発している。
さあどうしたものか。
このまとめを見た。
【またお前らか】『なんでここに先生が!?』のブースのツイートに、いつもの連中がイチャモン付けに来た。 - Togetter
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1331836
このおっぱい展示を擁護してる人を見るとある共通点に気づく。それはラノベオタクばかりということだ。
最近は社会学VSオタクという構図になってきているが、同時にほとんどの場合、社会学VSラノベオタクでもある。
なぜラノベオタクはラノベという人文・社会科学の産物を超好意的に嗜んでいながら反文学部的なスタンスなのかは興味深い話題でもある。
ひとつの仮説として考えたのは、ラノベオタクは人文・社会科学系の専門書を大して読んでいないということだ(多くの人は理系なのだろう)。そして彼らはラノベや彼らが「一般小説」と読んでいる類の大衆文学ばかり読んでいるということ。
彼らは人文・社会科学の産物であるラノベを大量に読んでいながらも、その文脈を理解しないままただ漫然とストーリーを楽しんでいるということになる。
これでは人格の涵養など望めないし、ネトウヨ的感性のまま年を取っても仕方がないのかもしれない。
ラノベオタクたちは「俺たちは賢い」「他のやつらはバカ」というスタンスが基本になっている。
とても自信に満ち溢れているように見える。
彼らは自分は「読書家」だから知的な人間だと思っているのだろう。
彼らが読んでいるのはたかが「小説」にすぎないのだが、しかし「小説」も「本」には違いない。
「本を読んでいる=賢い」というような思い込みがあるのではないか?
ラノベオタクたちの高慢さ、傲慢さを見るとそういったものを感じる。
彼らを観察していると、年齢の割に教養のなさ(雑学的な浅い知識だけは豊富)、バランス感覚のなさ、他者への配慮のなさ、といったものをすごく感じる。
深い理解に基づく知識のなさや教養の欠落などは大した問題ではない。問題なのはラノベオタクたちが社会の中で厄介者化していることだ。彼らは被害者意識がとてつもなく強く、他者への攻撃性が高い、ということは外から観察している人にはよく見えていることだろう。
いい大人なら社会というのは人と人との衝突(それも陳腐な衝突だ)が日常的に起きるということを知っている。主義と主義、思想と思想、思惑と思惑、そういったものは衝突するものだ。
彼らが絶対の原理として掲げる「表現の自由」だが、もちろんこれも他の主義・思想との衝突は避けられない。どんなものも絶対不可侵ではいられない。それが社会というものだ。絶対の安全圏などない。ここは永遠安寧の天国ではない。
だが、ラノベオタクたちにはこういったことがわからない。社会とは他者との関わりあいだということが理解できない。教条主義に陥っているラノベオタクたちは結果的に文字通り「信者」のようなものと化す。したがって、思考は粗雑になり、「正義のオタクVS悪のフェミ」という安易な構図・構造がでっちあげられるに至る。ここには「対話」「相互理解への意志」といったものはない。
「表現規制への反対」これは大いに理解するし共感もする。ただし、攻撃的だったり刺激的・煽情的な表現はつねに他の主義・思想と衝突することにもなる。だからそこで「対話」が必要になる。議論をして社会の中で落とし所を見つけていくことになる。もちろん一方的な排除であっては絶対にいけないし、かといって完全な許容にもならないだろう。
社会の中で生きるということは自分を全肯定されることでもなければ全否定されることでもない。こういったバランス感覚がラノベオタクには欠けているように見える。とてもナイーブで0か100かという思考になっている。彼らには「中間」の状態が理解できないのかもしれない。
あるいは溢れる想像力が「中間」から「極端」への推移を瞬時に見越してしまって危険信号を受信するのかもしれない。
だがそれこそが教養のなさというものであり、現実の複雑性を理解していない証拠ともいえる。極めて幼稚な思考といっていいだろう。幼稚な想像力に溢れる彼らには大人の想像力がない。
ここまでいろいろ書いてはみたが、ラノベオタクには何を言っても無駄だろうということも感じている。
したがって、社会でラノベオタクという厄介者をどう取り扱っていくのかという問題になってくる。
今回書いたようにオタクの一方的な排除であってはいけない。オタクにも生存権を与えなければならない。ただ、オタク的表現は社会の規範と衝突することが極めて多い。
しかしオタクは「ゾーニング」を「表現規制」と言い換えて反発している。
さあどうしたものか。
・その理由は何か(他のゾーニング要求され無いものとどう違うのか)
これらの事をまるで考えてない、答えないから「お気持ち」って言われるんだよなぁ
「常識」とか言うだろうけど、「常識的に考えて根拠もない事を他人に押し付けないだろ」とも言えるわけで。
腐女子はっつーか一部のおかしい出版社は人気少年マンガのBLパロディ(挿入あり)を一般流通に乗せて普通の本屋の片隅に置いたりするよ。もちろん非ゾーニング。
そうすると表紙だけ見て、あのマンガの本だと買っていく小学生男子なんかもいたりして、それは悲惨な思い出に。そんな思いをした人の話はネットでちらほら聞く。
私は腐が嫌いな女なのだけど、作品が好きでファンやってると二次創作も目にして、その中には男性キャラ同士を掛け算したものもあって、非常に不愉快。
嫌なら見るなはその通りなんだけど、ファンの質と言うか空気みたいなのってあるわけで、腐女子が支配的な空気になるともうダメだ。普通に目に見える場所でお腐れトークが始まる。
とか言う奴が散見されるが、その理由がブーメランだからっての幼稚すぎない?
自分の好きな表現も不愉快だからという理由で叩かれるよ、ってのがそいつらの言い分だけど、自分の好きな表現を不愉快に思う人が叩くのはこちらが何をしてもしなくても止める権利ないじゃん。
私が腐は不愉快だゲテモノだと叩かなくても、私が好きな萌え絵を不愉快だと言って叩く人を止められる訳がないし、止める権利もない。
その逆もまた然り。
だからここまではギリギリ認められるってのを具体例を挙げてお互いにゾーニングし合うしかない。
まぁ、そんなこと頭の片隅にも無いから叩く叩かないまでしか考えが及ばず、すぐにブーメラン言って自分は賢い気でいるんだろうけど。
あと、ゾーニングのところまで意識が行っても、包括的な表現でゾーニングしたがるバカもくたばれ。
そんな恣意的運用をしたいですと真正面から言える面の皮の厚さは感心するけどね。
個人的に腐の皆さんには、非ゾーニング領域にはキス未満の表現まででお願いしたい。あと、一般書店に2次創作BLは一切置かないこと。
『「差別は許さないが、優生思想は見逃す」リベラル社会の矛盾』に対する、あるブクマカのコメント
『男性オタクに苛められてたこと絶対に忘れないから』に対する同氏のコメント
男性向けにゾーニングされた文化に侵入した女が叩かれるのは、女用車両に入る男性が叩かれるのと同じ。弱者男性はリアルで迫害されたからネットに逃げてきたのに、女はどこでも我が物顔でやってくる。
そんな懸念してるの君だけでは?
結局この手の話って最終的にゾーニング強化しかないんだよなぁ増田 → 展示内容に対する議論
とかいいつつ子供にスマホ持たせてるからなぁ増田 → 子供に持たせているスマホに対する微論
https://togetter.com/li/1331836
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1331836
そもそも昨年の『AnimeJapan 2018』にはBLグッズが出展されていて中には際どいポーズのもあったりするわけだけど、これを置いて良くておっぱい展示がダメな理由がさっぱりわからんのだが……
https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1518143270
https://www.animatetimes.com/news/img.php?id=1518143270&p=1&n=9
パンツ半脱ぎの男のイラストは良くて着衣キャラのパネルの胸を揉むのがダメって本気で意味わからない。
それとも、パネルを叩いてる皆さんは去年このBLグッズに激怒されていたのだろうか。そうだったらごめんね。
(念のために言っておくと、BLの露出を批判する意図はないからね。俺男だけどフィクションの男が剥かれていても特に問題だとは思わないし。架空キャラの性的消費はどんどんやればいい)
そもそも『AnimeJapan 2019』にわざわざ来てお色気エッチ系漫画のブースに来てる人たちを相手にするわけで、公共の場でゾーニングもなしに! とか意味不明すぎる。されてるやん、ゾーニング。
基本的に私企業が展示場に集まってわいわいやってるイベントでしょ。そりゃ確かに誰でも入れるけど、街中の看板やポスターと違って流石にそういうのを許容できる人が主に見ることを想定してもいいでしょ。
お役所が後援してるからダメとかいう主張もあったけどそれ「是枝監督は国のカネで反日映画作ってる」っていういちゃもんとどう違うんですかね。
ていうか皆さんちゃんと作品のPV見てる? どう見てもお色気で釣ってる作品でしょ。プリキュアのエロ抱き枕とかなら批判する理屈もわかるけど、お色気作品として作られたものに色気で釣るなとか言われても意味不明すぎるんだが……
二次元と三次元の区別? これは性犯罪を肯定するようなものとか言ってる方が二次元と三次元を混同しすぎじゃないですかね。あれを擁護している人のなかで、現実の性犯罪を擁護してる人なんてほぼいないでしょ(往々にして世の中には信じられない馬鹿が存在しているものなので「まったく」とは言わないが)。
男の玉を蹴るパネルがあっても許すのかというブコメもあるけど、わざわざパネル設置するほどイケメンキャラの玉を蹴りたい需要があるならやれば? としか。架空キャラの金玉を蹴ることで欲望が満たされるならいくらでも蹴ればいいと思うよ。性癖の形は人それぞれだからね。
とにかく、個人的に気持ち悪い、なら別にいいんだけど(それこそ「自分の萌えは他人の萎え、他人の萌えは自分の萎え」ってやつだし)、そこから抗議行動につなげる人たちの理屈が本当に理解不能。
まあもちろん自分のお気持ちを表明して他人を叩くのは表現の自由に含まれるので、そんなに批判したいなら好きに批判すりゃいいと思うのだけど、それに納得するかというのはまた別問題なわけでね。