はてなキーワード: ジョニーとは
ジョニーの性癖はGでありPなのだが、LGBTに理解をということはジョニーの性癖にも理解を、ということなのか。
Gは良いがPはだめというのはどこで線を引くのか、戦国時代の稚児文化を認めるのか否定するのか。
結局さ、ホモセックス持ち込まれました>w<っつても正直外野からすればえぇ・・・って感じなわけよ、しかも容疑の相手は死んでるし。
だからその部分は事務所と当人(被害者)で賠償金なりで手打ちするしかねえわなって思うわけ。
でもよ、困ったのは事務所と被害者以外の俺ら全員なわけ、ここまでぶちまけられるとね。
エンタメの人間が問題起こしてたらやっぱそれで楽しめるか?ってなるじゃん、夢の国のディズニーランドで雇用問題が起きればあっ...ってなって夢の国は一気に興ざめするのと同じ。
だから被害者と今表立って被害者になってない人達は記者会見なりして、
「ホモセックスはあったけど、それを経て今の自分があるので今の自分たちを愛してほしい」っていうべきなんだよ
事務所が悪い、ジョニーおじさんが悪いは俺らには関係ないし、面白おかしい楽しいエンタメ(スキャンダルじゃないぞ、念のため)の提供しつづけてほしいんだよ、ただそれだけ。
そもそもロアルドダールって悪党で差別主義者で不謹慎でそこが面白いんじゃん
子供の頃読んだ魔女がいっぱいは子供がいかに嫌いかで描かれる子供の不潔さの気持ち悪さとその不謹慎さが好きで読んでたし(魔女の描写もキモい、ダールは子供も女も心底嫌いだったんだなというのが良くわかる)、チョコレート工場の秘密もチャーリーの家にいる老人がいかに臭くて貧乏で醜悪かってことがしつこく描写されててその悪趣味さにゾクゾクして読んでたしそれこそが作者がやりたかったことなんだと思うんよ
不謹慎で不道徳なもんを子供に読ませたくないなら子供に読ませなきゃいいだけなんだよ
ある日、テキサス州の田舎に住む老夫婦が川で洗濯をしていました。川は清らかで冷たくて、そこには魚やカエルやカモなどが泳いでいました。老夫婦は仲良く手をつないで歩いていました。彼らは子供がいなかったので、お互いが唯一の家族でした。
すると、川に大きな桃が流れてきました。桃は真っ赤でふっくらとしており、甘い香りがしました。老夫婦は驚いて、桃を拾い上げました。「こんな大きな桃は見たことがないわ」と老婆は言いました。「今晩はこれを食べよう」と老公は言いました。
家に帰って、桃を切ろうとしたとき、中から元気な男の子が飛び出してきました。「こんにちは!僕はジョニーだよ」と男の子は言いました。彼は金髪に青眼で小さくて可愛らしい姿をしており、笑顔が素敵でした。老夫婦はさらに驚きましたが、喜んでジョニーを自分の子供として育てることにしました。
時がたち、ジョニーはすくすくと育ちました。彼は強くて勇敢で賢くて優しい少年になりました。彼は老夫婦の手伝いをしたり、友達と遊んだりして楽しく暮らしていました。彼は学校で成績も良くてスポーツも得意で、みんなに慕われていました。彼は特にサッカーが好きで、チームのキャプテンを務めていました。
ある日、ニュースで悪い鬼たちがワシントンD.C.を襲って大騒ぎになっていることを知りました。鬼たちは人々や動物や財産を奪って暴れまわっていました。彼らは白宮や国会議事堂やリンカーン記念堂などの有名な建物を占拠しており、大統領や議員や裁判官などの要人を人質にしていました。彼らは世界征服すると宣言しており、他の国からも脅迫していました。
ジョニーはこれを見て怒りました。「これは許せない!僕が行って鬼たちをやっつけてやる!」と言って、老夫婦に別れを告げて旅立ちました。
途中で、ジョニーは犬と猿とキジと出会いました。彼らも鬼退治に協力することにしました。彼らは仲良くなって一緒に旅を続けました。
ジョニーと仲間たちはワシントンD.C.に到着しました。そこは鬼たちによって荒らされており、煙や火や悲鳴があちこちから聞こえてきました。ジョニーと仲間たちは勇気を出して鬼たちに立ち向かいました。ジョニーはライフルを持って戦いました。犬と猿とキジは牙や爪やくちばしで戦いました。
ジョニーと仲間たちは鬼たちと激しく戦いました。ジョニーは鬼の頭目に挑みました。鬼の頭目は大きくて強くて恐ろしい姿をしており、巨大な斧を持っていました。
鬼の頭目はジョニーに向かって大声で叫びました。「お前なんかに負けるものか!俺は世界征服するんだ!」と言って、巨大な斧を振り下ろしました。
ジョニーは素早く斧を避けて、自分の持っていたライフルを鬼の頭目に向けて撃ちました。しかし、鬼の頭目は弾丸を跳ね返してしまいました。「ふん!そんなものじゃ俺には効かないぞ!」と言って、再び斧でジョニーを襲いました。
ジョニーは危うく斧から逃れることができましたが、バランスを崩して倒れてしまいました。鬼の頭目はこれを見て笑いました。「これで終わりだ!さようなら!」と言って、最後の一撃を与えようとしました。ジョニーは必死になってライフルを持ち上げて、鬼の頭目の心臓に向かって引き金を引きました。
ジョニーの撃った弾丸は鬼の頭目の心臓に命中しました。鬼の頭目は大きく倒れて動かなくなりました。彼は死んでしまいました。
ジョニーと仲間たちは鬼の頭目を倒したことに喜びました。「やったぞ!鬼の頭目をやっつけたぞ!」と言って、ハイタッチしました。
そのとき、他の鬼たちが騒ぎ声に気づいてやってきました。彼らは自分たちのボスが倒れているのを見て驚きました。「ええええ!?ボスが死んだ!?どういうことだ!?」と言って、パニックに陥りました。
ジョニーは彼らに向かって叫びました。「聞け!お前たちはもう負けたんだ!お前たちはもう悪さをすることができないんだ!お前たちはもう世界征服することができないんだ!」と言って、ライフルを構えました。
犬と猿とキジも彼に続いて叫びました。「そうだ!お前たちはもう負けたんだ!お前たちはもう悪さをすることができないんだ!お前たちはもう世界征服することができないんだ!」と言って、牙や爪やくちばしを見せつけました。
鬼たちはこれに怯えて逃げ出しました。彼らは白宮や国会議事堂やリンカーン記念堂から出て行きました。彼らは人々や動物や財産を返して謝りました。彼らは二度と戻ってこないことを誓いました。
ジョニーと仲間たちは鬼たちを追い払ったことに喜びました。「やったぞ!鬼退治に成功したぞ!」と言って、抱き合いました。
そのとき、人質にされていた大統領や議員や裁判官などの要人が現れました。彼らはジョニーと仲間たちに感謝しました。「ありがとう!君たちは我々の英雄だ!君たちは我々の救世主だ!」と言って、拍手しました。
ジョニーは彼らに微笑みました。「どういたしまして。僕はただ正義の味方をしたかっただけです」と言いました。彼は犬と猿とキジを紹介しました。「これが僕の仲間です。彼らも一緒に戦ってくれました」と言いました。
要人たちは彼らにも感謝しました。「ありがとう!君たちも素晴らしい仲間だ!君たちも我々の英雄だ!君たちも我々の救世主だ!」と言って、拍手しました。
そして、ジョニーと仲間たちはワシントンD.C.で大歓迎されました。彼らはパレードやパーティーや表彰式などで祝われました。彼らは名誉や賞品や贈り物などを受け取りました。彼らは幸せで満足で充実していました。
そして、ジョニーは老夫婦の元に帰りました。老夫婦はジョニーが無事であることに安心しました。「おかえりなさい!お疲れ様でした!」と言って、抱きしめました。ジョニーは老夫婦に感謝しました。「ありがとう!あなた方が僕を育ててくれたからこそ、僕は今日のことができたんです」と言いました。
日本では'76年に、フィレス・レーベルの作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかもCDのボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者のインタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証致します。
1958年、17才にして彼は”スター”でした。この後ポップスの歴史を彩ることになるクリスタルズやロネッツ、キャロル・キングやバリー・マン、ビーチ・ボーイズやビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思います。ポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージ・マーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質を理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサーの仕事だ、という常識的な意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点でヒッチコックを捉えるとおもしろい解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります。黒沢さんもそうですね。)
デビュー・アルバム「TEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオ・バージョン>はナント、リード・ボーカルの女の子の声が左で、真ん中がフィルのコーラス、しかも、ところどころリード・ボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。
デビュー前からしてこうなのですから、自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。
SCHOOLもの
のちにブラック・ミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリスト、ギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽は一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分のデビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]
また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者のキー・ワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラス、バイクというスタイルが流行しました。
彼のでデビュー・ソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生のお気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子が自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至の若者のフィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法、スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事なことなのです。
ある程度、あるいはそれ以上の音楽の素養がなければミュージシャンや作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロックの時代でした。子供が技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供が子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽の単純化に拍車をかけました。ジャズが豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズが大人の音楽で、背景はナイトクラブと女性とお酒が似合いましたが、子供の音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。
麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角-ストリート・コーナーが似合ったわけです。
それにくらべて土地の広大な中西部や西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本のロックのサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器は感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽の素養は必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギター・インストゥルメンタル>でした。これは、楽器を感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズの単純化がロックとすれば、これはさらに、ロックの単純化で、その極致であったわけです。
これが<ガレージ・サウンド>の正体でしたが、この時代に呼応するかのように、新しく生まれた現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージや居間などでの<ホーム・レコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモ・テープのような、ある意味では乱暴
チャートに登場するようになり、まさに音楽の大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスもバディ・ホリーもデビュー曲は地方の、オヤジさんが社長、オカミさんが専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。
それまでの録音は、演奏者と録音技師はガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師が演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホーム・レコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンドの母体となるのです。
スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時から、スタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢は最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウル・ミュージックの追求というのは、スターにありがちな<後付け>である、と私は考えています)。
このホーム・レコーディングが、実は<スペクター・サウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり、大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハル・ブレインのドラム>、整理は<J・ニッチェのアレンジ>、単純化は<L・レビンのミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクター・サウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。
この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターもギター少年でした。本名のフィル・ハーヴェイとしてインスト・レコードも発表しています。また'58、'59年はインスト・ロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンク・レイ、そしてジョニーとハリケーンズ、サント&ジョニー、サンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムはデビュー前の彼です)、そして極め付きはギター・インストの王者、デュアン・エディーの登場でした。
日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドのユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バット・マン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇のインスト・テーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージ・マーチン楽団の「リンゴのテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャー兼プロデューサーがレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオで仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクター・サウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。
シルはこの時すでにスペクターがプロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルがナント「BE MY GIRL!」。
スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム(佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターがポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。
例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます。
シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッションを見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナント<ベース・ドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベース・ドラムのイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。
エディーのスタジオは1トラックのテープ・レコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンドの秘密であった水道管やドラム缶をエコーに使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいます)スペクターが興味を持たなかったはずはありません。
そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンドの製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットやアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初に評価された人なのです。
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中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています。
その後シルは、スペクターをプロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークのリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代の代表的なコンビがレノン&マッカートニーとすれば、’50年代はリーバー&ストラーの時代で、ロック・ビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクターの学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供やプロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位を確立したのがこの二人なのです。
スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングのヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....
ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクター・サウンド>への引金になったと、私は思います。その手法でプロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクター・サウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初の作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルドン出版社の代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムのフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルはドラマーのゲイリー・チェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。
この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクター・サウンドを作ったのはやはり彼なのです。
この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクターの時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。
また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。