はてなキーワード: クズとは
何言うとるん?少なくとも暴言食らいまくりライフから、人間扱いされる分非モテからランクアップやで。
”非モテは最初から女を馬鹿にしている”こんなん人間にいわへんて。少なくとも男から見て真逆やねん。
真逆の事実を押し付けられて馬鹿にされるなら、女なんて人間扱いせんほうが人生幸せなんて考えるまでもないことやねんで。
docomoの配信サービスで配信されている、とあるアイドルオーディションサバイバル番組にどハマりしてずっと見ている。過去シリーズまで追って、そこからデビューしたアイドルを推すほどハマっている。
そんな番組に出会ってしまったことをきっかけに、自分の人生について、過去に無いくらい考えて悔やんで分析して、を繰り返している。
両親のことは大好きだ。
奨学金なんて必要ないくらいの収入があった父親に専業主婦で毎日「おかえり」と言ってくれる母親、3食おいしいご飯、たまの家族旅行、何一つ不自由なく育ててもらった。
中学入って以降は、私のやりたいことが私の成長に繋がるのならばと、できる限りを尽くしてやらせてもらった。
親ガチャとかいう言葉だって必要ないほど恵まれた環境で育った。
根暗で、卑屈で、俯瞰してて、ひねくれていて、粘着質で、冷めていて、僻みがちな中身の問題だ。
少なくともまだ年齢の数字が1桁だったときは、明るくてよくしゃべる、放課後は毎日遊びに行くような友達の多い子だったと思う。
それなのに変わってしまったのは自分の中で明確なターニングポイントがあって、それが「中学受験」だったと思っている。
身バレしたらしたで仕方ない。
ずっと抱えてきた贅沢な息苦しさを誰かに聞いてほしい。
今から話す私の生い立ちがとんでもなく恵まれていることなんてわかってる。今から話す全てがとんでもなく甘いことなんてわかってる。無いものねだりの高望みだってことだってわかってる。だから、この長くてまとまりのない文章をもし読んでくれるのであれば、この親不孝ものが、甘ったれが、クズが、って、思う存分バカにして反面教師にして笑ってほしい。
物心ついたときから、歌ったり踊ったり楽器を演奏したりするのが大好きだった。
私の通っていた郊外の幼稚園にはたしか必須のクラブ活動があって、年少さんのときは親の意向で「お作法クラブ」に入れられた。お着物を着てお茶の飲み方を教わったり毛筆の書道を並んで書いたり、素敵なことなんだけれど、3歳の私は幼いながらにかなり堅苦しさを感じていた。
クラスで一番仲の良かったおともだちがバレエクラブに入っているのがとても羨ましかった。ことあるごとに私もバレエクラブがいい、来年は変えて!と主張し続け、年中になった時には晴れてバレエクラブに入れてもらえたが、年長に上がった段階ではなぜかもとのお作法クラブに戻されていた。
幼稚園の3年間はクラブ活動とは別で習い事をしていた。英会話教室と、今は無きn田チャイルドアカデミー(n=7)だ。英会話教室は5歳になっても何のために何をやっているのかわからなかったのと、言葉が先生に通じないのとでかなりストレスを感じていたと思う。
n田は、英会話教室なんかよりもはるかに何のために何をやっているのかわからなかったのと、毎日課される難解な宿題プリントと、自分の習い事をどういうふうにおともだちに説明すれば伝わるのかがわからなさすぎて、何が何だかよくわからないまま終えた。
ピアノやバレエを習っているおともだちがそれはそれは羨ましかった。
小学校に上がるタイミングで関東の割と都会な地域に引っ越した。その地域から無理なく通える範囲に高偏差値な私立の中高一貫校が2つもあり(以下A中学•B中学、A中学のほうがレベルが高い)、どうやら親はその学区の良さに惹かれてその地域に引っ越すことを決めたようだった。
n田の難解な宿題プリントはなぜか小学生に上がってからも続いた。学校の宿題とは別で、毎日のノルマを課されていた。新しい学校で持ち前の明るさを発揮し、近所に友達もたくさんできて、遊びたい盛りだった低学年の私には、異常に難しい問題を怒られながら泣きながらこなすのは相当な苦行だった。
小学2年生になってからは、年に2,3回、大手中学受験塾のオープンテストを受けるようになった。気づいたら申し込まれていて、気づいたら受験票があって、気づいたら当日その塾に連れて行かれて謎のテストを解いている、そんな状態だった。n田の毎日のプリントのおかげか、成績は相当良かった。
あなたはこれからA中学を目指すのよ、みんなと同じ隣の中学校にはいけないの。地元の中学校に行くのはちょっとばかなのよ。と言われる(刷り込まれる)ようになる。
地域のお祭りに行った時にステージで見た、小学生のダンスチームの発表がとてもかっこよく見えて、釘付けになった。家に帰ってから親にそのことを話し、「私もダンスやってみたい、習い事したい」とお願いをしたら、「5年生くらいになったらいいよ」と言われ、私はその言葉を信じて3年待ってみることにした。
お風呂でオリジナルの歌を歌ってみたり、適当な踊りを作ってみたり、自分がカリスマアイドルとしてデビューするような妄想をしていたのもこの時期だったと思う。
小学3年生になってもオープンテストは言われるがままに受け続け、2月には「新4年生」としてついに入塾していた。ちょうどこの頃、近くの高校(中高一貫ではない、以下C高校)の合唱部が私の小学校に演奏会をしに来てくれて、その演奏の素晴らしさに感動し、ほのかにC高校に行きたい!という思いが芽生えた。
4年生になり、中学受験がはじまった。目標はA中学。県内屈指の進学校を目指して塾通いが始まった。事前の数年間のオープンテストの結果、クラスは一番上になり、受験が終わるまでクラスが落ちることは一回も無かった。
塾自体はとても楽しかった。10数年経った今でも連絡を取り合うような大事な仲間もできたし、なにより当時は小学生にして他校に友達がいるという事実が誇らしかった。
常になにがなんだかわからないままテストを受け続けてついに始まった中学受験生活だったが、私の意識は常に「親に怒られるから仕方なく勉強している」だった。
今までは存在しなかった授業ごとの予習•復習の行程、難しい問題で躓き、とくに算数は強敵だった。ほんとうに難しかった。
わからなくて、理解できなくて、私の勉強のあまりの進度の遅さに怒られ、毎日のように殴られ、教科書を破られ、ノートを破られ、こっそり楽しんでいたニンテンドーDSliteは見つかって真っ二つに折られ、悔しさと意味のわからなさに泣き叫び、近所から苦情が入り、さらに怒られ、テストの点が悪いとため息をつかれ、そんな日々が3年間続いた。
受験直前にはもう燃え尽きていて、自習と嘘をついてショッピングモールに出かけたりもしていた。当然バレて、さらに怒られた。口も悪くなったし、このあたりから私も何かあるとすぐキレてしまうような難しい性格になった。
小学4年生ともなるとだんだん人間味を帯びてくる。ヒソヒソ話や悪口や友達のグループ化が激化する。塾に行くようになってからは遊びに行くことも減り、放課後も付き合いがあるような友達も減った。
塾に行くようになったことで、授業中の発言や普段の言動に対して「いい子ぶってんじゃねーよ」「頭いいからって偉そうにしないでくれる?」と言われるようになった。
自分に問題があるんだと思い、明るかったのが嘘のようにあまり話さない子どもになった。実際何かしら偉そうに聞こえるような言動はあったんだと思う。
5,6年生のときはクラスの3分の1が中学受験をしている子たちだった。
学年の受験生がほぼ固められているにもかかわらず、次の担任は中学受験に対する理解がまるで無かったので、日記帳を1日見開き1ページ書くという宿題が毎日出た。
大体の日はそれにプラスしてワークなどがあった。当然、学校の宿題の量と塾の与復習の両立に苦戦した。家ではそれが原因でさらに怒られた。
周りの受験生も学校の宿題が大変と愚痴をこぼしていたので、私だけじゃないと知って安心した。
クラスで私を仲間はずれにした女子のことを陰で女王様と揶揄っていたら、誰かにそれを担任にチクられ、授業をひとつ潰してまで説教された。
泣いて謝り許しを乞うまで説教は終わらなかった。世の中には私の味方なんていないんだと思った。
そういえば、2年生だったあのときから待ちに待っていた5年生になったので、めちゃくちゃダメ元で親に「ダンス、習わせてくれるんだよね…?」と聞いたら、何わけわかんないこと言ってんの勉強に集中しなさいと一蹴された。
中学受験中にダンスなんてやってる場合じゃないのはわかってはいたけど、それはそれでつらかった。
頭打ちの成績、勉強に対するやる気の無さ、新しいクラスでできた友達とも遊びたい、そんないろいろな要因が重なって、家庭内でも勉強をしたがらない私に対する怒鳴り声は常に飛んでいた。
怒られない日の方が珍しかった。
自分の気力、体力、学力には到底合わない高いレベルの内容には正直ついていけていなかった。
当然勉強は嫌いになった。少し理解できない問題が続くとなんでそんなにできないのと怒られ顔を引っ叩かれ毎日泣いて、ある日勇気を出して「受験をやめたい」と言ってみた。
親にはA中学B中学に行くとこんなにいいことがあるんだよお前の将来の選択肢が広がっていい大学にもいけるしいいところに就職できるんだよ、それはみんなは高校受験で競争率が高い中やることだから、中学のうちにやっておいた方がいいんだぞ、それでもお前は受験をやめるのかと言われたが、私はある日にはC高校に行きたいと自分の意思で思ったんだから高校受験でそこを目指したいんだと強い意志を持って受験をやめる選択をした。
地元の中学に行く奴はバカと言われて育って来たので少しプライドが許せなさそうだったが、それよりもこの受験生活が、「私のため」の名のもとに暴言と暴力の飛び交うこの異常な家庭が嫌だったので、受験をやめる決断をできたことにほっとしていた。
後日優しい口調の親に丸め込まれ、なぜか受験は続行することとなった。正直どうしてこうなったのか何も覚えていない。
結局中学受験は完遂し、A中学は落ち、B中学はそもそも受験せず、家からは少し遠い第3志望のD中学に入学することになった。
B中学よりはレベルの高い進学校だったので、A中学に落ちたことによってプライドが傷つくこともそこまでなかった。
中学に上がり、かねてより部活というものに、特に運動部に憧れがあったので、そのまま運動系の部活に入った。
チアリーディング部はあったが、正直ヒップホップ系のダンスがやりたかったのと、小学生の時にあてられた記憶で女子の集団が完全に苦手になってしまったので、チアリーディング部には入らなかった。
毎日の練習が楽しくてヘトヘトになって帰ると、勉強する体力とやる気なんて残っていなかった。
最初は地頭で乗り切っていた定期試験もだんだん順位が落ちていき、高校に上がってからは留年スレスレを彷徨うこととなった。
中学受験で完全に捻くれた性格が災いし、人間関係の構築は部活以外では皆無であった。
内向的になりかけていた自分の性格がさらに内向的になり、何重にも殻に閉じこもるようになった。
順調に過ごす周りの同級生を見て、どうしてこの子達は同じ壮絶な受験を経験しているはずなのにこんなに真っ直ぐで明るいのだろうと疑問に思っていた。
中高一貫校の性質上、入学早々にやらかすとそこから卒業までは取り返しがつかなかったので、本当に部活の仲間以外の友達はいないに等しかった。
進学校の勉強についていけないことと友達のいないストレスが相まって、学校の授業は休んだり遅刻したりすることが多かった。それでも部活の時間には必ず練習場に行って、毎日練習には参加した。その甲斐あって、部活の方は最終的には目標だった県の上位層に食い込むことができた。
家庭では大学受験を見据えろとか勉強しろとかは一切言われなくなった。
流石に留年が危ぶまれた時は進級できるくらいにはなってくれとは言われたが、それくらいだった。希望ではないものの進学校に入れることができた満足と、あと妹の中学受験が始まっていたのも一因だったと思う。
結果的に妹は黙々と学習を重ね国内トップレベルの中学に入学したし、私は大学受験の勉強を相当サボりつつも、運良く上位校と呼ばれるような私立の大学のよくわからない学部に現役で合格した。
私の中学受験生活が酷すぎたぶん、妹には重い重い期待がかかっていてプレッシャーだったと思う。妹は妹で家庭でもあまり感情を出さずおとなしくして親の言うことを素直に聞いているように見えた。
姉のふり見て我がふり直せ、だったんだろう。
申し訳ないことをしたと思っているし、やはり我が家は中学受験なんて向いてない家庭だと思っている。
半年に一回くらい、ボイストレーニングの無料体験に申し込んで、無料体験レッスンだけ受講したことが何回かあった。ボーカリストのオーディションとか受けてみたいなと思い調べることもあったが、一回も応募したことはなかった。
そして今、私は大学生をしている。
持ち前の勉強嫌いを発揮していくつかの単位を落としながら、中高でやっていた運動は続けながら、アカペラサークルやミュージカルサークルの所属してステージに立ってみたこともあった。
お金が想定よりかかったり、思ったよりも本気で音楽に向き合う人がいないいわゆる形だけのサークルだったりで、どちらもすぐ辞めてしまった。
そして、とある前世持ち練習生の存在をきっかけに、冒頭に書いた某アイドルオーディションサバイバル番組の配信に辿りついた。
が、その番組や前シリーズやそこからデビューしたグループを見ていくうちに、自分と同年代の子達がデビューに向けて取り組むのを見ていくうちに、何か動悸がするような、焦るような気持ちが抑えられなくなっていた。
大きいステージに立っているアイドルを見ていると涙が出てくる。
私もそっちに行きたいって。
アイドルを目指していたなんて言えるほどの努力は一切していないけど、ステージで表現して人の心を掴むということに対する強い憧れはずっと持っていて、悔しさがこみ上げてきて。
私の好きなアイドルは10年を超えるダンス歴で、とにかくいろんなステージに立っていろんなオーディションを受けて大きな挫折も味わって、そんな長い下積みの末やっとデビューした。
その人が「小学生の時にダンスを習い始めて、そのおかげで内気だったのが明るい性格になった」とたびたび話していて、でもそれを聞くたびにすこし胸が苦しくなる。
私は音楽が好きで、自分で何かを表現したかったという気持ちは絶対にずっとあって、それを無理に抑えてこなかったら?
中学受験の時のあの地獄のような家庭環境が無かったら、ダンスというずっとやりたかったことで自己表現ができていたら、もっとまっすぐな明るい子だったのではないか。
小学校からダンスや歌を本格的にやらせてもらっていたら、私もあの番組のステージに立てたのではないか。
私の勉強嫌いは完全に中学受験からきているわけで、それが無かったら別に高校受験からでもこの大学に入ることはできたんじゃなかろうか。勉強を自発的にできるようになって、もっと良いところに行けてた可能性もあったんじゃなかろうか。逆も然りだけど。
今考えたらあの習い事もクラブ活動も全部親の決めたもので、私の意思なんてこれっぽっちもなくて、全てが勉強につながるようなもので、だから今の私は勉強がとてもとでも嫌いだし、大学生になった今でも勉強は自分のためではなくて新卒大卒獲得のためにやらされるものだと心の底では思っている。
中学受験の時の生活は今考えたら虐待だったね本当にごめんねと親は言ってくるけれども、明るかった小学3年生以前の私の性格はもう帰ってこない。
元の形の記憶を失うほどにねじれて拗れてズタズタになってしまったあの時の私から変われる気配なんてない。今から明るく優しい子になんてなれない。
家庭内でたまに言い方がきついと怒られそれがきっかけで大きな喧嘩になることもあるけれど、あの多感な時期に毎日怒られ怒鳴られ殴られ続けて親の口調が移らないわけない。私の口調と親の口調はびっくりするほどそっくりだ。
私のために全力でサポートしてくれたんだと思う。でも別に中学受験させてくれなんて頼んでなかった。あんな怒鳴り声と泣き叫ぶ声と暴力の絶えない家にしてくれなんて頼んでなかった。あんなんなるなら、地元の中学でもよかった。
やりたいことなんて何もできなかったし私の話なんて微塵も聞いてくれなかったなと思ってしまう。
それでも、ここまで育ててくれて、私のことを考えて人生設計の手助けをしてくれて、中高大10年間の私立の学費を惜しみなく出してくれた親には本当に感謝している。本当に恵まれた家庭で何ひとつ不自由なく育ったと思う。
それに、本当にダンスや歌がやりたかったなら、中学に上がったタイミングで部活に入らずに、今度こそダンスを習わせてほしいボイトレに通いたいと親を説得することだってできたはずだ。そうしなかった段階でそこまで本気じゃなかったんだと思う。このことに気づいて、初めてあ
docomoの配信サービスで配信されている、とあるアイドルオーディションサバイバル番組にどハマりしてずっと見ている。過去シリーズまで追って、そこからデビューしたアイドルを推すほどハマっている。
そんな番組に出会ってしまったことをきっかけに、自分の人生について、過去に無いくらい考えて悔やんで分析して、を繰り返している。
両親のことは大好きだ。
奨学金なんて必要ないくらいの収入があった父親に専業主婦で毎日「おかえり」と言ってくれる母親、3食おいしいご飯、たまの家族旅行、何一つ不自由なく育ててもらった。
中学入って以降は、私のやりたいことが私の成長に繋がるのならばと、できる限りを尽くしてやらせてもらった。
親ガチャとかいう言葉だって必要ないほど恵まれた環境で育った。
根暗で、卑屈で、俯瞰してて、ひねくれていて、粘着質で、冷めていて、僻みがちな中身の問題だ。
少なくともまだ年齢の数字が1桁だったときは、明るくてよくしゃべる、放課後は毎日遊びに行くような友達の多い子だったと思う。
それなのに変わってしまったのは自分の中で明確なターニングポイントがあって、それが「中学受験」だったと思っている。
身バレしたらしたで仕方ない。
ずっと抱えてきた贅沢な息苦しさを誰かに聞いてほしい。
今から話す私の生い立ちがとんでもなく恵まれていることなんてわかってる。今から話す全てがとんでもなく甘いことなんてわかってる。無いものねだりの高望みだってことだってわかってる。だから、この長くてまとまりのない文章をもし読んでくれるのであれば、この親不孝ものが、甘ったれが、クズが、って、思う存分バカにして反面教師にして笑ってほしい。
物心ついたときから、歌ったり踊ったり楽器を演奏したりするのが大好きだった。
私の通っていた郊外の幼稚園にはたしか必須のクラブ活動があって、年少さんのときは親の意向で「お作法クラブ」に入れられた。お着物を着てお茶の飲み方を教わったり毛筆の書道を並んで書いたり、素敵なことなんだけれど、3歳の私は幼いながらにかなり堅苦しさを感じていた。
クラスで一番仲の良かったおともだちがバレエクラブに入っているのがとても羨ましかった。ことあるごとに私もバレエクラブがいい、来年は変えて!と主張し続け、年中になった時には晴れてバレエクラブに入れてもらえたが、年長に上がった段階ではなぜかもとのお作法クラブに戻されていた。
幼稚園の3年間はクラブ活動とは別で習い事をしていた。英会話教室と、今は無きn田チャイルドアカデミー(n=7)だ。英会話教室は5歳になっても何のために何をやっているのかわからなかったのと、言葉が先生に通じないのとでかなりストレスを感じていたと思う。
n田は、英会話教室なんかよりもはるかに何のために何をやっているのかわからなかったのと、毎日課される難解な宿題プリントと、自分の習い事をどういうふうにおともだちに説明すれば伝わるのかがわからなさすぎて、何が何だかよくわからないまま終えた。
ピアノやバレエを習っているおともだちがそれはそれは羨ましかった。
小学校に上がるタイミングで関東の割と都会な地域に引っ越した。その地域から無理なく通える範囲に高偏差値な私立の中高一貫校が2つもあり(以下A中学•B中学、A中学のほうがレベルが高い)、どうやら親はその学区の良さに惹かれてその地域に引っ越すことを決めたようだった。
n田の難解な宿題プリントはなぜか小学生に上がってからも続いた。学校の宿題とは別で、毎日のノルマを課されていた。新しい学校で持ち前の明るさを発揮し、近所に友達もたくさんできて、遊びたい盛りだった低学年の私には、異常に難しい問題を怒られながら泣きながらこなすのは相当な苦行だった。
小学2年生になってからは、年に2,3回、大手中学受験塾のオープンテストを受けるようになった。気づいたら申し込まれていて、気づいたら受験票があって、気づいたら当日その塾に連れて行かれて謎のテストを解いている、そんな状態だった。n田の毎日のプリントのおかげか、成績は相当良かった。
あなたはこれからA中学を目指すのよ、みんなと同じ隣の中学校にはいけないの。地元の中学校に行くのはちょっとばかなのよ。と言われる(刷り込まれる)ようになる。
地域のお祭りに行った時にステージで見た、小学生のダンスチームの発表がとてもかっこよく見えて、釘付けになった。家に帰ってから親にそのことを話し、「私もダンスやってみたい、習い事したい」とお願いをしたら、「5年生くらいになったらいいよ」と言われ、私はその言葉を信じて3年待ってみることにした。
お風呂でオリジナルの歌を歌ってみたり、適当な踊りを作ってみたり、自分がカリスマアイドルとしてデビューするような妄想をしていたのもこの時期だったと思う。
小学3年生になってもオープンテストは言われるがままに受け続け、2月には「新4年生」としてついに入塾していた。ちょうどこの頃、近くの高校(中高一貫ではない、以下C高校)の合唱部が私の小学校に演奏会をしに来てくれて、その演奏の素晴らしさに感動し、ほのかにC高校に行きたい!という思いが芽生えた。
4年生になり、中学受験がはじまった。目標はA中学。県内屈指の進学校を目指して塾通いが始まった。事前の数年間のオープンテストの結果、クラスは一番上になり、受験が終わるまでクラスが落ちることは一回も無かった。
塾自体はとても楽しかった。10数年経った今でも連絡を取り合うような大事な仲間もできたし、なにより当時は小学生にして他校に友達がいるという事実が誇らしかった。
常になにがなんだかわからないままテストを受け続けてついに始まった中学受験生活だったが、私の意識は常に「親に怒られるから仕方なく勉強している」だった。
今までは存在しなかった授業ごとの予習•復習の行程、難しい問題で躓き、とくに算数は強敵だった。ほんとうに難しかった。
わからなくて、理解できなくて、私の勉強のあまりの進度の遅さに怒られ、毎日のように殴られ、教科書を破られ、ノートを破られ、こっそり楽しんでいたニンテンドーDSliteは見つかって真っ二つに折られ、悔しさと意味のわからなさに泣き叫び、近所から苦情が入り、さらに怒られ、テストの点が悪いとため息をつかれ、そんな日々が3年間続いた。
受験直前にはもう燃え尽きていて、自習と嘘をついてショッピングモールに出かけたりもしていた。当然バレて、さらに怒られた。口も悪くなったし、このあたりから私も何かあるとすぐキレてしまうような難しい性格になった。
小学4年生ともなるとだんだん人間味を帯びてくる。ヒソヒソ話や悪口や友達のグループ化が激化する。塾に行くようになってからは遊びに行くことも減り、放課後も付き合いがあるような友達も減った。
塾に行くようになったことで、授業中の発言や普段の言動に対して「いい子ぶってんじゃねーよ」「頭いいからって偉そうにしないでくれる?」と言われるようになった。
自分に問題があるんだと思い、明るかったのが嘘のようにあまり話さない子どもになった。実際何かしら偉そうに聞こえるような言動はあったんだと思う。
5,6年生のときはクラスの3分の1が中学受験をしている子たちだった。
学年の受験生がほぼ固められているにもかかわらず、次の担任は中学受験に対する理解がまるで無かったので、日記帳を1日見開き1ページ書くという宿題が毎日出た。
大体の日はそれにプラスしてワークなどがあった。当然、学校の宿題の量と塾の与復習の両立に苦戦した。家ではそれが原因でさらに怒られた。
周りの受験生も学校の宿題が大変と愚痴をこぼしていたので、私だけじゃないと知って安心した。
クラスで私を仲間はずれにした女子のことを陰で女王様と揶揄っていたら、誰かにそれを担任にチクられ、授業をひとつ潰してまで説教された。
泣いて謝り許しを乞うまで説教は終わらなかった。世の中には私の味方なんていないんだと思った。
そういえば、2年生だったあのときから待ちに待っていた5年生になったので、めちゃくちゃダメ元で親に「ダンス、習わせてくれるんだよね…?」と聞いたら、何わけわかんないこと言ってんの勉強に集中しなさいと一蹴された。
中学受験中にダンスなんてやってる場合じゃないのはわかってはいたけど、それはそれでつらかった。
頭打ちの成績、勉強に対するやる気の無さ、新しいクラスでできた友達とも遊びたい、そんないろいろな要因が重なって、家庭内でも勉強をしたがらない私に対する怒鳴り声は常に飛んでいた。
怒られない日の方が珍しかった。
自分の気力、体力、学力には到底合わない高いレベルの内容には正直ついていけていなかった。
当然勉強は嫌いになった。少し理解できない問題が続くとなんでそんなにできないのと怒られ顔を引っ叩かれ毎日泣いて、ある日勇気を出して「受験をやめたい」と言ってみた。
親にはA中学B中学に行くとこんなにいいことがあるんだよお前の将来の選択肢が広がっていい大学にもいけるしいいところに就職できるんだよ、それはみんなは高校受験で競争率が高い中やることだから、中学のうちにやっておいた方がいいんだぞ、それでもお前は受験をやめるのかと言われたが、私はある日にはC高校に行きたいと自分の意思で思ったんだから高校受験でそこを目指したいんだと強い意志を持って受験をやめる選択をした。
地元の中学に行く奴はバカと言われて育って来たので少しプライドが許せなさそうだったが、それよりもこの受験生活が、「私のため」の名のもとに暴言と暴力の飛び交うこの異常な家庭が嫌だったので、受験をやめる決断をできたことにほっとしていた。
後日優しい口調の親に丸め込まれ、なぜか受験は続行することとなった。正直どうしてこうなったのか何も覚えていない。
結局中学受験は完遂し、A中学は落ち、B中学はそもそも受験せず、家からは少し遠い第3志望のD中学に入学することになった。
B中学よりはレベルの高い進学校だったので、A中学に落ちたことによってプライドが傷つくこともそこまでなかった。
中学に上がり、かねてより部活というものに、特に運動部に憧れがあったので、そのまま運動系の部活に入った。
チアリーディング部はあったが、正直ヒップホップ系のダンスがやりたかったのと、小学生の時にあてられた記憶で女子の集団が完全に苦手になってしまったので、チアリーディング部には入らなかった。
毎日の練習が楽しくてヘトヘトになって帰ると、勉強する体力とやる気なんて残っていなかった。
最初は地頭で乗り切っていた定期試験もだんだん順位が落ちていき、高校に上がってからは留年スレスレを彷徨うこととなった。
中学受験で完全に捻くれた性格が災いし、人間関係の構築は部活以外では皆無であった。
内向的になりかけていた自分の性格がさらに内向的になり、何重にも殻に閉じこもるようになった。
順調に過ごす周りの同級生を見て、どうしてこの子達は同じ壮絶な受験を経験しているはずなのにこんなに真っ直ぐで明るいのだろうと疑問に思っていた。
中高一貫校の性質上、入学早々にやらかすとそこから卒業までは取り返しがつかなかったので、本当に部活の仲間以外の友達はいないに等しかった。
進学校の勉強についていけないことと友達のいないストレスが相まって、学校の授業は休んだり遅刻したりすることが多かった。それでも部活の時間には必ず練習場に行って、毎日練習には参加した。その甲斐あって、部活の方は最終的には目標だった県の上位層に食い込むことができた。
家庭では大学受験を見据えろとか勉強しろとかは一切言われなくなった。
流石に留年が危ぶまれた時は進級できるくらいにはなってくれとは言われたが、それくらいだった。希望ではないものの進学校に入れることができた満足と、あと妹の中学受験が始まっていたのも一因だったと思う。
結果的に妹は黙々と学習を重ね国内トップレベルの中学に入学したし、私は大学受験の勉強を相当サボりつつも、運良く上位校と呼ばれるような私立の大学のよくわからない学部に現役で合格した。
私の中学受験生活が酷すぎたぶん、妹には重い重い期待がかかっていてプレッシャーだったと思う。妹は妹で家庭でもあまり感情を出さずおとなしくして親の言うことを素直に聞いているように見えた。
姉のふり見て我がふり直せ、だったんだろう。
申し訳ないことをしたと思っているし、やはり我が家は中学受験なんて向いてない家庭だと思っている。
半年に一回くらい、ボイストレーニングの無料体験に申し込んで、無料体験レッスンだけ受講したことが何回かあった。ボーカリストのオーディションとか受けてみたいなと思い調べることもあったが、一回も応募したことはなかった。
そして今、私は大学生をしている。
持ち前の勉強嫌いを発揮していくつかの単位を落としながら、中高でやっていた運動は続けながら、アカペラサークルやミュージカルサークルの所属してステージに立ってみたこともあった。
お金が想定よりかかったり、思ったよりも本気で音楽に向き合う人がいないいわゆる形だけのサークルだったりで、どちらもすぐ辞めてしまった。
そして、とある前世持ち練習生の存在をきっかけに、冒頭に書いた某アイドルオーディションサバイバル番組の配信に辿りついた。
が、その番組や前シリーズやそこからデビューしたグループを見ていくうちに、自分と同年代の子達がデビューに向けて取り組むのを見ていくうちに、何か動悸がするような、焦るような気持ちが抑えられなくなっていた。
大きいステージに立っているアイドルを見ていると涙が出てくる。
私もそっちに行きたいって。
アイドルを目指していたなんて言えるほどの努力は一切していないけど、ステージで表現して人の心を掴むということに対する強い憧れはずっと持っていて、悔しさがこみ上げてきて。
私の好きなアイドルは10年を超えるダンス歴で、とにかくいろんなステージに立っていろんなオーディションを受けて大きな挫折も味わって、そんな長い下積みの末やっとデビューした。
その人が「小学生の時にダンスを習い始めて、そのおかげで内気だったのが明るい性格になった」とたびたび話していて、でもそれを聞くたびにすこし胸が苦しくなる。
私は音楽が好きで、自分で何かを表現したかったという気持ちは絶対にずっとあって、それを無理に抑えてこなかったら?
中学受験の時のあの地獄のような家庭環境が無かったら、ダンスというずっとやりたかったことで自己表現ができていたら、もっとまっすぐな明るい子だったのではないか。
小学校からダンスや歌を本格的にやらせてもらっていたら、私もあの番組のステージに立てたのではないか。
私の勉強嫌いは完全に中学受験からきているわけで、それが無かったら別に高校受験からでもこの大学に入ることはできたんじゃなかろうか。勉強を自発的にできるようになって、もっと良いところに行けてた可能性もあったんじゃなかろうか。逆も然りだけど。
今考えたらあの習い事もクラブ活動も全部親の決めたもので、私の意思なんてこれっぽっちもなくて、全てが勉強につながるようなもので、だから今の私は勉強がとてもとでも嫌いだし、大学生になった今でも勉強は自分のためではなくて新卒大卒獲得のためにやらされるものだと心の底では思っている。
中学受験の時の生活は今考えたら虐待だったね本当にごめんねと親は言ってくるけれども、明るかった小学3年生以前の私の性格はもう帰ってこない。
元の形の記憶を失うほどにねじれて拗れてズタズタになってしまったあの時の私から変われる気配なんてない。今から明るく優しい子になんてなれない。
家庭内でたまに言い方がきついと怒られそれがきっかけで大きな喧嘩になることもあるけれど、あの多感な時期に毎日怒られ怒鳴られ殴られ続けて親の口調が移らないわけない。私の口調と親の口調はびっくりするほどそっくりだ。
私のために全力でサポートしてくれたんだと思う。でも別に中学受験させてくれなんて頼んでなかった。あんな怒鳴り声と泣き叫ぶ声と暴力の絶えない家にしてくれなんて頼んでなかった。あんなんなるなら、地元の中学でもよかった。
やりたいことなんて何もできなかったし私の話なんて微塵も聞いてくれなかったなと思ってしまう。
それでも、ここまで育ててくれて、私のことを考えて人生設計の手助けをしてくれて、中高大10年間の私立の学費を惜しみなく出してくれた親には本当に感謝している。本当に恵まれた家庭で何ひとつ不自由なく育ったと思う。
それに、本当にダンスや歌がやりたかったなら、中学に上がったタイミングで部活に入らずに、今度こそダンスを習わせてほしいボイトレに通いたいと親を説得することだってできたはずだ。そうしなかった段階でそこまで本気じゃなかったんだと思う。このことに気づいて、初めてあ
https://anond.hatelabo.jp/20231024132613
あとジャニオタって推しに恋愛発覚すると、なぜか相手の女性を叩いて推しを叩くのは控えがちなのが謎だった。
ジャニーズという組織の秩序を乱すのはやめようって意識なのかなって、ジャニーズ会見後のSNSみてて思う。
AKBオタは推しに恋愛発覚したら当然自分が推してる女性アイドルを叩くよね。そんでそいつが売れっ子だからという理由でペナルティがなかったら運営も叩くよね。
「山口さん可哀想。相手の女はズルい!被害者ぶるな!」と被害者の女子高生を叩きまくってたしな。
完全に女性達の中で「嵌められた可哀想な山口達也と自分の立場を利用した狡猾な(または愚かな)女子高生」という図ができていた
これって、ジャニオタだけの特徴じゃない
浮気が発覚した時、男は浮気妻を責めるけど女は浮気した夫より相手の女を責めるってよく言うのと同じ
話は変わるけど、「蘭厳しめ」というコナンの蘭のヘイト創作があってだな。書き手はもっぱら女性で、
その内容が「横暴でクズな蘭と迫害される可哀想な新一」というのが多かった
描かれた新一が妙に無力でか弱くて、
周り(新一の両親やFBIとか)が新一を守って蘭を倒してヨシヨシする、というのが定番だった
ここである仮説が浮上した
そして、
「女性は無力で可哀想な推しを悪い女から守りたいと思う傾向がある」
男はクズ男とくっついた女を「所詮そいつを選ぶ程度の女」と軽蔑する傾向がある。その女が推しであったとしてもだ
ところが女は「クズ女とくっついた推し君可哀想!私が守って助けてあげたい!」と思うのだ
(女だけの傾向ではないかもしれない。クズ男の被害に遭った女を「そんな男を選んだ自業自得。何故無害なチー牛を選ばない!」と叩く人は多いが、逆はあまりないからだ)
https://anond.hatelabo.jp/20230513232056
ホストは客に別の客の悪口を言う。「愛してる」と言ったその次の日に「まじであのブスのせいで最悪」などと別の女に愚痴り、その女にも「愛してる」と言う。それを全員にやる。「俺は苦しめられているのだ」と思っている。事実苦しんでいる。女は「私と一緒にいるときぐらい休んでなよ」と言う。
シングルマザーの彼氏(あるいは旦那)が性的虐待した時、離婚したり別れたりするどころか嫉妬して娘を敵視する母親がいる。この時、母親の目にはこう見えている
「狡猾で腹立つ娘が私の弱くて可哀想な彼を奪って被害者ヅラしている、許せない」と
息子が娘に性的虐待した時も同様だ。母親は息子の味方をしがちである
ただでさえ、息子と娘のいる母親は「娘は狡猾でオンナって感じでいやらしいけど息子は純粋で優しい!息子は余計に世話してあげなきゃいけない!息子の方が可愛い!」というのが多い
そんな母親が「お兄ちゃんは性欲旺盛だから可哀想なの。いつまでも被害者ぶって責めないで許してあげなさい。あなたも悪いのよ」などと吐かすのは想像に難くないだろう
まして息子の弱さに説得力を持たせるような知的なハンデなどがあったら…
被害者を攻撃し、被害者が悪い、息子は被害者だ、息子は純粋なだけだ、そう主張する母親は多い
息子のいる母親は裁判員裁判で、性犯罪者に甘い判決を出しがちであると聞いた
息子のいる母親にとって、性犯罪は「性欲を抑えられない可哀想な男性が露出するイヤらしい女に誘惑されて犯罪者になってしまった」ように映るらしい
多分イスラムで「性犯罪被害者の女が罰される」のもそんな思想の延長だろう
姉と弟の兄弟構成で男尊女卑がもっとも助長される「ブラザーペナルティ」といい、男尊女卑は「男は弱くて可哀想で可愛い」という思想から起こるのかもしれない
おーい、詐欺師のキミよ、またまた根拠も無く「全銀システムはクソ!」って講演会で言ってたみたいじゃん。でもさ、キミって Python すらちゃんと書けないゴミクズなんだよね?chatGPT でコードを書いているせいで、まともにデバッグできてないみたいじゃん。そんで、またまた「私はこんなにすごい!」と言って、若者をゴミのように活用して野望を遂げようとしてるのよね?オレは詳しいんよ、お前に搾取されたからな。ちゃんと、オレはキミを監視してるからな。有名になったら若手アイドルをレイプした前科と、違法薬物の不正利用、そして脅迫の音声をマスコミに流すぞ。覚悟しろよ。
リアルではそれを隠し通していて、むしろイケメンに目がないキャラを演じている。
本当に遠い昔、男性との恋愛経験はなくもないけれど、今はまあお察し。
自分がレズビアンであることを、リアルで他人に話すことは今後一生ないと思う。たとえ大親友でも。
アニメでよくある、男の子が女の子に一目惚れするシーン。目をハートにして釘付けになるシーン。
それから小中高大、そして社会人の現在に至るまで、各コミュニティに必ず好きな女の子ができた。
クラス、部活、研究室、サークル、バイト先、留学先、職場、どこに行っても魅力的で可愛い女の子がいた。先生のことも好きになった。
好きな芸能人も必ず女の人。
一度誰かを好きになったら四六時中その人のことを考えるし、どんなコミュニティもその人に会うために参加しているようなもんだった。
ただ、告白して付き合いたいとまでは思ったことがなく、自分の世界の中でひたすらその人を愛していた。
好きな人コロコロ変わってんじゃねぇかって感じだけど、どうせ付き合うことはないからと脳内では自由奔放に色んな人に片想いをしていた。
コアな恋愛話をすることもあるが、彼女の恋愛話を聞くとめちゃくちゃ興奮する。
彼女は酔ったらキス魔になって、めちゃくちゃキスしようとしてくる。
毎回キスされそうになるたびに「あーもうやめて(笑)」って手で振り払うノリがあるけれど、ほんとはめちゃくちゃキスされたいし、キスしたい。
そして帰って1人になったらその子とイチャつく妄想をしてしまう。
女としてではなく、男の自分がその子に触れたとき、どんな反応するのかなって妄想するのが楽しい。
親は50代後半で、セクシャルマイノリティ関連には1ミリも理解がない。
テレビで同性愛の話が出たりした時、馬鹿にするような言葉を平気で言う。
かくいう自分も、自分がレズビアンであることを心のどこかで認めきれていない。
同級生とワンナイトしたり、クズ男に沼ったりとかいう、よく見聞きするような経験もしてみたかった。
ただ、本当に男性に興味が沸かない。
それでも性自認は女だし、今の自分の社会的な立ち位置には納得している。だからこれは墓場まで持っていくつもり。
でもやっぱり、好きだなぁ、、、
私みたいなレズビアン、どれくらいいるのかな。
インターネット上のクリエイティブな職業の人たちや趣味つながりの人たち同士のコミュニティで元のつながりとは関係のない情報がやり取りされてるのがめちゃくちゃ羨ましい
そこに混じっていけるような知識や経験もないし、ネット上で付き合いがある人は一切いないし、リアルな人間関係は10年以上変わり映えしない同じ話をする集まりしかない(集まり自体は気楽だし、 楽しい、けどいつもの店でいつもの話をするのでマンネリ感はある)
公開アカウントでやり取りされているネット上の交友関係の広い人たち同士の会話を盗み聞きして、一人で試してみたりもするけど、一人でやってるからそこからの広がりは特にないし、一人でできることにも限りがある
とはいえ今から出来上がってるコミュニティに入り込める才覚はないから指を咥えて、時々歯軋りしながら、人のおこぼれを狙うクズみたいなムーブをし続けるんだろうな
幼い頃からそうだった、適材適所やそれに類する言葉(自分ができることやろう、的な)
を使う連中というのは結局の所
という事を言いたいだけだった、例外なくそうだった、100%そうだった。
この言葉を使う人間が自らキツイ仕事をやることは絶対に無かった。100%無かった。
「一人ひとりが活躍できるように」とか、どれだけ思いやりのあるふりをしても、他人に面倒事を押し付けるクズしか居なかった。
「自分は軽い物を右から左に運ぶ、お前は重い物を下から上に運ぶ」
そんな事を平気でやるのだ、そのくせ負担してもらう側に労いもないクズしかいなかった。
適材適所で仕事を分担しているのだから感謝もねぎらいも不要であるという理屈のようだった。
ライフハック的な悪知恵として舌を出すようなクズも居たが結局、善人ヅラしてる奴と同レベルのクズでしかないが正直な分マシだろう。
小学校のフェミババア教師はこの手の適材適所論をよく主張し男子を苦しめていた。
適材適所と言いながら、明らかに男子のほうが体力と時間を浪費するような物運びをやらされた。
社会に出てもそうだ、障害者雇用なんか「楽なデスク仕事をガイジにやらせろ」ということでしか無かった。
仕事の中の比較的楽な部分を奪われた健常者は、仕事の緩急が減り、仕事が辛くなった。
元妻のたっての要望で、頑張ってギリ億ションじゃない所謂タワマンを買った
俺自身は5000万ぐらいで駅チカの物件で全然良かったんだけど妻たっての悲願だと
結婚前からタワマンに住みたかったと、ローンもダブルローンでも良いから頑張って働くからって説得されて
そんなに望むならと思って購入
して住み始めた途端、無断で仕事辞めてきた
まあローンは一馬力でも払える程度には収入あるからそれは仕方ないにしても
家に毎日帰ってくるな、出張にでも行ってろ、勝手に私の家?に毎日居られるのがストレス、
だから、じゃあ家出ますねってさっさとウィークリー借りて引っ越した
そしてもう一緒にいる意味も無いから離婚しよう、家は俺の名義なんで売却します
売却額と貯金の一部で残額は清算するからとりあえず家出てってね
じゃあ俺は俺の家に帰って良いよね?と言ったらそれは嫌だという、マジで意味わからんかった
誰が自分をDVしてくるクズの為にローンと生活費は支払うんだよ
家買うまでは普通だったのにあちらの希望を聞いて理想のマンションとからを買って住み始めた途端にこれだから
女って豹変するし本性も隠せるんだなって痛感させられた
多分あの女にとっての俺は理想の家を買ってローンを支払う為のATMだったんだろうな
こんなのと別居してまで婚姻継続する価値は無いから弁護士立てて離婚に動いている
2年も無い結婚期間だったけど人間の人格の豹変が本当に恐ろしいし人間不信になってるから一生再婚はしない
婚費とかも本当に高くて男にとって結婚ってリスクだったんだなと心底痛感させられている