幼い頃からそうだった、適材適所やそれに類する言葉(自分ができることやろう、的な)
を使う連中というのは結局の所
という事を言いたいだけだった、例外なくそうだった、100%そうだった。
この言葉を使う人間が自らキツイ仕事をやることは絶対に無かった。100%無かった。
「一人ひとりが活躍できるように」とか、どれだけ思いやりのあるふりをしても、他人に面倒事を押し付けるクズしか居なかった。
「自分は軽い物を右から左に運ぶ、お前は重い物を下から上に運ぶ」
そんな事を平気でやるのだ、そのくせ負担してもらう側に労いもないクズしかいなかった。
適材適所で仕事を分担しているのだから感謝もねぎらいも不要であるという理屈のようだった。
ライフハック的な悪知恵として舌を出すようなクズも居たが結局、善人ヅラしてる奴と同レベルのクズでしかないが正直な分マシだろう。
小学校のフェミババア教師はこの手の適材適所論をよく主張し男子を苦しめていた。
適材適所と言いながら、明らかに男子のほうが体力と時間を浪費するような物運びをやらされた。
社会に出てもそうだ、障害者雇用なんか「楽なデスク仕事をガイジにやらせろ」ということでしか無かった。
仕事の中の比較的楽な部分を奪われた健常者は、仕事の緩急が減り、仕事が辛くなった。
だから「適材適所」なんです。 いつでも君がキツイ仕事を任されてきたということは、君にはキツイ仕事をこなせる適性があるのです。 他人には運べない重い石を運べる自分を誇りなさ...