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徳島県教育委員会は来春に実施する高校入試から、「阿波おどり」の技能に秀でた生徒を優先的に受け入れる特別枠を導入する。地域の伝統文化の担い手を育成する狙いがあり、文部科学省によると、高校入試で郷土芸能による選抜を実施するのは珍しいという。
阿波おどりに力を入れてきた生徒を受け入れるのは県立の徳島商業(徳島市)、城西(同)、鳴門(鳴門市)の3校で、定員は各3人。いずれも阿波おどり部があり、卒業生は地域の踊り手グループ「連」のメンバーとして活動を続けている。出願条件は中学3年間、連で活動したことなどとする予定。筆記試験も行うが、実技試験の結果を重視する。
高校入試で「阿波おどり」特別枠、県立3校が優先受け入れへ…筆記試験より実技を重視 : 読売新聞オンライン
https://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyoiku/news/20220611-OYT1T50229/
「同じアホなら踊らにゃ損々」の実体化。
塩が切れたので、スーパーに行った。今回は、海水から作ったちょっといい塩を買ってみようと思った。
裏面には「まるみのある味」「昔から日本料理で使われている」「和食に」と書いてあり、なかなかええやん、と思って原材料を見るとメキシコ、オーストラリア産海塩と書いてあった。あわせて、「国内製造」の表示、「A」は登録商標であること、市か県の何か認証マークも付いていた。
ちょっとよく分からない。原石みたいに、汚れて不純物が混ざった原塩的なものを外国から安く輸入しているということだろうか?目の前の駿河湾の海水から塩を作るより、地球の裏側の塩をタンカ?空輸?して運んで日本の工場で溶かしてまた塩に戻した方が安いのだろうか。
一方で、鳴門の海水を使って作った塩というのも売っていた。なんと、鳴門の塩の方が安かった。
やっぱり、外国から塩を運んできて溶かしてまた塩にする方が高いんじゃん。しかもパッケージにはさも日本の海水で作りました感出してるし。
誰が得するんだ???
折口信夫への旅 第1部 ~小説「身毒丸」をめぐって(歌舞伎批評家・山本吉之助)
http://www.kabukisk.com/geitohito33.htm
という折口信夫『身毒丸』解説文の中に、日本の師弟関係がなぜ理不尽で暴力的になるのかについての興味深い示唆があったので、
もしかして既によく知られていることかもしれないが、自分は初めて知ったので、覚え書きとして残しておこうと思う。
『最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本の師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。
例えば最も古い感情を残している文楽座の人形遣いなど、少しの手落ちを咎めて、弟子を蹴飛ばしたり、三味線弾きは撥で殴りつけたりした。
そういうことは以前はよくあった。そうした躾を経ないでは一人前になれないと考えられてきたのです。
なぜ、そうした、今日の人には無理だなと思われるような教育法が行なわれてきたかということが問題になります。(中略)
それはある年齢に達した時に通らねばならない関門なのです。(中略)
子供または弟子の能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』
七月に入り一座は泉州のある村の盆踊りに迎えられますが、源内法師は身毒丸の踊りに若い女たちの面貌がチラついていることを認めて、その晩、師匠は身毒丸 を自分の部屋に引きずっていって「龍女成仏品」に一巻を渡し「芸道のため、御仏のため、心を断つ斧だと思って、血書するのだ」と厳しく命じます。
しかし、出来上がったものを持っていく度に師匠はこれを引き裂きます。
「人を恨むじゃないぞ。危ない傘飛びの場合を考えてみろ。もし女の姿がちょっとでもそちの目に浮かんだが最後、真っさかさまだ」と師匠は言います。
身毒丸は血を流しながら一心不乱に写経を続けますが、身毒丸の脳裏には彼の踊りに熱狂する若い女たちの面貌がなかなか離れません。
一心不乱に写経を続ける身毒丸の姿を見ているうちに師匠の頬にも涙が流れてきて、五度目の写経を見た時には師匠にも怒る気力は失なわれていました。
春琴の教え方は 非常に厳しく、
「あかんかかん、弾けるまで夜通しかかたかて遣りや」と佐助を激しく叱咤し、
時には「阿呆、何で覚えられんねん」と罵りながら撥で頭を殴り、佐助がしくしく泣き出すこともしばしばであったと云います。
『昔は遊芸を仕込むにも火の出るような凄じい稽古をつけ往々弟子に体刑を加えることがあったのは人のよく知る通りである
本年〔昭和八年〕二月十二日の大阪朝日新聞日曜のページに「人形浄瑠璃の血まみれ修業」と題して小倉敬二君が書いている記事を見るに、
摂津大掾亡き後の名人三代目越路太夫の眉間には大きな傷痕が三日月型に残っていた
それは師匠豊沢団七から「いつになったら覚えるのか」と撥で突き倒された記念であるという
また文楽座の人形使い吉田玉次郎の後頭部にも同じような傷痕がある
玉次郎若かりし頃「阿波の鳴門」で彼の師匠の大名人吉田玉造が捕り物の場の十郎兵衛を使い玉次郎がその人形の足を使った、
その時キット極まるべき十郎兵衛の足がいかにしても師匠玉造の気に入るように使えない
「阿呆め」というなり立廻りに使っていた本身の刀でいきなり後頭部をガンとやられたその刀痕が今も消えずにいるのである。
しかも玉次郎を殴った玉造もかつて師匠金四のために十郎兵衛の人形をもって頭を叩き割られ人形が血で真赤に染まった。
彼はその血だらけになって砕け飛んだ人形の足を師匠に請うて貰い受け真綿にくるみ白木の箱に収めて、時々取り出しては慈母の霊前に額ずくがごとく礼拝した
「自分にはこのような仕打ちを受ける謂われはない」という強い思いです。その場合・何に対して彼は意地を張るのかということが問題になります。
世間に対して意地を張る場合もあると思いますが、あるいは神に対してという場合があるかも知れません。
ここで神に対して意地を張るということは、神に反抗するという意味ではないのです。
そのように考えるのは近代人の捉え方でして、古代人の場合には絶対者である神に対して反抗するという発想は考えられ ません。
自分に対する神の仕打ちが不当であると感じた時に、古代人は自らの清らかさを神に示すように控え入るのです。
「神よ、この清い私を見てくれ」というようにです。
つまり表面 上は畏れ入っているのですが、内心には自分に対する神の仕打ちは不当であるという強い思いがあるように思えます。
(中略)
神に対して自分が清い(あるいは正しい)ということを示そうという気持ちを失ってしまえばそれは不信仰ということになります。
だから理不尽な神の仕打ちに耐えて・彼がそれでもひたすらに生き続けることは「神よ、この清い私を見てくれ」ということになるのです。
それは神に対して意地を張るということでもあ ります。
折口信夫は座談会「神道とキリスト教」において次のようなことを語っています。
神の憤りとは人間がいけないからその罰として神が発するものではなく、神がその憤りを発する理由がどこまでも分からない。
神が憤るのは人間がいけないからだ・人間が何か悪いことをしたから神が怒ったに違いないと考えるのは、道徳倫理が完成した後の時代の人々の感じ方なのです。
既成の道徳基準があれば、人々はそれに照らし合わせて・神がこれほど怒ったのにはこんな理由があったに違いないと後で納得できる説明を付けようとします。
しかし、道徳がまだ成立していなかった古代人には照らし合わせるべき倫理基準などまだなかったのですから、人々には神が怒る理由など全然想像が付きませんでした。
『神の怒りに当たることと言う怖れが古代人の心を美しくした』(折口信夫・「道徳の研究」・昭和29年)
そのような理不尽な怒りを神はしばしば・しかも唐突に発しました。
例えば地震・台風・洪水・旱魃・冷害などの自然災害がそのようなものです。
このような時に古代人は神の怒りをみずからの憤りで以って受け止めたのです。
みずからの憤りを自分の内部に封じ込めて黙りました。ただひたすらに耐えたのです。
そうすることで古代の人々はみずからの心を倫理的に研ぎ澄ましていったのです。
「神よ、この清い私を見てくれ」と言うかのように。
古代人の 生活というものは、風雪災害や飢饉・病気など、現代人が想像するよりもずっと過酷で・辛く厳しいものであったということなのです。
そのような時に古代人は神の理不尽かつ無慈悲な怒りを強く感じたのですが、そこをグッと持ち耐えて自己を深い内省と滅却に置くことはまことに殉教者以上の経験をしたことになるのです。
貴種流離譚というものが民衆に与えた印象というものは「身分の高い人が落ちぶれて哀れな姿になって・・」というものでは決してないのです。
民衆が貴種流離譚に見たものは神の与えた理不尽かつ過酷な試練に従順に耐える殉教者の姿なのであり、それは過酷な生のなかに生きる民衆自身の姿と も自然に重なって来るわけです。
神は別に何もするわけではないのです。
しかし、神がたまらなさを感じて涙を流してくれるならば無辜の贖罪者は何かしら救われることになる・ 実はそのことだけで十分なのです。
これが古代人が神に対する時の態度です。
源内法師は身毒丸に無慈悲な折檻を強いながら、それに抵抗することなく・懸命に師の言いつけを実行しようとする身毒丸の健気さ・ひたむきさのなかに、無辜の殉教者の姿を見たのです。
『最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本の師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。
まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。(中略)
子供または弟子の能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。
それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』
折口がこのように語る時、折口は日本伝来の師弟関係のなかに、理不尽に怒る神と・神を信じてその仕打ちに黙々と耐える無辜の民衆の絶対的な関係をそこに重ねて見ているのです。
神はしばしば理不尽な怒りを発して、我々に謂れのないひどい仕打ちをします。
我々には神の意図することがまったく理解できません。それはただただ理不尽なものに思えます。
しかし、それでも神をひたすら信じ・神の指し示す道を黙々と歩むということことです。
過酷な仕打ちを受けてもなお神を信じて神に従う人を見る時、神はそのような人々に対して賜らない愛おしさを覚えるであろう。慈悲の涙を流してくれるであろう。願わくば我々を悲嘆のなかから救い上げてくれるであろうということです。
折口はそのような気持ちから道徳のようなものが生まれてくるというのです。
つまり、
神の理不尽な怒り(地震・台風・洪水・旱魃・冷害や飢饉・病気など)
→それでも神をひたすら信じ・神の指し示す道を黙々と歩む
「神よ、この清い私を見てくれ」
これが、古代の神と民衆の関係であり、師弟関係はこれをなぞっていると。
なるほど、自分がそういう目にあうのはいやだけど、ドラマや物語で接するとなんとなく納得してしまうのは、そういう古代からの宗教的な感覚が今も心の中にあるからなのかもしれない。
万遍ないな
東北を除いて
あとは誰か任せた
【北海道】
・「インデアン」のカレー
【青森】
【秋田】
【岩手】
【山形】
・「十一屋」のチルミー
・「とん八」のとんかつ
【福島】
【宮城】
・「まるまつ」の和食
【新潟】
・「フレンド」のイタリアン
【長野】
・「テンホウ」のラーメン
【山梨】
【千葉】
・「やまと」の回転寿司
【茨城】
・「とんQ」のとんかつ
【栃木】
・「正嗣」の餃子
【群馬】
・「登利平」の鳥めし
【埼玉】
【東京】
【神奈川】
・「元祖ニュータンタンメン本舗」のタンタンメン
【石川】
【富山】
【福井】
・「オレボ」のお惣菜
【静岡】
・「さわやか」のハンバーグ
【岐阜】
【愛知】
【三重】
・「一升びん」の焼肉
【奈良】
【滋賀】
【京都】
【大阪】
・「わなか」のたこ焼き
【和歌山】
【兵庫】
・「らぁめんたろう」のラーメン
【岡山】
・「岡山木村屋」のバナナクリームロール
・「海都」の回転寿司
【広島】
・「我馬」のラーメン
【山口】
・「どんどん」のうどん
【島根】
・「たまき」のうどん
【鳥取】
【徳島】
【愛媛】
・「がんば亭」のうどん
【香川】
・「こだわり麺や」のうどん
【高知】
【福岡】
・「ひらお」の天ぷら
【佐賀】
【長崎】
・「庄屋」の和食
・「牛右衛門」のハンバーグ
【大分】
【熊本】
【宮崎】
・「桝元」の辛麺
【鹿児島】
【沖縄】
はあちゅうさんの件、正直彼女が岸ナントカ氏から受けた仕打ちはひでー話だと思うよ。で、それとは別の問題として彼女やその周辺が「童貞」という言葉をあまり慎重さもなく濫用してたのもフツーにダメだと思うわ。
だけどそれ以上に、Buzzfeedというウェブメディアにはガッカリさせられた。
記者出身の書き手もたくさんいて、ちゃんと記事が書けて、アカデミックな裏付けもあって、調査報道もできて、かといって既存の新聞社みたいに問題設定がズレているわけでもなく、ネット時代に合わせた論点設定ができる、良質なウェブメディアなのかと思っていた。
でも、はあちゅう記事の後に出したフォローアップ記事。これがなぁ。
はあちゅうと #metoo への批判 ハラスメント社会を変えるために共感を広げるには
https://www.buzzfeed.com/jp/daisukefuruta/metoo-and-howwecan
いや、はあちゅうさんの一件って、「同じ人間が被害者にもなれば加害者にもなりうる。大事なのは学ぶことだ」ってことでしょ。でも、そのことを本人や報じたメディアが実演することよりも、結局自己弁護が大事なんだな……という感想しか持てなかった。
結局この騒動で一番得したのは誰かって、超大量のPVを叩き出したBuzzfeedに他ならないわけじゃん。いや、ウェブメディアなんだからPV獲得はマジ大事。商売なんだから、社員食わせてコントリビューターに謝礼払わないといけないんだから、PV追求して当たり前、ちょっとタイアップっぽい記事上げるのも百歩譲ってしゃーないと思うわ。
「「はあちゅうさんの出版のタイミングと合わせたマーケティング」という批判があるが、完全な誤りだ。数ヶ月に渡る取材をし、記事をだすタイミングはこちらが選べるものではなかった。」
うん、嘘くさい。こういうことはいちいち自己弁護しないで胸の内にしまっとけばいいのに。結果として完璧にタイミング合ってるんだから、そんな言い訳通用しないよ。「マーケティングだと思われてもしゃーない」ぐらいの割り切りがあったらまだ理解できたのに、追撃記事で自己弁護だもんなぁ。
問題の構造をより深くかつ俯瞰的に分析してくれるメディアだと思ったんだけどな。結局、中川淳一郎みたいに広告業界の構造的な問題として分析する視点はBuzzfeedにはないわけ。
いや、これ前にも似たようなこと思ったんだわ。たとえばこの記事。
「カタコト感がかわいい」海老蔵さんもメロメロ 元大関琴欧洲、癒やしのブログの秘密
https://www.buzzfeed.com/jp/harunayamazaki/kotooshu-naruto
いや、記事の内容自体はいいのよ。でも、このタイミング。なんつーかさ、「日馬富士の暴力問題で相撲界が殺伐としてるけど、琴欧州でほっこり癒されよう」っていうメッセージを感じるわけ。いやまあ、それでいいんだよ。いいんだけど……結局、「PVが取れそう」な表面的なところをなぞるだけで、琴欧洲が感じた理不尽の内容とかを深く聞き取ろうという気が結局ない。暴力事件を簡単に起こしてしまう角界の構造的な問題を理解しようという姿勢がない。角界の伝統に潜む問題とかは、内館牧子の新書一冊読めばなんとなくわかるじゃん。でも結局、アスリートの深くまでに入って理解しようというより、スターの表面的な「かわいさ」にフォーカスしてるだけになっている。
もっとイチャモンつけるなら、「ひらがなだからかわいい」っていうのもオリエンタリズムの一種だよ? まあそれは元琴欧州(鳴門親方)本人も自覚的にやっているからいいんだろうけど、それは本人が、日本人からの外国人差別的な視線を甘んじて受け入れてるってことだし、メディアが乗っかるのだって慎重さが必要だと思う。Buzzfeedみたいなポリコレ気にする媒体ならなおさら。
長く書きすぎてしまった。ちょっとまとめると、はあちゅうさんの一件でよくわかったのは、テレビ局とかが萎縮しまくってる「ポリコレ」を、商売にできちゃうのがBuzzfeedという媒体の強みだってことだな。別にポリコレ自体はいいんだけど、それを過剰にバズらせて商売にしてしまう、こういうバイラルメディアの姿勢はもっとガンガン批判されるべきだと思う。
あとは、ポリコレは別に無敵の棍棒ではない。最初にリンク張った記事は「我こそは正義」っていう主張の感が強いけど、結局誰でも間違うわけでしょ。「誰でも間違うし、その間違いから学び合おう」ってことならわかるけど、「我こそは正義であるーーー!」って自己弁護を積み重ねるのは全然ポリコレじゃないと思う。
http://portal.nifty.com/kiji/160614196764_1.htm