はてなキーワード: 車輪とは
タイトルにもあるのだが満員電車にベビーカーを乗せるのは反対である、とだけ書くとなんとなくだが、とても炎上しそうである。
ここで、賛成の方々やお母さんたち(お父さんかもしれないが今まで目についた意見に女性が多かったため、お母さんとさせていただく)にお願いがある。
まず、反対というだけで目の敵にしないでほしいのだ。反対派の人間に理不尽な理由で反対する方々や実際に罵声を浴びせられればそんなことは難しいのかもしれない。
それはもう仕方がない。
他人にあたりたくなると思う。
これを読んでも納得できなければ気が済むまでどんな言葉を投げていただいても結構である。
何があってもベビーカーには絶対に配慮すべきで私には人の心が足りないというのであればきっとそうなのだろうと自戒をしようと思う。
また、これも炎上しそうなことではあるが、お母さんたちは日々の子育てや家事に加えて仕事に行かなければならない現状でいっぱいいっぱいなのだろうとは思う。
ただ、そのうえで更に、というのは酷なのだろうとは思うが自分の事情は他人には理解してもらうことは難しい、無理に理解させるのは悪手だとわかってほしい。
お母さんたちがいっぱいいっぱいであるように、子供をもっていないその他の人にもなんらかの事情があるということを分かって欲しいのである。
そのため、これも無理には読まないでほしい。これもあくまで私の考えであり、誰かに強要するものではないからである。
あと自分の考えをまとめながら書いたらめっちゃ長くなってしまった。申し訳ない。
※以下に述べるのは既婚・子なし(いずれ欲しい)・東京-埼玉間の電車ユーザーの意見である。
前提として今回の満員電車の条件は混雑率200%(体が触れ合い相当圧迫感があるが、週刊誌程度なら何とか読める)程度のものとする。
・まず反対する理由としては単純に「お互いに、危険であるから」である。
・こちらからお母さん方へは、お子様に意図せず危害が加わってしまう場合である。
ある程度身動きが取れる、全員がつり革や手すり(?)に掴まれる様な状態であればよいのだが、それ以上の混雑率になってしまった場合、急ブレーキや電車の揺れで自分の体を支えることすらままならずにベビーカーのほうへ倒れてしまう可能性がある。Togetterに、このような記事もあったので参考にしてほしい。
子連れで満員電車に乗ることはなぜ危ないかの具体例→「首都圏に詰め込みすぎ」「フレックス勤務を進めて」(https://togetter.com/li/1301648)
こちらも細心の注意を払っていても、万が一、億が一のことがある。
そのときに私も後悔したくないし、後悔をさせるようなことは嫌なのだ。
・お母さんたちからこちらにはベビーカーで轢いてしまうといった危険がある。
痛かったし、轢いた方は謝罪の言葉もなしにどこかに行ってしまわれたためあまりよくない記憶として残ってしまっている。
しかし人の密集していない場所でも人を轢いてしまうものを密集している車内へ持っていった場合、車輪で足を踏んでしまい、ケガを負わせてしまう、といったケースも想像に難くない。
その場合、子持ちの方への印象が悪くなるだけであればまだしも、気が立っている方によってお子さんやお母さんにまで危害が加わってしまうかもしれない。
朝の電車に乗っている方が全員いい人とは限らない。
むしろ気が立っている方が多いように感じる。
全員が性格に難があるのではなく、冒頭にも述べたがおそらく多くの人ががいっぱいいっぱいなのだと思う。
そのような人に不満をぶつけても良い結果は返ってこない。むしろお互いが嫌な思いをするだけなのだ。
・また、この話になると出てくる意見が「ベビーカー使用していない人間が次の電車を利用し、ベビーカーを乗せるように努力すればいいじゃない。」といったもの。
(恐らくこれは反対派の中でも「ベビーカーのせいで自分のスペースが侵されるため不愉快」といった考えの方に向けたものだと思うが、)
これも混雑具合によるが、人間が一人降りたくらいで解決するものなのだろうか?といった疑問がわく。一人降りたところで満員なのも危険なことも変わらない。
・以上のことを踏まえると、ここまでのリスクを冒してまで満員の電車に乗る理由が分からないのだ。
きっとお母さんたちと私の溝はここにあるのだと思う。
この件で炎上してしまう一部の発言の原因も(全面的に悪意が出ているものは別だが)ここなのではないかと思う。
私は理由を知りたくて調べてみた。
子供の病院、仕事へ行くために保育園に預けなければならないというのが主な理由であるように思う。
しかし、私はそれがどうしても満員電車に乗らなければいけない理由とは結び付かないのだ。
もっと言うと大切な我が子を危険にさらすことと天秤にかけてまでやらなければならないことなのかが疑問なのだ。
病院であれば通勤ラッシュの時間をさけて予約なり受診とはいかないのか。
仕事にしても在宅ワークや電車に乗らない範囲での仕事をするということはできないのか。
子供をもつ前からの仕事であっても、時間を遅らせての出勤等も難しいのか……。
私には子供がいない。
だから想像するしかないので現実そんなに甘くねーよといわれたらそれまでである。申し訳ない。
それは誰もが分かっているし、この問題に関するいろいろな記事等の結論もそのようなものだった。
しかし、それが分かったところで、明日からすぐに満員電車をなくすこともできない。
危険なことも変わらない。
だからこそ、その子供が危険な目にあってしまうことが怖いのである。
今のところまだ起ってはいないと思うが死亡事故が起こったとしてもおかしくない現状で、子供を守れるのは親だけなのだ。
この現状が、何とか変わればよいとおもう。
気づいてないかも知れないけど塩ビの床に穴あくんだよ。床の穴や凹みに患者の点滴スタンドの車輪が引っかかって転倒なんてしょっちゅうあって危ないんだよ。どうしても履きたいなら替えの靴かスリッパに履き替えてくれ。
[追記]
あのな、指先程の面積しか無いヒールの先端に体重の何割かが乗ってるんだよ。塩ビ床が耐えられるわけないだろ。あとウチみたいな総合病院で、全員入り口でスリッパに履き替えてもらうなんて無理。あと床をカチカチのコンクリートにしたら転んだときの怪我の元になるし、糞尿・嘔吐物・血・薬品がこぼれたときに掃除しにくいだろうし変なシミになったら気味悪くなるだろ。病院と一般の公共施設を一緒にするなよ。
恐らく表題だけからなにの話か分かる人は多いかと思いますが、某所で交通事故を起こした車を運転していた方が「アクセルが戻らなくなった」と説明していたそうです。
「アクセルが戻らない=車が止まらない」と思っている方が多そうなので少し車の工学的な面を解説したいと思います。
車はエンジンの動力を車輪に伝えることで進みます。これは誰でも知っていることですが、どうやって伝えているかを知っている人は少ないように思います。
最近の車はアイドリングストップ機能がついていたり「静止しているときにエンジンも停止させる」ことが増えていますが、古い車や冷暖房などを使っている場合は車が静止していてもエンジンが停止しません。たとえば車のエンジンをつけた直後は止まっているのにエンジン音はしますよね。
つまり車は止まっているけどエンジンは回っているのです。ということはエンジンが回っていても車輪が回らないための仕組みがあるのです。
このための仕組みはおおまかに二種類あって、どちらを使っているかは車がオートマ(AT)車なのかマニュアル(MT)車なのかによって異なります。
MTの場合にはエンジンの駆動力を車輪に伝えるために「クラッチ」と呼ばれる機構を使っています。
このクラッチは大雑把に言うと二枚の鉄板で、ペダルを使って離したりくっつけたりすることができます。
クラッチがくっついているときは車輪に動力が伝わり、離れているとき(クラッチを切っているとき)は伝わらないという仕組みです。
そのため、たとえアクセルペダルが戻らなくなったとしても、クラッチを切ってしまえばブレーキを使って減速することができます。
詳しくはわかりませんが、クラッチを切り忘れたとしてもクラッチは滑ることができるため、ブレーキを踏みさえすれば減速するのではないかと思います。
ATにもいろいろな種類があるのですが、一部スポーツカーなどを除いた車ではトルクコンバーター(トルコン)という仕組みを使ってエンジンと車輪をつないでいます。
トルコンは2つのお椀型のパーツでできていて、中にローターとステーターというパーツと液体が入っています。
ここで重要なのは「液体が入っている」という部分で、エンジンからの動力はこの液体を通して伝達されるということです。
つまり、クラッチと違って何もしなくても空転することができるのです。
そのため、エンジンによって発生する動力を、トルコンを介して車輪に送る力より、ブレーキによる制動力の方が勝っていれば、トルコンが空転して車両は減速するはずなのです。
これが「アクセルが戻らなくなった」ことが「事故を防げなかったことに対する言い訳にならない」と主張する理由です。
ATにしろMTにしろ、エンジンのパワーよりブレーキの方が圧倒的に強いはずです。
高速で走る車が止まれないのはブレーキの性能の限界ではなくタイヤの性能の限界であることの方がはるかに多いです。
特に高パワー車でもない今回の事故を起こした車種で、恐らくトルコンATであることを加味すると、運転者のペダルの踏み間違いだったのではないのかと疑ってしまいます。
特に高齢ドライバーで踏み間違いが発生しやすいことは明らかなので踏み間違えにくいデザインをすればいいのです。
もしくはよりよい解決策として、高齢ドライバーに積極的に運転支援機能のある車を買ってもらえるような制度を作ればいいのです。
今回のような事故は特に、被害者はもちろんですが、加害者にとっても大きなダメージとなっているはずです。わざとやっているのではないのですから。
「高齢になって運転しているのが悪い」「免許を返納させろ」という声もあるかと思いますが、やはり車というものは便利ですし私もいざ高齢になったときに免許を返納できるかと言われたらYesと答えられる自信はありません。
通勤時間に、まあマンガは読めるし、本も読める、アマプラなりでガンダムとかアニメもマスクすればいける、最悪サングラスもかける
小さいPCを持って、STEAMとかのゲームも頑張れば、朝マックでPS4相当のゲームも出来る。ハードルは高いが。
ただ、人前でエロゲをやることだけは、さすがに社会的に出来ない。家でやるしかない。PS4とかもそうだけど。
じゃあ、四月までに何をしておくべきか?エロゲでしょ!!
一応エロゲなりギャルゲでやったことのあるものは、クラナド、リトバス、FateSN、FateHA、シュタゲ、シュタゲゼロ、Ever17、くらい??
今ちょうどやってるのはクロスチャンネル、XPのPCはあるので動くぜ!!
やりたいと思ってるのはマブラブ、マブラブオルタネイティブ、沙耶の唄、車輪の国、とか。
時間が有れば、きみのぞ、パルフェ、Yu-no、ホワイトアルバム2、とか。
相談乗ってくれる内定先の人はいい人だが、俺は子どもと遊ぶ時間以外は仕事のこと考えているぜ!みたいな感じで、マジでファック!!
文字の発明は世界の数カ所でしか起きてない。南北アメリカとオーストリアでは発明できなかった。
しかし、車輪の発明は古代メソポタミアで起きたきりで、長い間ユーラシア大陸にしかなかった。
全ての車輪の源流は1つで、国家も法律も車輪の副産物といっても過言ではない。
「車輪の再発明をするな」という言葉は「君の発明は人類史上最もスゴい偉業になったかもしれないんだけどね、実はもうそれはあるんだ」
ネイティブアメリカンに文字を独力創り出した男がいる。
「よっしゃ俺も作ろう!」
と思い立ち、(白人に習うということなしに、作ってやろっかという発想が既に天才)まずはオリジナルの記号で店の帳簿をつけ始め(やはり天才)、その勢いで漢字のような表意文字を作り始めるも数千作って挫折し(それでも天才。いくつ文字があっても足りない漢字とかシステムとして欠陥だらけだろ)言葉は母音と子音の組み合わせで書けるということを発見して表音文字を発明。
使い勝手がよすぎてあっという間に部族に広まり、その部族の識字率は白人を超えた、という話。
アルファベットを発明した人の記録なんて当然残ってないが、文字の発明はこういう凄まじい天才の仕事。
そして、車輪はそれ以上。
郡山は雨だ。
文字通り真っ暗な車窓に、水滴が張り付いている。
少しでも遅れると困る。このまま大宮まで在来線を乗り継いでいかなければならない。
グーグルからの通知で、宇都宮から遅れているとの情報を受け取る。
日付が変わる頃には家に着いていたい。
土曜の7時過ぎ、平日なら都内の方面へ向かう大宮駅の在来線ホームにいるはずだが、この日は打って変わり、新幹線ホームにいた。
金曜の夜のうちに、鳴子温泉の宿を取っていた。
昨晩熟睡できたおかげか、頭はすっきりしている。
少なくとも午前中には宿に着いてしまう、余裕を持ちすぎた旅程だった。
出発の5分前に新幹線は入線した。構内のブックエクスプレスで買った本を読みながら発車を待つ。
雪が降っていた。
西口のペデストリアンデッキの隅々には黒く汚れた雪がそこかしこに避けてあった。
本来なら、鳴子温泉にまっすぐ向かうのであれば、古川行きの特急券を用意するのが一般的だが、気分の変わりやすい私は、なんとなく先のことを見越して仙台行きでやめておいた。
別に、仙台から東北本線、陸羽東線を乗り継いで行っても問題ない。
また、結果的にその通りになったのだが、仙山線に乗り迂回しながら鳴子温泉にも行ける。
コートのポケットの中には行き先指定の乗車券ではなく、乗り降り自由の周遊券が収まっている。
これでふらふらと時間の許す限りどこまででも行ける。
雪を見たら必ずどこかに行きたくなる。
仙台に降った雪にそそのかされ、仙山線で山寺を目指すことにした。
山形県境を超えると、雪が濃くなった。
車窓には白色が占める割合が高くなり、車輪が雪を踏みしめる音が聞こえる。
私は学生の身分から社会人になったが、仙山線のこの風景は何も変わってはいない。
立石寺までの道のりや、参道の茶屋の雰囲気、何もかもそのままだ。
昔のことを考えていたらなぜか気恥ずかしくなり、1時間半滞在した後、すぐに山形方面を目指した。
あの頃は、貧乏学生で新幹線なんて使えず、全て鈍行での旅程だった。
駅前では旅館のおかみさんがボートを手に掲げ、待っていてくれた。
一晩お世話になる宿は、とても素晴らしいものだった。
なによりも、お湯が最高であった。
鳴子の湯は、湧き出る箇所によってその特色が全く異なる。
今回の宿は、これでもかというほど白く濁りきり、硫黄の匂いで脱衣所どころか、宿全体が溢れていた。
2階建てですべてが和室。こたつにストーブ。更には湧き出る源泉の温度を利用したヒーターが備えてあった。
夕食後は湯に浸かり、酒を飲んで、気付くと朝を迎え、あっという間にチェックアウトをしていた。
かつての震災。実家が青森の私は、知っておくべきことではないかという観念があった。
整然としている。真っ先に思い浮かんだ感想。
列車の中で見た女川までの車窓は、やはり想像していたとおりだった。
復興の力とはすごいものだ。震災直後の町の有り様は、詳細には私にはわからないが、一つだけ言えるのは、さっきまで見ていた車窓とは全く異なっていた、ということだ。
これこそが活気だと感じた。
だか、確実にここには人が住んでいる。そういう気分にさせた。
私はその後、今日何度目かの温泉に浸かり、土産を買い、ただの観光客という身分でそこにいた。
観光客でいられるということは、よく考えてみれば、それはもう立派な町だ。
間違いなく東北は立ち直ってきている。一部分の一瞬を切り取っただけを見た私が言うのは甚だ軽薄で軽率であるが、そう思わずにはいられなかった。
一年前、仙台から鈍行で東北本線を上ったことがやけに懐かしくなり、私は300km超の道のりをゆったりと列車に揺られている。
残りの時間は少し眠ろうと思う。仙台で少し買いすぎてしまった酒がもう底を尽きた。
なんとまあ奔放で堕落した2日間だっただろう。
意識とは、感覚器官からの情報を統合するために生み出されたもの(らしい)。
統合技術の一つが論理だ。演繹、帰納、数学、他、論理の例いくつかめんどくせえから割愛。
もう一つが信仰だ。意識の方向付け、計測および測量による統合技術だ。なにも神や迷信を信じるに限らない。鉄道かっけえ、熱い友情、琴線に触れるものなら全てだ。
さて、ヒトは感知(入力)、認識(処理)、行動(出力)する装置だ。その各段階での正誤、善悪、好嫌は論理と信仰によって定義される。
論理と信仰は、車軸を共有していない。それぞれが独立しているが、意識は両輪に跨っているので影響し合う。
先日、信仰を否定される体験をした。論理的な破綻はなかったが、意識には相当なダメージがあった。鼓膜は言葉に悪魔が宿っていると警鐘を鳴らし、嗅覚は死の匂いに飛び退いた。
そこで気付いた。
論理とは価値付けるもの、信仰とは意味付けるものではないかと。
意見求む
ガレージの中は身を切る寒さで、キーを持つ手が悴んだ。毎日こうも寒いと、地球温暖化はでっち上げだなんていう冗談の一つも言いたくなる。
知人の頼みで留学生を空港まで迎えに行くとメイリンに話したところ、自分も行くというものだから、僕は直接空港に行くという当初の予定を変更し、彼女の家に向かっていた。
ここ数日は晴れていて、雪は随分捌けてはいたが、路面の凍結があるかもしれず、神経質にならざるを得ない。バスを使っても良かったが、大きな荷物を抱えてやってくる右も左もわからない留学生には、足がないのは心許ない。
2ブロックほど走行しメイリンの家に到着すると、車を道路の脇に寄せ、彼女が現れるのを待った。
Me: I’m here (着いたよ)
Meiling: k (わかった)
Meiling is typing… (メイリンが入力中……)
Meiling: I’ll be there soon (もうすぐ行く)
あと4分。そう僕は打算した。彼女が「良い」と言ってから出発しているのに、どうして到着してからさらに待つことになるのか、時々不思議に思ったりもするが、これはいつものことだ。
**
4年前、僕が初めてシアトル・タコマ国際空港に到着したとき、僕はBITの寮に向かうシャトルバスを探して、空港内を歩き回っていた。
海外に行くのはそれが初めてのことで、文字通り右も左もわからなかった。
やっと見つけたターミナルは、タクシーが行き交っていて、シャトルバスが停まるところではなかった。疲労で立ち尽くしていた僕に、タクシー運転手が声をかけた。
「タクシーを探してるのか」
「どこの大学」
彼は僕を空港内のインフォメーションセンターに連れて行った。そうして僕が探しているターミナルを案内員の女性に問い合わせてくれた。
その女性は、僕にターミナルへの経路を伝えるだけでなく、わざわざ近くまで付き添って歩いてくれた。
そうして僕は、やっとの事で正しいターミナルに辿り着いたのだった。親切に恵まれて。
ターミナルのベンチには先客がいた。きっとこれは幸運なのだと、僕はわけもなく直感した。
それは小柄なアジア人の女の子で、彼女は僕に親しげに話しかけた。
「BITに?」
「はい」
「良かった。私もです」
彼女が続けた。
「シャトルバス、もうずっと待ってるんです」
「どのくらいですか?」
「1時間くらいです。もしかして場所を間違えたんじゃないかって思ってたんです」
「やっぱりここですよね」
「もうすぐかも」
「そうだと良いんですけど」
「……」
僕は会話に言葉を継ぎ足すことができなかった。
彼女の座っているベンチはまだスペースに余裕があったけど、僕はなんとなく気が引けてそこに座ることができなかった。脚は棒のようになっていたのに。
手持ち無沙汰になって、僕はバックパックから、宮部みゆきの『火車』の文庫本を取り出した。
その時、
「来た」
彼女が叫んだ。
BITのマスコットである、ブルドッグの『ジュリアン君』のプリントが入った白いバンが、僕たちの目の前に止まった。
僕は慌てて文庫本をバックパックに戻して、車輪の滑りの悪くなったスーツケースを引きずり始めようとしていた。
「ところで、」
歩き始めた彼女が踵を返して言った。
「お名前聞いても良いですか?」
僕はサトシと答えた。彼女はメイリンと名乗り、ピカッと笑った。
**
偶然、僕は親切と幸運に恵まれたが、宮本恵梨香が同じだとは限らない。彼女が迷わないように、僕は昨晩、手荷物レーンから僕が迎えに行くターミナルまでの経路をできるだけ詳細に説明して、空港のマップとともに彼女宛にメールした。僕の車の車種とナンバーも添えて。
窓をノックする音がした。
メイリンが手を振っていた。ピカッと笑いながら。
「パスタ食べたいな」って女の子から相談されたら、「カペリーニでいい店、知ってるよ」と即座に一段上の回答が
できるようになったら東京いい店やれる店。
諸君の健闘を祈る。
大学卒業しただけレベルの素人が数たくさんいたってどうにもならんってのはIT業界でも周知でしょうが。
素人じゃない保育士でさえ自分の子供を雨の日の自転車3人乗りで車輪に傘挟む事故で殺して書類送検されたりしてる。
母親が歯医者にフッ素塗ってもらおうと子供をつれてったら弗酸つかわれて激痛で殺された事件もある。
もう今の日本で「安心して子供を任せられる」の要求レベルはバク上がりすぎてる。
教師に教育と称してアレルギー食品食わせられたくらいで死ぬ生き物はそっちが悪いだろみたいな話もたくさん見聞きする。
1型糖尿病の児童が学校に注射もちこんでも、トイレでも保健室でもうたせない(覚せい剤を連想させるから?)とか。
みんなバカなの?リスクを押し付け合うしかできないの?見たことないものは理解できないの?
本人の話を疑うところから入るのなんで?
せめて1ケタ児強姦犯罪者はICチップ埋め込もうぜ。痴漢、麻薬の累犯もな。
エピペンとかの教育もしよう。保健体育・家庭科をお題目にしないで国語とおなじくらいしっかりと男女に教えよう。
余談だが、優しさを教えるのなら、道徳(目的)より保体・家庭科(手段)が先だろが、文科省と自民党のバカめ。
国語で源氏物語(目的)をひらがな(手段)より先に憶えさせるか?
安全で男も女も爺さんも婆さんも普通に育児に手出し(補助)できる世の中はそういうとこからだ。
果実ばっかりみて根を育てることをしない教育なんか風が吹いたら倒れる木をつくるばっかじゃねえか。
てかもう運良く倒れなかった木があつまって先生ごっこしてるだけだからな。