はてなキーワード: 厄介者とは
某個人サービスを運営していて、一日の利用者もまぁ50-80人くらいいてそれなりの賑わいになってきてるんですが、運営していると覚悟はしてたんだけど変なユーザーがちょいちょい居る
今日紹介するOさんはネット空間の距離がわかっていないらしく、投稿されているメッセージがすべて自分と相手とのマンツーマンの受け答えであるかのように捉えているフシが合って、どうにもそれらのメッセージをスルーできないらしく頻繁にOさんは返信を返しています
当然他のユーザーからしたら別にOさん向けになにか投稿しているわけじゃないので、通りすがりに「は?」とか「論外です」とか、意味わからない(本人曰く特に無意味な書き込みだから気にするな)返信をやられていたら気分がいいわけもなく、当然のように嫌われてる
このOさん過去に別のアカウントを作って似たようなことをして私に叱られたこともあるってのに、また性懲りもなくやってきて、複垢作ってサービス遊んでる
まあユーザー同士の最低限のマナーとかルールを守って遊んでくれるぶんには、複垢とか(過去のアカウントも別に同時に使ってるわけじゃないし)見逃しておこう、様子見しておこう、と思ってた矢先に同じようなトラブル起こして、
しかも今度は私が注意するより先に、サービス内でプチ炎上して吊し上げ食らってるし…
アカウント変えたからやり直せるとでも思ったか?私もそうなることを期待してOさんを泳がせておいたけど、やっぱり厄介者として他のユーザーに認識されてしまった。
このままトラブルを頻繁に起こすようだと、また注意したり最悪アカウント一時凍結することになりそう
なんであんな事するんだろうな。
NGユーザー機能でも作って、厄介な人(のコメント)を見えなくしたほうが良いのかな?
短期間で大量に投稿してたり(サービス的に合法)してて、危うい感じなんだよなぁ。
狭いコミュニティだから余裕でみんなから認められて承認欲求満たせてひゃっほーいみたいななめた考えしているとしたら、救いがたい感じ
悪人とまではいえないけど、人が嫌がるような行為を天然でやっちゃう人ってどう扱うのが正解なんだろうね
だいぶ時間も経ったので書いてみる。
ある日SNSで相談したいことがあるからダイレクトメッセージを送らせて欲しいと頼んできた人がいた(この話には無関係)。
今思うとフォロー外でもリクエストメッセージを貰ってそれを許可すればDMのやり取りはできるらしいのだが、
Xもまた俺に対して何かを相談したいらしい。
Xは30歳過ぎて未経験からスクール経由でエンジニアになった人間であり、俺と同じ障害に苦しんでいる身らしい。
彼のプライバシーなので委細は語らないが、その障害があると、割と人生が詰みやすい。
一応五体満足ではあるし、盲目、聾、啞など更に不遇な境遇を差し置いて大きな声で不幸だと言うのもなんだが、
とりあえず人生難易度は最近流行りの「発達障害」の比ではない(なお俺はこれに加えてADHDも医師から認定されてる)。
彼の悩みは、未経験からプログラマーになったが、前述の障害で苦労していることだった。
とりあえず(良い意味で)適当に質問というか人生相談に答えて初回のやり取りは終わった。
最初は、苦労しているんだろうけど頑張ってほしいみたいな感想だった。
物腰も丁寧だし、彼に悪い印象は全く無かった。
豹変した態度で。
内容はもう一方的な愚痴で、もう辛いから辞めたいだの、自分はこの仕事は向いてないだの、掃除とか人と話さない仕事をするしかないんじゃないかとか、はあ~また無職か~とか。
メールボックスにはたちまち「Xさんからダイレクトメッセージが届きました。」のメールが殺到。
とりあえずダイレクトメッセージのメール通知を急いでオフにして、この困ったちゃんをどうするか考えてみた。
本音は「知らねーよ、テメーが辞めたがろうがなんだろうがどうでもいいから俺に話しかけてくるな!」なんだが、
(そのままの意味で)適当に無理強いはしないけど頑張ってみるのも手だみたいな事を答えた。
俺に一方的に愚痴を吐いて落ち着いたのか、数時間後、Xは「頑張ってみます」みたいな前向きな感じになった。
やれやれ、これで終わりかなと思ったし、
実際、これだけだったらブロックなんてしないが、あろうことかXの質問は更に続いた。
X「お会いしてみたいです」
この時点で「厄介者」から「キモい奴」に昇格した。俺はとにかく無視をすることにした。
が、翌朝になると「おはようございます」というダイレクトメッセージが送られてきた。
…もしかして今後も延々と毎日おはようの挨拶をしてくるつもりかよ。
なんというか、道端でたまたま懐かれた野良猫の頭を撫でてやったらそのまま家まで着いてかれてしまったような事故だが、
いきなり30歳の知らない男(それも気持ち悪い)のに粘着されているのが現実である。
無視していたらXからのメッセージは喜ばしいことに一旦途絶えた。
勿論、これだけだったらブロックなんてしない。
しかし数ヶ月、GWも後半戦に突入したある日、彼からまたメッセージが届いた。
「GW中に一度お会いするできませんか?」
微妙に日本語がおかしいのは原文ママなのだが、とりあえず理由を訊いてみた。
Xは研修終えて実務に入ったばかりで将来はフリーランスになってリモートで働きたいが、
まだ分からない事ばかりで辛い。
だから俺に会って話を聞きたい。
という内容だった。
言うまでなく「なんで俺が見知らぬ奴にフリーランスで働いて頂く為にわざわざ会って話さないといけないんだ、●ね!」だが、
それをそのまま答えるのも憚られたので、とりあえず質問内容的にわざわざ会って話すほどじゃないから
リモート(ダイレクトメッセージなり)でいいんじゃないのと丁寧に断った。
…というか俺達が抱える障害を考えたら、互いに「会って話す」ことは絶対に回避したいと思うのだが、まあそれは人それぞれか。
Xは納得したようだが、「あなたの言葉から救われた!」「あなたは私の目標です!」とか一方的に気持ち悪いメッセージを次々に送信してきた。
最後の親切心で俺にできる範囲で助言じみたものを送ってるのだが、Xはガン無視して、自分の胸に去来する物をひたすら目の前のキーボードに連打してくる。
なお、この肝心の「私がどうやってフリーランスになって働くのか」についてはXからその後相談はなかった。
もちろん質問されても迷惑だが、結局のところXは俺に絡みたくて衝動的に直接会って教えろと言ってきただけで
本当はフリーランスに本気になりたいと思っていたわけでもないのではないかと思われる。
唯一来たのが、ある日突然送られてきた
「フリーランスになって、会社員時代に税金払っていたことは馬鹿らしく思えましたよね?」みたいな質問だった。
何いってんだこのバカは。
フリーランスは給与所得控除等もないから会社員時代より大幅に所得税は増えるし、なんなら消費税(売上1000万越え)や事業税だって払うだろうがバカと思ったけど。
それも一応は丁寧に説明してあげる
Xは「えええ。。。。」「無理(原文ママ、彼は無知という言葉を知らない)ですいません。。。」とかまた幼稚な反応を画面いっぱいに吐き散らかしていった。
フリーランスになりたいから会って話をしろ!と要求する癖には、フリーランスの最低限の知識すら自分で調べてもないらしい。
Xの特徴として以下が挙げられる。
・30歳とは思えないほど幼稚
・日本人と思えないレベルでの誤字脱字が目立つ(「書ける」を「買える」とか)
・会話のキャッチボールができず、一方的に自分の言いたいことをギャーギャー言ってくる
・「スクラッチってなんですか?(泣)」とかググれカスレベルの事も質問してくる
・自分が困っていたら他人が助けてくれるのが当たり前だと思っている
こういう人間でも若くて女性器がついていれば男の性でチヤホヤする奴らもいるだろうし人生成り立つだろうが、
30歳のつい最近まで無職だった男性を相手してくれる奴はいないだろう。
いやだから俺なのか。
恐らく手当り次第愚痴ったり相談する人を探していて、唯一相手してくれたのが俺だったのかもしれない。
一番癪に触って仕方ないのが、彼からはフォローされてるので、アカウントを一応見に行ったのだが、平素はそれなりにまともなツイートをしていることだ。
まぁ、最後に見たときは前澤乞食含めたプレゼントのリツイートが非常に多かった、まさに「前澤をRTする人達」なのだが。
さて、話は並行して、当時、X以外にもう一人「なんだこいつ、気持ち悪いな」って奴がいた。
彼をYとしよう。
フォロー外なのだが、俺が不要になったノートパソコンを捨てようかなと呟いたところ、「捨てるなら下さい!!🙇」とリプライをしてきたのがYである。
しかし、SNSでいきなりリプライしてきただけの知らない垢の他人に貰って頂くというのは俺的にはありえない。
サイズも小さいので処分は区役所の収集ボックスに放り込むだけに比べて、譲渡は手間も掛かる。
その後もノートパソコンだけでなく、大掃除で余ったSSDやハードディスクの処分について呟いたりしたら、Yは「捨てるなら下さい!!🙇」とリプライしてきた。
いや俺はハードディスクは0消去だけでなくプラッタ物理破壊までしてから捨ててるほど情報漏えいには敏感なんだが。
前澤みたいに乞食たちの目の前で札束を見せびらかしてホーレホーレしてれば乞うのは自由だが、そこらの一般人だぞ?
当時はまだXもYもブロックするつもりはなかった。
X=Yであった。
複垢とかそういうのではなく、俺が単に別人だと勘違いしていたのである。
というのはXはアイコンは設定してないようなものだし、またメンヘラらしく名前をコロコロと変えるので、Xのことはユーザー名やアイコンで認知してなかったのである。
というわけで、X=Yをブロックした。
これはあくまで自分の勝手な推察であり、妄想である。ただし、元ネタになった書籍は存在する。
「もののけ姫」のたたら集団は鬼を表している。あそこで働いている人たちはすべて鬼なのだ。
「鬼に金棒」という諺は聞いたことがあるだろう。なぜ、鬼が金棒を持っているのだろうか。
あるいは、鬼の姿について。鬼は肌が赤く、上半身がはだけていて、しばしば隻眼の姿で描かれている。なぜか?
これは、鉄を打つ鍛冶師を表しているのだ。
製鉄の際、鍛冶師は高熱を帯びた鉄を打つため、身体が赤く灼けてしまう。
また、光る鉄を見つめるため、片目が潰れてしまうこともあるという。
両者にはそうした共通点がある。
では、なぜ鍛冶師が鬼として表されるのか?そこには技術者と権力者の関係が表現されているのだ。
時の権力者にとって、製鉄の技術は喉から手が出るほど欲しい技術だった。それゆえ、鍛冶師は必要な人材、技術者だった。
しかし、権力者が欲しいのは技術だけであって、技術者自体はむしろ厄介な存在だ。自分たちが欲しいものをもってはいるがゆえに、彼らにうかつに手を出せない。
そして、一番の権力者は誰か。「もののけ姫」では「お上」とだけ呼ばれているが、もちろん天皇のことだ。
そこで、天皇を奉る神社は鍛冶師を「人ならざる者」であるとして、鬼の伝承を広めたのだ。
上述のことを頭に入れた上で、もののけ姫を見てみよう。
言うまでもなく、たたら集団はもちろん鉄を打つ者たちの集団である。
そして、そこで働く者たちの一部に病に侵された者たち(障碍者?)がいる。あの時代、障碍者などは厄介者扱いだろう。そんな者たちの居場所は、真っ当な場所にはないはずだ。
一方、ジコ坊は度々「お上」という言葉を口にする。上述したように、これは権力者=天皇のことだ。
鬼の伝承は天皇=普通の人の一番エライ人であり、鬼=人ならざる人という対立構造となっているのだ。
もちろん、宮崎氏自身は上述のようなことは考えていないだろう。だが、鬼の伝承を頭に入れて「もののけ姫」を見ると、またちょっと違った見方もできるのだ。
どこかで鬼の話ー鬼の本をよみとく 奥田継夫
今の部署で私が一人抜けたって、多分どうにかこうにかは業務を回していけると思うんだよな。
なのになぜ私は毎日出勤しているのだろう。私である必要はない。代わりはいくらでもいる。前述のとおり補充なしでもイケるだろう。
私が十分に仕事をしないせいで周囲に迷惑をかけどおしている、ということでもある。
ならもっと自分から仕事をとりに行けよって話なんだろうけど、もう無理… 部署内での対人関係が悪化し過ぎている。
部署内で仕事の割り振り是正(本当に「是正」だったのかはさておき)しようとした先輩の動きをブロックして結局全部がおかしくなって一部の人だけが苦労している現状も、全部私のせいでそうなったことになっている。
私はもう老人である。新型コロナで死ぬかも知れないので、その前に年金を貰いたい。死ぬ前に昔の話を少ししよう。
小学校の頃、イジメられた。田舎の同じ集落(大字)に一つ年上の男の子がいて、そいつとその取り巻きに、ズボンとパンツを下げられて、チンコを見られ、立たせろと言われたが立たなかった。一緒に同じ年男の子もイジメられて、私のチンコをその男の子の尻の穴に入れろと言われた。しかし立たないので挿入は無理だった。入らないなら、ケツにチンコを当ててそのまま小便をしろと言われて小便をした。
そのイジメっ子の家はお父さんがいなくて、お母さんも何をしているのかよく分からなかった。学校などで交通事故の話をよく聞いたので、お父さんは交通事故で亡くなったのかと勝手に思っていたが、大人はその話をするとはぐらかす。お母さんは美人だった。
その集落には大きな古い屋敷があって、地方の有力者が住んでいた。なんでも江戸時代には庄屋をしていた家らしい。屋敷も江戸時代に建てられたもので、県の重要文化財化なにかそんなものに指定されているという話だった。家の主人は県庁で働いていて、課長だか部長だかなにか偉い地位にいたと後で知った。子供会なんかでは「奥様から」という名目でお菓子などが振る舞われたが、名前のないただの奥様というのが、その有力者の奥様ということらしい。
どうやらイジメっ子はその有力者の家の妾の子だったようだ。それも県庁で働いている当代の主人ではなく、その上の代のお祖父ちゃんの妾らしい。お祖父ちゃんは車の運転が出来ないので、屋敷の近くに妾を置いていたのだろう。庶民も車を持ち始めた時代だが、お祖父ちゃん世代では運転できない人も多かった。田舎の有力者の妾の子では性格も歪むというものだ。有力者のお祖父ちゃんが生きている間はそれなりの庇護もあろうが、死んだらただの厄介者になる。
不思議なことにその有力者は、県には影響力があって、農地改革とか農業用水とかで地元に便宜を図ってくれたが、町には影響力が少なかったようだ。町長や町議たちは新興勢力の建設業者で、古い庄屋の影響を受けなかった。
増田は理不尽に出会った時、どうするべきか自分できちんと決めていてすごいと感じた。頭の回転が早いのかな〜。
自分の場合、想定してないことが起きるとフリーズしちゃって後から取り返しがつかなくて後悔することが多い。
昔、スカートの中を写真で撮られたことがあって。その時は犯人の「カシャ」というスマホの撮影音で気付いて振り返ったらもう後ろ姿。自分は理解できなくて固まったまま、そのあと腰が砕けて座り込んだ。
で、それくらいしか痴漢体験はないのだけど、そもそも、痴漢される、する人がいる、自分もされるのだ、ということを想像していないお気楽な警戒心の薄い人間だったので、突然想定してない事態にもう混乱。次に怒りが湧いたけど時すでに遅し。そして、そのあとなにすべきかも分からずそのまま帰った。
それなりに覚えていて、まあまあ怖かったし、後々同じ場所には近づかない、などして警戒するようになった。
自分に想像力や当事者意識がもっとあれば、とか思うけれど、そんな警戒して息つめて生きてもいなかったので、多分当時の自分には無理だろうなあ…とも思う。
自分が怪我するかもしれない不安に打ち勝ってまで、相手に立ち向かえる勇気がない。だから取り返しがつかないしこの怒りと怖かったことをしまい込んで、傷ついているのでいいかなーと思うんだけど。
子どものことで、理不尽があったらまじ烈火の如く怒るし、子どもと一緒に傷ついて丸くなるみたいなのはやってやらないぜ、と思った。
もちろん、天災だの病気のどーしようもないやつは最終的に傷ついてーで終わるかもしれないけど、対策できるものはして、子どもが理不尽を受けたときに一緒に怒るだの守るだのしないといけないなー。
自分のことなら傷ついて〜で、まあ、いいとこもある(これは、多分増田でいうめんどくせえ、になる。自分が我慢して、悲劇ヒロインで気持ちが落ち着くなら、それも生きてくときの方法だよね。周りから見ても厄介者だろうが)
怒っとこ。怒んなきゃだめだ。でも、その怒りは理不尽にぶつけ返すんじゃなくてきちんと「倍返し」せんとだめだな。
まとまらなかったけど。
家のすぐ隣に出来たゴルフ練習場の明かりが眩しくて、眠れない夜が続いた時だ。
「死にたい」という明確な気持ちがあったと言うよりは、明日もこのまま寝不足で学校に行って、
眠くてぼんやりとしているところを先生に怒られて、というのを続けるぐらいなら、いっそこのまま消えてしまったらいいのにと願っていた。
そうやって暗いイメージが湧き出しては止めることが出来ず、幼少の自分には長すぎる苦痛な夜の時間から抜け出したくて、
ベッドに横になったままできる限り精一杯長く息を止めるのを繰り返し「うっかり窒息死してしまえたら」と子供じみた自殺未遂を試み続けていた。
次に死にたくなったのは高校2年生の時だった。
高2病とも言われるような、人生を斜に構えて無気力に過ごしては自身の無力感に苛まれていた。
次第に学校もやや不登校気味になり、気が付けば「皆が真面目に勉強している中でフラフラ遊んでいる」というレッテルを貼られ、
たまに教室に顔を出そうものならクラスメートだけでなく教員たちからも厄介者のような扱いを受けていた。
そんな時、家の薬箱から母親が昔飲んでいたらしい薬局の袋に入った睡眠導入剤を見つけた私は、
「これをたくさん飲んだら死んでしまえるかもしれない」と袋に入っていた束になったシートから錠剤を全て取り出して震える手で飲み干した。
どくんどくんといつもより大きな鼓動を打つ心臓が、自分が死ぬかもしれないという不安と緊張と少しの期待のせいなのか、
それとも単純に薬の副作用だったのかは分からないけれど、私は暴れる心臓の音が家族に聞こえないように自室の中で布団に包まっていた。
暗闇の中で止めどなくほろほろと溢れる涙を流しながら、その時を待っていた、そして私の意識は途絶えた。
翌日、私は何事も無かったかのように、いつも起きる時間よりもだいぶ早くに目が覚めた。
遺書も残さず、数少ない仲の良い友人にも何も言わずに突発的に試みた自殺未遂だったけれど、
拍子抜けすると同時に、あれこれ残したりせずにして良かったと安堵していた。
まだ誰も目覚めていないキッチンに行って水を一杯飲んで、違和感を覚えた。
確かめるように冷蔵庫に入っていたオレンジジュースを飲む、味覚が無くなっていた。
冷汗が止まらず、ただただ「どうしよう」という言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。
「自殺しようとして薬を沢山飲んだら味覚が無くなってしまった」などということを誰かに相談する訳にもいかず、
しばらくは生きた心地がしないまま、味のしない食べ物を咀嚼するのはまるで砂や泥を食べている気分で、誰にも気づかれないように胃に押し込むことにひどく苦労した。
結局、三日も経たない内に味覚は元に戻るのだけれど、この時に「次に死ぬなら確実に死ななければいけない」と心に誓ったのだった。
真面目な学生では無かったけれど、なんとなく大丈夫だろうと思っていた淡い期待はあっさりと裏切られてしまった。
一応サークルには所属していたけれど、ほとんど活動に参加していなかった私は、文字通り大学で一人ぼっちになってしまったのだ。
そんな私の唯一の心の拠り所はSNSの顔も知らない友人たち、その中でもとりわけ"メンヘラ"とカテゴライズされるような人々との交流だった。
最初は寂しさを埋めるためのアイテムだったはずが、尊大な希死念慮に苛まれて生きるダメな人たちの存在が可視化されることは私の良くない考えを加速させていった。
あの頃を思い返すと、死にたかった、というよりも、いつ死んでもよかった、というのが正しかった。
私は名前も知らないおかしな人たちと浴びるように酒を飲むことも、サイケデリックな色をした「海外製」とだけ言われた錠剤をスナック菓子のように口へ放り込むことも、
そのまま外に飛び出して狂ったように遊びまわることも、怖いと思うことは何一つなかった
素面でいたくなかった、誰かと過ごしているようで、感覚だけが宙に浮かび、幻覚の中を彷徨って倒れこみ、自分を取り囲む影と会話して過ごした。
路上はもちろん、駅の医務室や知らない人の家で目覚めることも日常茶飯事だった。
裸で目覚めて隣で眠る見知らぬ人を起こさないようにベッドを抜け出し、最低限の服と荷物だけ持って逃げ出したこともあった。
一方で大学がある日は真面目に授業を受けていた。
離脱症状でガタガタと震えながら、倒れないように机に噛り付いて授業を受ける様は正しく狂人だったと思う。
ただ「死のうと思えばいつでも死ねる」ということが確かな心の支えになって、私は人より一年だけ多く掛けて大学を卒業することができた。
真っ先に死ぬと思われていた私を残して、大学時代の悪友たちは4人が亡くなり、2人は隔離病棟に入院していると風のうわさで聞いた。
気がつけば30歳を目前としている、生きてしまった、生き延びてしまった。
私は死ねなかった、自分の長所や得意なものというのは思い浮かばないが、死ぬことは特別下手なようだった。
それどころか真っ当に就職して、結婚し、子供にも恵まれた、人は私のこと見て「幸せだね」と言うようになった。
家のすぐ隣に出来たゴルフ練習場の明かりが眩しくて、眠れない夜が続いた時だ。
「死にたい」という明確な気持ちがあったと言うよりは、明日もこのまま寝不足で学校に行って、
眠くてぼんやりとしているところを先生に怒られて、というのを続けるぐらいなら、いっそこのまま消えてしまったらいいのにと願っていた。
そうやって暗いイメージが湧き出しては止めることが出来ず、幼少の自分には長すぎる苦痛な夜の時間から抜け出したくて、
ベッドに横になったままできる限り精一杯長く息を止めるのを繰り返し「うっかり窒息死してしまえたら」と子供じみた自殺未遂を試み続けていた。
次に死にたくなったのは高校2年生の時だった。
高2病とも言われるような、人生を斜に構えて無気力に過ごしては自身の無力感に苛まれていた。
次第に学校もやや不登校気味になり、気が付けば「皆が真面目に勉強している中でフラフラ遊んでいる」というレッテルを貼られ、
たまに教室に顔を出そうものならクラスメートだけでなく教員たちからも厄介者のような扱いを受けていた。
そんな時、家の薬箱から母親が昔飲んでいたらしい薬局の袋に入った睡眠導入剤を見つけた私は、
「これをたくさん飲んだら死んでしまえるかもしれない」と袋に入っていた束になったシートから錠剤を全て取り出して震える手で飲み干した。
どくんどくんといつもより大きな鼓動を打つ心臓が、自分が死ぬかもしれないという不安と緊張と少しの期待のせいなのか、
それとも単純に薬の副作用だったのかは分からないけれど、私は暴れる心臓の音が家族に聞こえないように自室の中で布団に包まっていた。
暗闇の中で止めどなくほろほろと溢れる涙を流しながら、その時を待っていた、そして私の意識は途絶えた。
翌日、私は何事も無かったかのように、いつも起きる時間よりもだいぶ早くに目が覚めた。
遺書も残さず、数少ない仲の良い友人にも何も言わずに突発的に試みた自殺未遂だったけれど、
拍子抜けすると同時に、あれこれ残したりせずにして良かったと安堵していた。
まだ誰も目覚めていないキッチンに行って水を一杯飲んで、違和感を覚えた。
確かめるように冷蔵庫に入っていたオレンジジュースを飲む、味覚が無くなっていた。
冷汗が止まらず、ただただ「どうしよう」という言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。
「自殺しようとして薬を沢山飲んだら味覚が無くなってしまった」などということを誰かに相談する訳にもいかず、
しばらくは生きた心地がしないまま、味のしない食べ物を咀嚼するのはまるで砂や泥を食べている気分で、誰にも気づかれないように胃に押し込むことにひどく苦労した。
結局、三日も経たない内に味覚は元に戻るのだけれど、この時に「次に死ぬなら確実に死ななければいけない」と心に誓ったのだった。
真面目な学生では無かったけれど、なんとなく大丈夫だろうと思っていた淡い期待はあっさりと裏切られてしまった。
一応サークルには所属していたけれど、ほとんど活動に参加していなかった私は、文字通り大学で一人ぼっちになってしまったのだ。
そんな私の唯一の心の拠り所はSNSの顔も知らない友人たち、その中でもとりわけ"メンヘラ"とカテゴライズされるような人々との交流だった。
最初は寂しさを埋めるためのアイテムだったはずが、尊大な希死念慮に苛まれて生きるダメな人たちの存在が可視化されることは私の良くない考えを加速させていった。
あの頃を思い返すと、死にたかった、というよりも、いつ死んでもよかった、というのが正しかった。
私は名前も知らないおかしな人たちと浴びるように酒を飲むことも、サイケデリックな色をした「海外製」とだけ言われた錠剤をスナック菓子のように口へ放り込むことも、
そのまま外に飛び出して狂ったように遊びまわることも、怖いと思うことは何一つなかった
素面でいたくなかった、誰かと過ごしているようで、感覚だけが宙に浮かび、幻覚の中を彷徨って倒れこみ、自分を取り囲む影と会話して過ごした。
路上はもちろん、駅の医務室や知らない人の家で目覚めることも日常茶飯事だった。
裸で目覚めて隣で眠る見知らぬ人を起こさないようにベッドを抜け出し、最低限の服と荷物だけ持って逃げ出したこともあった。
一方で大学がある日は真面目に授業を受けていた。
離脱症状でガタガタと震えながら、倒れないように机に噛り付いて授業を受ける様は正しく狂人だったと思う。
ただ「死のうと思えばいつでも死ねる」ということが確かな心の支えになって、私は人より一年だけ多く掛けて大学を卒業することができた。
真っ先に死ぬと思われていた私を残して、大学時代の悪友たちは4人が亡くなり、2人は隔離病棟に入院していると風のうわさで聞いた。
気がつけば30歳を目前としている、生きてしまった、生き延びてしまった。
私は死ねなかった、自分の長所や得意なものというのは思い浮かばないが、死ぬことは特別下手なようだった。
それどころか真っ当に就職して、結婚し、子供にも恵まれた、人は私のこと見て「幸せだね」と言うようになった。
自分が会社を辞めたのはこれが一番大きかったのかもしれないな。
何処へ行っても厄介者みたいに扱われ、転職してもうつ病になり。
耐えても耐えても顔に出やすかった。
はけ口が無くて心をすり減らし、顔から覇気がなくなっていた時期もある。
別業種の同僚は頼りにしてくれたし優しかった、その会社から委託された仕事をこなした時も頑張りは見てたと言ってくれた。
会社から表彰してくれた事もあるし、社長が声をかけてくれた事もある。
でも、それだけなんだ…。
階級が平社員より上の光景が望めないから、ふと気持ちが切れてフリーランスになった。
部下やサポートに立ち回るのはうまくなった経験がフリーで生きている気はするが、世間的にメインは張れないという壁。
人として歳を重ねて辛くなるばかり。
今でも、悔しいしそれが棘になって食い込んだまま取れないでいる。
育てる部下がいるとはどんな気持ちなんだろうとか…
慕われるというのはどんな気持ちだろうとか…
そういえば人に教えるときに事前に何度も頭でシミュレーションしてる時がたまらなくワクワクしてるなとか…
他人の日記やまとめサイト出て来る部下と上司の群像劇が、自分にはおとぎ話のように見える。
当たり前の事が、劣ってる自分にはとても羨ましいんだ…。