はてなキーワード: 冷戦とは
治安維持法だのニーメラーだのを今の時代に持ち出す意味って詭弁程度の説得力しか持たないだろうと俺は思ってるんだよね。
抽象的だが、それは冷戦が終わった今の時代に総力戦を想定するような危機感に近いように思う。
ポリコレが進めば何も言えなくなってしまうッ!式な批判じゃなくて、もう少しプラグマティックな批判の仕方があるんじゃないかと最近考えてるんだよね。
とある日の夜、嫁とアレルギーについての特集番組を見ていたときのこと。
嫁「キウイフルーツにアレルギーあると、天然ゴムもダメな場合あるんだよね」
嫁「あとは増田のお義母さんには悪いけど、増田の実家も埃っぽくてダメなんだよね」
※増田の実家、お世辞にも綺麗とは言えず、ご指摘の通り埃っぽい
嫁「わかった!じゃあ、いかない!」
と、まあこんな感じで、それが原因で未だに冷戦というか無視されてるわけで。
以前から似たようなこと(話の流れとして冗談ぽく)言われていて、その時は「ごめんね」と返していて、今回も同じようなやり取りを期待していた模様。
でも、こっちだって人間なんだから、虫の居所が悪く、同じようなやり取りできなきときもあるし、そもそも俺が嫁の実家に対して同じようなこと言ったらブチ切れるくせに…
嫁には嫁で普段の俺の言動とかに対してたくさん言い分あるだろうけど、(俺からしたら)そんな些細なことでシカトされたら精神もちませんわ…
感想とか聞けたら嬉しいです
そんな物ない。あえて言うなら「この名前が有利だという旗頭」に過ぎん。
保守VS革新ってのは、ケインズ政策(保守)とマルクス政策(革新)が競っていた時代の考え。
だが、冷戦終結でマルクスが消え去ったのだが、とにかく金持ちウハウハ、金回りガン無視、小さな政府=緊縮政策の新自由主義が勃興して、それも保守ということになってる。
ケインズと新自由主義は相反する思想。なのに、同じ保守という名で語られてる。よって、用語の定義としては意味があるものではない。
だけど、この旗頭を名乗れば一旦は革新(マルクス)に勝ったのだからいい思想だということで、
なんとかこの旗頭を名乗ろうと奪い合って、なにか失態があれば「あれは保守ではない、われこそが真の保守!」と名乗るためのもの。
医療サービスが買えないということはすなわち「何も悪くないのに苦しんで死ぬ」ことである。また、大昔は宗教がそうであったのかもしれないが、代替サービスも少ない。よってある程度価格が高くても買われるサービスである。一方、人間年をとるとあちこち悪くなるので、価格が一定程度安いと需要が爆発的に増えるサービスでもある。
要は、価格がニーズや需要を反映せず、言い換えれば価格感応度が低く非常にいびつな需要曲線を形成するサービスである。
(更には、供給が滞ると社会不安を招くので採算度外視で供給されがちであるとか、需要者たる患者と供給者たる医師とのサービスに関する情報格差が激しい、等の特徴もある。)
以上から、医療サービスは自由に市場で売り買いするのが難しいサービスである。米国を除く多くの国では、医療サービスは規制され市場の仕組みに寄らない形で供給されている。
人間年をとるとあちこち悪くなるとはいうものの、壮年までは健康な人の方が圧倒的に多い。一方、医療サービスは決して安いサービスではない。よって、「多くの人から少しづつお金を集め不幸にも病気になった人に支払う」という保険の原理に良く馴染む。
医療サービスは市場の仕組みに寄らない形で供給されており、その供給量は保険金の総額で決まる。保険料が十分安ければ上述どおり需要は増えるので、保険金の総額=供給量=需要量となる。
医療サービスは一般的に決して安いサービスではない。供給側も多くの資源を投入する必要がある。専門性が高く、収入が少なくなったからといって別業種に転換するのは難しい。一方で、ニーズの総体ではなく保険金の総額という制約のもと供給が決まるので、国が医療保険を運営している場合、どうしてもサービス価格に下押しの圧力が掛かる。価格がニーズや需要を反映しないことは供給側資源価格でも同じなので、すなわち、何もしなければ「医師が離散しない程度」までサービス価格は下がることになる。実際、冷戦期の東欧諸国では上記の事態に陥った国もある。
医師会が強力な政治力のもと、(医師の品質管理的な意味合いもあって)医師数を抑制気味に保ち、よって個々の医師の収入を高止まりさせることに成功した。
一方で、価格がニーズや需要を反映しないので、供給者サイドでの人や資源の配分に価格情報(≒優秀な人は高い収入の場所へ、そうでない人はそれなりに)は使えない。よって、基本的には厳しい上下関係の下、医局が各所のバランスを取って独善的に決めていた。個々の医師に自由は少ないが、「若い時には医局に居て激務に耐え年を取ったら開業医になって高収入と余裕を得る」というキャリアパスで報いていた面がある。但し、このキャリアパスの仕組みは本質的にヤクザの鉄砲玉と同じである。
また、このキャリアパスでは常に開業医が大学病院勤務医の先輩になるので、医師会は開業医の発言力が圧倒的に高い組織であった。
医師に自由がなく医局が独善的に全て決めるということはさすがに前近代的だということで、この仕組みは弱まった。
そうなると、医療サービスの特殊な需給構造の中で、個々の医師が自らの経済合理性・医師としての信念でものごとを決めていくことになる。価格がニーズや需要を反映しないこととは、供給者サイドでいえば優秀な医師もそうでない医師も一件は一件で受け取りは同じ、ということである。
ここで生じたことは「中庸への集中」であった。保険金総額の制約があり、品質を過度に磨いても固定価格であることから、リスクを抑えながらその中で品質を保ち十分な件数をこなすことが多くの医師の最適行動になる。
最新情報に数年遅れをとる若いうちの僻地勤務はダメ、高収入でも業務はきつく医療訴訟のターゲットにされやすい外科はダメ、必要性は高くても医療訴訟のターゲットにされやすい産婦人科はダメ、等。これらは社会的意義もニーズも大きいが、そもそも自由に市場で売り買いできない医療サービスでは、「リスクに見合う価格」はもとからない。個々の医師がこれらを行う合理性は全くない。
結果として、個々の信念に頼るか、負担は大きくなっても別枠で予算を確保して充てることになる。
女子が外科等を選ばないということは、女子の方がより合理的な選択をしているということである。もしくはリスク許容量が少ない状況であるということである。
連合赤軍:
当時(冷戦時)のソ連や中国共産党の共産主義思想に共鳴した運動家の中の過激派やはねっ返りが、日本で共産主義革命を起こそうとして、色々なテロを起こして最終的にはあさま山荘事件を起こした。
当時の日本はまだ社会全体が貧しかったので、ソ連の共産主義のやり方で豊かな社会を目指そうとした。
1970~80年代のオカルトブームに乗って、テレビや雑誌メディア経由で時代の寵児のような存在となった麻原彰晃を中心とした教団の暴走。1999年7月のノストラダムスの大予言に基づいて、東京でアルマゲドン(最終戦争)を起こすという思想の下にサリン事件を起こした。
オウム真理教の思想やオカルトブームに共感を持っていたのは氷河期世代。
豊かな日本に育った氷河期世代の若者たちが、物質的な豊かさよりも精神的な豊かさとは何かの答えを提示していたオウムに共感していた。
連合赤軍にしてもオウム真理教にしても、共産主義思想や終末思想が先鋭化すると、組織の内外に対して攻撃的になる性質を持っているのではないか。
靖國神社は明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた招魂社が始まりで、明治12年(1879)に「靖國神社」と改称されて今日に至っています。
信教の自由の観点から、慎重に時間をかけて調査している間に、国際情勢が変化し、アメリカは、ソ連を中心とした共産主義国家に対抗することに外交政策の軸足を移した。
靖国神社の存続容認に、いわゆる逆コース、もしくは、「日本の非軍事化・民主化の促進に重点を置いた政策」から「日本を共産主義国家に対抗するアメリカの同盟国に変える政策」という政策変更が、作用したと見られている。
GHQによって、日本を戦争に駆り立てた宗教(神道)は禁止されたけど、アメリカとソ連の冷戦で、見直しになった。
外国から見ればA級戦犯でも、日本人にとっては同胞なので、日本人も靖国神社を容認/参拝している。
オウム真理教も事件を起こしたが、信者たちはいまだに教祖を尊敬している。
同じことは100年前にも言われました。
いわく、資本家が生産手段を独占するから労働者は搾取されると。更に、恐慌なんてものが起きるのだと。
そこで、ケインズと、マルクスがこういう解決案があると言いまして、世界中の国はその2つの提言のどちらかの側にうつりました。
ケインズは、国が需要対策をきちんとしろと。なので、国による借金や、累進課税で過剰貯蓄を抑え、需給対策をした。
マルクスは、国が生産手段を持ち、そのもと適正な生産をしろと、生産手段をすべて国営化した。
で、結果的に見れば冷戦終結(1980年台)で勝ったのはケインズなんだけども、勝つ直前にオイルショック(1970年台)があった。
オイルショックに対してケインズは対応できないと自由放任資本主義が、新自由主義の名前を借りて復活。
ただし、その後日本は失われた30年に突入。オイルショックの不況なんか目でもない長期不況という流れです。
単にケインズ主義に戻したらいい。もっとも、単純な累進課税や高い法人税だと生産意欲を落とすという側面があし、その批判はある程度真理だろう。
だから、溜め込んだら増税、使ったら減税の方向で、使ったら減税の余地を広く持たせてな。
累進課税にすると金持ちいじめだといい、各種節税オプションつけると金持ち優遇だといい、なかなかこの立場をやるには難しいところがあるけどね。
北朝鮮への非核化寄付金だけど、韓国は払わないんじゃないか?まず同じ民族にミサイル打ってくるはずがないと思っているし、統一したら核ミサイルは自分たちのものだぞ。払うふりはしても、朝韓団結して蛮行だの慰安婦だの持ち出してのらりくらりして払わないだろう。もっとも、韓国人は今まで充分日本人の盾になってきたのだから(冷戦構造は、戦争のウマミとアジア人分断目的で、白人戦争屋の勝手で作られたものであり日本人は悪くないのだが)
日本は、核ミサイルを自前で持って軍事的に自立する道も絶たれた。北に核ミサイル放棄を迫って、自分たちは持つ、なんて出来ないもの。
アメリカも、対日貿易赤字なのだし(経団連と外国人株主経由でアメリカに還流されているかもだけど)日本に払わせて当たり前だと思って不思議はないね。実際、アメリカ国家・社会も戦争屋やソロスみたいな悪魔に財源吸い取られてしまったから大変でしょう?
日本人を人間と思っていないキッシンジャーあたりが計画した筋書きかな。要は米中朝韓みなで日本からいろいろ吸いつくすつもりだ。日本人としては、諸事情承知で、来月にでも北朝鮮に安倍さんと横田さんと曽我さんと一緒に乗り込むくらいの勢い、駆け引きに持ち込ませないでさっさと拉致問題を終わらせる行動をしたいところ。
北朝鮮への非核化寄付金だけど、韓国は払わないんじゃないか?まず同じ民族にミサイル打ってくるはずがないと思っているし、統一したら核ミサイルは自分たちのものだぞ。払うふりはしても、朝韓団結して蛮行だの慰安婦だの持ち出してのらりくらりして払わないだろう。もっとも、韓国人は今まで充分日本人の盾になってきたのだから(冷戦構造は、戦争のウマミとアジア人分断目的で、白人戦争屋の勝手で作られたものであり日本人は悪くないのだが)
日本は、核ミサイルを自前で持って軍事的に自立する道も絶たれた。北に核ミサイル放棄を迫って、自分たちは持つ、なんて出来ないもの。
アメリカも、対日貿易赤字なのだし(経団連と外国人株主経由でアメリカに還流されているかもだけど)日本に払わせて当たり前だと思って不思議はないね。実際、アメリカ国家・社会も戦争屋やソロスみたいな悪魔に財源吸い取られてしまったから大変でしょう?
日本人を人間と思っていないキッシンジャーあたりが計画した筋書きかな。要は米中朝韓みなで日本からいろいろ吸いつくすつもりだ。日本人としては、諸事情承知で、来月にでも北朝鮮に安倍さんと横田さんと曽我さんと一緒に乗り込むくらいの勢い、駆け引きに持ち込ませないでさっさと拉致問題を終わらせる行動をしたいところ。
いわゆるモダンアートと呼ばれる作品と、古典的な美術作品とはまるで別物である。同列に置いて論じてはならない。
一方は落書きであり、もう一方は人の精神の深いところへ訴えかけてくる魅力と刺激を伴う神妙なものであり、これらを同じアートという言葉でくくるのは伝統的芸術作品、本来の芸術家精神に対する冒涜である。
もちろん深く精神に訴えかけてくるのは古典的美術品の方である。モダンアートは伝統的な芸術作品とは天と地ほどの差がある。もちろん天が伝統的な芸術作品である。勝負にならない。
モダンアートとはただの落書きである。これは教養なく金を手にした連中が感性高い風を気取ってただの落書きに高値を付けたことによる。戦後のアメリカ人が悪い。戦争による感性の破壊と言う線も考えられるが、大戦、冷戦を経て世界唯一の超大国となったアメリカ、火事場泥棒的な富の蓄積によるアート市場への歴史なき国民の劣等感とともに参入した成金のアメリカ人たちによる影響が大きい。彼らの悪乗りにモダンアート作品なるものの高値づかみは従来の伝統的、写実的、正統派の芸術家を隅へ追いやり、落書き小僧に過ぎない軽薄な自称芸術家たちを優遇し調子づかせ、現代の芸術的感性の退化を招いた。
集団催眠的効果を疑っても良い。集団に対しての洗脳である。落書きを価値ある芸術作品とみなす集団催眠。仮に意図的にそのような舞台を形成したと言うのなら、それこそ芸術と言っていい。人間心理操作しかも集団に対する芸術的操作である。価値なんてない落書きに巨額のマネーを引き寄せる。落書きを市場に供給することによって巨額のマネーを引き寄せる仕組みである可能性もある。
というようなことをニューヨークのMOMA、その他諸々のモダンアート現代美術作品を展示するあちらこちらの美術館をめぐって結論を得た。日本の地方の市立美術館とかがモダンアートによる浸食被害が大きい。ただの落書きに過ぎない作品を高値で購入している。見れば見るほど軽薄で、全く役に立たない落書きが価値ある作品として掲げ続けられていることに怒りすら覚えたのでこんなことを書いた。
通常兵器と核兵器の違いはその威力や放射能汚染によるものであり、広島と長崎、更には相次ぐ核実験でその威力を思い知った大国は冷戦から現代に至るまで「核兵器を使ったら最後、報復の連鎖で世界が終わる」という価値観を布教している。
にも関わらず、WW2で日本に核を落としたことについては「戦争を早く終わらせるため」や「米兵の命を守るため」などという正義のもとに正当化されている。
ゲームや映画の世界では往々にして「核兵器の発射を阻止せよ」というシチュエーションが出現するが、その場合、核を使おうとしている勢力は構造上悪役になるわけだ。しかし、前述した通り、どういう訳か現実のWW2で核を使った国、アメリカはなんら断罪されていない。
アメリカの正義のために使われた核が正しい核なら、テロリストや独裁国家の正義によって使われる核も正しい核ということにはならないだろうか。しかし、これはどうもそうはならないらしい。
さて、この違いはどこから産まれるのであろうか。一番重要な点として、WW2の時点で核を使えたのがアメリカだけだったことが挙げられる。つまり、一方的に核兵器を投下することができるから、実際に投下したという訳だ。
それが、ソ連などの新たな敵対国も核武装を始めたから、核の恐怖を宣伝し、どこの国も核を使えないようにして、核兵器=悪という価値観を植え付けたというのが実際のところであろう。
次に、通常兵器と核兵器の違いを認識しているかどうかという違いも挙げられる。広島と長崎以前では、核兵器は単なる「とっても強い新型爆弾」としか認識されていなかったのではないか。それが、実際に投下してみると非人道的な兵器だということが世界に知れ渡ったのである。だから、アメリカやその他の国も以降では核兵器を使えなくなった。
結局、アメリカは一方的に使えた新型爆弾を投下してみただけに過ぎず、大義名分も後付のものに過ぎず、かといって過去の投下を間違いだと認めるわけにもいかず、現在に至るのである。
アメリカは「世界の警察官」を名乗って新たに核武装しようとする国を断罪しようとするならば、まず自分たちの過去の原爆投下を過ちだと認めて、自分たちの国から率先して核の削減に乗り出さなければ、全く正当性を成しえないと、私はここに断言する。