はてなキーワード: 標語とは
共産党を擁護する義理はないのだが、共産党が「多様性の統一」の標語を掲げた事にあたって、独裁だと揶揄するブコメが目立つんだがこれらの人達どうも意味判ってなくない?
これって頻出スローガンだよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/jcp_cc/status/1452192530871697413
最近だと多文化主義(multiculturalism)と文化多元主義(Cultural pluralism)の橋渡しというか良いトコ取りの標語として使われる事がある。
多文化主義っていうのは人々の属する文化が並置されて存在している状態。〇〇人っていう属性、特色を捨てる必要ないよって考え方。でもこれだと国家内がモザイク状になって対立が発生したり、特定宗教の原理主義とかはどうする?「自由の敵」に自由を与えて多文化主義の基盤を破壊するのはどうする?って問題が発生する。
文化多元主義は色んなオリジンを持つ人々が集まるが、個々人は一つの公共的モデルに集約され、主体の改変を求められるって考えだ。
人種のるつぼって色んな人種が居る事を指していると思ってる人が多いが「るつぼ」は坩堝と書いて金属を溶かす溶鉱炉の容れ物だ。だから「人種」は溶けて元の色や性質を失っている。
そして坩堝の湯(溶解金属)は型に入れられる。冷えて出来上がるのが「アメリカ人」という合金のインゴットだ、という考えに立脚している。かなりイデオロギッシュな言葉なのな、実は。
ハワイ空港の名前にもなっているダニエル・イノウエはその尤もなモデルケースだろう。
日本軍が真珠湾で奇襲攻撃を掛けてアメリカを戦争に巻き込んだので、ハワイの日系人は立つ瀬がない。そこでイノウエは自分がアメリカ人である事の証に陸軍に志願してかの有名な442連隊に配属された。死傷率300%以上という有名な部隊だ。海兵隊では新兵訓練の際に442連隊の事は必ず触れると聞く。「アメリカとは何か」を象徴するからだ。
イノウエはそこで日系人じゃなくてアメリカ人のインゴットになった訳だ。戦後は政治家となって上院仮議長まで登りつめた。
だからこれ書いてる増田はイノウエに日系人としての親近感なんて抱かない。彼は立派なアメリカ人だった。
この生き方を強いたのが文化多元主義であり人種のるつぼ論なのだ。
イノウエの例は戦争という情況が強いた極端だが、この抑圧的な文化多元主義と、バラバラで政治主体としても弱くて実効性にも疑問符が付く多文化主義の良いトコ取りしようぜって言い方で使われることがある。
あと有名なのがインドネシアの国是、「パンチャシラ」。意味は「多様性の中の統一」。
インドネシアっていうのはこれはもう完全に人口国家であって「インドネシア人」なんて人種も民族も無かった。言語も違う。旧ユーゴと似ている。
そこにまだ統一国家も無いのに「インドネシア人」という国民意識が立ち上がっていった。「国民」はトップダウンだけで出来たのでは無い。
この意識の成立の鍵になったのが植民地下での出版業で、同一言語での大量出版がやがてその頒布される広範囲で公共心や共同性を立ち上げる事になった。
これを観察して書かれたのがかの有名なベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』なのな。アンダーソンはインドネシア歴史を研究していて、そこから国民国家の成立を発見したのだな。
パンチャシラを提唱したのは国父であるスカルノで、重要な理念として憲法前文に入れられた。
共産党を叩いている人の中には旧日本軍人がインドネシア独立に協力した事を重視する人が多いはずだが、インドネシアの有名な国是を思い出さないとはどういう事だろうか?
この流れはTTP参加決定時に似ている。
民主政権がTTP参加を決定した折、ネットは大炎上した。すると炎上の仕方が厨房っぽいので一歩ずらして「そもそも米国の利権に”環太平洋”と名付けるのがおかしい」とかかしこぶる人が出てくる。
ところが「環太平洋」という概念はソ連との冷戦が終結した90年前後からある。そして実際日本の周囲では環太平洋での経済的結びつきが強化されてきた。製鉄大国で「鉄のハブ」になっている日本の最大原料輸入国(鉄鉱石と石炭)は豪州になった。
そういうの知らんのな。知らんというか20年以上知らないを継続してきたって事だ。
因みに環太平洋の当初のアニキ役は米国と日本が想定されていたが、日本に代わって中国がアニキ役になりそうな塩梅になってる。これはGDPの伸びだけじゃなくて、日本は震災で港湾が壊滅したり鉄道民営化の上に貨物分社化して海コン扱いが出来ないなんてクソ失政を重ねたせいで物流(コンテナ、航空)の拠点が中国になっちゃったせいだ。
「多様性の統一」に噛みついた人らは、物流的に日本が中国から出てるローカル盲腸線の扱いになってるのとか知ってる?
共産党を揶揄したいって気持ちは判るよ。なんせ彼らは「民主集中制」について破棄したのかちゃんと説明も総括もしていない。
プロレタリアート独裁だってソ連や韓国、東南アジアの開発独裁の評判が悪くなってから言わなくなっただけであれってどうなの?ちゃんと破棄したのって事は有耶無耶になっている。
欧州なんかは左翼ポピュリズムが押してきているが、そういう訳なのでその流れに乗るの?って事もよー判らん状態。
だから「多様性の統一って字面が民主集中制そっくりでんなぁ」とかイヤミいうのは判るが、わざわざこんな有名な語彙を出しているのに悪意の解釈しているっていうのは、単に「国民国家の成立とか、多文化主義が起こす軋轢とか、人種のるつぼの本来の意味とか、ハワイの空港が何で日系人のイノウエの名前付けてるのかとか、インドネシアの建国理念とか知らねぇし、興味も無い生活送ってるんだろうなぁ」という情報しか外部に与えんよ。
飲酒運転に関する「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」という有名な標語。
一見正しいように見えるのですが、ひょっとしたらあまり良くない標語なのかもしれません。
具体的には「乗るなら飲むな」のみにした方が良いのかもしれません。
何故なら「運転する予定があるから飲まない」は「素面の自分」がする判断ですが、「飲んじゃったから乗らないでおこう(代行で帰ろう/休んで酔いが醒めてから帰ろう)」は「飲んだ自分」がする判断だからです。
素面で正しい判断ができても飲んで酔った状態で正しい判断が出来る保証はありません。
「そのぐらい判断付くわ!」と思うかもしれませんが、では一度でも「飲みすぎて具合悪くなった経験」があるか思い出してみて下さい。
飲む前から「よーし、具合悪くなるまで飲むぞー!」と思って飲む人は少ないわけで、では何故具合が悪くなるまで飲んでしまったのかと言うと、「これ以上飲むと具合が悪くなる」という状況で「それでも飲む」という判断をしたのは「だいぶ酔っている自分」だからです。
ちなみに「これ以上飲むとだいぶ酔った状態になる」という状況で「それでも飲む」という判断したのは「ちょっと酔っている自分」です。
つまり飲んだ状態での判断なんて適切にできない可能性が高いわけで、「飲んだら乗るな」は人によってではなく機械的な判断で担保するしかないんだろうな、と。
tasknow アスリートである事は自身の主体的選択だし、平社員とはかけ離れた影響力と他者のリソースの上に成立してる事実を、この状況下でどう考えるのか問われてるんよ。混乱と不平等についてアスリートだから無視できるの?
bodibod なんでアスリートが五輪"開催"の当事者扱いになってるんだよアホか。中高の体育祭じゃねえんだぞ。ほんと頭悪いな
Nishijima 五輪批判者に理解を示しつつ、開催そのものに疑問を呈さない。何も変えることができないと言い辞退の圧力を躱し、最後にそれを全選手に適用する。勇気と希望を届けたいというクソ標語を使わない。巧妙な文章だね。
junk6 人の命を軽く見過ぎでは?
lli 一連のツイートが終わる前にメディアに記事が出てるのはなんで?デイリースポーツなど早いところは9時10分にアップされてるよ。誰の仕込みかな?
昔……おそらく2006年くらいの自分は、家庭を持つ事に憧れていたし母親になりたいと思っていたと思うんだけど。
いつの頃からか、小さい子供を持つ「母親」というものは世間で無条件に持て囃され、何ら責任を負わずに済むようという風潮になってしまった。こんな世の中では世の「母親」というものに対して反発と敵対心しか持てず。母親は子供を虐待死させようが無条件で庇われ、肯定されるという世の中。とにかくそれが嫌で嫌でしょうがない。
ネット言論はどこを見ても、母親に多くを求めるな、三歳児「神話」なんてない、子育ては保育園に丸投げしていい、母性信仰の押し付けやめろ、といったものばかり。育休や子供の急な発熱による遅刻早退欠勤仕事で独身の同僚に皺寄せがいっている事を愚痴られても会社や経営者が悪いで済ませ、彼女達自身が会社を改善するために自発的に動く事などはない。独身者女性の声と違って聞き入れてもらいやすいにも関わらず。あなたたちの娘だって将来独身の成人女性になる可能性はあるのに。それに比べると父親に関しては虐待や育児放棄は叩かれ、多少はまともに親の責任を果たす事が求められている。とにかく小さい子供を持つ「母親」は全面的に肯定され、何ら責任を果たさずに済むようになっているもよう。
子育てに対する金銭的・精神的な支援も昔に比べれば格段に増えたのに、もっともっとと際限なく求める。日本の経済状況が悪化する中で、こと子育てに関してはじゃぶじゃぶお金を使えるんだから、その税負担が独身や子無しにいっている事はちょっと考えれば分かる筈なのに、感謝するどころか日本は子持ちに優しくない!と被害者面するばかり。
映画の『トゥモロー・ワールド』が2006年か。あの映画は好きだったけど、繁殖力が衰えて少子化が進んだ未来社会で妊婦と赤ん坊に希望を見出すというテーマ、正直今だと全く受け付けないような気がする。あの頃も「少子化」が叫ばれてはいたんだろうけれど、少なくとも今よりはまだ気にならなかった記憶なんだよな…。
東日本大震災での原発事故後の「子供を守れ」の大合唱や、その後の「保育園落ちたぞ日本死ね」辺りが契機だったように記憶している。
ただ2011年3月の時点では既に少子化悪玉論にうんざりしていたような記憶はあるな…その辺どうも曖昧。
自分の記憶だと2006年頃は、「貧困」「格差社会」「プレカリアート」が標語とされ、年齢を問わずに非正規労働や貧困の問題が語られていたような記憶。少子化は話題にされてはいても、その原因として貧困故に結婚できない若者の存在はちゃんと話題にされていたし、少子化対策として今のように「子育て支援」一辺倒ではなかったような記憶だ。それが今では「貧困」は「子供の貧困」になり、子供のいない成人の貧困は置き去りにされるようになってしまった。給与についても「若者の給料は低い」とのみ語られ、現在の中高年(かつての若者)だって給料は低いし上がる見込みもない事は無視される。
2000年代後半から震災前後にかけて、だんだんと年齢や子供の有無による選別が進み、生産性のない人間を露骨に虐げてよいという風潮になったのか…?と思っているけれど、どうだろう。
フィクションだと『TIGER&BUNNY』の主人公が、娘を郷里の母に預けていた事で育児放棄と叩かれていたのが印象的だった。これ、もし主人公が父親じゃなくて母親だったならこんなふうに叩かれたんだろうか?って思った。いやそもそも女性だったら主人公にならなかったのかもしれないが。
現実と同様にフィクション作品においても父親は叩かれるが母親は全面的に擁護されるという傾向、いつの頃からかあからさまになったなーって思う。
あと気持ち悪かったのが『おおかみこどもの雨と雪』に対するネットでの反応。母親に完璧を求めるな母性信仰を押し付けるなと、あくまで一人の女性を描いたフィクションであるにも関わらずそれを現実の全ての母親に対しても求めているかのような意見が異様に多くて怖かった。まああの作品は娘の視点から見て、息子と娘で差をつけすぎという感想も結構あってそれには納得したけれど。
昔の自分は漫画の『フルーツバスケット』のようにシングルマザーの子育てを描いた作品が好きで、自分もそんな母親になりたいという気持ちがあったんだけど。今は何かもう未成年の子供を持つ「母親」という存在自体が地雷で、見るに堪えない(明確に古い時代を舞台にした話ならばかろうじて大丈夫かもしれない)。好きだったんだけどなー。母親が愛情を持って子供を育てる話。今の母親はどこまでも自分が自分がで子供の事なんかアクセサリー程度にしか思っていないようなのばかりだし、フィクションでもその手のコミックエッセイが異常に増えて、もううんざりだ。
今だと『破壊神マグちゃん』とかも、これは一見母親が子供のために頑張って稼いでいるように見えても実際には税金で十分な支援を受け子無しから搾取してるんだろうなと思うと嫌な気持ちになる。
作品や作者に罪はないんだけどもう昔のような純粋な目では見れない。
何がしんどいって今生きてる子供達は皆、そういう我が儘で傲慢な母親から産まれてきたって事だよなー。だから子供を助けるような仕事をするのもそういう母親を助ける事に直結してしまうので嫌な気分になるというか。
子供のため、じゃなくてその子供達が大人になった時の、大人の人権を守ろうという発想ならまだ少しはマシかもしれないけれど。それでも今の「母親」世代を利するのかと思うとうんざりではある。
配るのは旗というか、反射テープを貼った黄色いバルーンの棒だ。これを全国の歩行者に配る。
使い方は簡単だ。歩行者が横断歩道を渡りたいときに、この旗を車道側に差し出す。上に掲げてもいい。そうやって、横断の意思表示をする。大抵の車は停まってくれる。
横断するときもこの旗をブラブラさせて目立つようにすると安全性が増す。
とかく日本の歩行者はかわいそうな存在で、横断歩道を渡るにも車が停まってくれるかビクビクしなきゃいけない。
同時に、マナーの悪いドライバーが惰性で歩行者を無視する気持ちも、わかる。そういう人に歩行者を待たせるには、マナー啓蒙や標語では足りない。
あと、普通のドライバー側にも辛いところがあって、歩行者を待つために徐行したり停車したりしても、歩行者はなかなか横断歩道を渡ってくれない。
これらの問題を一挙に解消するためには、歩行者が毅然と渡りますアピールができればいいんじゃないかと、そう考えたわけだ。
横断旗なら手軽で目立つ。
普及すれば、ドライバーは否応なく停まる。歩行者は不安なく横断歩道を渡れる。
というわけでこの旗を全国の歩行者にばら撒いた。
というのは嘘だ。
実はばら撒いていない。
だっておれコミュ障だし、フリーターだし、金ないし。こういうことのために頼れる人とかいないし。だれを頼ればいいのかもわからないし。
まあおれダメなんですよ。
だから思ってるだけでなにもやらなかった。NPO立ち上げなかった。
でもね。こないだホッテントリ入りしてた記事を読んでさ、おれのアホなアイディアでも増田には書けるなとふと思ったわけですよ。
なので書いた。
東京五輪、もはや「欲しがりません勝つまでは」という標語が聞こえてきそうなレベルになってきてない?
すぐに終わると思ってた。
まさかこんなにコロナが長々居座るとは思ってなかったからいまはその頃なの図太さにただただびっくりしてる。
さて、今日はこのコロナが始まる少し前から私がすごく嫌いだったことがあって、最近いよいよそれが無視できない域に達してきたので書きたくて、愚痴を吐き散らかしたくて筆を取った。
オリンピックのゴタゴタの時、
そして、今このコロナ渦の中で、
欲しがりません、勝つまでは。
なんて標語を口走る人もいて。
まあそんな標語がちょっぴり当てはまってる洒落にならない世の中だから仕方ないのかもしれないけど、
それでも私はこの傾向に全力でNOを叫びたい。
戦争ではないのだ。
でもそれは単に言葉遊びに過ぎない。
この世の中に様々な「戦争」の定義があるとしても、インパールが起きた戦争。
竹槍で米軍との本土決戦を覚悟した戦争と今のコロナは絶対に違う。
すでにゲームチェンジャーのワクチンが控えている間の時間稼ぎや素手で戦うとは言わない。
「不謹慎」
という言葉が大嫌いな私でも、
なんで「竹槍」だの「インパール」だのこのコロナの騒動を太平洋戦争と重ね合わせることに嫌悪感を持つのかと言うと、やはり1人の人間としてそれを「不謹慎」と思うからだ。
このコロナと太平洋戦争時を重ね合わせてる人の中に絶対に太平洋戦争を経験した人はいない筈だ。
その上で、現政権や政策のあり方を批判するがために、軽率に太平洋戦争時の事件や用語を使って無理やり今を太平洋戦争時に当て込んでしまうのはどう考えても不謹慎以外の何者でもないし、
死んで行った人や、
その時代を生きてきた人たちに失礼だと思うし、
何より今を戦っている日本人に失礼だろう。
無謀にオリンピックをやること
こう言うことを批判したいのであれば、
太平洋戦争時のスローガンや用語や事件名を当てはめて人に不快な印象を与えるのではなく、
その方がこちらの主張もわかりやすいし多くの人の理解を得られるだろう。
が、なぜそうしないのかといえば、
別にこう言う言葉を使って批判や非難を繰り返す人たちはたぶんそれ自体が目的化していて、
仲間内で一緒になって何かを叩くという「怒り」が楽しくて仕方がないのだろう。
そしてそれを自覚もできていない。
だから、そんな娯楽の「怒り」の中で繰り返される言葉遊びにそんな簡単にインパールだの竹槍だの戦時中の言葉を入れ込むのは「不謹慎だ」と言いたいし、
あの歴史は簡単にあなたたちの言葉遊びのおもちゃに使っていいほど日本人にとって軽々しいものではないと、たまたま日本人に生まれてきた私は思うのだ。
大体、病気という生きるか死ぬかの問題を前にして「痛いのが嫌」だとかこいてるの、わがまますぎるんだよな
わがままで医療費を増やして、助からない命が出ても平気なのか?
開腹手術でもするときゃ、患者が暴れないように例外的に麻酔を許してもいいかもしれないが、メソポタミアでは麻酔なしで頭蓋骨に穴を開ける手術をしたらしいし、殆どの手術に麻酔は必要ないだろう
まして、出産の痛みで死ぬ女はいないのだから、無痛分娩も禁止していい
痛み止め、湿布なんかも、医療費を逼迫する一大要因だから廃止すべきだ
歯科医が医者でもないのに、鎮痛剤、麻酔を乱用していることは許されざる状況だ
コロナに全力投球するためにも、麻酔・痛み止め・湿布の3つは「欲しがりません勝つまでは」を標語に禁止していこう
生理痛ガーと、我儘言ってピルを飲むふしだらな女も多いが、こんなの禁止していい
ピルには血栓のリスクもあるし、「痛み」が嫌だからと言って血栓を作るような愚行を犯す権利を認めてはならない
バイアグラも同じだ
セックスがしたいと言う我儘のために心臓へ負担をかけ、病院通いになれば医療費が無駄になる
だいたいEDの治療など全くもって必要ないので、不妊治療以外の目的では禁止すべきだ
車椅子乗車拒否が話題だが、バリアフリーも、「障害があっても普通の人と同じように便利な生活が送りたい」という我儘から始まっている
そもそも「便利な生活を送る」必要はなく、そのようなわがままな要望は叶えられるべきではない
健常者が3メートル前後の高低差を上るのに使う「階段」と言うものがあるが、全ての駅に階段を作るコストは馬鹿にならない
「二階建てにするなら階段をつけなくてはならない」という決まりのせいで駅が潰れては元も子もない
せいぜいロープ一本下げておけば済む
楽をして歩かずに遠くにいきたいというのは我儘だろう