はてなキーワード: えことは
あてがわれたい男さんも、一人の人間として扱われたい女さんもwin win じゃん
女体の性的価値がコモディティ化すればバイアスがなくなり対等扱いで競争出来て女性の社会進出も進んでええことやん
車ができても100m競走とかあるから競技としての美の追求は残るだろうけど一般人には何ら関係なくなるで
女体数年分がスマホ程度の価値になれば売春も痴漢等の性被害も激減していいじゃん
そしてスマホも買えないほどの本当の弱者があぶりだされて男女関係ない弱者支援議論が進むやん
ついでに妊娠機能も人工的に作って完全にアウトソーシングすれば妊娠や生理に苦しんだりすること自体の”意義”がなくなる
つまり、それは先天的に女性がもつ完全なデメリットでしかなくなるから、それへの補償を政府規模ですることへ繋がられるやん
女性の性的価値が希薄になり人間としての価値で勝負できるようになって、自由で対等な真実の愛や友情やらがそこら中で育まれるようになるんやろなぁ...
日常会話でちょっと褒めたり逆に茶化すように突っ込まれたりしたところで何も思わねーよ。
ブコメの男は褒められないとかいうのも謎。どこに住んでんだよ。
取引先から上から下まで褒められまくったり、部下から持ち上げられたり、上司からおだてられたりとかは当たり前にあるだろ。
それぞれに営業だったりおべっかだったり下心はあるわけだけど、それも含めて気にしないのが普通なんだよ。同じように仲間内で円滑なコミュニケーションのためにちょっとした変化をネタにするなんて30分後には忘れる日常のどうでもいいただのアイサツの拡大版みたいなもんだ。
はてなの世界が異常なだけなので真に受けて考えこむとバカを見るぞ。
ブクマカとかいわゆる「正しい」事を言ってたりするけど現実で実行なんかしてねーからなアイツら。
実際あんたは今自分がしたいことをアホどもが騒ぎ立てる些細なリスクのために手放そうとしてるんだぜ。ブクマカの偏った公正世界の思想に騙されるな。自分を殺されるぞ。
理系学部3年になって就活や院への進学の話がちらほら周りにも出てきた。
大学進学のときは猛烈にやりたい事はなかったから何となくある興味が広がればいいかなと思って今の分野を選んだ。
去年は対して実験ができなくて未だに自分が専攻しているものが具体的に何をするものなのか説明できるほど理解できていない。
こんな状態で研究テーマがどうとかこの分野でこんな仕事をしたい、なんてとても言えない。
同じ学科の大半の人よりは大学の学習に時間を割いて実際それに見合った成果は出ている自分でさえこんなにもふやふやで定まっていないのに、その大半の人は就活や院の話をしている。
たいして参考文献も調べずに時間もかけずにレポートや課題をこなしていた彼らは大学院や企業での研究に興味があるようだ。
なんでだろうね?興味ないから提出するための課題を作成してたんじゃないの?
俺はどうしたいのかな……あと2年プラスで研究ってのもどうなん…ていうか「研究」がそもそもよくわからんし。
就活もなんかな…面接の時の自分てめちゃくちゃ嘘くさいんだよな。ていうかそういうオーディションに受かるための活動ってうんざりだな。
なんかもうそういう人生のロードマップのコマを進めるのが嫌だな。働くのは嫌いじゃないけど…おんなじ会社に5年以上勤めたくないし……
とりあえずこの先に指針を持っている人が羨ましいかな。その人はなぜそれを選んだのか。
ってルフィが言ってたのはこういうことだったのか。
障害者だと言い張れば無理を聞いてもらえるという思い込みを捨てろってことなんだな。
「こっちは障害者なんですけど!」⇔「どうせ障害者の意見なんて聞いてもらえないんだ……」って躁鬱気味に極端な思考に走ることを、「心の障害者」とルフィは表現したのか。
俺も別に障害こそ持ってないけど、よくドモったりたまにカクテルパーティー効果が働かなったりするから人と話すのが苦手なんだけど、ソレに対して「(上手く聞き取れんと言ってもどうせ聞き取れん言い方でもう一度言われるだけやし会話成立してるふりしたろ)」とか「(ドモるもんはドモるんやからしゃーないやろ。文句つけんなころすぞ)」とかすぐ考えちゃうけど、もうちょっとマイルドな考え方で社会と丁寧に調整していった方がええのかも知れんな。
重課金は課金で欲しいものを全て得られるから満足できる、ソシャゲの遊び方として正しい
無課金は我慢が出来る鋼の心を持っている、全て得られない事を割り切れている賢者
だが、微課金はどっちつかずで実に厄介
微課金は金は出す事を許容している
その躊躇の代償は時間
ゲームを遊ぶ事に加えて、いかに少ない出費で得をするかを算段する事になる。
一度金を出してしまったが故に、自分はお客様であると思い込んでしまって離れるに離れられない。
延々とその算段を立て続ける
「次のイベントはなにか」「このガチャは引きたいけど状況的に引かなくていい(…でも引きたい)」
その結果依存した状況になる
達成できたのだから、(やろうと思えば)次のイベントまで頭から除外できる。
しかし、微課金は締め切りのないミッションを時間が許す限り考え続ける。
疲れないわけがない。
恋愛だのなんだのアホくさくね?
自分で相手を探すの面倒じゃなかった?そりゃ付き合ってうまくいった後は良いかもだけど。
登録制での結婚相手マッチングシステム(登録したらあてがわれた相手と強制結婚)があったら絶対男女問わず結構な人数が登録するようになるね。
もちろん最初は抵抗ある人の方が多いだろうけど、そんなのすぐ消えるよ。
男の性欲の犠牲云々って、男だってその辺の有象無象の女をみてヤりてえな~とかならねえよ。
結構な人数が恋愛交際結婚育児の一連の流れの最重要プロセスとしてヤるしかねえからヤってんだよ。
セックスっていうプロセスを突破しないと話にならねえからヤってんだよ。大多数は。
性欲はあるがわざわざこんなクソめんどくせえことしてヤる理由は性欲じゃねえんだよ。
でも大多数の人間が結婚して子供をつくるっていうのは社会にとって重要なんだよ。
価値観をアップデートだのなんだのいってもそれは変わらねえんだから、個人だって結婚して子供を作るのが求められてるのは変わらねえだろ。
だから恋愛とかいうクソプロセスをふっ飛ばして結婚出産育児に行けるようにすればいいんだよ。
早くやれ早く。
佐々木俊尚は障害者を上級弱者として特別扱いするのはやめろとは言ってない。
ただサヨクが、同じ困ってる人でも特定の層だけえこひいきしてるよなーって言ってるだけ。
ここでサヨクが「俺らをバカにすんな!」ってキレるなら正しくキャッチボールができてる。
それだったら佐々木俊尚とサヨクの間でコロシアエーっていう気分になってたんだが。
ここで「障害者に失礼だ!」っていう言い方でキレだした。
佐々木俊尚は、サヨクたちは障害者を利用してわめくなっていってるのに「かわいそうな障害者ちゃんになんてこと言うな!」ってキレた。
佐々木俊尚も邪悪な人間ではあるが、さすがに今回に関していえばサヨクのキチっぷりが高すぎてヒくわ。
私は20代女、公務員だが休職中。復職は絶望的だろうと医師からの見解。診断はADHDと気分変調症。そして回避性パーソナリティ障害。
休職とは関係ないが持病で脳血管疾患(難病)とハウスダストアレルギーと成人アトピーがある。
両親や親戚はおらず、精神障害を持つ年の離れた兄がいる。
あまり詳しく書くと身バレが怖いが、時々辛くなって自分語りをしたくなる。
正直現状めちゃくちゃに生きずらい。薬がないとまともに生活を遅れないが、目に見える形の障害がないため健常者として生活を無理やり送ってきた。くそ長いけど私の人生を知ってください。
まず小学校中学年まではそれなりの生活を送ってきた。一軒家で両親健在。収入はそれなり。
問題は子どもへの愛がなかったことくらい。衣食住に金をかけてもらえず、幼稚園のころから同じ下着をずっと着ていたり、朝食は8枚切りの食パン半分だったり(朝食が出るだけ良いかもしれない)したが、その年頃の子どもは家庭内が世界の全てなのでそれが当たり前だった。
父親は仕事でほとんど帰らず家は母親の天下だった。帰宅すると宿題をやった後、母親のマッサージ。兄が帰ってきたら交代して、両親が買ってきた教材をやる。母親の機嫌を損ねるとヒステリックに怒られたあと無視され、ご飯を抜かれる。テストの結果が100点以外でも似たようなことになる。たまに甘えたくなり母親に近づくと「ウザいから近寄るな」と突き飛ばされる。触れ合った記憶は機嫌が良い時に耳掃除をしてくれたことくらいしかない。なので父親が帰ってきたときに必死に父親に甘えていた。母親はそれを冷ややかな目で見ていた。
両親は外聞を気にするタイプだったので、私たちは下着はボロボロでも服はそれなりに綺麗なものを着せられていた。外での母は優しかったが、そこではしゃぎすぎると帰ってから「調子に乗るな」と怒鳴られ叩かれる。いつも母親の顔色を伺っていた。
ある日の夜、私は全身麻痺を起こして倒れた。前々から半身麻痺の症状が出ていたが、両親に話してもまともに取り合ってもらえなかった。私は救急車を呼んで欲しいとお願いしたが、「救急車を呼ぶと近所で噂になる」という理由で拒否された。結局麻痺が収まらず呂律も回らなくなり、父親の車で救急病院に連れていかれた。1週間ほど入院したが、病院の生活がとても楽しかったことを覚えている。
半年後に手術をする予定ですすめていたところ、母親がくも膜下出血で倒れる。私の病気は母親からの遺伝だった。この際、母親が我が家の貯金を全額実家に横流ししていたことが発覚して両親が離婚する。私たちは両親のどちらにつくか選ばされたが、こんな状態で父親以外選べるはずもなく兄妹ともに父親について行く。手術は無事に終わった。
父親と兄と3人で暮らすことになり、平和になるかと思えば、父親も母親と似たような人間だった。特に父親はプライドが高く、少しの意見も口答えも許さなかった。まだ小学生だった私には生きるためにも父親の顔色を伺いながら生活を送るしか無かった。やはりテストの点は満点しか許されなかったし、褒める時は「俺の娘は他のバカとは違う」貶す時は「こんなの俺の前に出して恥ずかしくないのか」と常に父親が中心の声掛けをされた。そのうちテストを学校で捨ててくるようになったが気が付かれなかった。週に1回父親と家の掃除をやり、週に2回父親に連れられて買い物に出かける。父親は「年頃の娘と仲の良い父親」像に固執しており、出かけることを拒否したり、外で不満を口に出すと家に帰ってから怒鳴り散らされた。少し抵抗するような態度をとれば「俺にそんな態度とっていいとおもっているのか」と怒鳴られ、物をぶちまけられて脅された。この頃には自己主張ができなくなっていた。おまけに父親は娘を育てる知識がなく、極少ないナプキンしか買って貰えずしょっちゅう服や寝具を血まみれにしたし、ブラも買って貰えず膨らんできた胸が目立つのが嫌だった。生理用ショーツや胸パット付き下着の存在もこの頃は知らなかった。
兄は父親に反抗し帰宅が遅く、部屋に閉じこもりがちだった。父親は兄に興味がないようで成績以外で構うことがなかった。だが、お金もほとんど渡していなかったようなので兄の生活は苦しかったと思う。(進学校でバイトが禁止だった)父親からは兄の愚痴を聞かされ、兄からは父親の愚痴を聞かされた。
父親は地域の人との関わりを嫌い、学校行事にも一切顔を出さなかった。保護者ありきの授業参観や運動会はとても惨めな気持ちになって辛かった。周りに頼ることは恥ずかしいことだと教えこまれ、誰にも何も言えなかった。自己主張ができない私は友だちも少なく、地域との繋がりも希薄で家が世界の全てのようなものだった。中学生の時は部員との交流はあったが、土日に友だちと遊ぶことに父親が良い顔をせず深い仲にはならなかった。小学校高学年のころいじめにあい、学校に行きたくないと父親に打ち明けたが、「ゲームを買ってやるから行け」と言われてちゃんと行った。ゲームは年に1回誕生日にだけ買って貰えるものだったので、いじめに耐えるだけで新しいゲームができるならそれでよかった。これ以降父親になにか相談することはなくなる。
中学生になった私はADHDの特性が顕著に現れるようになった。遅刻したくないのに遅刻してしまう、授業に集中したいができない等のストレスから解離症状が出るようになり、色々な場面で意識を失うようになった。他にも色々と要因はあった(父親が洗濯を正しく行えず体操服がいつも生臭かったり)(家庭内でも意識を失うようになり起きていられなかったり)で不登校気味になっていった。その頃には父親は学校に行かないことに文句を言わなくなっていた。それだけはありがたかった。
そんな最中、父親が会社をクビになる。私が中学生の時のことだ。パワハラ、モラハラ、サボりが原因だ。父親は会社の営業本部長で実質No.2(本人談)だったが、母親と離婚してからどんどん帰宅時間が早くなっていった。職場まで車で2時間かかるのに最終的には朝は9時に家を出て、17時半には帰宅していた。あまりにも出勤時間が短いので大丈夫なのか聞いたことがあるが、営業先に口裏を合わせてもらって出張扱いにしているらしかった。とんでもないことだがさらに、「俺は他のやつらより効率よく仕事をしているから早く帰っても問題ない」と言っていた。今思うと頭がおかしいとしか思えない。そして女性社員に気持ち悪いメッセージを送り、新人の愚痴を言いふらす……典型的なとんでもパワハラクソ上司だった。そんなだったので部下から告発を受け会社を即日クビになったのだ。本人は「不当な解雇だ。裁判を起こせば俺が勝つ」と何度も言っていたが、自分に非があることはわかっていたのだろう。裁判は1度も起こさなかった。
クビになったタイミングが悪く家を立替えた直後だったため、収入が必要だった父親はコンビニ店長をやると言い出した。しかし、コンビニを経営するには連帯責任者としてもう一人人員が必要になる。父親には友人が一人もいなかったし、親戚も一人もいない。そのため、他社に内定が決まっていた成人したての兄を連帯責任者として引っ張りこんだのだ。今まで見たことがないくらい必死に拒否をする兄を力で脅して内定辞退させ、結局二人でコンビニを経営することになった。
その後研修のため2週間家を空けるとの事で、私は児童養護施設に一時的に預けられた。そこで、我が家の生活が異常だったことを知る。皆が好きなように時間を過ごし、ルールをこっそりやぶって笑いあったり、ご飯がまずいと文句を言ったりのんびり団欒を過ごしたりする。私はそこで初めて家庭の温かみを感じた(違うかもしれないが)、家庭の会話に温度を感じたのが初めてだったのだ。予定は2週間だったが、直前で兄が家出をしたため結局1ヶ月をそこで過ごした。兄は警察に保護され、父親と研修を受け、私は最終日に家に帰りたくないと大泣きした。そしてコンビニ経営がスタートする。
そこから半年ほど私は廃棄のコンビニ弁当だけで生活をした。父親と兄はローテーションでひたすら無休で働いていた。生活リズムはめちゃくちゃだった。兄は父親への反抗で風呂に入らず出勤したりしていた。4日風呂に入っていない兄は汚くて臭くて嫌だった。これでコンビニで接客してるのは今考えてもやばい。私は父親に捨てられることが怖くて、反抗はできなかった。食器を並べる時、父親の箸を少し崩して置くのが小さな抵抗だった。父親はメニエール病を発症していたがそれでも休むことはなかった。「このままじゃ破綻すると思う」と声をかけても「私への誕生日プレゼントとして休みを取ってほしい」と声をかけても「俺の仕事に口出しするな」と怒鳴られ物を投げられて終わった。いつか父親は死ぬだろうなと思った。死んだ。
中2の冬のある日。父親が死んでいた。
その頃の私は起きられている時に父親に学校に送迎してもらっていた。その日もいつも通り学校へ乗せていって貰おうと思っていたが、寝室に父親がいない。トイレにもリビングにもいない。家中探してもいない。けど、外に車はある。そうして車を覗きに行くと、眠るように死んだ父がいた。最初は普通に眠っているのかと思ったが、こんなに寒いのに白い息が出ていなかったため何かがおかしいと思った。大声で何度も父親に呼びかけるがピクリとも動かない。何度も何度も呼びかけても動かなくて混乱した私は中学校の先生に電話をかけた。
それからはあっという間で先生が来て、警察が来て、救急車も一応来て、警察の人に「恐らく煉炭を使用した一酸化炭素中毒による自殺で事件性はない」と説明を受けた。兄はコンビニに出勤していたので、事情聴取は私が受けた。警察の人に色々教えて貰って、家族葬の予約をとって父親を骨にした。
父親のために生きていたようなものなのに捨てられたんだなぁと思った。私と兄はみっともなくあがいて生きてまでどうにかしてあげたい存在ではなかったんだなって。
ちなみに母親は、父親の死を知り家に押し入って来て、殊勝な態度で「また一緒に暮らしたい」と言ってきた。どの口がと断るのだが断った途端に豹変し、ズカズカと家の奥へ踏み込んで家探しをして貴金属を持ち去っていった。
兄は対人恐怖症で私以外とまともに会話ができないので、来客や自治体等の対応は今も昔も私がしている状態だ。
なんか思い出してつらくなってきた。
・しばらく兄妹で生活する
・入れ違いで兄が入院
・安定して通学できず単位が危うくなるも担任の先生のサポートでなんとか進学
・薬でなんとか通学できるようになる
・公務員を目指す
ゴミ屋敷は支援員の方々の協力で脱却した。別に綺麗ではないけれど。
休職して半年ほど経つけれどいまだに無気力で何も出来ない。人とのコミュニケーションが怖いし、他人を信用できない。体調が良くなっても性格が、性格が良くなっても、特性が人生の邪魔をする。
目の前のことに必死すぎて友達もほとんどいないままここまで来てしまった。というか人の頼り方がわからなくて信頼関係が誰とも築けない。誰と話しても気を張ってしまう。相手を不快にさせないようにと顔色を伺ってしまうし、自分で自分を大切にできない。
兄は給料が少ないことと友達がいないことを度々気にしながらも、趣味のゲームで息抜きしながらなんだかんだ楽しそうに生きている。今はウマ娘にハマっているようだ。よく私に育成の楽しさを語ってくれる。
現状生きてれば良し、面倒なことは後回しで良くも悪くも細かいことは気にしない性格なのだ。私もそうなれたら良いのだが。
なんか今まで色々、色々あったけど社会に出たら一人の人間でしかない。親ガチャの失敗のせいにしたいけど、毒親持ちでも立派にやってる人はたくさんいて、自分を褒めてなんてあげられない。