はてなキーワード: あのころとは
はあちゅうは童貞をバカにしたときもそうだったけど、いちど謝っておいて、後になって撤回することがある。
いま自分で蒸し返してる、バズフィードのステマの記事の件もそうだ。
しかし、はっきり言おう。はあちゅうがやったことはステマだ。それは疑う余地がない。
血液クレンジングがステルスマーケティングでカネを払ったのは、トレンダーズだけではない。
たとえば「Googirl 血液クレンジング」で検索して、編集部や三流ライターに聞いてみればいい。口を割らないかもしれないが。
もちろんはあちゅうだって、トレンダーズの上司か社長に言われて仕事としてやったんだろう。
とはいえ、著書で「生きてるだけで丸儲け」(生きてるだけで十分という意味ではなく、特別な私は生きているだけで祝福されて欲しいものが与えられるのが当たり前という意味)と書いてるはあちゅうは、根っからのステマ体質と言ってよいと思う。
ただ、ああいう行為がステマとして明確に批判されるようになったのは2014年くらいであって、それまではターゲッティングとかのメディアレップが、トレンダーズだけじゃなくて、電通PRや共同PR、サニーサイドアップ、オズマPR、インテグレートなどの大手PR会社にステマの提案をしていたものだ。
だからはあちゅうを責めるにしても、こういう歴史的経緯を踏まえておかなければならない。
その点、ネットメディアの歴史を踏まえない素人記者(ネット以外ではキャリアがあるのかもしれない)が、正義を掲げてはあちゅうを責め立てたのは、反省すべき部分もあったのではないかと思う。
「ああ、あのころはそういうのが当たり前とされてたところがあったのかもしれませんね。でも時代は変わりました」と返すのが穏当だったのではないか。
10年以上フィギュアを集めた私が、今回フィギュアを売るにあたって、自分の気持ちを整理するためにフィギュアに対する想いを長々と綴った。
業者さんに送った文をほとんどそのまま投げる。業者さんの名前は出していいかわかんなかったからとりあえず空白にした。
自分でも今後読み返せるようにしておく。あと誰かに読んでほしかった。
ーーー
今から十数年前。高校最後の年に友人から食玩フィギュアをもらったのが、私とフィギュアの出会いでした。
あのころはガチャガチャ・食玩フィギュアが多数存在しており、小さいながらにそのキャラクターの特徴が捉えられていました。ゲームばかりしていた当時の私に多大な衝撃を与えてくれ、自分のオタク趣味の世界が少し広がりました。バイト代をガチャガチャにつぎ込み、クローズド食玩フィギュアの中身を数少ないフィギュア仲間とトレードしていました。
翌年進学してすぐ、自分へのお祝いとしてショップで初めてのスケールフィギュアを購入しました。マックスファクトリーのアル・アジフです。この頃はフィギュアの購入者層も限られており、ギャルゲのフィギュアが圧倒的に多かった時代でした。
これは偏見かもしれませんが、当時学生だった私のオタク趣味の中でスケールフィギュアというものは、とても高額でありかつガチオタが楽しむものだとされており、とてもハードルが高いものでした。友人間でも冗談で「そっち(スケールフィギュア)に踏み込んだら終わり」という謎の感覚が浸透していたので、ショップで会計をしているときは心臓が早鐘を打っているようにうるさく、とても緊張したのを憶えています。大きい袋を持って帰路につき、自室の机でさっそく開封して台座に立たせました。まずはその圧倒的な存在感。ガチャガチャ・食玩と比べてその大きさもさることながら、それまで手の届く範囲にあったものとは圧倒的にクォリティが違いました。こんなすごいものがあるんだと、いろんな角度から夢中で眺めました。
そしてここからズブズブとフィギュア沼にはまっていきます。私はすっかりフィギュアの持つ魅力の虜でした。
この頃はメーカーによってフィギュアの出来に大きく差がついており、好きなキャラクターが出ても購入意欲がそそられないものもある時代でした。そのため私は自然と、知らない作品のキャラクターでもクォリティが高ければ買うという、造形買いをし始めます。
初めは大手メーカーのものから買い始め、原型師さんによっての造形の違いが分かるようになってくると、好きな原型師さんが作っていれば買うという原型師買いもし始めました。
社会人になると使えるお金も増え、より多くのフィギュアを手に入れられるようになりました。そうすると飾る場所も考えなければなりません。ガラスケースを購入し、大きな部屋に引っ越しするなど、更に管理のために室温なども考えるようになりました。
そうして現在、多くの素晴らしいフィギュアがリリースされる時代になりました。有名なキャラクターはほとんどがフィギュア化され、ハイクォリティで360度眺められます。その分値段が高くなりましたが、メーカーから比較的安価のものも出ており、可動やデフォルメ、プライズも素晴らしい出来で世に出ています。フィギュアの世界はこの十数年で大きく広がったなあと思っています。
そんな時、ふと自分の部屋を見回すと、未開封のフィギュアが積まれているのが目に入りました。いえ、今まで目を背けていただけで、本当は分かっていました。今の現状を、アル・アジフを買った当時の私が見たら罵倒されるでしょう。今の私は、惰性でフィギュアを買ってしまっています。
私の家にはガラスケースが3つあり、そこに100体ほどのフィギュアが飾られています。一年前くらいからそこに入りきらなくなってしまい、仕方なく積んである子達です。いつか飾るからね、と思いながらどんどん積んでいくフィギュア達。同時に作ってくれた原型師さんやメーカーさんにも申し訳ない気持ちが積み重なっていきます。
ケースを追加して飾ることも可能ですが、必ず限界が来ます。フィギュアの管理は箱から出して空気に触れさせた方が良いと言われていますが、あれだけ管理面にも気を付けていたのに今の私はそれすらできていません。さらに物を捨てられない・売ることができない物欲の塊の私は、どうしたらいいのかわからず悩み始めました。
こんな思いを引き摺って数か月、答えが見いだせないまま、近々引っ越しをすることになりました。今まで通りなら当然フィギュアも連れて行くのですが、悩んでいる自分が今まで通りでいいのかと言ってきます。今が引き際なんじゃないかと。
まず友人に譲ることを考えましたが、当時のフィギュア仲間はほとんどおらず、今の友人もだいたい同じものを持っていました。また、量が多いので個別に送るとなると手間もかかります。そうして私は、思い切ってネットでフィギュア買い取りを検索し始めました。そして見つけたのが「 」さんです。
決めてはこの「愛情買取」でした。先に買い取り依頼をした方の愛情紹介を読んだ時には、私と似た状況の方もおり、正直泣きそうになりました。
よしここで売ろう、と決めて買い取りオーダーをしましたが、やはりまだフィギュア達には未練があります。自分が惚れ込んで買った子達なのに、飾ることができなかった状況がとても悔しくて申し訳なくて悲しいです。でも私の手元にあったのではこの子達は輝けない、他の人の手に渡ることによって輝けるなら、それが一番いいんじゃないか。売ることに対して引っ掛かりを感じていましたが、こうして文章にして自分の想いをまとめると少し心が軽くなったような気がします。
「 」さんでは「娘を送り出すようなもの」と書かれていましたが、私の友人間では昔からフィギュア達のことを「養子」と呼んでいました。大げさかもしれませんが、まさに子を送り出す親の心境です。
私はダメな親だったけど、みんなに魅力がなかったわけじゃない。それぞれの造型美に惚れ込んで、迎え入れた時の気持ちは本当でした。これからは新しい家で存分にその魅力を振りまいて、きらきら輝いてほしい。みんな、幸せになってね。さようなら、ありがとう。
きょう、友人の爪を塗った。
素人がちょろっと習って覚えた程度のジェルネイルだけど、すごく喜んでくれた。
今日から彼女は、何をするときにもきらきら光る爪を見ることになる。
友人はすごく不器用に生きている。
たぶん家庭環境とか学校でのいじめとか、いろんなことが絡み合って、彼女から生きる自信を奪っていったんだと思う。
ことあるごとに「いつ死んでもいいと思ってる」とか、「早く死ねないかなあ」とか、「死にたい」とか言う。
ちょっと喧嘩しただけで「生きててごめん」とか言い出すから、たまにすっごく面倒くさくなる。
もうそんなこと言わないでよ、ずるいよと否定したくなる。しんどいね、つらいねと言ったあとで、でもわたしは死んでほしくないんだよっていつも言ってしまう。
死にたがりの彼女は手首を切ったりはしないけど、指の皮を剥いたりする。
初めて見たとき、皮膚の下の真っ赤な肉のいろがちらりと見える指先に、正直ぞっとした。
やめなよと言ったけど、無意識でやめられないと言われた。
だからわたしは古いジェルネイルの道具を引っ張り出してきて、むりやり彼女の爪を塗った。
目を輝かせて、うれしそうに自分の手を眺めたのち、きれいだねと笑った彼女は「でも傷があって見栄えが悪いね」と、そんな感じのことを言った。
何日か後に、しばらく皮を剥かずにいられたと報告してくれた。
嫌いなとこもあるし、喧嘩もする。メンヘラめんどくせえなと思うこともある。なんでわたしこんなめんどくさい人の面倒見てんだろ?とうんざりすることもある。
でも、話してると楽しい。すごいなと思うところもある。いつも助けてもらってる。わたしと友達でいてくれてありがたいと思う。
死なないでねと口に出す代わりに。
もしも死にたいと思ったときに視界に入るように、わたしの代わりに止めてくれるように。
きらきらひかる指先を見て、彼女が少しだけでもいいから、自分を好きになってくれたらいいなと思う。
「死んでもいい、どうでもいい人間なんかじゃないよ」
言いたいのに言わせてくれないめんどくさくて卑怯な友人に、押し付けがましくネイルアートを施すのは精いっぱいの仕返し。
わたしの施したネイルのせいで、彼女は死にそびれてしまうんだ。ざまあみろ。
いつか、お互いおばあちゃんになったときに「あのころはこんな気持ちでさ〜」と嫌みったらしく話せたらいいなと思うから、もっとネイルの勉強をすることにする。
8月だし夏っぽい色のジェルを買い足そう。
何十年か経ったら、わたしがうっかり病気とかで先に行ってもいいようにセルフジェルのやり方も教えてあげなきゃな。
いつまでも先のことを考えていたいな。
チュパカブラの件続き。
エルスウェアというより旧遊演体というイメージが強いですけど伝わりますか?
増田に何回か書いてるけど反応もらったことなかったのでちょっとうれしかった。
サンクスです(ロコ風
PBMは既に滅びた趣味ですが(PBeMはちょっと違うと思ってる)、あのころシナリオを書いていたマスターたちは、
ラノベ出したりアニメの脚本書いてたりソシャゲのシナリオを書いていたりする。
存外ペンネームを変えない人も多く、ちょっとぐぐってみると懐かしくなるかもよ。
ドラマCDの脚本も良く調べると、元マスターたちが書いているものがいくつかあって、
多分バンナムから設定資料とかおおまかなプロットを渡されて書いているのであろうと思われる。
1kb千円ぐらいの単価じゃなかろうか?
星空めておはすっかりFateな人だけれど、あの当時(1998年ぐらい)も「面白いけど欠点が遅筆」みたいなことを言われてて
そういう意味で、ミリオンライブのトンチキ具合も、なんかあの当時の寒いトンチキPBMシナリオ感がして、憎むことはできない(読まないけど)。
…PBMのシナリオ執筆の特異性に、ユーザーが考えたキャラクターで話を描かなければならない、という縛りがあった。
自分が考えたプロットにうまく他人のキャラクターをはめ込みながらテキストを書かなければならない、というのを繰り返してたからこそ、
PBMの元マスターたちはソシャゲシナリオテキスト書きに適合できたのではないかなぁと思ったりもする。
ミリオンライブの時々キャラクターがぶれてるときがあるのだが、多分それはバンナムのチェック漏れ、というよりは、ライターの主観がつい漏れちゃってるのだなと
思うことにしている。
他人の考えたキャラクターを動かすとき、つい自己解釈で動かしたくなるのがライターという人種の悪いくせのようなものだから。
学生の時の話
やたら私に怒ったような顔でぶつかってくる◯◯という子がいた
私は訳がわからなくて怖かった
あとから先生から「あの子はあなたに嫌われた、無視されたと思って怒っている、私の方から話して誤解もとけた、友達になってやってくれないか」と言われた
私は「いいですよ」と言った
◯◯と友達になった
みんなの態度が冷たくなった
それでも数人は話しかけてくれる子もいたけど
◯◯はあれから都合の良い時しか話しかけないし自分の気分で私だけ仲間外れにしたり他の子を仲間外れにしたりそれに振り回された
あのころたまに話してくれる子が言った
「◯◯はスーパーで盗みやったことあるからあなたも盗みしてるって噂になってたよ」
私は絶句した
私は◯◯から小さい頃お腹が空いて盗みをした話を聞いたことがあった
しかし◯◯はわたしの教科書やノートを盗んだあと修正液で私の文字を塗りつぶして自分の名前を上から書いたりしていた
怒ってもまともに聞いてくれなかったな...と思い出した
沖縄県では、2008年にレジ袋を有料化した。一つの都道府県で一斉にやろう、という場合、県境で有料と無料が分かれて客が取られる、と言う問題があるが、陸で県境がない県だからスムーズだったんだろう。
対象は主要なスーパー・ドラッグストアで、小規模なスーパーや個人商店やコンビニや服屋やディスカウントストアは対象外だった。
自分は、このときに有料化を体験した。そのとき何が起こったかを、覚えている限りで書く。
「実際、始まっても3円ぽっちだったら、毎回買うんじゃないの?」とか思っていたが、レジに並んだみんなが律儀にマイバックを持ってきた。
https://www.pref.okinawa.jp/site/kankyo/seibi/ippan/documents/r2_rejibukuro_jitai.pdf ここの資料によると、マイバッグ持参率が2割から8割になってる。そして、微減ながら現在でも相当高率を保っている。
自分も、カバンに小さめのを一枚、クルマには4~5枚常時乗っけるようになった。
有料化直後は、銀行も保険会社も旅行会社も、何かあるとマイバッグを記念品に付けてきた。あのころ、買ったマイバッグ持ってた奴なんていないんじゃないか。
ところが、大体1年くらいすると、そういう風潮は段々となくなってくる。みんな持ってるからもらっても邪魔になるし、数年単位で使えるし。ということで、いつでももらえるからいいや、と思っているとそのうち買う羽目になる。
コンビニではどうなるかわからないが、スーパーの話。肉とか魚とか、豆腐とかをくるむ薄っぺらいビニール袋。2~3個の買い物だと、「透明ビニールに入れますか?」とレジの人が聞いてきて、はい、とか言うと手際よく入れてくれるようになった。今回の有料化でも、持ち手がない袋は有料化の対象外になっている。 https://www.meti.go.jp/policy/recycle/plasticbag/plasticbag_top.html
おそらく、柄の悪いあんちゃんとかに「3円になりますが」「あぁ!?」みたいなやりとりが、初期に相当あったと思われる。
「レジ袋なんか大してゴミ減量にならない」とうそぶく人もいるが、主な目的はマイクロプラスチックの削減だと思う。砂浜に打ち上げられるゴミの中に、レジ袋は確実に減った。それでもペットボトルや弁当のケースや外国の洗剤なんかはいまだにあるんだけど。でも、レジ袋は減った。
以上。
「せっかく金払うんだから」と、大きいサイズをみんなが求めるんだろう。500mLペットボトルとお菓子1個が入るような小さな袋は使われなくなり、レジ袋は週末の買い出しに使うような「大」と、それよりもっと大きい「特大」くらいしか選択肢がなくなる。「俺は毎回金払うぜ!」とか言ってても、ペットボトル1個に大きな袋を出してくるのが馬鹿馬鹿しくなって、結局マイバッグを持つか、前述の透明ビニール袋で妥協することになる。
私、絵を描くオタク腐女子。アカウント移動してそろそろ一年くらいの放置垢がある。
そのアカウントは結構運用当時はフォロワーが多くて、最大で5000フォローくらいいった。ジャンルの勢いもあって、楽しいイベントも沢山で、毎日が楽しかった。描くもの描くもの全部が伸びて、ちっぽけだと思ってた自分に初めて自信が持てた。沢山の下駄を履かせてもらって、普通じゃ話せないような絵の上手いプロのオタク、遠くにいる話題が合うオタクと交流もできていた。
でも、じわじわと嫌なことも増えてきた。作品の内容を叩かれたり、とくに心当たりもなくフォロワーに避けられたり、ブロック解除をされたりすることが多くなった。仲が良いと思っていた人に匿名で悪口を言われ、何を信じて良いのかわからなくなった。
だから、特に前触れもなく、5000人のフォロワーを捨てた。名残惜しくて、すぐにはアカウントは消せなかった。大好きな作家と、お知らせでついてきてくれたごく少数のフォロワーだけで、この一年間細々とやっていた。
絵だけのアカウントも作った。そこは、フォローは一切せず、日常も喋らない。自分の絵だけを淡々と上げるアカウントだ。1000人くらいはついてきてくれたけど、もう何を描いても、本当にたまにバズったとき以外は、常連さんしか見ていないような、そんなアカウントになった。
今日、久々に気が向いたので、昔のアカウントを覗いてみた。フォロワー数は4700人。もう一年も更新してないのに、たった300人しか減ってないことに、驚いた。
あのころ、叩かれて憔悴しきってた私は、アカウント移動したら自分の価値はゼロになると思ってた。5000人全員に嫌われて、みんなが指差して笑っていると思ってた。でも、違った。多分本当に私を嫌っていたのなんかごく少数の人間で、その他4700人にとっては、私は嫌いではない。もしくはいてもいなくても何の支障もないどうでもいい人間だったということだ。
フォローは、50人くらい減っていた。フォロワー数の減少に比べると、割合は多い。これは新アカをフォローしたあとこちらを外した人数も含むから、仕方ないと思う。でも、今でもこのアカウントをフォローしてくれている相互は殆ど、最初にお知らせしたときについてきてくれた人ばかりだ。そういう人たちに動かないアカウントをフォローしてもらってるのもなんだか申し訳ないな、と、しゅんとしてしまった。ついてきてくれた人は、約300人。減った人数とほぼほぼ一緒だ。
ふと、世界の人の心の動きをわかりやすく伝える定説を思い出した。5パーセントの人は、私が何をしていても好いてくれるけど、5パーセントの人は、私が何をしていても嫌う。
残り90パーセントの人たちはそれ以外。私のことなんか、どうでもいいんだ。
何人フォロワーがいても、私のことをどうでもいいと思う人数なんて変わらない。いかに私を好きだと思う人を大切に思うかが重要か、なんとなく思い知らされた瞬間だった。
そういえば最近、絵で仕事を貰えるようになった。5000人フォロワーがいてもみんなに嫌われて評価されないと思ってた私は、今ではちゃんと、世の中に必要とされている。Twitterのフォロワー数は二桁だけど、私の絵は、たぶんどこかで沢山の人に見てもらってる。(評価されてるかどうかは、ダイレクトには伝わってこないけど)
来月からは、世界中で大人気のコンテンツに、一スタッフとして加わる。
あれだけ自分の目標とする対象に評価されずに泣いて泣いて、愚痴を言っても誰にも聞いてもらえずに一人で寂しい想いをしていた私が、日本人じゃなくて、世界を相手に、評価される土台に上る。
たぶん、あのころ私を嫌っていた日本人の作家は、日本で評価されないから世界に行ったのかよwwwって笑うんだろう。
でも、いいんだ。だから私は小さな世界に固執するのをやめた。外国語を勉強して、読み書きを出来るようにした。どんなに難しいビジネス文章が来ても大丈夫。それはフォロワーの数よりずっと、大きな私の自信になった。
5000人に嫌われてるって泣いてた私、頑張れ。世界は広いよ。今は10億人が相手だ。5000人全員に嫌われても、それ以上の人が私を見てる。だから、大丈夫。
そう、思うんだ。
少し話題がずれるけど、最近、たった数十人のアンチによって、心を病んだ女の子が自殺してしまったニュースを見た。
あの子は、かつての私かもしれない。
自分の価値はアンチコメント一つで揺るがないと今では知ってるからこそ、悔しい。
だからこそ、私は今の想いを言葉にしてみようと思った。ただのいちゃもんに負ける人が一人でも減るように、数の呪いに惑わされないように。
フォロワー数は諸刃の剣だ。自分に好意的な人数でもないし、敵対心を向ける人数でもないのに、自分の心のありかた一つで、王様にもなれるし、世界一の嫌われ者にもなれてしまう。
アンチコメントに苛つくのも勿論だけど、私たちが知るべきなのはアンチコメントへの対処法でも、心の守り方でもない。
私を常に評価して、好きになってくれる人を探す。その人のために、誠実に生きる。
数は強さでもなんでもなく、ただの数だ。その向こう側にいる人間を想えるかどうかのほうが、重要だ。
こういう時代だからこそ、大切なのは数より一つのコメントより、心のありかたなんだよって、どうやったら呪いに囚われて苦しんでる人に伝えることができるのかな。
アカウントなんか消してもいいんだよ。何人に悪口を言われても、好きに生きてもいいんだよ。
世界にはもっと沢山の人がいて、見に行く努力をするだけで、悪口まみれの狭い世界は、あっという間に過去のものになるんだよ。
死にたい人ほど、虚栄心を捨ててみてほしい。評価を手放して、数から解き放たれてみてほしい。
私はそう思います。
百社お祈り時代や嵐二宮のフリーター家を買うはそんなに昔の話ではない。
その世代の就職氷河期は結構無かったことにされているが、芸人のミキ弟が芸人になった理由が就職氷河期なのだから、本当にまだ二十代の人が影響を受けているレベルだ。
国が動いた就職氷河期世代は本当に深刻なものである。20代後半、30代、40代とかけて就職は大変なものだという認識があるはずだ。
しかし、ここ数年はイージーモードだった。働くものが、就職を蹴る時代だ。
仕事に対して執着心が無い、というか。いつでも再就活できるし。なんか派遣でもよくない?みたいな雰囲気があるのだ。
時短やテレワークなど、そういう話はしていない。彼らがもたらす発想は新しい世代のものだ。
どちらかといえば20代後半30あたりのほうが「ゆとり世代」ど真ん中だが、先に書いたリーマンショックと震災を実感として経験しているから、職を失くした時の怖さを感じることが多い。(そうでない人もいるが、率が低い)
これがコロナ騒動で意識が変わるのかというと、バブル世代を見てほしい。そんなことはない。確信を持って言える。バブル世代はとんでもない。社会のガンとも言える。(そうでない人もいるが、率が低い)
今から入ってくる学生については、その点に関しては信頼ができる。
ここの意見を参考にしてほしい。
君たちの関わりのある学校の先輩の年代は、正直役に立たない回答しか出てこないだろう。
多分これから君たちも100社お祈り時代の真ん中で過ごすことになるが、くじけないでほしい。
なんとしてでも就職を勝ち取れ。派遣に逃げるなよ。ニートになるなよ。社会保障制度について役所に相談に行け。