はてなキーワード: 自明とは
トランス支援者は、(真の)MtFが「ニセ女」呼ばわりされる事に反発するあまり、ニセ女を警戒する主張の全てを、「偽トランス」と(真の)MtFを混同した意見だと見做す。
そして彼らは偽トランスの徹底的な排除を主張する。たとえば「偽トランスが女湯に入ろうとすれば警察を呼んで逮捕してもらう」というのを、正しい対処法として主張する。
彼らに言わせれば、偽トランスと真のトランスの区別は確実に可能であるから、真のトランスを偽トランスと取り違えるようなことは発生しないというわけだ。
さらに醜悪な一部の反TERFは、上記の区別が自明であり風呂屋が現場で直ちに判断できるという主張を維持するために、「真のMtFはパス度が低いうちは女湯に入ろうとしない」と主張する。つまり、パス度が低いMtFは女ではない扱いを受ける。
LPTERF ( Low-Passability-Trans-Exclusionary Radical Feminist )の誕生である。彼らは反TERFと自認し偽トランスを恐れる者をTERF呼ばわりしながら、実際にはパス度の低い真のトランスの排除を積極的に主張する、TERFの一種である。
子持ちの人への不満を他人の子供に対して何の権利もないのに、子供に対する義務だけは押し付けられてるって感覚が根底にあるんだと思う。
実際、最近の風潮として社会全体での子育てに参加する義務はあると言われるけど、それの義務の裏付けとなる権利は一切ないんよ。
当たり前だけど他人の子供に対する権利なんて存在しないからな。
将来の年金がーとか言われるけど、実際氷河期世代以降の年代は年金支給年齢は上がるだろうし支給額も減るだろう。
そもそも子供が働いて税金や社会保障費を払えるようになるのに最低でも20年はかかる訳で、氷河期世代に80くらいまで現役で働いてもらわないと社会が回らなくなるのは自明なんよ。
ぶっちゃけ子供を作らなかった高齢者は年金支給額を減らすとか、年金支給そのものを停止するみたいな話も当然でてくるだろう。
今、子育て世帯への優遇に協力したとしても、将来それが報われる可能性はかなり低いと思うんよ。
30年後くらいの若い世代の老人へのヘイトは、今の比じゃなくなるだろうし。
そりゃあ他人の子供を世話したり、子持ちの人の分の仕事を請け負ったりするのは報いを求めてやることではないのかもしれないよ?
でもやっぱり社会の雰囲気で義務だけ課して、その義務に対して権利の裏付けが一切ないままのはおかしいと思うんだよな。
子どもたちが大きくなったときに「君達が健やかに成長する為に俺は1%の義務を果たしたよ」と、胸を張って言える権利はあってもいいと思うんだよな。
それでなにか得することはなかったとしても、若い世代の為になにもしなかった人呼ばわりはされずに済むってのは結構大きいと思う。
そりゃやるよ?依頼人の利益を最大化させる仕事なんだから引き受けたら責任持つに決まってるじゃん。
日本語の話をしているのか数学の話をしているのかを明確にするべきだ。
日本語としては「n以上」は「nより上」とまったく同じである。
「n以上」も「n以下」も「n」を含む
というのは自明ではない。
たとえば「期待以上の活躍をする」は「期待どおりの活躍」を含まないし、「平均以上の得点を取った」は「平均と同じ得点」を含まない。
もちろん「二人以上で来てください」は「二人組」を含むので、必ずしも「n」を含まないわけではない。
しかし、数学においては「n以上」と「nより上」は異なる、とされる。
「n以上」は「more than or equal to」で、「nより上」は「more than」なのである。
そうした使い分けをされるときの「以上」はいわば数学用語であると言える。
おそらくはそうではない。
とりあえず議論の前提となっていると思われる部分に同意できないんだが、それぞれ例を示してくれませんか。
あ、「私のタイムラインの中」とか「私の友人」みたいなエコーチャンバーの話はいらないです。
ある程度権威付けされたきちんとしたものか、権威付けはされていないけれども、客観的に絶対数で多くの人がそのように考えていると見ることのできる方法でお願いします。
元増田で「レジ担当の人間を雇う」代わりに「人間より維持費の安い機械を先行投資で買う」というトレードオフが語られていないのがそもそもの問題では?
一括やリースで機械を設置する即金が無いならトータルコストが高くてもレジ担当を雇うのがベストエフォートになるはず
通過側で下手に互換性を設けるとそれ自体が脆弱性になることは自明なんだから
逆に紙幣判別機へUSBのような共通規格を制定して安価にモジュール交換できるような法案を設けた方が建設的では?
USBのように接続端子の形状さえ統一しておけばソフトウェア側で吸収できるんだし何十年もかけて紙幣に互換性をとか悠長な話でもなくなる
前提条件を見直した方がいいよ
なんで共同親権の話がネットの口汚い人たちの熱い関心を呼ぶのか、ウヨサヨの醜い争いのネタになるのかの理路がよくわからなかったのだが
「よっぽどの事情がない限り離婚時の親権は母親がデフォ」という慣習にまつわる既得権に対して挑戦的だからなんだな。
しかしその既得権だけをぶっ壊せば済むものではなく、養育費のとり方とかいろいろ併せて整備しなきゃいけないことは多そう。
慣習的に女親の権利が強いのと、慣習的に男親は「逃げてしまえばそれまで」なのはセットで機能していた
子育てと婚姻状態継続がセットなことの自明性を崩すのは正しい方向だと思う。
同性婚にも関わってくるだろう。既存の婚姻の枠内に入りたがるのはむしろ保守的な価値観への帰依であるとようやく気付く人が増える
例えば、あなたが他人の子どもの入浴の手伝いを任されたとします。
あなたは否が応でも子どもの裸を見ることになると思いますが、それで欲情して強姦するような行為には及ばないでしょう。
では、あなたではなく子どもの裸の欲情するペドフィリア嗜好の異常者だった場合はどうでしょうか?
強姦するでしょうか?
まずしないでしょう。
欲情しない。したとしても外部に影響を及ぼさない。それが良識ある大人です。
次に、子どもから大人への積極的な性的アプローチがあった場合を考えましょう。
あなたの前に子どもがやってきて自ら服をはだけて肌を露出させます。
どうしますか?どうもしないでしょう。
「なーにバカ言ってんのかねこの子は……」で終わりです。相手にしません。
子どもが生活に問題を抱えているのかもしれないので、個別に対応は必要かもしれませんが。
あなたがペドフィリア嗜好の人間であるなら、上記のシチュエーションにはドッキリしてしまうでしょうが、性的アプローチを受け取らないのが良識ある大人です。
また、あなたがペドフィリアでなくても相手が発育の良い16歳の青少年であった場合はドッキリしてしまうかもしれません。それでも性的アプローチを受け取らないのが良識ある大人です。
最後に、子どもが性的メッセージを振りまいている状況を考えましょう。
例えば、オシャレ目的で女子高生のスカートが短くて下着が見えそうだったり、意図せず男児の短パンの隙間からちんちんがはみ出していたり、面白いと思ってクレヨンしんちゃんがケツを出したり、なんらかの目的で5歳児がちんちん出したり服の上からあなたの体を触ってきたりするような場合です。
性的メッセージという造語を出しました。子どもの意図に関わらず発せられる性的(とも捉えられる)な大人への情報発信とさせてください。性的メッセージには2つ目の例に出した性的アプローチも含んでいます。
これらの子どもの性的メッセージに出くわしたとき、良識ある大人がするべきことは性的メッセージを真正面から受け止めて騒ぐことではないことは自明ですよね。
一番は相手にしないこと。
何かするにしても、しんちゃんには迷惑になるからとみさえがコメカミをグリグリし、女子高生には「その格好寒そう」とおばちゃんが小言を言うくらいのものです。
スカートの短い女子高生に対して性的すぎてけしからんとおじさんが騒いでいたらどうですか?キモくないですか?
あなたがペドフィリアか否か、欲情するか否か、不快に思うか否か、子どもの性的な意図の有る無しに関わらず、性的メッセージを受け取らないというのが良識ある大人の責務です。
プログラミング言語で動的言語を嫌って静的言語こそ至高みたいな主張の人って結構みかけるんだけど、なんでみんな偉そうでマウント取ろうとしてるの?
パフォーマンス面での優位ならまだわかるけど主張は基本型がないことをディスってる
頭が良ければ脳内で整合性の取れるコードを書けるわけだから、コンパイラのサポートがなくても書けるほうが優秀なのは自明のはず
コンパイラにサポートしてもらわないとまともなもの書けないよというほうが能力としては劣ってる
劣っててコンパイラのサポートがほしいならそれでもいいんだけど、なぜ自分が無能だということを偉そうにアピールできるのかがわからない
自分頭悪いので静的言語じゃないと書けないんですーとか言われたらじゃあそういう言語使うかとなるけど、
動的言語とかゴミ使う価値ないとか、◯◯言語は消えるべき、とか言われたらお前の頭が悪いだけなのになぜそれに合わせる必要があるの?としか思えない
最近の猫保護にはほんの少し抵抗がある。僕は環境問題とか関心持ってるし野良猫の生態が野鳥等への影響ものすごく大きいことも懸念してはいる。してはいるんだけどさ。
とりあえず、「猫ちゃんが外にいるなんてかわいそう!車に轢かれたり病気になったりしたらどうするの!」ってトーンには全然乗れなくて。いや生き物ってそういうものでしょう。これがかわいそうならじゃあタヌキやハクビシンが轢かれるのはどうなのタヌキも保護するなら一貫性あるだろうけどさ。あるいはそれは車社会に対していうべきことであって野良猫や外飼いの人に言うことではないのではと。
「室内飼いの方が猫ちゃんにとって幸せに決まってる!」みたいのも、人間に置き換えるまでもなく、去勢して移動の自由を奪うことがその子達にとって幸せであることが自明ですか?というね。これちょっと判断基準が変われば普通に虐待認定されたっておかしくないと思う。
猫好きだし、道で轢かれてる猫(でもタヌキでもヘビでも)みると悲しくなるけど、そして、現代社会において生態系や糞害などの問題を鑑みて室内飼いが推奨され野良猫が駆逐されてゆくというのは、まあ筋は理解するし積極的に反対はしない。それがまあ正しいのかな、とも思う。でも、これは人間のエゴであって決して「かわいい猫ちゃんのため♡」ではないんだよね。ここは絶対勘違いしちゃいけないと思う。
僕にとって猫って「境界を跨ぐもの」なんだよね。完全にペットではない。野生動物でもない。自分ちにいるかと思うとよそんちにいる。かわいいかと思うと気持ち悪い声で鳴く。ネズミ捕りやなんかで役に立つとも言えるし、糞や野鳥捕獲で迷惑でもある。そういうどっちつかずのものが、単なる愛玩動物でしかなくなってしまうことがさみしい。曖昧なものを許さない時代の流れとして仕方ないんだろうけどね。
もう受験生でもない自分が高校レベルの参考書や問題集をいつまでも解いたりするべきなのか分かりません。
解いたりするべきだと思う以下の持論を持っているのですが、この持論が正しいかどうか全く確信が持てません。
以下から持論です。
まず、高校で習うことを理解していなければ、大学以降のより専門的なことが理解できないことがあるというのは確かだと思います。
だから私を含めそういう専門的なことを理解したい人は、高校レベルのことの穴を埋めるべきだと思います。
それをせずに大学レベルのことの学習に手を付けても理解できることがある可能性はありますが、その理解したという感じに錯覚の場合が混ざるおそれがでてくると思います。
つまり理解してないのに知った気になる、いわば「何がわからないかわからない」状態に陥る可能性が出てくると思うのです。
そのうえで、そのような大学レベルのことを理解していないと理解できない、より高度な理論を学ぼうとすると、今度はわからないという自覚はあるが「なんでわからないのかわからない」という状態に陥ることになります。
つまりその高度な理論を理解するのに必要なそれに比べれば相対的に基礎的な理論や概念は複数あることも当然考えられ、そのどれを理解してないのかがわからない、特定できない、ということが考えられるわけです。
理解しなければならないこととしては当然高校レベルの部分に穴がある可能性もあるでしょう。
しかし学ぼうとするものを見ても、その理論等の全容を見て、具体的にどんな知識が必要か余すことなく把握することは意外に難しいでしょう。
単に用語の意味を知らないといったことなら、その用語をネット検索で、その用語を使っている理論のなかでもっとも基礎的なものが何かということを目星をつけて、そこから学ぶという方法がとれるでしょう。
しかし学術的文章が理解できない原因は必ずしも「単にこの言葉がわからないから」というような、わかりやすい輪郭を持ったものに由来しているとは限らないと思うわけです。
大学レベルの参考書(学術書)や論文を書く人は受験競争を経験した人なわけですが、受験勉強で得た「考え方のひな型」のようなものが、少なからずその後の思考やそれに基づく文章に影響を与えていると私は考えます。
それはもはや自覚的に認識できるものではない、無意識下にある思考の体系であるわけです。
その「枠組み」を共有していない人にとっては、より言葉を尽くさないとわからないことでも「既知の事項として」という感覚すら持たずに、その部分の言語化をせずに文章を書いている部分があると思います。
特に幾何学が絡む記述は、センス=ひな型・枠組みを持つ著者自身には空気のように当たり前のことであるために記述がシンプルになってる説明に対して、枠組みの無い人にはなんでそうなるのということがまるでわからないということが起こり得ます。
それは著者すれば「なんかこいつすごく察しが悪いな」としか思えないほど逆に理解しがたいことです。
これは大学と高校の話ではなく高校とそれ以下の話なのでたとえが悪いかもしれませんが、たとえば高校物理である部分の角度と別の部分の角度が同じという事実から式を導出することにおいて、なぜ角度が同じといえるかということの説明まではされてないみたいなことがあります。
これは、角度のことについてなら、中学受験の算数の難問を数多く解いてきたりその答に対する解説を見た経験が、まさに有機的に思考の枠組みとして血肉化した書き手自身には、条件反射的に当たり前のように角度が同じだと認識できるが、そうでない人には説明がないとわからない、という枠組みの有無による断絶ともいうべきことが生じているのだと考えられます。
しかし書き手にはすべての読者のレベルに対応することは不可能ですし、そもそも「枠組み」がある当人には1+1=2のレベルで当たり前のようにしか思えない角度の同じさを説明しようという発想すら起こらないから、こうしたことが起こると思うわけです。
そしてこの枠組みは「枠組みが足りてないから理解できないのではないか」という必要性の認識に応じて選択的に必要十分なものを特定して身に着けられる、という性質のものでないわけです。
上記は高校とそれ以下のレベルでの話ですが、大学とそれ以下のレベルという場合でも同じ構造的問題を共有していると思います。
因数分解や極限値を求めるための式変形の定石や、その他証明問題などに対して定石と呼べるような解法から定石ではない解法まで、その問題をこなしてきた人たちにとってはその経験が枠組み化しています。
なのでその人たち自身が見てきた高校レベルの参考書では途中過程として式変形など書かれていたものが、当人が研究者になって書く大学レベルの本ではその本人の主観的に自明性が強すぎてその途中過程を書くような発想すら存在しないわけです。
ですから、大学レベルの本を理解するには、およそ考えられるかぎりのあらゆる高校レベル以下の問題を解いて理解することを片っ端から行いその経験を積んで枠組みとする必要があると思うのです。
でなければ結局「何がわからないかわからない」「なんでわからないかわからない」という状況に陥ると思うわけです。
予備校講師の数学のアドバイスで「数3は数1Aと数2Bの知識がなければ理解できないというが、だからといって数1A・数2Bを完璧してから数3に取り掛かる必要はない。完璧は難しいのだから同時並行でよい」という趣旨のことを書いていたのを見たことがありますが、まずこれは受験勉強に関してのアドバイスであるということに注意するべきだと思います。
つまり点を取るためなら、完璧でない理解でも、ふわっとした理解でもパターンとそれへのあてはめとして、問題は解けてしまうということは十分考えられるからです。人口無能、あるいは中国語の部屋のようなものかもしれません。
一方で学問として理解するということにおいては、厳密に完璧に理解していなければ、ただの知ったかで、それは全く理解してないのと同じ価値しかないのではと思うわけです。まさに論理として理解しているのではなく「受験で点が取れる感覚」でパターン認識としてわかった気になっているだけだと思うからです。
また、大学以降のより専門的なことが理解できれば、高校で習うことはすべて理解できる、というわけでもないと思います。
先ほどの高校物理の例にあるように、高校レベルのことが当たり前になってる人が書いた大学レベルの文章には、高校レベルのことは書いてないことがあるわけです。
そして、どの大学レベルの理論を学ぼうとするかによっては、自分の持つ枠組みで十分にその理論が理解できるということはありえます。ありとあらゆる高校レベルの枠組みを網羅している必要はないわけです。
なので、大学レベルのことは理解してるが、その大学レベルの文章に高校レベルのことは書いてないかもしれないので、その後大学レベルのことにしか触れなかった場合、高校レベルだけど初見だと解けない問題が死ぬまで解けないままであるということが起こり得ると思うわけです。
たかが高校レベルだから、初歩的なんだから受験生じゃなくなっても真面目にとりくむほどではないと思うかもしれません。
しかしそのように単なる初歩的なこととされるかは、意義深いこととされるかは、時代次第の相対的なことではないでしょうか。
2000年以上前ならピタゴラスの定理を理解することも十分意義深いことだったでしょう。
時代が進むことによって、より高度な定理や理論が発見され、既存の定理はそれを理解するためのより初歩的なことと規定し直されるというだけです。
このような文脈での主語はあくまで「人類」です。言い換えれば、人類のうち誰かひとりでも知っていたり理解していたりするようなことを全て知っているような、仮想的な知性にとっての意味付けだと言えると思います。なかば無意識的にこのような仮想的な知性と自分を主語のうえで同化させてこのような「初歩的/意義深い」という価値判断をくだしているにすぎないのではないでしょうか。
あるいは「文明」を擬人化して主語においているとも言えるかもしれません。「文明」にとって、容易に理解できる初歩的なことかどうかということです。
一方実際に世界を経験する主体の単位は「個人」であり、わたしであり、あなたです。
ある時代にとって意義深いけれど今は初歩的なことを理解してない個人がいるならば、人類や文明が主語である場合、それが最先端の知識=未知であるか、または既知となって間もないか、で意義深いかどうかの価値が規定されていたのですから、個人を主語にした場合も同様に考えればよいのではないでしょうか。
つまりその個人が理解してないのなら、それはその個人にとって意義深いことなのだと思うのです。
大学レベルとか高校レベルとか関係なく、「自分が知らないという意味で意義深い」解ける問題を増やしていくことは、この世界や現象に対する理解の解像度をあげると思うのです。
だから大学レベルのことには書いてない高校レベルの問題の解法も赤本や難関大を意図した参考書には無数にあるので、それを解き続けることには、それを飛ばして大学のことを学び始めることを通じては経験できない意義深さがあると思うのです。
まとめれば、高校レベルのことが足りないために大学レベルのことが理解できないこともあれば、大学レベルのことでは身に着けられない高校レベルのこともあるので、結局この世の中をよりよく理解する手段として高校レベルのことも大学レベルのことも等しく有効なら、まずは高校レベルのことを完璧にしなければならないのではないか、と思うわけです。
ここまでが持論の全容です。ですが世の中の成果をあげている科学者の全てがこのようなことをしているとは到底思えないので、自分の考えが合っているなどという確信は全く持てないわけです。
なので、ぜひ、反論できるところがあったら教えてください。
1. スタート:生き延びよう。
↓
2. 働いて買い物するだけで満足:自由に買い物ができるし、働くだけで満足。ウホウホ
↓
↓
4. 自由に出来るって重要だよな:望んでいた年収はまだ無いけど、やりたい放題できるので仕事が楽しい。制限がある指示されるのは自分には合わない。ただし、年収が高くないのは不満だなー
↓
5.仕事の愛着:仕事で自由にできることが楽しい。仕事中毒かも。お金があっても働くかもしれないな。○○くらいの手取りがあればいうことないんだけどなー
↓
6. 過去の目標の年収を達成した:やりたい放題も大事だけど、やっぱりお金は重要だわ。ウホウホ
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7. そこそこ高い年収がもたらした物:金銭感覚が少し改善された
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8. 現在の心境:そこそこ高い給料をもらえるし、仕事も嫌いじゃない。ただ、以前のように仕事でやりたい放題できないから、もし働かなくても生活できるなら働かないンゴ。でも、ちょっとした贅沢はしたいし、老後のためにも蓄えたいから、やりたい放題できるけど給料がイマイチな仕事にはもう戻りたくないンゴ。
下記のどちらか
ワイトもそう思います
無いと思う
そのどちらも選ばないンゴ。どっち選んでも、最終的に『働かないでいいなら働かないわ』になるからだ
なので、『そこそこ高給でやりたい放題 出来るor 社会に貢献する仕事』を選ぶンゴ
そうね
でも、生涯に渡ってINを確保しないといけないのは実際的な問題で、モチベーションは最重要
それはそう
今の年収(なんなら以上)を維持するか、ちょっとした贅沢を諦める必要がある
あと、廃課金・資金を全ツッパにまったく抵抗がない、異常に衝動的な人間という課題は解決しないと詰みそう
ただ、 投資>労働 であることは自明・・・・、ボーっとしとらんで、
『あの時○○に投資しておいて良かった!』 or 『あの時、自分なりに試行錯誤はしていたけど、○○が目に入らず、結局儲けられなかったわwガッハッハッハ』
ってやりたいモンっすなぁ・・・
尽きると思います
自己コントロールについては、某サーキットトレーニングで男性トレーナーが続かないを題材に考えたい