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はてなキーワード: 看板とは

2022-02-05

まり劇場版勇者ヨシヒコ 大魔王のあとしまつ」だったら許されたんだろ?

じゃあタイトルが悪いんじゃん。

焼肉ラーメン」って看板掲げてるのに注文したらチャーシューも浮いてなくて「焼肉のタレで味付けしたラーメンなんで焼き肉は入ってないですよ」って言われるようなもん。

あっほくっさ

2022-02-04

大怪獣のあとしまつ」の反響について思うこと

※読む前に:

本文は「大怪獣のあとしまつ」の感想ではなく、この作品の【反響】について思うこと、であり、作品ネタバレには触れません。観に行ってないし。また、本文はあくまで「この騒がれ方おかしくない?」と書いてるだけなので、見る人にとっては(特に特撮的な目線批判的な印象を抱いた人には)悪印象を受けるであろうことが予想されます。読まない方が精神衛生上凄くいいです。

 以下、本文。

 まず、俺はこの映画をまだ見ていない。

 それなのに筆を取ったのは、「令和のデビルマン」だの「パシフィックリムシンゴジラがあえてやらなかったことの煮凝り」だのと散々なことを言われているから。

 この上記の二文に関して、まず俺は思った。

「……いや、そう言う映画でしょ?」と

 順を追って説明したい。

 この作品個人的には楽しみにしていて、というのも特報の段階で

「うわ〜!邦画臭っせ〜!こりゃB級だ!」

絶対恋人を失った主人公が雨の中『ゴジラァアアアアアア!』って叫びそ〜!」

「クソつまんないギャグ挟みそう〜!」

アイドルあたりが主演やりそう〜!」

 というのを感じていたから。俺はこう言うありがちにまみれた【ザ・邦画】な映画が好きで、むしろ嬉々としてよく見に行く方だ。

 この作品はその中でも「シンゴジラパロディ」という印象を強く受けた。怪獣デザイン、特報やPVから意識しているのは伝わった。それでいて、「倒すのよりむずくね?」「この死体、どうする?」と、ちょっと軽めに茶化したコピーから、「ああなるほど、あくまパロディであって、肩の力を抜いてみるタイプなんだね?」とも。

 だからこそ、シンゴジラパシリムと比較したり特撮がどうたらこうたらって視点批判してるのがちょっとズレてない?と思っている。

 タイトルだけならまだいいが、ポスターで思いっきジャニーズが全面にプッシュされていて、怪獣マヌケな倒れ方をしていて、キャッチコピーは「この死体、どうする?」「倒すのよりむずくね?」、予告では既視感強めなシーンに元号発表のパロディや偉そうな人たちによる「怪獣って生ゴミ?」などというあっさ〜い会話、ありがちすぎて既視感凄まじいヒロイン叫びダッシュ

 これ見て「よっしゃ!シンゴジラパシリムと肩を並べる特撮映画が出たぞ!」って手ぐすね引いて見に行く人、本当にいるの!?

 事前に出された情報をどこからどう見たってB級邦画じゃん!

 ザ・大衆迎合映画じゃん!

 これ作ったの庵野秀明か?ギレルモデルトロ!?あるいはそれくらいビッグ監督!?

 三木聡だぞ!?!?!?!?!?!?

 とはいえまあ、タイトルとあらすじだけ見て見に行く人もいるかもしれないし、PVからでもネタバレされたくなくて情報シャットアウトしてる人もいるかもね。現にそうやって見に行って「予想と違った」って言ってる人も見かけました。たしかにパッと見は真面目な内容に見えるかもしれないし、だったらこの反応も頷けますね……。

 ……いや、それに関しては見てないあるいはあえて見ない方が全面的に悪いだろ。

 製作者側は「こんな映画ですよ!」ってちゃんと出し惜しみもせずに言ってるのにそれを消費者側の都合で見ずに鑑賞して「予想と違った!」ってとんでもないこと言うじゃん。ヤバ。スーパークレーマーか?

 これが例えば、「大真面目に大怪獣の後始末について考察した上でキャラクターがおふざけなしで頑張るシリアスな内容」と見えるような予告を発表して、いざ封切りとなって「実はおちゃらけ映画でした〜」って感じで嘘をついていたなら激怒もわかるけど、この作品はそうとは思えないし。

 うーん、なんだろう。

 この映画特撮真剣度をメインとして見に行ってその視点で低評価してるの、入り口の脇にアメリカ国旗のぼりが立ってて「ジャパニーズフードレストラン〜SAMURAI〜」って看板掲げてるレストランに行って寿司注文したらカルフォルニアロール出されて「こんなの寿司じゃない!いいか寿司ってのはな〜」ってキレてるみたいで見てて痛々しいんだけど。

 ちゃんとよく見ろよ店員全員アメリカ人なんだから大したもの出てくるわけないだろみたいな。(あくまで例えであって外国人寿司職人を貶している訳ではありません)

 まとめると、「この作品シンゴジラを期待して見に行くと肩透かしを喰らう」という感想に対して、「あったりまえじゃん!!!!何言ってんの!?正気!?!?」と思ったなあ、ということです。

 これくらいが俺が今回の反響を見て抱いた所感です。

 とはいえ、まあ、その……。

 それはそれとしてこの映画単純にクソつまんなそうだな〜!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 見に行くけど!

 でもな〜、これがネタにできるクソならまだしも、たまに「これ二時間ドラマでいいよね?」って言いたくなるようなやつもあるからな〜。それだったらやだな。

 エンタメって枠組みで作られてるからある程度は信用できるけど。

 雨の中叫ぶ山田涼介、見てえ〜!

 見に行った後友達と「あそこマジありがちなシーンだよね」って笑いてえ〜!なんならそのシーンのモノマネしてやっぱり笑いてえ〜!

 「あそこで寝るかと思った」「俺は寝た」ってやりてえ〜!

 「でもあのシーンはよかった」「いや俺はそこもどうかと思った」って話しあいてえ〜!

 そんでもって来年の今頃には全て忘れてたまにツタヤレンタルの棚の端っこにあるのを見つけて「あったな〜、忘れたけど」って思いてえ〜!!!

 以上でーーーーす!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

【余談】

 この作品だけじゃないけど、何でもかんでも邦画でつまらないと思った作品を取り上げて「令和のデビルマン」って言う人、普通に気持ち悪いし実際にデビルマンたことなさそう。

 見た上で言ってたとしても、「今後なんかの作品見た時『令和のデビルマンだ!』って言いたいから」って理由で見てそう。

 バズってるツイートにぶら下がってる画像リプに「その画像もらっていいですか?」ってコラをリプしてそうだし、クソリプに対しては「ここだけの話お前クソリプ送ってるぞ」ってポプテピの画像貼ってそう。

 1036フォロー、81フォロワーっぽそう。

 それからしばらくは「令和のデビルマンだ〜」「この映画は令和のデビルマンだぜ〜」って上手いこと言ってやったぜとでもいいたげに何度も言ってそう。

 バイビ〜。

2022-02-03

日が暮れる前、まだ空に明かりが残る時間帯に、普段まり行かない商店街を歩くと、なんというか生活感・生命力のようなものを感じられて気持ちが良い。

飲食店にはまだ人が入っていなくて、これから賑わうだろうかという予感だけが先行して、看板や街灯だけがギラギラと光る。

家へ帰っている途中だろう人たちは足早だけど、リラックスして身体が軽そうに見える。

anond:20220203111920

触り放題覗き放題90分3000円!

とか価格設定して看板出せば解決するんじゃない?

2022-02-02

Twitter特有大袈裟製品紹介

日本看板映画ポスターがわかりやすく派手になっていく現象と一緒なのかな

2022-01-31

anond:20220130121549

この前久しぶりにテレビサッカー見た。最終予選の中国戦

試合自体日本圧勝だったんだけど、ピッチ看板は全部中国語

昔は日本代表がヨーロッパとか海外試合する時は看板東進ハイスクールとか日本語が並んでたけど、

今の日本後進国から自国試合でも相手国の看板がズラッと並ぶんだなと。

anond:20220128214256

郷愁だろうなぁ

 

ところでとても寂れた場所にあるボロ長屋の中の一軒のスナックが夜になると看板に灯を入れて生き返るのをみたとき感情とか

暴走族でもなく暴走人が一人でギアチェンいれながらプーン、ぷいプーンとふかして走り去るドップラーの音とか

あれはなんか名前あるんかなあ

2022-01-29

anond:20220129050933

ちなみににじさんじも、人数としてはがっつりスパチャ読みタイムを設ける方が多いはず。特に女ライバー

でも月ノ美兎やら剣持刀也やらリゼ・ヘルエスタやら葛葉やらの看板どころがスパチャ読みをほぼしないし、月ノと剣持はメンバーシップすらやってないので、グループ雰囲気として「お金は黙って最低限いただいて、放送面白さでお礼」の美学がやや強い感はある。

まあ人数が多いせいでグループ内でもファン同士が別文化になっているので、スパチャ読みをやるライバーファンにはまた別の感覚があるのかもしれんが。

2022-01-28

JAXAにおいては「分をわきまえているか」が最重要になることについて

当方JAXA関係者(広い意味で。それこそJAXA体験イベント一般人として参加したレベル関係者と含むレベルで考えてくれて良い。その方が身元がバレにくくなるから

3行まとめ

JAXA権威主義組織である

権威立場がそろえば漫画がクソだから出版社敵対関係も取れる。

人によっては「分をわきまえた上で」JAXA看板を掲げながら出版社喧嘩することも出来たのである

JAXAの半分は象牙で出来ている

JAXAはほぼ研究施設である

ウンチャラ機構とついているお役所研究を外部に丸投げするタイプ自分らでも割とやるタイプに別れるのだが、JAXA自分らでも割とやる方に属すると思う。

全ての独立行政法人について完璧に詳しいのかと言われるとコチラもほぼ門外漢に近いのだが、体感だとJAXAはかなり自分たちで研究している方だ。

そして、研究自分らでやっている組織権威主義組織全体、それも個々人の中にまで根深蔓延っている。

外部に委託している部分が多い組織では、書類企画権威主義蔓延っていても、個々人の感情の中では「看板と名札がどうだってんだよ?なぁ?」みたいな気持ちが強い傾向にある(と思う。知り合いに聞いた話の平均とかで)。

「分をわきまえる」とは「分野が違うことによる減衰を加味して自分権威計算する」ということである

逆を言えば、権威が滅茶苦茶強ければ自分とはかなり無関係な分野に対してもズイズイ意見を押し通すことが出来るのである

まあつまりは、普通会社において営業部部長であれば製造部の係員に「おい。服装がだらしねえぞ」と多少喧嘩腰に怒鳴っても許されるが、相手が科長ぐらいになると表向きは従順な板度をとってもいなくなった数秒後には「あんたにそこまで言われるもんすかね?」と若干冷めた空気が流れたりするアレの度合いである。

JAXAではこの力が他の組織より強い。

これはお役所からということもあるし、研究組織からである

会社というのは究極は利益追求目的であるが、お役所組織が綺麗に回っていることが最優先なため、ハンコの序列が持つ力は尋常ではない

現役時代かつ出版社に脅しをかけられる立場なら「分を弁えた発言」として成立しただろう

恐ろしいのはここである

え?マジ?と思ってしまうかも知れないが、やれる人がやろうとすれば「この出版社さんとはJAXAは付き合いませんよ」をぶっかますことが不可能ではなかったのだ。

独立行政法人世界にも門前払い出禁という概念存在する。

電話をとっても繋ぐな知らんぷりをしろと言われたらそこで終わるのである

もちろん正当な要求であれば受ける必要があるだろうが、お願いベース程度ならガンガン弾かれてしまう。

役所は、契約をしている案件なら丁寧に対応するが、そうでない内はなあなあなご近所づきあいが基本を締めており、「公僕なので国民のために全てを差ししましょう」なんて態度は取らない。

しろ「我々の労働税金で賄われているのだから、一企業に対して安易に労力や知識提供するのもね。正式手続きでの資料要求ならコピー代で対応するかもだけどそれ以上は……」と冷たい態度を取ることも多い。

なので今回のようなことがあったときに機嫌を損ねた人間が然るべき立場であれば「こんな奴らとはもう付き合わないようにしましょうね」とお触れを出すことも出来てしまうのである

「分をわきまえる」ってそもそもなんだ?と思った人も多いだろう。

だが、これは役所システムを考えればおかしいことは言っていない。

役所システムに染まっていなければ出てこない発想なのかも知れないが、役所にどっぷり染まっているとその事に気づけ無いのである

恐ろしいねえ……。

さっき救急車に轢かれかけたけど間一髪で助かった

よく見たら「止まれ」の看板あった

anond:20220128023432

そりゃーNATO組の組員が組の看板否定せんだろう

TPO無視したら表現の自由は守られるのか?

この前の梅田ロフト問題なんかが顕著だけど、梅田ロフト一階の入り口から見える場所に、リボン乳首や股関の割れ目を隠しただけの乳輪はみ出た陰紋少女イラスト掲示したアレ。

嫌がった女性オタク達が怒り狂って大騒ぎしていたけど、あんなんロフトにあるのはほとんどの人が嫌だよ。

子供連れてロフト入ったら、淫紋リボンエロイラスト否応なく見せられるて。安心してロフトに入る事すら出来んじゃん。

かい看板ノーパン股間ハーネスベビードールで頬は殴られた青痣、体には噛み跡、首に鎖の少女みたいな、何でこれを見たくない人に見せないといけないのかと。

オタクにはTPO解りません、嫌がる人や子供にもエロを見せたいです、法律違反じゃないからいいんですーって大騒ぎした先にあるのって、むしろ法規制じゃないのか。

2022-01-24

anond:20220124215534

こういう失敗する新業態、失敗するのって「ファミマ」の看板を背負ってないからだと思ってしまうんだけど、多分「ファミマ」へのダメージコントロールのために背負わせてないんだろうな。軌道に乗ってきたら「ファミマ」を背負わせる

ももっと強かったら

喫煙禁止看板の前でタバコすってる基地外を始末できたのに

2022-01-23

野鳥野良猫

毎週末、地元自然公園で山歩きをしてるんだけど、そこは野鳥が多い場所で、

野鳥を捕まえてはいけません」という注意看板があちこちに置かれている。

その公園野良猫もすごく多い場所で、山のあちこちで猫に出会うんだけど、

実はその猫たちが、野鳥を捕まえて食べたりいじめたりしてるんですよ。

もう何回もその現場を目撃したよ。

 

思うのだが、いわゆる猫島ってかなりやばいんじゃないの。

だって孤島は渡り鳥の中継地点ですよ。

野良猫がもたらす環境破壊って、もしかして想像を絶する規模なんじゃないか

2022-01-20

広島広島と書くのをやめるべき

ヒロシマ県と書け

全ての看板を書き直せ

2022-01-19

意識高いラーメン屋看板で「小麦がどうとか」みたいな店

ちゃんと「MSGと動物脂で客を中毒にさせてどうとか」に改名したほうがいい

2022-01-18

anond:20220118143313

でしょうな。仲良く権威主義

けどアカデミアの看板があれば売るために専門外の領分に踏み込んで雑なこと(正しくないこと)書いても許される風潮があって

権威がまともに機能してる感はしねぇですけどね

2022-01-17

修士論文を出せず、消息不明学校中退したコンプレクスがいまだに消えない

元々研究者を目指していた。

だが修士のころ行き詰まってしま研究室から消息不明になる形で休学留年し、ついに学校中退した。

教授は少しでも私を助けようと他研究室との共同研究などの話もつけてくれたりしている最中で多大な迷惑をかけた。

親にも音信不通心配をかけて遠くの実家から家まで来てもらった、道中どれほど不安だったかどれだけ迷惑かけたかと思うと感謝してもしきれない。

そのコンプレクスが10年近く経とうとしている今も消えることがない。

ふとした瞬間に悪夢のように記憶に蘇り、どうして修士論文を書けなかったのか、何がダメだったのか、どうしてればよかったのか、消息を絶つのではなくきちんとケジメをつけるべきだった、自分のこういう性格がだめなんだ、など反省を繰り返しては自責する。

そして最後教授や親への申し訳なさ、研究室の先輩や同期への羨望などの感情が入り混じり自己嫌悪に陥る。

自己肯定感は地に落ちている。

そんな過去はひた隠しにしているので社会に出てからは「東大卒なんだすごいですね」なんて言われることがあるが、

心の底から「そんなことはない」と否定し、その度にその看板とその過去とのギャップ発狂しそうになる。

子供ができても孫ができても死ぬ間際まで一生消えない傷としてこの傷は心に残り続けるのだろうか。

2022-01-16

もしも来年米不足になってタイ米輸入したら

吉野家看板商品ビリヤニになったりするんだろうか

2022-01-15

anond:20220112144654

一瞬だけローソンマート看板変わったけど戻っちゃったな

セイコーマートに怒られたんかな

2022-01-14

anond:20220114133403

宮廷といっても東大文学部あたりはそこそこ大企業に行く人も多いんだけどね。

どうしてもやりたいことが文学部にありそうなものだったら、中身はともかく看板社会科学よりになってる一橋大の社会学部に行った方が良かったかもね。

フェミニズムが傷を抱えた人間セラピーになることについて

前書き

現代日本フェミニズムは、傷ついた人間が慰め合うセラピー看板のような機能を持っていると言える。

エンパワメントとかシスターフッドという言葉が好まれるのもその一環と考えらえるし、そんな前向きな所まで至らない、まず苦しみや怒りを吐き出させてくれという層もいるだろう。

弱者にとって慰め合う場があるのは良いことなのだが、セラピーとしてのフェミニズムと、学問言論としてのフェミニズムが分離されていないために、言論としての信頼度は弱まってしまう。

それが、フェミニストメンヘラだとか他人幸せを許せないだとかミサンドリストセックスヘイターだとかの批判に繋がってしまっているのだろう。

私自身も精神疾患持ちなので、精神が弱っていること自体批判する気はないのだが、セラピー的な語り合いと、学問的討論がごっちゃになっている状況は大いに問題視している。


冷静な研究者と、傷ついている当事者は、兼任しようとすると問題が生まれやすいのでどちらか片方だけの立場に立つべなのだ

それぞれ、何がOKで何がNGか切り分けておこう。

〇 冷静なフェミニズム研究者が、「困った女性のための駆け込み寺やセラピーの場や、肯定しあえる関係必要だよね」という学問理論を組み立てるのはOK

〇 セラピーに集まる傷ついた人たちが、フェミニズム用語理論武装することも、武装しつつ過激な主張をするのもOK。(セラピー的な場の発言は、過激なことや邪悪なことも原則許されるべきである。その反面、そのまま社会への要求として世の中に伝えるべきではない)

× 自分に傷が深く残っていて冷静な振る舞いができない人間が、研究者としての発言力を得て、セラピー患者としてするべきな過激主張を研究者立場でしたり、他のセラピー患者内面吐露ちゃん検討せず世の中にぶつけたり、学者同士でも肯定しあう関係じゃないと耐えられなかったり、そういうのはNG


本論

フェミニズムという看板のもとに、傷ついた人々が集い、辛さや怒りを語り合い共感あい心を癒そうとする様子は、当事者会に近い。

当事者自体は、様々な依存症障害事故被害者などについて行われており、有用セラピーと言っていい。

だが「セラピーとしてのフェミニズム」の問題は、当事者会で癒される患者と、当事者会を監督したり理論を語る研究者がかなり重なってしまってるということだ。

要するに、患者セラピストもやってしまっているという問題が、「セラピーとしてのフェミニズム」にはある。

全てのフェミニストが病んでいると言っているわけではない。

だが、SNSのそこら中で行われている「セラピーとしてのフェミニズム当事者会の多さに比べて、監督できる冷静な研究者は全く足りていない。


普通当事者会やセラピーは、福祉医療臨床心理士といった専門家によって研究理論化がされ、社会に対して有用性が主張され、会の時にはその場にいて見守ったりもするはずだ。

傷ついた当事者たちの語りは、しばしば自己中心的だったり理屈が通ってなかったり乱暴だったりするが、それは回復必要な心の解放だ。

それがそのまま社会への要求として世の中に出されたりはしないので、当事者会で語ったことが間違ってるなんて責任を問われることもない。

客観的専門家当事者たちの感情吐露分析して理論化した上で、必要な部分は社会に訴えるようになっている。

から、傷ついている当事者が冷静さを求められたりはしないし、当事者ヤバいことを主張していても研究者研究分野の評価が下がることもない。研究者監督しているか当事者同士の会話が過激化するエコーチェンバーも防げる。外部の一般人当事者の無茶な話を直に聞かされて、振り回されて悪感情を持つこともない。

これらの全てが完全に徹底されてはいないが、それでも、当事者セラピーで語り合う患者とそれを監督する研究者の間に線が引かれていることで、様々な弊害抑制はできている。

しかし、「セラピーとしてのフェミニズム」では、患者監督者、研究者、全てが一体になりやすいので、普通当事者セラピーでは減らせる弊害がモロに発生しているのだろう。

たとえばフェミニストが「トーンポリシングはやめろ」と主張し、議論や説得において言い方ってのは大事だろと反論されるのをよく見るが、あれも、セラピー的な場と議論の場がごちゃまぜになっているせいだ。

はいま苦しすぎて言葉を選んでいられないのでセラピー患者として気持ちをぶちまけてるんだからトーンポリシングするな、というなら真っ当である

言い方や内容にしっかり気を使うから議論として発言を真面目に聞いてくれ、というのも真っ当である

だがそれを同時にやらせてくれ、自分セラピー的にぶちまけるが聴衆は真面目に聞いてくれというのは無法な要求だ。

せめて、セラピー監督する冷静な研究者に向かってぶちまけて、その研究者理屈の通らないところを補助し冷静な言い方に直して議論の場に持っていくという形にしなければいけない。

なのにフェミニズム議論では、何もかも一緒くたになりがちである


当事者研究者の分離は、簡単なことではないとは思う。

特に精神思想分野ではそうだ。

臨床心理士カウンセラーになりたがる若者はしばしば自分精神不安定を抱えているというのは、統計はないが実体験としてはよく聞く話である

博物学系でも、たとえば動物学者はだいたい動物好きで、心情的には動物保護したがるだろう。

だが、そこは資格団体ががんばってたり教育だったりで、臨床心理士精神保健福祉士はある程度の信用をしてもいいだろうとなっているし、動物学者も後先考えない動物愛護活動をする人は目立ってないわけだ。

しろ、愛後派の過激な主張の角を取って一般社会的に妥当で持続性のある動物保護のやり方を訴えたりしていて、それはまさに、感情的になりがちな当事者の語りを、研究者自分のところで一度止めて丸め社会に伝える、当事者会に対する医療福祉関係者の立場と近い。

から臨床心理士動物学者などの学問的信用はまあ保たれている。


ところがフェミニズムや一部社会学は、理論家や研究者が、傷ついた患者当事者と近かったり同一人物だったりして、監督者のいないまま野良セラピー的な語り合いをし続け、当事者の悲痛な心情吐露ではあるが社会妥当性の薄い発言みたいなもの研究者学問立場から主張されてしまっている。

フェミニストメンヘラだとか他人幸せを許せないだとかミサンドリストセックスヘイターだとか言われるのはそのせいだ。

ここで断言しておくが、メンヘラも、他人幸せを許せない人も、ミサンドリストも、セックスヘイターも、楽しく生きてよいし好きに発言してよい。当事者会で同病相憐れむのだって、傷ついた人間には大切だと思う。

過激思想トラウマは緩んだ方がいいとは思うが、それもあまりに大きな加害に繋がらないのであれば自由だ。

ただし、その発言あくまで傷つき冷静さを欠いた人の発言として生暖かく見られている方が、周囲にとっても当人にとってもよいはずだ。弱者の声は社会から無視されるべきではないが、そのままで妥当性が低いので、客観的研究者が集積して適度に理論化と穏健化した上で世の中に訴えるべきだろう。

フェミニズムが、弱者に肩入れしようとするあまり病んだ発言をそのまま重用したり、著名な研究者自分当事者性を切り離して冷静さを保つ努力をおろそかにしているのは、誰にとっても不幸である




おまけ 朝日新聞運営の『かがみよかがみ』について

一つ、わかりやすい事例を挙げる。

私がフェミニズムジェンダー学のセラピー機能と、学問言論機能の混在の弊害をわかりやすく感じたのは、朝日新聞運営の『かがみよかがみ』である

「私のコンプレックスを私のアドバンテージにする」とか「私は変わらない、社会を変える」とかをコンセプトにして、女性自己肯定感の爆上げを目指すメディアであることを謳い続けているサイトだ。

コンテンツとしては、エッセイ投稿サイトである

18~29歳の女性からエッセイ募集して、編集部がチェックして載せている。著名人契約コラムニストの連載もある。

そして投稿者を「かがみすと」と呼び運営ボランティアを「ミラリスト」と呼んで連帯感を出し、若い女性同士で肯定しあえるコミュニティを作ることも意図しているようである。(かがみすとは今もしっかり使われているが、ミラリストTwitter検索してもほぼ出てこないので今も使われてるかは外部からは謎)

二年くらい前に数回燃えたが、扱っている内容の割に回数は少ない気がする。特にはてなとは読者層が違うのだろう。

上野千鶴子さんに質問「ベッドの上では男が求める女を演じてしまう」 | かがみよかがみ

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/12881008

フェミニストでも、守られたい。フェミニストから、守りたい | かがみよかがみ

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/13432941

これの上の方に関わっていたコラムニスト(かがみすと)が、謝罪をしつつかがみよかがみを批判したnoteを全三回書いていたのだが、その第三回と、ここから辿れる記事類を読み、フェミニズムセラピー言論を区切らずやっている弊害はあるな、と強く感じた。

上野千鶴子座談会セックスワーカー差別炎上とかがみよかがみコミュニティ雰囲気について(下)|滝薫

https://note.com/hannnahkuku0819/n/n6514127ed85a

『かがみよかがみ』が目指すのは、あくま女性自己肯定感の爆上げである。正しさではなく、自己肯定感である

それも、明言はしていないが18~29歳の女性だけを狙っているだろう。

若い女性たちがエッセイで悩みを語り合い、書き手同士のスラックか何かでも褒め合い、お互いが何を言っても原則として批判しないし自虐もしない。まさに当事者会でありセラピーのやり方である

フェミニズムジェンダーなどの内容が多く扱われているが、それはあくま自己肯定感爆上げの道具なので、理論的な正しさを保とうとして心が苦しくなってしまうようなら、正しさを追求しなくてよい。

エッセイ投稿年齢制限も無い方が「正しい」のはわかってるだろうが、年上の説教エッセイ愚痴エッセイが載ってるサイトは鬱陶しくて気持ちよくなれないという若者本音を慮って、微妙理屈をつけて年齢制限をかけていると思われる。

投稿者をかがみすとと呼んで内輪感を作るのも、その繋がりで孤独が癒える人がいるかである。そういう内輪感にウエッとなる人もいるだろうが、そう言う人は他のどこかで癒されればよいというスタンスだろう。

編集長伊藤あかりさんのツイッターbioには"「全ての人を満足させようと思ったら、一人も熱狂させられない」という感じ。"と書かれているのだから

この世に、傷ついた若い女性のための当事者セラピーの場があること自体は、良いと思う。

だがそれが、朝日新聞運営メディアとして広くネット広告され、上野千鶴子石川優実企画に呼び、ヒコロヒーなどの連載があり、エッセイ投稿者ジェンダー学やフェミニズムで多少の理論武装をして識者っぽい人もたまに言及するとなれば、そこはもう言論の場となってしまう。苦しい内面安心して吐き出せる、責任を負わなくていいし怒られもしないセラピーの場としては相応しくない。

なのに、そこが曖昧に混ざった立場文章が発表され続けている。

から『かがみよかがみ』の記事批判されたのである

そして、これは、インターネットにおける様々なフェミニズム活動についても近いことが言える。



まとめ

最後にもう一度まとめる。

傷ついた当事者同士が慰め合うセラピー看板としてのフェミニズムと、冷静さと客観性を保つ学問研究としてのフェミニズムは、分割しておく必要がある。

現在日本では、セラピーの場としてのフェミニズムと、学問としてのフェミニズムが、ごちゃごちゃ混ざっている。

心が乱れてフェミニズムセラピーを求める患者と、冷静であるべきフェミニズム研究者も、ある程度重なってしまっている。

この状況を解消しないと、世の中の幸せにはつながらないだろう。

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