はてなキーワード: 現実は厳しいとは
だから金持ちになろうってずーっと思ってきて、ようやく達成したんだがとても空虚だ。
全く嬉しくないといえば嘘になるけど、愛犬と戯れてるほうが一億貯めるより楽しいし幸せな感じがする。
金持ちになってやりたかったこと色々できたけど、その時だけ楽しくてすぐ気持ちが冷める。
思えば金が稼げ始めた時もどこか他人事というかどうでもいい感じがしていた。
多分金を稼ぐのはコンプレックス解消という面しか持ってなくて、俺を幸せに導いてくれることではなかったんだと思う。
それでじゃあ俺にとって人生で一番幸せな瞬間はなにかと考えて、女性に優しく抱きしめられた時だなと思った。
貧乏だし長男だしで甘えられる時なんて殆ど無かったから飢えてるのかもしれない。
しかし歳も歳だから今更女性に甘えられないし、厳格なイメージを持ってるからなおのこと。
https://twitter.com/AkinoMiyu/status/723053315391549440
でもああいうラノベの主人公ってどこか性格悪いよね、周りの人に恵まれないと友達できないタイプ
お前らほんとテンプレだな。テンプレを批判するお前らがテンプレ。 テンプレはテンプレどおしひかれあうのか。
この人が言ってることをひっくり返すとだな。
「もともと優秀な人が、異世界転生した先でもやはり優秀。
そんなラノベが読みたいってか。 まぁログホライゾンとかこんな感じですけれども。
でもさ、それ全く楽しくないじゃん。納得性は高くても意味無いじゃん。
SAOで、アスナのパートナーが現実でもエリートの青年で容姿端麗で、二人はなるべくして活躍し、なるべくして結ばれましたって。そんな作品が楽しいか?
俺はこんなラノベは嫌だ。 そんなん読むくらいだったら自己啓発書読むね。
単にそういう現実をリアルに描こうとすると十二国記やらグイン・サーガ外伝みたいなことに成るんだよ。
作品として美しいかもしれないが、それ楽しいか? お前は本当にそういうラノベが読みたいか?
俺は好きだけど、文句言ってるお前は本当にそういう作品が読みたいのか?違うだろ?
さらに言えば、物語中でクズを一から鍛え直して使い物にしようと思ったら「マブラヴ」とか「Reゼロから始める異世界生活」くらいボリューム要るんだよ!!!
お前文句言うならマブラヴを通しでプレイしてから言えよ。 「Reゼロから始める異世界生活」6章まで読んでから言えよ。
マブラヴは確かにすごい作品だけどさ。あんなくっそ長い長編読むくらいだったらラノベなんか読まずに現実で一から努力するだろ。
まぁあれか。
こういう人に納得性持たせつつ楽しませられるのは
「この世界がゲームだと俺だけが知っている」みたいな系統はいいかもね。
現実では有能かどうかわからんけど、ゲーム世界であることを利用してチートしながら上手にクリアしていく。
これならいいよな。納得性はある。
え、でも読まないって?
最近のラノベが叩きやすいから叩いてみただけで、お前自身は物語大して読んでないだと?
それはもうシンだほうがいいんじゃない巻
中途採用でいい人材が居れば来てほしいが、目を向けてくれる絶対数が少ない。
同じ地域に同職種の仕事がなければ、Uターン希望者で優秀な人でも来てくれれば万々歳だ。
新卒でも基本は一緒。地元に残りたい気持ちのある学生で、いい人に巡り会えたら儲けものという感覚。
まあ現実は厳しい。
「希望の職につけるなら、地元がいい」という人も、実はそれなりにいる。
が、そういう人が地元のその職に就ける会社を受けても採用されず、結局都会に出ていったという例を、俺は何人も知っている。
「条件さえよければ、場所は問わない」と優秀な人材が面接に来る。
が、近隣の大都市にある別の会社と条件を比べられて、結局はそっちに流れてしまう。
こうして、都会に出たい訳ではない人たちまで、大都市に集中することになる。
企業の方は、地元で人材を確保できず、事業を続けることが難しくなる。
そんな現象が起きていると感じる。
まずはじめに、この日記は専門学生をdisるつもりで書いているわけではないと断っておく。
専門学校というのは、将来なりたい職業に合わせたピンポイントな教育を受けることが出来る教育機関である。
つまり、例えばエンジニアを志望する学生にとっては、技術教育の効率的な面で言えば専門学校を選ぶというのは悪い話ではないだろう。
しかし、現実は厳しい。エンジニアになるためのカリキュラムが凝縮されている専門学校のカリキュラムをこなしてきたはずなのに、
いざ就活となると大学生にホイホイと内定を掻っ攫われていく専門学生が続出する。
何故、そうなるのか。その理由はだいたい「外に出ない」からである。
多くの専門学校の売り文句は「うちのカリキュラム通り勉強すればちゃんと就職できる力がつくし内定もらえます」といったところである。
実際、カリキュラムを見てみれば確かにそうかもしれないと納得できる学校も多い。
しかし、私はその点こそ、就活で苦労する専門学生が続出する原因の一つだと考えている。
専門学校の中でほとんどの勉強が完結する、という言葉をそのまま信じると、
外部での勉強会・イベントなどが開かれていても別に気にすることはないと思うだろう。
しかし、大学生たちにとってはその勉強会・イベントこそが貴重な情報源であり、勉強会に積極的に参加することで人脈も情報網も技術も広がっていくのである。
それは裏を返せば、どれだけレベルの低い学生でもとりあえず入学することは可能であるということ。
同じ教室の中で必死に技術を磨こうとしている人がいれば、その横でギャンブルの話しかせずにまともな勉強もしていない奴も居ることだろう。
そんな環境の中では、ある程度までなら成り上がることは簡単だ。
授業のカリキュラムを真面目にこなしていれば、学部内の学年上位10人に入ることぐらいは容易いだろう。
しかし外ではそうは行かない。
外部のイベント等に参加する大学生たちは、授業の外で自主的に技術を伸ばしたり、モノづくりをしている者ばかりだ。
つまりそれだけ、やる気がある。
企業から見ても、授業の外で自主的にエンジニアとしての勉強を積み重ねている人への評価が高くなるのは当然だろう。
専門学生は、専門学生であるゆえに、カリキュラムで得られる内容を超えなければ認められないのだ。
とはいえ、外に出なければそんなことに目を向けることもない。
周りより上の実力があるという現実もある。
そうやって外に出ることのないお山の大将&取り巻きが、いざ就活シーズンになって周囲との力量の差に愕然とするケースが毎年多く発生する。
そんな世間知らずを救済する者は誰もいない。
専門学校の授業だけでなく、休みの日や授業後に勉強会でもイベントでも良いから、なにか外に出て、外の空気に触れることをおすすめしたい。
世の中には自分と同じ分野に就職しようとしている人がこんなに居るのだと知ることも出来る。
その中でウマが会った人とは仲良くなって情報共有が出来るかもしれない。
もしかすると就職したい分野の企業の社員だって居るかもしれない。
世の中は狭いし広い。
この所ネットの自称ゲーム好きの間では「子供にソーシャルゲームをやらせるのはよくないだろプンプン」と発言している人をよく見かける。
自分もソーシャルゲームをやるのは余りよいことだとは思わない。
しかし良いことではないからこそ子供がソーシャルゲームから学ぶことは多いと思う。
イラスト1枚に何十万もかけられる人間たちの姿を通して子供は何を感じるだろうか?
子供は馬鹿だから「いいなー羨ましい。僕も大きくなったらいっぱい課金するんだー」と考えるに決まっていると思う大人は流石にいないだろう。もしもいるのならば他人を軽んじる癖を治すために小学校からやり直した方がいい。
子供だってゲームを何十本も買える額の金でガチャってレアカードを出すことの虚しさを知っている。
その理解できないという感覚が子供に金銭価値の多様性を身につけさせるのである。
これは一生の宝だ。
子供はソーシャルゲームを通して「利用しあう関係の虚しさと必要性」を知る。
フレンド機能とは名ばかりで実際は「お互いのレアカードを貸してもらうための相互契約」である。
最初のうちプレイヤーはチュートリアルに従って次々とフレンドを増やしていく。
しかしすぐにフレンドの数は頭打ちとなり吟味するようになりやがては弱いリーダーカードのフレンドを切り捨てて強いレアカードをリーダーにしている相手に必死に申請を送るようになる。
この友情などどこにあるのかと言いたくなる弱者切り捨てシステムを通して子供は何を感じるだろうか?
子供は馬鹿だから「やったーレアカードで人気者だー。僕ちん友達いっぱーい」と考えるに決まっていると思う大人は流石にいないだろう。もしもいるのならば他人を軽んじる癖を治すために幼稚園からやり直した方がいい。
子供だって切り捨て切り捨てられという関係の空虚を知っている。
それでもフレンドシステムをうまく利用していかなければイベントダンジョンを突破できない。現実は厳しい。
その過酷な生存競争が子供に利用し合う関係を気づくことの必然性とその虚しさを教えるのだ。
そしてそれは逆を言えばお互いを利用しあうという考えのない友情の暖かさも教えてくれる。
これは一生の宝になる。
子供はソーシャルゲームを通して「やめるべき習慣からは逃げ出さなければいけない事」を知る。
ソーシャルゲームは他のゲームとくらべて辞めたいと思っても辞めるのが難しい。
ゲームから長時間離れている間刻々と漏れていくスタミナ、今まで積み上げたキャラクター、期限の迫るイベント、それらが辞めようという気持ちの反対から強烈なモーメントをかけてきてシーソーを辞めないという方向に強引に引き戻してくる。
もしかしたら辞めたいという気持ちは一過性のものですぐにまた戻ってきたくなるかも知れない、その時に捨ててしまった様々なチャンスを勿体無いと感じるかもという不安に抗わなければソーシャルゲームを辞めることは出来ないのだ。
だがゲームとは本来楽しむためのもの、それに大きな苦痛を感じているのならばいっそ距離を置くべきではないだろうか、そのとき子供は何を思うのだろうか?
子供は馬鹿だから「スタミナもったいないでちゅー。ゲーム100本並行して遊ぶために学校やめましゅー」と考えるに決まっていると思う大人は流石にいないだろう。もしもいるのならば他人を軽んじる癖を治すために前世からやり直した方がいい。
将来にわたって有限であることを知らなくても日々の時間は有限であることは理解している。そうあの頃は未来も永遠なのではという錯覚があった。
有限な時間の中でやりたい事・やるべき事を24時間という枠に収めていかなければ行けないことを強く感じる機会をソシャゲは作ってくれるかもしれない。
そして有限の時間を使いこなすためには不要な習慣を切り捨てていくことが大切だということを実感できるかもしれない。
これは一生の宝になる。
しかし同時に多くを手に入れるかもしれない。
私はそのなかで子供が失うものが手にするものよりも少ないとは思わない。
危険な存在だからこそ多くの経験を子供につませてくれる、ソーシャルゲームは雄大な自然と同じく子供の危険な学び場なのだ。
(まあこれぐらいの出来ならホッテントリ狙ええるだろ)
働いている時は「無職」という単語にどうしようもなく惹かれていた。
「さっさと無職になってこんな社畜生活からおさらばしたい・・・」
そんな欲求にとりつかれていた。
無職の日常は最初は快適だったものの数ヶ月過ぎると不安しか残らなかった。
「将来に対する不安」
「周囲の目」
「無為に日々を過ごす事への罪悪感」
諸々。
働いている間はそんな不安は感じないのだ。ブラック企業に勤めていても、とりあえずは目の前の仕事を片付けることに集中してしまえばなんにも考えられなくなる。働いているので、無為に日々を過ごしている・・・なんてことも考えない。
仕事から開放されて少し時間が経った頃に不安は突如として現れて、私の胸を苦しめている。嫌なことばかり思い浮かぶ。自分を卑下するような言葉やあまったれた自己便宜的な文句を壁にぶつけては精神の安定を計る。
幸か不幸か、家族がいる私は皿洗いするなり、昼飯を用意するなり(弁当を買ってきたりインスタント麺にお湯を注ぐ程度)、部屋の掃除をしたりして、「何もしていない不安」から逃れている。いちおう他人の役には立っているのだ、という行動をする。
すると胸がやや軽くなる。ほんの少し スッ とする。
また私は働き出すだろう。またブラック企業に勤めてしまうかもしれない。もしかしたらアルバイトやパート、契約社員、派遣になるかもしれない。まだ分からない。でもいつかは働く。生きるのには金が必要だ。
だから今日の午前中、「楽してお金を得るには」と鬱々と考えた。
単純労働はだめだ。そうだ頭を使おう。人間には脳みそという素晴らしいものがあるのだから、頭を使って楽して金儲けだ! アンケートに答えてせこせこポイント貯めて換金なんてやってられるか! さくっとAndroidアプリでも作って一儲けすることに考えを割いたほうがよっぽどいい!!
私は「Android アプリ 儲け」とGoogle先生にお伺いを立てた。
結果は散々だった。
私は考えを方向転換させ、ブログで高収入!時代はアフィリエイトだよね!!
またしても現実は厳しい。
どうやら楽して儲けるのは難しいことのようだった。(そらそうだ)
私はPixivを徘徊した。自分のブックマークを眺めてはクリックし、しばしにやにやする。そこでとある作品に行く着く。
以前面白く読んでブックマークしておいた作品だ。書籍化されているらしい。
そうだ結婚だ!!
何度目かの閃きが頭に走り、しばし作品を読みフンフンと考えた。
積極性と自発的行動が求められるのは考えるまでもなくわたしは無理だと決断を下した。
見知らぬ人間と連絡を取り合い、食事し談笑するなんてハードルが高すぎる。
今、その工程をこなす自分を想像してみたが、その後のセックス的相性はどうなるんだろうとかしょうもないことしか考えつかない! 煩悩を直ちに消し去ってしまいたい。落ち着こう。
セックス、そんなものは一次的欲求を満たすだけの、ただそれだけの行為だ。他人と裸ん坊でベッドインせずともオナニーすれば性欲はひとまずどうにかなる。
まず性欲から離れよう。
今の私には「婚活」は無理だった。
アフィリエイトブログも、Androidアプリで一発大儲けも無理だ。そもそもプログラミングのプの字も知らない。
「なにこれ。意味分かんない」と頭の悪い女子高生の口調を真似るのが関の山だ。
親の脛をかじることだけはしたくない。
私は働かねばならない。
働くことは良い事だと思う。肉体を動かし汗をかく。お客様に「ありがとうございました!」と笑顔を向けつつ爽やかに言う・・・仕事を終えて家に着く頃には心地よい疲労感に包まれているはずだ。・・・心地よくなくとも疲労感はあるはずだ。
そんな日の夜はきっと寝やすい。無職で引きこもってセコセコとしょうもないワードを検索してはのたうち回る日の夜よりは寝やすいはずだ。
だから働くことは良いことだ。
どうせ長居もできず、耐え切れなくなったら逃げるようにやめるだけ。
そうして履歴書に汚点として刻まれるのだ。
そうなってはいけない。そうなりたくない!!
今はまだいい。金はある。働かないでいい。
でも、まだ、まだ働かなくていい。考えなくていい。
ちょっとは考えなくてはならないが、本腰入れなくていい。
まだ大丈夫だ。
家事ハラ論争を見て既婚女性陣がどの点でそんなに怒っているのか、今一つピンと来なかったので考えてみた。あと、この論争での既婚女性陣の主張がちょっと理不尽だなとも思うので反論も載せてみた。
僕は独身かつ男性であるので、そのあたりの感覚は彼女らと前提からして違うだろうけど。
http://www.asahi-kasei.co.jp/hebel/kajihara/index.html/
たしかにいらっとしそう。なんで今更 家事「参加」なんだよっていうね。
でもそういう家庭が多い?(統計不参照)という現実に照らして作られたCMであればその辺もしょうがないかなとは思いますが。
これに関する記事でよく見たのがこういう議論。ちょっと指摘をするだけで「その一言が俺を家事から遠ざけた」とか言っちゃうとか何様だよねと。たしかに家事はちょっと嫌な気分になったからと言って投げ出していいようなもんじゃないですから。そこはちゃんと話し合いでポイントをつかみ、夫が改善を見せるべきですよね。「家事ハラ」という言葉にしても、ハラスメントってのは言い過ぎだろうと思いますし。
でも遠ざかっちゃうのは確かにいけないことだとしても、このCMのような言葉づかいは完全にアウトじゃないだろうか。仮に家事が妻主体で、その家事をこれから夫に移管していくという過渡期の状況であった場合、「いいのよ、あなたに頼んだ私のミスだから」というような言葉ってかなりキツくないか?(つーか、ほんとに家庭内でこんな会話する夫婦あるのか?)
仕事に置き換えて考えると、上司が部下をこういう言葉で叱るときって、結構部下がやらかしちゃったときだと思う。部下のやる気をなくさせるような指摘の仕方ははっきり言ってマズいでしょう。
共働きのパートナー同士、そこらへん相手を気遣いながらうまくやれんものかと思いますが、こういうCMが物議を醸しているところを見ると、現実は厳しいのだろうな。
あと、これまで見た中でアホかと思ったのは、
「この程度の指摘、私のときは姑からたくさん受けたわよ!甘ったれんな!」という主張。
個人的な幼少期の体験に帰れば、お台所の手伝いをしようとして、何度も母にあっち行ってなさいと言われたことを思い出す。その数年後、母が「誰も手伝ってくれないわ」と嘆くのでバカかと思った。そう言われてからやっとお手伝い許可がでたので多少の家事を覚えることはできた。そのおかげで一人暮らしを始めて困ることは少なかったけど、やっぱりGoogle先生がいないとやっていけない。
でも今、母の立場になって考えると、小さい子に家事を教えるというのはけっこうな手間だ。女の子なら、「家事くらいできないと!」となって張り切って教えたりもするだろうが、男の子じゃあ「嫁さんもらえ」と母親が投げ出すのもやむなしである。母親の意識がある程度高くない限り。
そして幼少期を過ぎてしまえば、スポーツ少年団、部活、受験・・・家事を手伝う・覚える暇などどんどんなくなるし、生意気になってくるし、家事を手伝おうとする自発性のある子はかなり珍しくなっていくのではないか。そこらへんが今の男性の家事クオリティの低い一因じゃないかなあとも思います。
好きなことをして生きたいと心の底で思ってる人は多い。でも現実は厳しいから難しいと思っている。だけど彼らに言いたいのは、それは考え方次第でなんとかなるということだ。そりゃ巨万の富を築いてウハウハ生活なんてのはまず実現するわけがないけど。それだけが全てじゃない。まず毎日何を好きだと思ってるか確認してみる。それを選ぶ。そういう簡単な話なのだ。
それを小さな幸せで妥協することだと思うか?それは違う。実際に億万長者になって富に比例して幸せが大きくなるのかって話。ならんわな。金持ちになるまでの間ずっと苦労しないといけないし、なってからも苦労しないといけない。そんなの面倒臭い。好きなことはもっと身近にある。しかも「沢山」ある。沢山あるからそれらをかき集めれば大きくもなる。そういう簡単な話なのだ。で、どうやってかき集めるのか?そこを詳しくみていこう。
ところで、人間は好き嫌いで行動しているじゃろう?どんなに論理で説明しようが結局は好き嫌い。ただ、好きと嫌いのどちらに重点をおくかは人それぞれ。嫌いに重点をおくと逃げや恐れでばかり行動する人生になる。彼らは「べき思考」が特徴的だ。「やるべき」「やらなきゃ」が口癖な人は黄色信号。「やらなきゃ」と言いつつまるでやれてない人はもうこりゃ完全に赤信号。彼らは「べき思考」について「実際やるべきだから仕方ないだろ」と言う。でも世の中には黙って結果を出す人もいる。わざわざ「やらなきゃ」とか言わない。そんな無駄な掛け声をかけないとやれないのはやっぱりおかしいのだ。根本にうまくやれない問題抱えてるから「やらなきゃ」と毎回言う必要があるわけで、それじゃやらなきゃと言いつつまるでやれてないのも当然のことだ。
どこに問題があるかというと、嫌いに重点をおいてること、これが問題。まず根底に「やらないと大変なことになる」という恐怖がある。これは誰でもあるが、「べき思考」の強い人はそこに興味を持ちすぎている。恐怖しか頭にない。だから「やるべき」という思考に陥る。そして「やるべき」なんて考えるからますますマイナス部分にしか興味がなくなる。そのことに気付いても、「やらなきゃをやめなきゃ」とまたべき思考に陥る。
もっとプラスの部分に興味を持てばいい。今の社会は、自分のやりたいことが分からない人が多いと言われる。「将来自分が何になりたいか分からない」など。それは当たり前の話で、「将来何になりたい」なんて考えてないんだもの。興味がないものに好き嫌いはなくて当たり前。そうじゃなくもっと身近で興味のあるものを考えたらいい。興味という言い方もまだ大袈裟かもしれない。何事にも興味のとぼしい自称「無関心」人間ですら好き嫌いはある。彼らは「関心に無関心」なだけ。意識してないだけで好き嫌いはあるんだからその「好き」の部分を少しずつ意識できるようにしていき興味を持てばいいだけの簡単なことだ。
単純な話なんだけど注意点が1つある。「そうは言っても好きだけじゃ生きられない」。そういう型にはまった思考に陥るとすぐ振り出しに戻る。これには「好きなことに興味持たなきゃ」というべき思考ではなくて、次のような自己反論で対処しよう。「どんなに苦しい時でも人間である限り好き嫌いはあるのだ。そのうち「好き」のほうに興味をもつという単純な話なんだ」。そう思えば難しいことではない。実際の話、「好き」は偏在(かたよって存在する)ではなく遍在(いたるところに存在)する。「好き」が偏って存在する前提に立つから「好きだけじゃ生きられない」という考えがまともに見えてるだけ。どんな所にでも「好き」と「嫌い」の対立構造が厳然と存在するという理解が深まっていくにつれて、惑わされることも減っていく。そのためには、「好きはどこにでもある」を思考の習慣にしよう。
それとは別に、知っておくと良いテクニックも紹介しよう。「好き」を見つける方法だ。簡単なことで好きなことをコレクションすればいい。ポケモンではモンスターをコレクションする。それに近いノリで「好き」をコレクションする。ポケモンが分からなければ艦これでも何かのキャラのグッズでもWebページのブックマークでもエロ動画の収集でもなんでもいい。集めるのが好きな人は集めるだけじゃなくて整理するよな?そう、「好き」をコレクションにして整理しよう。具体的なやり方は人それぞれのスタイルがあるだろうが、おすすめはタグをつけて整理するやり方だ。はてブのヘビーユーザーなら分かるだろうが、はてブを使ってるとブクマしたいWebページを見つけると瞬時にタグが次々と浮かぶようになってくるものだ。それと同じで「好き」のヘビーコレクターになって、頭の中でタグをつけていく。そのうち無意識に素早くタグをつけている自分に気付くだろう。そうすれば、好きが自然に整理されていくし、好きに対する感度も高くなるから。
以上のやり方で好きに生きるコツはすぐつかめるはずだが1つ言っておきたい。好きに生きることは何も特別なことじゃないということだ。好きに生きてるからって色んなことに夢中で目がキラキラしてて立派なわけじゃない。好き嫌いとはそういう世間のイメージとは関係がないものだ。本人が楽しければ何でもアリなのである。だから、いくら好きに生きててもそれだけじゃやっぱり嫌ということも出てくる。好きに生きられるとは言っても、「嫌い」と完全に無縁ではいられない。ただな、「嫌い」と向き合う原動力はつくんだよ。「好き」がしっかり根底にあれば、自分の嫌なところを積極的に改善したり、どうしても受け入れないといけないことを受け入れたりはしやすくなると思う。
適切な納期、適切な価格で、妥協なき最高のモノを作ってお客さんに喜んでもらう。
そしてその最高の仕事が自分の評価や名声を高めて次の仕事へ繋がっていく。
それが理想だし、その考えが間違ってるとは誰も思わない。
でも、現実は厳しい。
仕事取る為にディスカウントしたり、安い単価で予算を達成する為に
とにかく量をこなさなければいけないこともあると思う。
利益に貢献するのであればそちらが選ばれるのは致し方ないことかも。
仮に、中長期的には「量<質」の方が会社の利益に貢献するとしても、
自分のキャリアに対するリスクを背負い、経営陣の納得のいく説明を行わなければならない。
他人にそこまで要求するにはそれを正当化出来る材料をちゃんと用意しておかないと無理だよね。
フリーになったからと言ってその論理から開放されるわけではなく、
むしろ、自分の仕事の結果がダイレクトに生活に響いてくるので、
「量>質」で捌く羽目になる可能性もある。
俺はデザイナーではないが、「つくる」側の人間なので元増田の気持ちは良く分かる。
やっぱ、誰にでも出来るような量産品を作業員として作るんじゃなくて、
自分の能力フルに使って、すげーと言われるようないいモノ作って稼ぎたいしね。
ただ、同時に「売る」側の視点ってのも忘れちゃいけないのかなとは思う。
どうしても俺らはモノ視点で物を考えがちで、商売って意識が弱くなりがちな気がする。
(売る側は売る側で行き過ぎだろって時が多々あるが)
ま、何が言いたいかというと、今会社を支配している仕事の法則は
「量>質」ということについてもちゃんと向き合って考えた方が良いと思う。
まずは「量>質」の制約の中で少しでも質を上げられる方法とか考えてみては?
東京の持ち家率が低いのは土地がすくない、人口密度ゆえの現象で土地があまりまくって家も安いはずの北海道とは違う
(札幌は政令指定都市だが、昼夜人口に殆ど差がなく、郊外から通勤という図式も弱く、殆どが札幌市内から通勤している。東京のように札幌市内がぎゅうぎゅう詰めというわけではない。札幌以外はむしろ過疎で、家などいくらでも余ってる状態。)
北海道は東京のような都市型経済ではないのに一人暮らし率も非常に高い http://todo-ran.com/t/categ/10028
つまり高齢になるまで所得が低く、ろくな貯金もなく、安アパートにすんでいるような一人暮らしが多い
結婚してもお金がないから共働きで子供を作らない家庭が多い http://todo-ran.com/t/kiji/12058
持ち家率があがるわけがない
生活保護 http://todo-ran.com/t/kiji/11767
貯蓄額 http://todo-ran.com/t/kiji/13118
北海道に移住したくてくる人なんてとても少ないよ
確かにモーターは流体軸受けになるわ、配線ピッチは細くなるわといったハード面の省電力化。
多様なセンサの情報からデータを収集・保管し、電力予想するとかOSの機能として組み込まれたりってソフト面からの省電力化。
進んではいるんだけど、それを実現するには高コストな商品を買ってもらわにゃいかんし、きちんとした場所に設置してもらわないといけない。
田舎だと屋外に家電(洗濯機等)置いて使ったりたりするけど、今のエコ全開でセンサが大量に付いてる機器じゃ即死。
つーか、気密性が低い古い木造家屋じゃそもそもエアコンのエコモードとか効かんし、部屋の中に物が多いと某MEはきちんと働いてくれません。
一つの例として書くけれど、小説家の舞城王太郎は、物語が社会に存在する理由を、次のように述べている。
『ある種の真実は、嘘でしか語れないのだ』
現実は厳しい。いつだって僕らが願ったものは適わない。思い描いた人生を生きれるわけではないし、なりたかった職業には就けないし、大好きだったあの娘は簡単にイケメンに寝取られる。でも『本当はあの頃、こういう事を思っていた』とか『本当はこういう職業に就きたかった』とか『本当は昔、あの人のことが好きだった』という感情は確かに『存在』していた。それは紛れもない真実だ。現実のはざまに消えていった『真実』を、『物語』が代わりに叶えてくれるから、人間は感動するんじゃないだろうか。物語の無限の可能性に触れて、どんな苦悩も報われると思うことが出来るから。演劇用語ではこういった作用を『浄化』って言うんだけどね。