この所ネットの自称ゲーム好きの間では「子供にソーシャルゲームをやらせるのはよくないだろプンプン」と発言している人をよく見かける。
自分もソーシャルゲームをやるのは余りよいことだとは思わない。
しかし良いことではないからこそ子供がソーシャルゲームから学ぶことは多いと思う。
イラスト1枚に何十万もかけられる人間たちの姿を通して子供は何を感じるだろうか?
子供は馬鹿だから「いいなー羨ましい。僕も大きくなったらいっぱい課金するんだー」と考えるに決まっていると思う大人は流石にいないだろう。もしもいるのならば他人を軽んじる癖を治すために小学校からやり直した方がいい。
子供だってゲームを何十本も買える額の金でガチャってレアカードを出すことの虚しさを知っている。
その理解できないという感覚が子供に金銭価値の多様性を身につけさせるのである。
これは一生の宝だ。
子供はソーシャルゲームを通して「利用しあう関係の虚しさと必要性」を知る。
フレンド機能とは名ばかりで実際は「お互いのレアカードを貸してもらうための相互契約」である。
最初のうちプレイヤーはチュートリアルに従って次々とフレンドを増やしていく。
しかしすぐにフレンドの数は頭打ちとなり吟味するようになりやがては弱いリーダーカードのフレンドを切り捨てて強いレアカードをリーダーにしている相手に必死に申請を送るようになる。
この友情などどこにあるのかと言いたくなる弱者切り捨てシステムを通して子供は何を感じるだろうか?
子供は馬鹿だから「やったーレアカードで人気者だー。僕ちん友達いっぱーい」と考えるに決まっていると思う大人は流石にいないだろう。もしもいるのならば他人を軽んじる癖を治すために幼稚園からやり直した方がいい。
子供だって切り捨て切り捨てられという関係の空虚を知っている。
それでもフレンドシステムをうまく利用していかなければイベントダンジョンを突破できない。現実は厳しい。
その過酷な生存競争が子供に利用し合う関係を気づくことの必然性とその虚しさを教えるのだ。
そしてそれは逆を言えばお互いを利用しあうという考えのない友情の暖かさも教えてくれる。
これは一生の宝になる。
子供はソーシャルゲームを通して「やめるべき習慣からは逃げ出さなければいけない事」を知る。
ソーシャルゲームは他のゲームとくらべて辞めたいと思っても辞めるのが難しい。
ゲームから長時間離れている間刻々と漏れていくスタミナ、今まで積み上げたキャラクター、期限の迫るイベント、それらが辞めようという気持ちの反対から強烈なモーメントをかけてきてシーソーを辞めないという方向に強引に引き戻してくる。
もしかしたら辞めたいという気持ちは一過性のものですぐにまた戻ってきたくなるかも知れない、その時に捨ててしまった様々なチャンスを勿体無いと感じるかもという不安に抗わなければソーシャルゲームを辞めることは出来ないのだ。
だがゲームとは本来楽しむためのもの、それに大きな苦痛を感じているのならばいっそ距離を置くべきではないだろうか、そのとき子供は何を思うのだろうか?
子供は馬鹿だから「スタミナもったいないでちゅー。ゲーム100本並行して遊ぶために学校やめましゅー」と考えるに決まっていると思う大人は流石にいないだろう。もしもいるのならば他人を軽んじる癖を治すために前世からやり直した方がいい。
将来にわたって有限であることを知らなくても日々の時間は有限であることは理解している。そうあの頃は未来も永遠なのではという錯覚があった。
有限な時間の中でやりたい事・やるべき事を24時間という枠に収めていかなければ行けないことを強く感じる機会をソシャゲは作ってくれるかもしれない。
そして有限の時間を使いこなすためには不要な習慣を切り捨てていくことが大切だということを実感できるかもしれない。
これは一生の宝になる。
しかし同時に多くを手に入れるかもしれない。
私はそのなかで子供が失うものが手にするものよりも少ないとは思わない。
危険な存在だからこそ多くの経験を子供につませてくれる、ソーシャルゲームは雄大な自然と同じく子供の危険な学び場なのだ。
(まあこれぐらいの出来ならホッテントリ狙ええるだろ)