はてなキーワード: 札幌とは
もう手放したけど、10年くらい前に買って5年くらい前に捨てたバッグのことが妙に頭の片隅に残っている
なぜか買った場所とだいたいの値段は覚えている
なのに肝心のデザインや色、形が思い出せない
当時は札幌近辺にいて、札駅のエスタの雑貨屋で1万くらいした。結構頑丈で小旅行程度なら問題ない感じのバッグ。
でもジッパーが壊れて近所の修理屋で1万ちかくかけて直して貰った。グズグズなジッパーがYKKのちゃんとしたものになっていたっけ。
と、ここまで思い出せるくらい利用していたのに、捨てたら外観から何まで殆ど覚えていない。黒だったのか赤だったのか、ショルダータイプか手提げか。そんな基本的なことまで忘れている。恐らくリュックタイプではないはず。それに加えて海外のブランドという以外にわからない。
江川氏は94年スタートの前身番組「スポーツうるぐす」でメインキャスターを務め、2010年から「Going」に11年8カ月出演。この日の放送では「江川卒業SP」と題して、番組での江川氏のMCぶりや、試合解説で選手の様子や変化を見極めて結果を当てる「予言解説」を展開してきたことなどが特集された。
巨人原辰徳監督(63)からはビデオメッセージが届き、これまでの労をねぎらわれるとともに、「まだまだ江川さんは体も知力もお若いでしょうから、少し時間があるんであれば、実弾飛び交うジャイアンツのところに降りてコーチ、あるいは監督という形でやってもらえる可能性も、ちょっと増えたのではないかと思っています。先輩、ご苦労さまでした」と、今後の監督業も期待された。
MCのくりぃむしちゅー上田晋也(51)もこのVTRを受け「我々としても、江川監督って言うのを見てみたいというのは長年思っているんですけど。そういう方向性というのはいかがでしょう」と問いかけると、江川氏は「ほぼないですね」と回答。上田が「え~やりましょうよ」と食い下がると「ないと思いますよ」と淡々と続けた。
上田はあきらめず「ひょっとしたら原監督から『ちょっと江川さん、お願いします』って、臨時コーチとかあるかもしれませんよ」と粘ると、江川氏は「そうですね、臨時であれば、やらないですね」とクールな返答で笑いを誘った。ただ、最後は上田が「やってくださいよ、日本中に見たい人がいっぱいいますから。その日を楽しみにしたいと思います」と言うと、江川氏はまとめるように「はい」と回答。今後の監督就任を“完全否定”はしなかった。
終盤には、今年まで巨人の場内アナウンスを担当した山中美和子さんの「9番ピッチャー江川、背番号30」のアナウンスに送られてあいさつ。江川氏は視聴者やスタッフに感謝の言葉を述べると、「私はもう少しマウンドに登ってみたいと思っています。ありがとうございました」と、意味深なコメントで締めた。
選手としての特徴
江川の球速は高校時代に既にピークを迎えていたとも言われ、当時スピードガンはまだ無かったが、150km/hを超えていたのではないかと推定されている[49](プロ入り後の最速は154km/h[50])。スピードガンが各球場に導入された頃、江川のストレートの球速が135km/h前後と表示される記録映像が残っている。これについて掛布雅之、西本聖、槙原寛己など多数の人物が異口同音に「江川の球速が140km/hを下回ることはありえない」と証言、当時のスピードガンは精度が低く、数値の正確さには疑問があると指摘している。特に掛布は「最低でも150キロ、好調時は155キロ以上出ていただろう」と述べている。2021年12月4日のGoing!Sports&Newsにおいて、江川自身が最も速かったとする1981年の中塚政幸に投じたストレートの球速を分析したところ、158km/hと算出された[51]。
江川が投じる速球の威力の高さは、投手としては指が短めだったこともその理由とされる。指が短めだったことは、スピンをかけるには有利だったが、フォークボールなどの変化球を投げるのには適さなかった。そのため、プロ入りまで変化球はカーブしか投げられなかった。掛布や高木豊の弁によると江川は手首の関節が非常に柔らかく、打席から見るとリリースの寸前まで手のひらが見えたという。この柔軟かつ強靭な手首によりボールに強烈なバックスピンを与え、江川独特の伸びのあるストレートが生まれたのではないかと高木は解説している。このことを掛布は「スピンが効いた独特のストレート」と評した[52]。
1980年代では、スピンが効いたストレートは「球質が軽い」「長打を打たれやすい」などと呼ばれ軽視もされていた。 しかし2000年代に入り流体力学を使った解析により、バックスピン数が高いストレートは普通の直球よりも沈まず、打ちにくい球であることが判明した。 江川の浮き上がるようなストレートはこの効果によるものと考えられている。
《なお、2021年のMLBでは、回転数が高いボールの効果があり過ぎるため、指に粘着物質を付ける投手が激増したことから、取り締まりに至る事態になっている。》
1985年頃から投げ始めた「相手の腰を引かせるスライダー系のボール」、コシヒカリが話題になり、本当にコシヒカリが贈られてきたエピソードがある。このことに味をしめた江川は、今度はメロンを貰おうと「相手のマスク(顔)をメロメロにしてしまう顔の前を通すボール」、マスクメロンを開発している[19]。現役時代のライバルだった掛布雅之は、「ストレートへの強いこだわりを持ったボールを感じさせてくれる」唯一の投手だったと述べている[53]。
阪神のランディ・バースが55本塁打や7試合連続本塁打などで王貞治の記録に迫ったとき、逃げ腰の巨人投手陣の中にあって勝負を挑んだのは既述の通りだが、バースが2年連続三冠王を獲得した1985年と1986年において、1985年は被本塁打0、1986年の被本塁打も7試合連続となった本塁打と連続試合打点記録更新中の最後の試合(13試合目)で打たれた2本だけであった。江川の引退時、バースは江川を「日本、アメリカを通じて今まで対戦した中で最高の投手」と讃えている[54]。
9回を完投するため、中心打者には「最高出力」まで上げ、下位打線の選手にはコントロール重視とするなど、メリハリをつけていた[55]。9回に全力の投球で三者三振を取ることを「やっぱり打てない」という印象を与えるという点で重視し、そのために7回・8回は少し力を落としたと述べている[55]。現役時代にチームメイトだった篠塚和典は「江川さんにはギアがある」と表現しており、「試合の中でここぞという時、特に主力打者と対戦する時はトップギアに入れた。あの大きな体が更に一回り大きく見えた」と述懐している。
江川は与死球が極めて少なく、これは高校時代、自らが頭部死球を受けた経験から厳しく内角を攻めることにためらいを見せたためと語っている[56]。江川自身は、捕手が構えたままのギリギリのコースに投げることができたため、わざと打者の体の近くには投げることはしなかったとも述べている[57]。また与四球も少ない。江川の場合、豪速球で圧倒できた全盛期の与四球が非常に少ないのが目立っている。江川はボール球を投げること自体が嫌いだったと述べており、当時の巨人ではカウント2ストライクノーボールからヒットを打たれると罰金を取られたため、捕手からの懇願でその場合は仕方なくボール球を投げていたという[58]。一般的に速球派投手はコントロールが悪いことが多いが、江川はそれにあてはまらず、コントロール面も卓越したものであったことが伺える。
被本塁打が多く、「一発病」といわれた投手の1人であり、本塁打を打たれた際、マウンド上で両手を腰に当てながら首を捻るシーンがよく見られた。1982年はリーグ最多の36本塁打を打たれた。9イニングあたりの被本塁打は通算で1.23本である[59]。
上記の通り、デビューした対阪神戦では敗戦投手になったが、その後は阪神キラーとなり、対阪神戦通算36勝(18敗)を挙げた。これは通算135勝の1/4強を占める。逆に小林繁は阪神に移籍した1979年こそ対巨人戦8勝0敗と意地を見せたが、その後は引退までの4シーズンで対巨人戦5勝15敗と対照的な結果になった。入団2年目の1980年8月16日、対阪神戦(後楽園球場)での小林繁との初対決では、打撃でも小林から決勝適時打を放つ活躍で、3失点完投勝利を収めている[60]。のちに、「プロ野球でやっていく中で絶対に負けられない試合は数試合しかないだろうが、その中の一つがその試合だと思って試合に臨んだ」と懐述している。
打撃の優れた投手としても知られているが、初安打はデビューから36打席目だった[† 28]。プロ入り最初の打席で、阪神の山本和行が初球に投げたストレートがあまり速くなかったため、「プロってこんなレベルか」と思っていたところ、そのあと「打ちごろ」と見て振った球をいずれも空振りして三振を喫した。江川はそれがフォークボールであったと気づき、「これはやばいぞ。プロはこんな高いレベルなのか」と思ったと回想している[61]。
少年時代の写真に笑顔で写っているものはない。それは父親から「写真は真顔でとられろ」と言われたからである[62]。
裕福な少年時代を送っていたわけではないが、父親が財産の管理が上手かったことから、年2回の旅行を行えたり、電化製品をそろえることができるなど、物資には全く不自由しなかったとのこと[63]。
幼い頃に父に背負われて散歩に出かけた際、背負われたまま崖の下を覗かされたことが原因で、極度の高所恐怖症となった。そのため妻が元客室乗務員でありながら飛行機嫌いであり、国内の移動はどんなに時間がかかってもいつも鉄道などを用いている(妻との馴れ初めは、江川が米国開催の日米大学野球選手権大会に出場するため、やむを得ず飛行機に乗っていて青くなっているところを、客室乗務員だった妻が親切にしてくれたことである)。かつて巨人の北海道遠征の取材で東京→盛岡→青森→函館→札幌と一日かけて陸路を乗り継ぎながら出かけたほか、宮崎キャンプの取材でも東京→博多→新八代→鹿児島中央と乗り継ぎ、車で宮崎入りするなど、時間がかかっても陸路移動にこだわっている。現役時はまだ青函トンネルが開通しておらず、チームの北海道遠征時は登板がある場合のみ飛行機を利用したが、自らの登板予定がないときはチームに帯同せず東京に残った(江川が引退した翌年、1988年に青函トンネル開通)。松山でのオールスターゲームを取材したときでも、松山→岡山→東京と乗り継いで帰京したために、翌朝の『ザ・サンデー』のエンディングで江川は既に松山を発ったとのフリップが出ていた(同行した女子アナは松山市内でゆっくり買い物をした後に飛行機で帰京し、江川より先に東京に到着した)。陸路がない沖縄へキャンプ取材する際も、時間に余裕があるときは鹿児島から24時間かけてフェリーで沖縄に移動するほどである。横浜DeNAベイスターズの春季キャンプの取材で沖縄に行った際、このときはさすがに飛行機には乗ったが、中畑清監督に「どうやって来たの? 潜水艦でも乗ってきたの?」といわれてしまい、名球会のハワイでの取材時にも長嶋茂雄から「江川さん、よく飛行機に乗れましたね」といわれたほどである。飛行機嫌いの一因には幼少時代の体験だけでなく、現役時代に発生した日本航空123便墜落事故も影響しているといわれている。この事故で同じ球界関係者である阪神タイガース・中埜肇球団社長も犠牲になっていたため、球界全体にも大きな衝撃を与えていた。
大学時代、後の夫人となる女性と交際していたときにデートと東京六大学の試合の登板予定が重なると、待ち合わせ時間として「試合開始から何時間後」というように時間を指定していたという。夫人によれば、指定した待ち合わせ時間に遅れることはほとんどなく、逆に試合の進行が早すぎると、わざと遊び球を投げて時間調整をしていたほどであった[64]。
現役時代から財テクに精を出し、不動産投機で大失敗して多額の借金を背負う。「投げる不動産王」とも呼ばれた。プロ入り直後には契約金を使って土地を購入したところ、予定納税のことをすっかり失念していたために資金繰りに窮し、結局土地を手放さざるを得なくなる[65]など、投資に関する失敗談も多い。この他、一時は第一不動産(のちのエフ・アール・イー、2007年1月に破産)や、東京ベイホテル東急の運営会社の役員にも名前を連ねていた[66]。なお、同様の呼び名は桑田真澄にもあったが、こちらは本人が直接作った借金ではない。
現役引退の年、自宅に近い横浜市緑区霧が丘に喫茶店「きりんこ」を開店した。元々は巨人で打撃投手をしていた同僚が転職を考えているという話を聞き、その支援目的で当時近所に住んでいた黒澤久雄や羽川豊らと共同で出資したのがオープンのきっかけだったという[67]。しかし、住宅地で回りにほとんど店が無いこと、すぐ隣に老舗の喫茶店があったことなどから、数年で閉店。その後駐車場となっており、建物の遺構の一部が駐車場の壁として残っている。
本人曰く「成金趣味」に結構な金額を費やしている。一時はワインにはまっていたほか、ゴルフ好きが昂じて純銀パターを特注で作らせたこともある[† 29]。それらの贅沢には「ストレス発散」の意味合いもあったという。
テレビでの野球中継において選手を呼び捨てにしている解説者が多い中、江川は基本的に呼び捨てはせず「○○選手」「○○投手」といった呼称を付けている。
札幌より先は未定。
あと新函館北斗から函館駅までをミニ新幹線(もしくは三線軌条?)にしてつなげる計画がある。
その先は京都府内を通って新大阪まで行く予定だが詳細ルートも着工時期も未定。
もともと湖西線(在来線)経由で新大阪と敦賀間をFGTで繋ぐ計画だったが断念。
開業時点では敦賀の特急ホーム(1F)から新幹線ホーム(3F)へのエレベーター乗り換えとなる。スーツケース抱えた訪日客のことなんてなんにも考えてなさそうでウケる。
大阪金沢間を繋ぐ在来線特急サンダーバード、関空と敦賀をつなぐ特急はるかを統合する案もあるが、ビジネス客と京都観光客、北陸観光客をごちゃまぜにしてどうすんの、とか中国方面からの乗り換え需要どうすんのとかいろいろある。
いわゆる長崎新幹線。長崎から武雄温泉駅(佐賀)までを工事中。
武雄温泉駅から新鳥栖(佐賀)経由で博多までFGTで伸ばす計画だったが断念。
どうすんの、というのはまだ決まっていない。
開業時点では武雄温泉の対面乗り換え方式になるが一生そのままの気がする。
名古屋から新大阪まで繋ぐ計画だが途中駅を奈良にするのか京都にするのかが決まってない。
極論、各駅停車は京都折返しでいい。新大阪から京都にリニア乗るやつなんておらんやろ。
上述の通り北陸新幹線とリニアが新大阪駅に大集合だワッショイするとホームが足りなくなる。
地下に新駅作る構想があるが、神戸方面から北陸新幹線への乗り換えどうなんねんとか直通はせんのかいとかいろいろ。
あと地味に新神戸トンネル問題っていうのがあって、仮に短絡線が出来たとしても北陸新幹線全部を岡山方面に直通するのは無理がある。
上述の通りリニア東側の駅は品川に出来てしまうので、北海道新幹線、秋田新幹線、山形新幹線、上越新幹線、北陸新幹線(長野方面)から来た客は東京駅で東海道新幹線または在来線に一度乗り換えてからリニア品川駅を目指さないといけない。
JR東が品川まで新線を引くとかシャトルを運行さすとか大宮〜橋本間に新宿経由で新線作るとかいろいろ言われてるがどれも現実味がない。
ここのトラフィックは敦賀とか武雄の比じゃないので早急に考えてなんとかしくされ、と個人的には思う。
上越の新潟方を新潟空港まで延伸し、東京方を品川経由で羽田空港まで伸ばしてくれたら首都圏の滑走路発着枠足りない問題とかも一挙に解決できて頭いいじゃんと思うけど不思議と誰も言い出さない。
このまま地球が温暖化して南海トラフで西日本が壊滅したとき用に作るのはありなんじゃないかと思ってるんだがどうなんだろうか。前述のとおり千歳〜札幌は作って欲しい。
気持ちはわかるがいらんだろのひとこと。
気持ちはわかるがいらんだろのひとこと。ミニを選択した過去の首長を恨め。
気持ちはわかるがいらんだろのひとこと。
このまま中国朝鮮や東南アジアからの訪日客が増え続けるのであれば、作っておきたい路線ではある。小倉からの分岐をどうすんのとかJR西日本とJRQの間の運行系統問題とかいろいろあるけど、九州を新幹線でクルクル回れたら絶対楽しいよね〜と思う。
後述の四国新幹線のからみで、リニアで作るならあってもいいなとは思う。
リニアがさっさと新大阪まで開業できてれば、北陸新幹線をキャンセルしてこっち作ったら良かった。線路容量が〜とかブレーキシステムが〜とかはゴタクの範疇。頑張って乗り越えようぜとしか。一番揉めそうなのは運賃なのでそこはがんばってください。
リニアが着工したのでお蔵入り。
やっと本題なんだけど、JRグループで赤字が解消できてない会社がある。四国だ。(北海道は新幹線が通ればなんとかなる)。
四国新幹線整備促進期成会は「四国各県の人口は減り続けており経済活性化の手段として四国に新幹線が必要」と主張している。これほどまでに人をバカにした話はない。人口が減り続けているところに新幹線を引いたって人口は減り続ける。
自動車産業が斜陽化する2030年代なかば以降は、ろくな産業がなくなるのでもっと衰退する。
先進国から見た日本は、間違いなく爆安で居心地のよいレトロな旅行先だ。
高知あたりにイーロン・マスクみたいな人が現れて、民間から2兆円調達して四国に新幹線作れないもんだろうか。このままでは四国から鉄道が姿を消してしまう。まあそれでもええならええけど。
まずここはあきらめよう。カネがかかりすぎる。
複線フルで作ろう
あまり詳しくは言わないけど、反社・DQNと動物肉というのはからんでいるよ
2002年、この年は雪印食品や日本ハムといった食品メーカーにおいて、2001年ごろから次々と牛肉偽装事件が発覚し、大きな社会問題となっていた頃でした。
その中で、大手スーパーマーケットである西友においても、この牛肉偽装事件が発覚したのです。
事の発端は埼玉県狭山市にある西友狭山市駅前店において、アメリカ産やカナダ産の牛肉、豚肉を国産と偽って販売していたことが9月に赴任した畜産マネジャーによって発見されたことでした。
その後ほかの店舗も調べてみたところ、北海道札幌市東区にある元町店(現在の元町北24条店)でも同様の偽装が見られ、このため西友側はお詫びとして販売した牛肉や豚肉について、返金対応をすると発表しました。
しかし上記の偽装期間が調べてみると1年間ほど続いていたことや、スーパーマーケットなどで商品を購入した際のレシートや領収書を保管しているお客様が多くないことから、レシートなどの証明するものの提示が困難だと判断し、異例にもレシートや領収書なしでも自己申告制で返金対応を行うという方針を打ち出しました。
西友側は同年9月18日から狭山市駅前店で、9月27日からは札幌市東区元町店でも返金対応を開始したのですが、当初は主婦の方などが返金を求めて来店していたものの、次第に噂を聞きつけた若者や暴力団関係者(のちにDQN客などと表現されました)が店に殺到して返金を求めるようになるという事態に陥りました。
そしてそれでは終わらず、翌日の28日には1日の売上げをはるかに超える金額を要求するDQN客が現れたため、示談によって金額を支払うという結果になります。
それ以降の返金希望者には一律その金額が支払われるようになり、返金額はさらに増えていきました。
すると29日には返金額が5,000万円以上と、年間販売額の3倍以上になったため、ついに西友側は返金を打ち切り、特売による還元に転換することを発表しました。
その後も、西友側が臨時休業とした日にも若者ら数百人が終結して大混乱となり、警備員に暴行したとして19歳の男2人が現行犯逮捕される事件も発生しました。
これらの一連の流れから、ようやく西友側は北海道警察へ出動を要請し、道警は今回の返金騒動で暴力団が関与していたとし捜査を進めていく中で、10月4日に道内の暴力団関係者を恐喝未遂で逮捕しました。
DQN客とは?
こういった事件などが発生するようになってから、「DQN客」という言葉がよく使われるようになりました。
しかし皆さんは、そもそもこのDQN客という言葉について、正しく理解されているでしょうか。
DQN客とは、軽率そうな人や実際にそうである人、粗暴そうな風貌をしている者や実際に粗暴な者、かつ非常識で知識や知能が乏しい人を指す、一般的なインターネットスラングであると言われています。
この「DQN客」は侮辱語とも呼ばれ、良い意味で使われることはありません。
しかし振り返ってみると、西友偽装肉返金事件は、その肉産地偽装自体も問題でありながら、その後の返金対応において事態が大きく悪化し、収拾がつかないほどの大事件に発展したと言えるでしょう。それはどうしてなのでしょうか。
その後の調べでは、北海道札幌市東区にある元町店に来たとされる者の多くが、明らかに札幌の人間とは違う訛りや風貌であり、札幌以外のナンバーの車が多く押し寄せたとも言われています。
それに加えて、その後の報道でワゴン車にすし詰め状態で札幌にやってきたと証言する者が多数いたことが報道されたことなどから、実際には西友元町店で問題とされる肉を購入していないにもかかわらず、札幌以外からわざわざ返金処理目当てでやってきた者が多くいたということが浮き彫りになりました。
また一説には、地元メディアでは当てもなく北海道の地方からやってきて、すすきのでたむろしている若者を暴力団関係者が雇い、返金請求に行かせたことが騒動の原因ではないかとも報じていました。
実際、西友側がその後、購入を証明するものを持参した人のみの返金する方針に切り替えたところ、少数の主婦がレシートを持って返金を求めたに留まり、若者が返金を求めることはなかったという点でも、上記の説が事実であったということを裏付けているように感じます。
肉産地を偽るという偽装事件は大変な問題ではありますが、この西友偽装肉返金事件を通してもう一つ大きく浮き彫りとなったこと、それは何かあった時にそれを受け取る側(人間)のモラルが問われるということです。
もちろん当然ながら、該当の肉を購入した者がその後店側に返金を求める、というのは何の問題もありませんし通常の行動です。
しかしながら、店側の最大限のお詫びの気持ちと配慮で「レシートや領収書なしでも自己申告制で返金対応を行う」とした対応を逆手にとって、購入してもいないのに返金対応を求めて押し寄せるというのは、まったくのお門違いでありモラルを欠いた行動です。
こうした事件を逆手にとって便乗する行為をする人間が多数いたということについては、偽装事件とはまた別の観点で問題視しなくてはいけないのではないでしょうか。