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2021-12-26

江川氏は94年スタート前身番組スポーツうるぐす」で

江川氏は94年スタート前身番組スポーツうるぐす」でメインキスターを務め、2010年から「Going」に11年8カ月出演。この日の放送では「江川卒業SP」と題して、番組での江川氏のMCぶりや、試合解説選手の様子や変化を見極めて結果を当てる「予言解説」を展開してきたことなどが特集された。

巨人原辰徳監督(63)からビデオメッセージが届き、これまでの労をねぎらわれるとともに、「まだまだ江川さんは体も知力もお若いでしょうから、少し時間があるんであれば、実弾飛び交うジャイアンツのところに降りてコーチ、あるいは監督という形でやってもらえる可能性も、ちょっと増えたのではないかと思っています。先輩、ご苦労さまでした」と、今後の監督業も期待された。

MCくりぃむしちゅー上田晋也(51)もこのVTRを受け「我々としても、江川監督って言うのを見てみたいというのは長年思っているんですけど。そういう方向性というのはいかがでしょう」と問いかけると、江川氏は「ほぼないですね」と回答。上田が「え~やりましょうよ」と食い下がると「ないと思いますよ」と淡々と続けた。

上田あきらめず「ひょっとしたら原監督からちょっと江川さん、お願いします』って、臨時コーチとかあるかもしれませんよ」と粘ると、江川氏は「そうですね、臨時であれば、やらないですね」とクールな返答で笑いを誘った。ただ、最後上田が「やってくださいよ、日本中に見たい人がいっぱいいますから。その日を楽しみにしたいと思います」と言うと、江川氏はまとめるように「はい」と回答。今後の監督就任を“完全否定”はしなかった。

終盤には、今年まで巨人の場内アナウンス担当した山中美和子さんの「9番ピッチャー江川背番号30」のアナウンスに送られてあいさつ。江川氏は視聴者スタッフ感謝言葉を述べると、「私はもう少しマウンドに登ってみたいと思っていますありがとうございました」と、意味深コメントで締めた。



選手としての特徴

江川の球速は高校時代に既にピークを迎えていたとも言われ、当時スピードガンはまだ無かったが、150km/hを超えていたのではないか推定されている[49](プロ入り後の最速は154km/h[50])。スピードガンが各球場に導入された頃、江川ストレートの球速が135km/h前後と表示される記録映像が残っている。これについて掛布雅之西本聖槙原寛己など多数の人物異口同音に「江川の球速が140km/hを下回ることはありえない」と証言、当時のスピードガンは精度が低く、数値の正確さには疑問があると指摘している。特に掛布は「最低でも150キロ好調時は155キロ以上出ていただろう」と述べている。2021年12月4日Going!Sports&Newsにおいて、江川自身が最も速かったとする1981年中塚政幸に投じたストレートの球速を分析したところ、158km/hと算出された[51]。

江川が投じる速球の威力の高さは、投手としては指が短めだったこともその理由とされる。指が短めだったことは、スピンをかけるには有利だったが、フォークボールなどの変化球を投げるのには適さなかった。そのため、プロ入りまで変化球カーブしか投げられなかった。掛布高木豊の弁によると江川は手首の関節が非常に柔らかく、打席から見るとリリースの寸前まで手のひらが見えたという。この柔軟かつ強靭な手首によりボールに強烈なバックスピンを与え、江川独特の伸びのあるストレートが生まれたのではないか高木解説している。このことを掛布は「スピンが効いた独特のストレート」と評した[52]。

1980年代では、スピンが効いたストレートは「球質が軽い」「長打を打たれやすい」などと呼ばれ軽視もされていた。 しか2000年代に入り流体力学を使った解析により、バックスピン数が高いストレート普通の直球よりも沈まず、打ちにくい球であることが判明した。 江川の浮き上がるようなストレートはこの効果によるものと考えられている。

《なお、2021年MLBでは、回転数が高いボール効果があり過ぎるため、指に粘着物質を付ける投手が激増したことから、取り締まりに至る事態になっている。》

1985年から投げ始めた「相手の腰を引かせるスライダー系のボール」、コシヒカリ話題になり、本当にコシヒカリが贈られてきたエピソードがある。このことに味をしめた江川は、今度はメロンを貰おうと「相手マスク(顔)をメロメロにしてしまう顔の前を通すボール」、マスクメロンを開発している[19]。現役時代ライバルだった掛布雅之は、「ストレートへの強いこだわりを持ったボールを感じさせてくれる」唯一の投手だったと述べている[53]。

阪神ランディ・バースが55本塁打や7試合連続本塁打などで王貞治の記録に迫ったとき、逃げ腰の巨人投手陣の中にあって勝負を挑んだのは既述の通りだが、バースが2年連続三冠王を獲得した1985年1986年において、1985年は被本塁打0、1986年の被本塁打も7試合連続となった本塁打連続試合打点記録更新中の最後試合(13試合目)で打たれた2本だけであった。江川引退時、バース江川を「日本アメリカを通じて今まで対戦した中で最高の投手」と讃えている[54]。

9回を完投するため、中心打者には「最高出力」まで上げ、下位打線選手にはコントロール重視とするなど、メリハリをつけていた[55]。9回に全力の投球で三者三振を取ることを「やっぱり打てない」という印象を与えるという点で重視し、そのために7回・8回は少し力を落としたと述べている[55]。現役時代チームメイトだった篠塚和典は「江川さんにはギアがある」と表現しており、「試合の中でここぞという時、特に主力打者と対戦する時はトップギアに入れた。あの大きな体が更に一回り大きく見えた」と述懐している。

江川は与死球が極めて少なく、これは高校時代、自らが頭部死球を受けた経験から厳しく内角を攻めることにためらいを見せたためと語っている[56]。江川自身は、捕手が構えたままのギリギリコースに投げることができたため、わざと打者の体の近くには投げることはしなかったとも述べている[57]。また与四球も少ない。江川場合、豪速球で圧倒できた全盛期の与四球が非常に少ないのが目立っている。江川ボール球を投げること自体が嫌いだったと述べており、当時の巨人ではカウント2ストライクノーボールからヒットを打たれると罰金を取られたため、捕手から懇願でその場合は仕方なくボール球を投げていたという[58]。一般的に速球派投手コントロールが悪いことが多いが、江川はそれにあてはまらず、コントロール面も卓越したものであったことが伺える。

本塁打が多く、「一発病」といわれた投手の1人であり、本塁打を打たれた際、マウンド上で両手を腰に当てながら首を捻るシーンがよく見られた。1982年リーグ最多の36本塁打を打たれた。9イニングあたりの被本塁打通算で1.23である[59]。

上記の通り、デビューした対阪神戦では敗戦投手になったが、その後は阪神キラーとなり、対阪神通算36勝(18敗)を挙げた。これは通算135勝の1/4強を占める。逆に小林繁阪神移籍した1979年こそ対巨人戦8勝0敗と意地を見せたが、その後は引退までの4シーズンで対巨人戦5勝15敗と対照的な結果になった。入団2年目の1980年8月16日、対阪神戦(後楽園球場)での小林繁との初対決では、打撃でも小林から決勝適時打を放つ活躍で、3失点完投勝利を収めている[60]。のちに、「プロ野球でやっていく中で絶対に負けられない試合は数試合しかないだろうが、その中の一つがその試合だと思って試合に臨んだ」と懐述している。

打撃の優れた投手としても知られているが、初安打デビューから36打席目だった[† 28]。プロ入り最初打席で、阪神山本和行が初球に投げたストレートがあまり速くなかったため、「プロってこんなレベルか」と思っていたところ、そのあと「打ちごろ」と見て振った球をいずれも空振りして三振を喫した。江川はそれがフォークボールであったと気づき、「これはやばいぞ。プロはこんな高いレベルなのか」と思ったと回想している[61]。

人物

少年時代写真笑顔で写っているものはない。それは父親から写真は真顔でとられろ」と言われたかである[62]。

裕福な少年時代を送っていたわけではないが、父親財産管理が上手かったこから、年2回の旅行を行えたり、電化製品をそろえることができるなど、物資には全く不自由しなかったとのこと[63]。

幼い頃に父に背負われて散歩に出かけた際、背負われたまま崖の下を覗かされたことが原因で、極度の高所恐怖症となった。そのため妻が元客室乗務員でありながら飛行機いであり、国内の移動はどんなに時間がかかってもいつも鉄道などを用いている(妻との馴れ初めは、江川米国開催の日米大学野球選手大会に出場するため、やむを得ず飛行機に乗っていて青くなっているところを、客室乗務員だった妻が親切にしてくれたこである)。かつて巨人北海道遠征取材東京盛岡青森函館札幌と一日かけて陸路を乗り継ぎながら出かけたほか、宮崎キャンプ取材でも東京博多新八代鹿児島中央と乗り継ぎ、車で宮崎入りするなど、時間がかかっても陸路移動にこだわっている。現役時はまだ青函トンネルが開通しておらず、チームの北海道遠征時は登板がある場合のみ飛行機を利用したが、自らの登板予定がないときはチームに帯同せず東京に残った(江川引退した翌年、1988年青函トンネル開通)。松山でのオールスターゲーム取材したときでも、松山岡山東京と乗り継いで帰京したために、翌朝の『ザ・サンデー』のエンディング江川は既に松山を発ったとのフリップが出ていた(同行した女子アナ松山市内でゆっくり買い物をした後に飛行機で帰京し、江川より先に東京に到着した)。陸路がない沖縄キャンプ取材する際も、時間に余裕があるとき鹿児島から24時間かけてフェリー沖縄に移動するほどである横浜DeNAベイスターズ春季キャンプ取材沖縄に行った際、このときはさすがに飛行機には乗ったが、中畑清監督に「どうやって来たの? 潜水艦でも乗ってきたの?」といわれてしまい、名球会ハワイでの取材時にも長嶋茂雄から江川さん、よく飛行機に乗れましたね」といわれたほどである飛行機嫌いの一因には幼少時代体験だけでなく、現役時代に発生した日本航空123便墜落事故も影響しているといわれている。この事故で同じ球界関係者である阪神タイガース・中埜肇球団社長犠牲になっていたため、球界全体にも大きな衝撃を与えていた。

大学時代、後の夫人となる女性交際していたときデート東京六大学の試合登板予定が重なると、待ち合わせ時間として「試合開始から時間後」というように時間指定していたという。夫人によれば、指定した待ち合わせ時間に遅れることはほとんどなく、逆に試合の進行が早すぎると、わざと遊び球を投げて時間調整をしていたほどであった[64]。

現役時代から財テクに精を出し、不動産投機で大失敗して多額の借金を背負う。「投げる不動産王」とも呼ばれた。プロ入り直後には契約金を使って土地を購入したところ、予定納税のことをすっかり失念していたために資金繰りに窮し、結局土地を手放さざるを得なくなる[65]など、投資に関する失敗談も多い。この他、一時は第一不動産(のちのエフアール・イー、2007年1月破産)や、東京ベイホテル東急の運営会社役員にも名前を連ねていた[66]。なお、同様の呼び名桑田真澄にもあったが、こちらは本人が直接作った借金ではない。

現役引退の年、自宅に近い横浜市緑区霧が丘に喫茶店「きりんこ」を開店した。元々は巨人で打撃投手をしていた同僚が転職を考えているという話を聞き、その支援目的で当時近所に住んでいた黒澤久雄や羽川豊らと共同で出資したのがオープンきっかけだったという[67]。しかし、住宅地で回りにほとんど店が無いこと、すぐ隣に老舗の喫茶店があったことなどから、数年で閉店。その後駐車場となっており、建物の遺構の一部が駐車場の壁として残っている。

本人曰く「成金趣味」に結構金額を費やしている。一時はワインにはまっていたほか、ゴルフ好きが昂じて純銀パターを特注で作らせたこともある[† 29]。それらの贅沢には「ストレス発散」の意味合いもあったという。

テレビでの野球中継において選手呼び捨てにしている解説者が多い中、江川基本的呼び捨てはせず「○○選手」「○○投手」といった呼称を付けている。

 
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