はてなキーワード: 教養とは
嫉妬心や劣等感の表明を憚る空気がここ数年で急速に失われたと感じている。
ヒーローアカデミアが連載開始した頃、かなり丁寧に嫉妬心について検分・制御しているなと感心した覚えがあり、その分別のついた少年向け作品があることは幸いなことだと思われたがあれも今や一昔前の話か。
嫉妬心や劣等感を表明することには功罪がある。隠すのは心理的に不健康であり、既存の階層構造を維持・拡大するはたらきをもたらす。嫉妬心を認知・制御し、昇華することはネイビーを着るのと同じように階層の上位にすすむ・上位であるために必要な振る舞い、教養のひとつである。
弱者男性なるカテゴリが確立されつつあるのは階層における二極化の進行と関連した現象と思われる。昨今の国内の若者はマジで未来に希望がもてないらしいが格差の進行がSNSの空気もはっきりと変えてしまうのだなとなんだか感じ入ってしまう。
例のコロンブスMVについて「こうならないために人文的な教養が必要なんだッ!」とか息巻いているインテリ連中って世が世なら聖書を先住民に手渡して相手が少しでも粗末に扱うそぶりを見せたらそれを口実にしてジェノサイドとかしてたと思う。(神学を知っていたらこんなことにはならなかったのに……)
理系にとって常識とは「多数が実際に知っていること」であって、「みんなが知るべきこと」ではない。
理系からすれば高校数学(3C含む)あるいは大学の教養数学(微積、線型、フーリエ級数)までぐらいはすべての人間が知っていないとならないことだ。社会統計やエネルギー問題についての議論を高校数学もできない奴に理解することはできない。
しかし、理系は高校数学を「常識」とは呼ばない。それができないのが大半の人類だということは重々承知しているからだ。多数ができないことを「常識」と呼ぶ不毛さを理解するのが理系である。
一方で、Mrs. GREEN APPLEの『コロンブス』が炎上した件からわかるのは、文系は学歴の高低を問わず、「常識」を「自分が知っていて、みんなも知っているべきこと」という意味で何の躊躇もなく使えるということである。
「コロンブス」という西洋史の中の一人物に過ぎない存在の細かい仕事内容なんて、当たり前だがほとんどの日本人は学校の授業で習わない。習わないということは、個人的に興味を持ってそういう資料に接しなければ知り得ないということである。それをするかどうかは個人の自由意志の問題であって、そんなことをコントロールすることはできないし、してはならない。
しかしながら、文系学徒はそういう、自分自身の興味領域であって他人にも「知って欲しい」という願望がある知識、体系を、「常識」として押しつけることが何の問題もない行為であるという意識を持っていることを、今回の件は露呈してしまった。
文系にとって「常識」とは、この様子から有り体に解釈するなら、「誰もが『知っているべき』こと」という希望的観測から導かれる思想的な概念なのである。
その「知っているべき」と考える理由自体は、これは単に個人的な興味の問題なのでさまざまなようである。あるいは単なる歴史オタクだから、あるいは漫画やアニメに関連する知識だから、あるいは「海外ニュースくらい見ろよ」という出羽守。ともあれ、どのような理由であろうとも、自分の「興味」が誰にとっても重要であるべき「教養」に勝手にすり替わってしまうのが文系の基本的な思考回路であるということがこのことから見て取れる。
この、理系(あるいは、非オタク的な、自分に関係のないことに興味を示さない普通の人)にとっては狂気の沙汰とも思えるような思想的言葉遣いが、この手の炎上屋の発想の根源にあることは、重々注意しておかないといけない。そもそもの言葉遣いが、ものごとの科学的定義からではなく、「こうあって欲しい」という願望から来ているような連中に、論理的な話が通じるわけがないのである。
この文章は、普通に読めばわかるように「常識」という言葉を軽々しく使う思想性を糾弾しています。
コロンブスについて「学ぶべきかどうか」は全く否定していません。
というか、「無知な庶民にマウント取りたいのか教化して社会を変えたいのかはっきりしろよ」くらいの肯定的な説教なんだけどね。
「庶民は無知だけしからん」と言ってれば社会が変わるのか? 「インテリ」がそんなことばっかしてた結果が今の日本だろうが。
それこそ、「海外の常識」なら、この文章に「歴史的意義を学ぶことを否定した」なんて思想性の高い誤読はしないだろうね。ローコンテクスト読解が普通だし、庶民が無知なのは当然として社会の仕組みで頑張るという意識が当たり前だから。
自分たちで日本政治の「自助優先」を批判しながら、勉学については「自助しない奴はクズ」でマウント取ってすませてる、そういうところが偽物なんだよお前らは。
こういうところが、日本の「文系」のだめなところなんだよなあ。
あとですねえ、「理系(あるいは、非オタク的な、自分に関係のないことに興味を示さない普通の人)」を「理系が普通の人とイコール」と読める奴は、普通に日本語力も低いと思います。そんな読解力でよく「文系」もやってられるねえ。
総合すると、「文系」って言葉を厳密に使うこともできないし、文章もまともに読めないんじゃんという話だよね。何ができるんだあいつら。一問一答の試験の回答を覚えるだけ? やれやれ。
AIさん、また自信満々に嘘ついてない?
ジェンダー:15回
ジェンダーバイアス:1回
男女共同参画:8回
25回(ジェンダー平等2回、ジェンダー視点3回、ジェンダー問題0回、ジェンダーバイアス1回)
人文社会科学系のGender Equality Matters ─日本学術会議総合ジェンダー分科会第24期の成果から─
「学術支援・研究職」の現状と課題 ─ジェンダー視点からの検討─
「卵子の老化」が問題になる社会を考える ─少子化社会対策と医療・ジェンダー─
若手研究者養成とジェンダー ─人文・社会科学領域における女性・若手研究者養成の支援―
減災の科学を豊かに -多様性・ジェンダーの視点の主流化に向けて-
教養教育は何の役に立つのか? -ジェンダー視点からの問いかけ-
日本のジェンダー平等の達成と課題を総点検する -CEDAW(国連女性差別撤廃委員会)勧告2009を中心に-
8回(特集7件)
日本の戦略としての学術・科学技術における男女共同参画 ―「第4次男女共同参画基本計画」との関わりで―
男女共同参画の一層の推進に向けて
どこまで進んだ男女共同参画
2回(ジェンダーと1件重複)
表現の自由はあっただろ
無教養で無自覚な差別主義者の動画がちゃんと公開されて強制されることなく自ら引っ込めることが出来たんだから
表現の自由がないとは公開されることが出来ないもしくは強制的に動画が非公開になることだ
仮に後者、例えばyoutubeにBAN喰らってもそれは単なるyoutubeのプラットフォーマーの都合もあるから表現の自由とは無関係
日本学術会議の発行する、学術の動向という機関誌がある。毎月、特集という形で日本と世界の学術の動向や社会との関わりが紹介されている。
ここではどのようなことが特集されていたか、全てだと長くなるので例示を挙げて見ていきたい。
女性の政治参画を進める(2023/2)
コロナ禍における社会の分断 ─ジェンダー格差に着目して─(2022/5)
理数系教育とジェンダー(2021/7)
壁を越える ─ジェンダーがつなぐ未来へ─(2020/12)
「人間の安全保障」とジェンダー再考(2019/6)
ジェンダー視点が変える社会および科学・技術の未来(2018/12)
高齢者の貧困と人権 ─ジェンダーバイアスに着目して─(2018/5)
ジェンダーと科学の新しい取り組み(2017/11)
「卵子の老化」が問題になる社会を考える ─少子化社会対策と医療・ジェンダー─(2017/8)
日本の戦略としての学術・科学技術における男女共同参画 ―「第4次男女共同参画基本計画」との関わりで―(2016/10)
若手研究者養成とジェンダー ─人文・社会科学領域における女性・若手研究者養成の支援―(2016/10)
減災の科学を豊かに -多様性・ジェンダーの視点の主流化に向けて-(2015/4)
教養教育は何の役に立つのか? -ジェンダー視点からの問いかけ-(2014/5)
災害復興とジェンダー(2013/10)
雇用崩壊とジェンダー(2013/5)
災害・紛争・復興とジェンダー -人間の安全保障の新地平- JAPAN PRIZE(2011/8)
日本のジェンダー平等の達成と課題を総点検する -CEDAW(国連女性差別撤廃委員会)勧告2009を中心に-(2010/9)
学術分野における男女共同参画促進のために(2009/7)
人口とジェンダー ―少子化対策は可能か―(2008/4)
ジェンダー学と生物学の対話(2006/11)
どこまで進んだ男女共同参画(2005/4)
学術の再点検 -ジェンダーの視点から(その3)-(2004/4)
学術の再点検 ―ジェンダーの視点から(2)(2003/4)
学術の再点検 ―ジェンダーの視点から(1)(2002/4)
男女共同参画社会における日本の学術(2000/6)
ジェンダーを特集するなとは言わない。たださすがに多すぎないか?
リンク先の目次を見てもらえればわかるが、執筆者も「不利なエビデンスは隠す」「自閉症はマザコン少年の末路」の上野千鶴子さんなど典型的なリベラル左派の論者が並ぶ。
また、その他の記事でもジェンダーに注目した記事がやたらと多い。
日本の学問にはジェンダー論しかないのかというくらいに特集されているが、まさかそんなことはないだろう。自らの思想の開陳がしたいなら自身で発行されてはいかがだろうか。
ロシアのウクライナ侵攻に際して、日本学術会議はわずか5行の声明(https://www.scj.go.jp/ja/head/pdf/20220228.pdf)を出したことで有名だが(それも「対話と交渉による平和的解決を強く望みます。」と締められており、ロシア軍の撤退を求める内容ではないのは驚きだった)、その分機関誌では特集されているだろうと思って調べてみた。結論からすると全く特集されていない。関係があるかなと思って覗いてみたのが以下だ。
いま「戦争」を考える─社会学・社会福祉学の視座から─(2022/12)
中身は「戦争とジェンダー・性暴力」があり、おいおいまたジェンダーかよまぁウクライナ侵攻では女性も大きな被害受けてるしなと思っていたら、「ポスト体験時代の戦争研究」「「戦後の終わり」にどう向き合うか」「沖縄の“いま”からみる戦争の歴史と記憶」っておいWW2それも日本のみ、かな?と不思議な特集になっている。
歴史認識と植民地責任(2022/12)
こちらの中身は「朝鮮近代史の立場から──「植民地戦争」の視点から見た日本の植民地支配責任」「戦争責任・植民地支配責任──サンフランシスコ講和体制から考える」「東アジアにおける「植民地責任」を考える」とウクライナの占領地域のことなんか全く出てこない、日本の責任を追及するための特集となっている。
結論として、ロシアのウクライナ侵攻に関する特集はなく、何故か同時期に日本の戦争責任を追及するための特集を組んでいた。やるなとは言わないが、それは本当に特集としてふさわしかったのか?ロシアのウクライナ侵攻よりも?
福島の処理水問題や放射線に関するデマ、HPVワクチンなどまさに科学的な知見が求められるものに関する特集は組まれていなかった。また、コロナの特集は複数回組まれているものの、ワクチンの安全性や反ワクチンデマに関するものは見られなかった。
これは直接知り合いの大学教授に聞いた話だが、「ワクチンに関しては人文系の一部の強烈な反対があって意見がまとめられないんだよね」とのことだった。個人的にはコロナとジェンダー(2022/5)を特集するよりは反ワクチンデマについて述べてほしいと感じている。
その他、処理水や放射線デマについても特集できなかったのは一部左翼系の学者が強すぎるせいだろうか。
(余談)
学術会議が嫌うのが防衛に関する研究だ。防衛研究に関して否定的な声明(https://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/gunjianzen/index.html)を出したことでも有名だが、例えば複数の大学で見られた、自衛官の大学・大学院への入学拒否について声明や特集は見られなかった。
本当に学問の自由を守るつもりだったのか甚だ疑問だ。
いずれもやるなとは言わないがここまで左派的な思想に偏ったことをしたいなら、政府から独立した完全な民間団体としてやっていけばいいのではないだろうか。
もちろんこれは個人的な感想で、これこそが日本学術会議のなすべき特集だとする人がいても否定するつもりはないが。
○1〜2年に一本、これで多すぎると感じるなら、増田のバイアスの問題でしょ「ジェンダーを特集するなとは言わない。たださすがに多すぎないか?」
○実際に「学術の動向」のリンクに飛んでみて、この増田と同じ印象を持つ人が実際にいるんだろうか。チェリーピックして「チェリーが多すぎる!」って文句言ってる変わり者なのでは
年に一回くらいならと言ってる人、正気?
他の分野がこの2000年以降何回特集されてる?ジェンダー論こそが2000年以降の、他の分野の何倍も特集するに値する学術的なトピックだと?このブコメの方々はそう言いたいんだよね?
例えば「雇用崩壊」「災害復興」だけで特集すればよくて、その中の1トピックでジェンダーに触れるのならわかるけどジェンダーのみを焦点に当ててるのは違うだろと
ジェンダー関連を扱うのは外圧とかもあって自民党政府が進めてるんだよね。あとは東大の圧力もある。学術会議は必死に阿っているだけ。
そんな阿るような組織なら尚更政府から切り離したほうが良いよね、御賛同ありがとう
というか他のブコメも含めてジェンダー以外は概ね賛同でいいのかな?
24年間500件弱のうちの25件。増田がフェミのことばかり考えているから多く見えたのだろう。DV男が女に執着するのと同様、アンフェもフェミへの異常な執着心を見せることがあり、この増田もそういう類なのだろう。
インタラクティブで、文字のみならず美術や音楽といった総合芸術で訴えてくる豪華な読書。
読書して感性を豊かにしてる暇があるなら実益に直結する作業をするべきっていうなら、学校のカリキュラムですら教養系の科目は不要になるはずだな。
まあ、増田が挙げてるような昔からあるアクション主体のゲームは、どちらかというと読書というより、手慰みな部分が大きいかもしれんが。
現代のゲームは、いわば強制されない部活のようなものだ。部活を通して人と繋がることもできる。
ソーシャルゲームなどと馬鹿にされたりするが、そういうものは確かに昔のゲーム的な手慰み部分、つまりゲーム性は陳腐になっているかもしれないが、逆にハードルを下げているとも言える。
今のゲーム業界の市場規模中、運営型ゲームが8割を占め、人々がゲームを通して感動をリアルタイムで共有していく体験を重視していることから考えるに、手慰み性に執着せずに物語やキャラクターといった共有しやすい読書的感動にシフトしているのは、正しい方向への進化だと俺は思う。
大好きだった天才だと思ってたクリエイターが実際は知識も教養もなくこれを世に出したらどうなるかという想像力もない考えなしのアホだったという事実を突きつけられるのがキツイんだよな
中高生はそんなメタ認知はせずに「天才を理解できずわけのわからない難癖をつけてくるキモい大人」としか思わないんじゃないか。