はてなキーワード: 女人禁制とは
あれが何であってもそういう過去があれば不特定多数の直接的に支持者でないものまで支持に回らねばならない公の場にでると批判は出るのは当然
アイコンとして人物をだすためには必要な脚色と不必要な過去の隠蔽があるべきであれは人選がもともと間違ってる
ただ便利なのが人選の間違いを人事の間違いといわれずアイコンの責任になすりつけることができるところ
顔がみえない運営よりも顔の見えてる代弁者を殴るのはクレーマーの当然の成り行き
店舗の運営について現金で殴りつけるのが不満の解消としては実質実体効果があるにもかかわらずバイトの店員に土下座をさせる
見えている不満点についてみえていない原因を偏差射撃できるような人間はいない みえている的を一生懸命叩き続ける
本当に失敗したと思ったのならあれを一旦引き下げて代替品の押しも押されぬ謎バンドを出すべきだろう
なぜそうしないのか まともにオリパラの話をすると肯定できない人間が多すぎる
オリパラでもなんでも程度になにも情勢を理解しておらず失うものもとくにない音楽関係者にオファーを出すにしても
この要素を理解している企画者がいれば乗り気な人間はまともな思考をしてないのでおかしなことをする
というかもとよりオリパラに名乗りをあげるアーティストのアートとかまともな気がしないはず
ではそいつをごり押しにねじ込んでやってのけるか となると時間で押すしかない もう替えが効かないのでと言い訳をする
これは下の下で小学生でも思いつく方法だ とはいえ実際にそうなっているので如何ともしがたい
もうすこしまともな神経があれば小山田圭吾を使うにしても あとから自分の担当だったと自慢してもらってかまわないが
いまは覆面プロデューサーとして新規の使いつぶせる未完成で開拓中のアイドルをつかってグループをプロデュースしてもらう
そういう方法もあったはず
今後の活躍はその裏のネタがばれて崩壊する危険性をはらみつつ運用はできないのでワンオフでも出たいなにかになりたいという
すこし考えれば素人でも考え付くそんな方法を選択せずにアイコン総叩きでねじこんでおわらせたら形だけはなんとかなるだろうという
企画にGOを出したのは相当に小山田圭吾を恨んでいる人間か もしくは人間そのものを消しゴムかなにかとしかおもってない人間だろう
小山田圭吾自身がおこなった非道な行いは到底許されるものではない それは犯罪全般にもいえるだろう
それらの人間にはチャンスはないのか といわれるともちろんある ただそこではないだけだ
男子禁制女人禁制 関係者以外立ち入り禁止 免許がなければできない行為 それらは差別なのか もちろん差別ではない
性別や身体的特徴は選んで生まれてきたわけではない それを区別するのは差別だ そういいたい気持ちもわかる
だが性別の特徴をどちらかにもっている人間は どちらかから回避不能な攻撃を受けることがある それを守るためには敵を遠ざける必要がある
おまえがでていけということではない 敵をとおざけるという意味で区別をするのだ
クスリをやって逮捕されたアーティストや交通事故で人をひき殺したことがある演出家や舞台セットや美術やプロモーションやその他もろもろ
それらはそれらを受け入れてもらえる環境を選ぶべきだ 自身が攻撃され被害をうけないために
今回はそれが足りなった 小山田圭吾は日光に弱いのに日の下にさらされたのと同じ だれがそこに引っ張り出したのかという事だ
小山田圭吾自体は日の光によわいとして それが日の光を克服するにはどうしたらいいか なんてことをどれだけ議論しても解決するわけがない
ただの人体実験をしているだけだ 本人と医学の進歩のためにみたいなことを言いながら不死身の吸血鬼を拷問にかけて研究と称しているようなものだ
おわりはない
実際にこの問題を解決するために必要なのはこの企画とともに死んでもいい音楽生命が危機に陥る可能性があるこの大会に
名乗りを上げてくれる実務関係者だろう
そんなアーティストがいない やるからにはやらせてもらうという音楽バカみたいな人間がいない
手札で一番名前がうれていたのが小山田圭吾だったのかもしれないし 普段から恨んでいて日の下で死ねと思われていたのかもしれない
むしろそっちのほうがこの引き際の悪さを納得させる
最近のひろゆきの話もそうだが場違いな晴れ舞台デビューをしてなにもかも足りていないことを晒され恥をかいて退場というのは
企画力の低下かセルフプロデュースの一般化 蔓延の象徴のように感じる
とりあえず小山田圭吾の5文字が出ている全てについて 許容層以外のすべては攻撃的になることは確実なので
それを下げるのが一番のはず
なぜそれをしないのか できないのか
どの層からも攻撃を受けても防げるアイコンを大衆の目の前にかざして本体へのダメージを軽減させる
そんな企画が必要なことくらいだれでもわかるはず それができない状況という組織体の内部は一体どうなっているのか
とりあえず小山田圭吾には自分の居場所に帰っていい感じにやっててもらったらと思う
オリパラに期待したりそういう場の質や気品を気にする連中がこない地下のそういう奴らのドレスコードがあるクラブにいれば
もしお上品な連中が現場に降りてきたら逆におなじしぐさを返してやればいいだけの話
小山田圭吾がどこまで といわれたらもう出てきませんと言うまでだろう
だれが彼をそこにずっと立たせているのか それが問題だ
※便宜上、女の子のエッチな絵を男性向け、男の子のエッチな絵を女性向けと表記します。他意はありません。
また、母国語や教育環境が異なる外国人とかLGBTの人とか特殊性癖については度外視してます。
蹲踞は「そんきょ」と読む。
イメージしにくければ「蹲踞」で画像検索すればお相撲さんの蹲踞姿勢が出てくる。
エロ画像のタグ、属性、ポーズに「エロ蹲踞」というものがある。
股間を足で隠さない、むしろ強調するように開脚する姿勢なのでまあエッチな、ニュアンス的にはドスケベ系のワードである。
私が蹲踞という言葉を知ったのは中学生の頃、体育の授業では男子生徒だけが柔道をやっていた。(女子は何か別のことをやっていた)
現在、柔道を含む武道は必修化しているらしく、女子中学生でも柔道をやる人はいるだろうが、
少なくとも私の学区内で公立中学に通う女子生徒は最近まで柔道をやらされていなかっただろう。
指導要領のことは詳しくないのでわからないが、男子体育教員は柔道に特化した人というわけでもなかったので、
教員個々人の語彙ではなく指導要領なりなんなりに蹲踞のことが書いてあるのだろうと思う。
何が言いたいのかというと、蹲踞という言葉、その意味、読み方を知っている人というのは、男性のほうが圧倒的に多かったのではないか、ということだ。
全ての男子中学生が蹲踞について真面目に学習するわけではないと思うが、少なくとも女子中学生と比べてこの単語自体に接するチャンスは多かったはず。
「蹲踞/そんきょ」と言われてぱっとあのポーズが浮かぶ人間や、そもそも「蹲踞」が読める人間は男性のほうが多いはずである。
相撲においても昨今土俵の女人禁制が取り沙汰されている。なら相撲用語としての蹲踞にも男女で接する機会の差はあるだろう。
なら、エロ蹲踞というワードも男性向けのエロでよく使われるワードなのではないか?
とりあえずさっき(2021/06/11 PM18:00)、Pixivで「エロ蹲踞」と検索したら男性向けの絵しか出てこない。
「エロ蹲踞 ホモ」とか「エロ蹲踞 ゲイ」、「エロ蹲踞 BL」でググればまあ出てくるが、女性向けの絵を描いている男性だったりするし、どのサイトでも母数が少ない。
このポーズ自体はドスケベなので男にさせる構図の絵も多いと思う。
特におしりに何か挿す場合、M字開脚よりおしりが上がっている分なにかと便利なはず。
でもなんて検索すれば出てくるかわからなかった。(私はヘテロ男性なので別にエロ蹲踞してる女性向けの絵を見たいというわけでもないのだが。知的好奇心。)
騎乗位が近いのだろうが、騎乗位はセックスの体位でキャラクター個人のポーズとして使うのは違う気がする。
また、いわゆる中二病の症状によって読み方や意味を知っている人がやたら多い類のワードではない。(例:粉塵爆発など)
もはや教養として知っている類の言葉だと思うのだが、男性向けの絵ではあたかも見る側が読み方を知っているかのようにタグ付けされていたりする。
教育の中で男子生徒だけが接する機会の多い単語であり、そのまま男性がマジョリティである男性向けの絵などに使われるようになったのではないか。
あるいは今後、女性生徒も柔道に接する機会が増える中で、女性がマジョリティである女性向けの絵などでも使われるようになるのではないか。
教育における男女の違いが、そのまま男女それぞれが主体の文化圏で語彙の違いになっていく。エロ蹲踞の言葉からそれが読み取れるのではないか。
ということを仕事中に考えていた。
大学に入って、伝統芸能系のサークルに入ったら、その男尊女卑さに愕然としたことがある。
男子には許される装束が女子には許されなかったり、女性の師範代が虐められてるのを目の当たりにしたり、サークルの役員になっても業界の人達に無視されたり、OBの来る飲み会ではとにかくお酌役やらされたり、男子たちがとにかく女性の外見についてとやかく言ってきたり。
今なら「伝統芸能なら尚更そういうもんだよ」って思えるけど、当時は何も知らずに、ただ「やってみたい」っていう純粋な気持ちで入ったから本当にしんどかった。
世の中には男尊女卑の傾向が強い「伝統」があって、そういう決まり事はある程度、傷つく人が少ない範囲で守られていいと思ってる。例えば聖火リレーの途中であった女人禁制エリアとか。
でもそういうコミュニティって、大体前もって「うちは男尊女卑です」って教えてくれない。「男女平等ですよ〜」って顔してて、調べても中々出てこなくて、いざ内部に入って初めてその不文律に殴られたりする。就活の時も、募集要項にはないけど女子はこの職種になれない、みたいな情報が先輩伝いにわかったりしたことも何度かある。
せめて男尊女卑の体制を維持したいなら、こっちも避けて歩きたいから、それを大っぴらにして欲しい。そういうのを守りたい人達だけでやりゃいいのに、変に隠すから、私みたいに入って勝手に傷ついてしまう人が出る。そういう人が「ここに行ったら差別を受けました!」って対外的にアピールするの、内部の人もめんどくさいでしょ?ほっといて欲しいでしょ?
ならせめてもっとわかるようにして欲しい。こっちはこっちで、別のところを探すから。どうか表面だけの男女平等を騙らないでほしい。
カプセルホテルの「女性お断り」は単なる経営上の都合。女性客との混在に対応させるための設備投資が経営上引き合わないというだけ。従って需要が増えれば、女性専用フロアを設けたりするカプセルホテルも当然でてくるわけで、それは社会構造に組み込まれた、人々の意識の問題としての「差別」とかとは、全然別の問題。
また、土俵や宗教的聖地が「女人禁制」となっているのは教義によるもので、それは社会に存在する「差別」的な物の見方を反映したものである場合もあり、これを批判的に検討することもあっていいとは思われるが、それ自体を「差別」と呼んで社会的に是正を図るようなやり方は適切ではなく、単に時代に合わない教義をもつ宗教からは人が離れていくという形に任せれば十分である。たとえば、土俵が女人禁制だというなら、それは尊重すればよいし、もしその教義に不満があるなら単に相撲を観なければよい。したがって、これも「差別」と呼ぶのは避けた方がよい。
いずれにせよ「差別」というのは、社会的に是正が図られるべきというニュアンスを含む相当に強い(批判の)言葉なので、軽々に用いるべきではない。
悟りっていいとかわるいとか決断とか愛とかそういうもんじゃないんですよ
やる気とか分別とか心根とかそういう、なにかを示す形容的なものじゃないんですよ
そうあるという状態をしめすもので、その様子を形容しているようでそれそのもの自体のことを言及すること自体であることが悟りの本質で
それがそれであるということ ということが悟りでそうであるとしているものを悟っているというのです
岩が岩であることを岩としてしめしていることを悟りと言いますし人がそういうものだと思い感じることを悟りというのです
行動したこと 迷いなく身をすて人をすくうという行為をするということがそういうものだとして行う事が悟りです
迷いなく逃げても その理由やその結果をそういうものだとすればそれも悟りです
どうすべきか 常に悩むということを続けることもそれは悟りでもあります
答えを探求するということも それも悟りです
それがそれであるということ なんていうのは当たり前だと思われそうですがなかなかそうはいきません
あの時こうしていれば 本来ならば 本気ならば 次は前のとちがうから とそれがそうではないか?という期待や希望で「それがそれである」という本質を見失いがちなのです
自分をすてて人を「助ける:救う:善行を行う:良好な結果に期待する」という行為にはそれが悪であっても最悪の結果になってもそれが責められても「行動そのものはそれそのものである」とだけ「悟って」いれば答えを求める不安に陥り不安から逃れたいという欲求から安易な選択をしないという可能性が増すということです
そんなつもりじゃなかった こうしたかった 本当の本質を知ってほしい という欲求で自分の考えていることを「他人に強要し汚染し影響させ答えを変えさせて自分に沿わせる」自分が我であるということを越えて他人をも我にしようとする行為に戸惑い迷い入り選択してしまわないように「それはそれでしかない」という完結をもって考えることが悟りです
悟りとは吾の心と書いて悟りです 自分の気持ちということです その持ちようがそうである 自分である これが答えである という意思が悟りなのです
自分をブランディング というものが悟りであり 悟りにあると行動や選択が自分のものになります 他人のせいでもなくなり失敗もなくなり すべてはあるがままに自分におきる自分のこと 自分とはこういうものだと考えるのです
悟りにあると人は人というものなので 強い面や弱い面 どういう状況でとかどんな場合とか例にあてはめて例という個に分離させ孤立したその個について深く言及したりすることはなく それは全部ふくめてそれが人だということに収まります
人とはその生きている時間の目が覚めている時間のほとんどを名前を付けることに費やします 今日 さっき いましたこと それ ちょっと前の 昨日の ここまでの成果の 追加分の など名前のついたなにかを紡ぐことにほとんどを費やします
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女人禁制で性交禁止 私財の禁止に欲の禁止というのは人間であるのにAIとして機能することを強要されているのです 公平で公正で偏りのない情報の収集と歴史の観測と地域の保善に使うように組織したものなどでした
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錯覚させ判断を歪ませ結果自分の思惑に同調させたのであれば 大きく問題があるのではないかということです
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あなたがあなたであるということを知ったり知っているということはそれはすでに悟りです
それを人に知らしめるためには「これが悟りだ」という必要はありません 自分がそこに立っていればそこには「あなたの悟り」があるのです
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他人のなかにうつる吾を気にするとその吾がみている他人のその目にうつる吾のみた他人の そのまた見た吾のみている他人の ということにもなりかねません
そうすると自分が他人との間にたてるべき共通認識のなにかを生産する時間がおおきくそがれます これを小さくする練習が修行みたいなものだったりします
生きていることや経験していくこと自体がそれであったりするので わざわざ利益を排除した純粋な公平判断機材となるべき練習の修行でなくとも 社会的に営利活動をするなかでも見つかるかと思います
悟った自分をいくら他の人の心の中に作り上げようとしても 他人の心を作っているのは他人のその人そのものなので言葉をいくら尽くしても悟ったあなたも悟りもなにも伝わらない可能性があります
またもし伝わったとするならばそれは他人に私の作り方という方法を植え付けただけになるかもしれません
悟ったとして自分が自分であるという確証をもってこれからの自分の行動に自分のものであると受け止められるようになった時 きっとできることは自分の見た風景や自分の一部を他の人が見聞きして感じられるなにかにすべきかと思います
自分語りのショートショートを書くこともそれは一つかもしれません
今回は悟りをテーマにした自分の成長過程を時間のなかに刻むことが自分は悟りの点に今日きたという生産物になったともできるかと思いますが
悟りの中に悟りの解説をいれてしまうと 悟りとは何だったのかという解説の出番がなくなってしまいます
私は一個人として悟りという単語のあるべきポジションとして それは伝えようとするとほぼ自己紹介でしかない 悟っているということは自分が自分自身でブランディングできているということ
こんな使い方であったほうが そんな気苦労を減らして人生が過ごせるのではないかとおもっています
あなたが悟りと呼んだその名前を付ける作業は 人生そのもののことだと私は表現をします
むかし写真家の篠原紀信が自分の写真作品に自分を映り込ませるという事を問題視すると話題になった事や ふるくはドッペルゲンガーの話などあるように
同じ名前の定義で内包する具現化したそれを存在させてしまうと かたちを表しようがなくなってしまいます
「写真」という名前の「写真」が写った「写真」は何なのかわからないものです
攻殻機動隊で魂がどこにあるのかということがゴーストという名称で殻におさまっているストーリーでもありましたがその判断の中核にあるランダムを演算する基礎となる乱数キーのような判断基準が悟りであります
もしあなたが何かを生み出そうとして苦難を感じることがあるとするならばそれはきっとゴーストコピーの苦しみのようなものかもしれません
大きな定義の名前をつけて気苦労だけしていくのがわが人生 という生き方もまた悟りだと思いますので個性をお大事にいただければと思います
50代くらいの世代の人の話を聞いたり登場人気だった漫画の巻末のお便りコーナーなんかを見るに
萩尾望都をはじめとする「24年組」の少女漫画だとかバナナフイッシュとかは男性も読んでて
ドラゴンボール、キャッツアイ、北斗の拳、タッチ、うる星やつらなどの少年漫画も
教室で大流行して非ヲタの女子も回し読みするのが当たり前だったらしい
ジョジョのあーんスト様が死んだだって女性からのファンレターで
アニメだけど富野もガンダムの最初のファンは女性だった的な発言をしているし
「女性向け」は男性が読むことを禁ずという意味ではないし「男性向け」も女人禁制ではない
作り手はそんなつもりではない
ただ近年になってジャンプがちょくちょく怪しい発言しているのが問題なんだよな
だから「少年漫画は男だけのものなのに!」と言い出す奴や「少年誌という言い方は女性差別!女性排斥の意図がある!」とかいう奴が出てくる
冗談で言ってるんでもなく、俺ルールを押しつけてるんでもない。
っていうのは、彼女が増田を書いてみたいって言ってきたんだよ。べつに止める道理もないから俺のスマホで増田の投稿画面を立ち上げて渡した。すると奇妙なことに画面が全然反応しないという。フリーズしちゃったのかな、と思って俺も触ってみると、普通に動く。一時的な不調か、と思って彼女にまた渡すと、また動かない。
何回か繰り返してイヤになっちゃったんで、素直に彼女のスマホで増田に登録してみることにしたのね。アドレス入力して、ちょっとしたクイズに答えて…ってのを彼女がやっていくのをなんとなくみていた。そうすると、突然彼女の様子がおかしくなった。しばらくボーっと画面を見つめたあと、ゆっくりこっちを向いてこう言った。
「わたし何してたんだっけ?」
いやいや、増田の登録でしょう。そういうと、増田って誰?なんて言いだす。ふざけてるのかなと思うが、どうもそういう雰囲気でもない。
彼女は増田の登録中に突然増田に関する記憶をなくしてしまったらしい。スマホを貸してもらってみるとホーム画面に戻っていて、ブラウザの履歴にも増田はない。彼女にとって増田は完全に未知のものに戻っていた。
そのあと彼女に頼んでもう一度増田の登録をやってもらったんだけど、全く同じことが起きた。
もしかして女性は増田を使えないのか?という霊感が走ったんで、女友達に連絡をとって増田登録を試してもらってみた。そうすると、途中で話が噛み合わなくなる…というか、会話のラリーが止まるんで「増田どうなってる?」と聞くとなんの話かと訝しがられる。
念のため対照実験として男の友達にも連絡をとってみたんだけど、こっちはうまくいった。やつはいま増田にハマってしまって、毎日レスバトルに興じてるらしい。