2023-12-25

ハゲなじり論法誤謬

「私はいいけど、他の人が傷つくかも知れないから」論法は好きじゃない。


記事の要旨:

 「私はいいけど、他のひとが傷つくかもしれないから」論法は(不当な)説得力ドーピングである


記事へのコメント(上記反論):

 「○○という表現リスクがある、こういった属性の人が不快に感じるかもだから」という意見意味があるかと。

 私自信はハゲとなじられても何も感じませんが、表現自体はリスクがあるように見えるので言いますね。


記事へのコメントの要旨:

 「○○という表現リスクがある、こういった属性の人が不快に感じるかもだから」という意見は、(不当な)説得力ドーピングではない(意味がある)。

 例として、「私自身はハゲとなじられても何も感じませんが、表現自体はリスクがあるように見える」、

 したがって、「私はいいけど、表現自体はリスクがあるように見える」という指摘は、(不当な)説得力ドーピングではない。


この反論は、元記事重要論点無視している。

 そのため、本来適切でない「ハゲの例」を引用してしまっている。


論点

 元記事の主張は、ある表現への反論において、

 「ほかの人が傷つくかもしれないから」という論証を行うことで、"説得力の添加"を行っており、それが問題なのだ、という点である

 しかし実は、誰かをハゲ表現することは、「私、あなた、もしくは特定の誰か、もしくは不特定の誰か」を前提するまでもなく、リスクある表現であることがわかっている。

 したがって、「私はハゲとなじられても何も感じませんが、表現自体はリスクがあるように見えます」という主張は、

 "「私はいいけど」論証による説得力の添加"が行われていないことになる。(どこかの禿げた他人を前提せずとも、ハゲなじりは失礼である。)


 なんらかの他人を前提せずとも、ハゲなじりはリスクがあるのだから

 もともとの議論で強調されている「なんらかの他人規定して"説得力を添加"することの是非」の話を無視した例示となっている。


コメント検証

 「ある属性の人が不快に感じるかもしれないから、指摘することには意味がある」

 この意味においても、「ハゲなじり」の例示は不適切である


 実は、ハゲとなじられることに不快感を覚える人は、「実際に禿げている人」にとどまらない。

 「今現実に禿げていない人」であっても、もしくは「禿げているかどうかすらわからない不特定多数の人々」を指す上でも、不快感を覚える可能性はある。(というか、高い。)

 すると、「現実に、なんらかの属性(ハゲ)を持っている人が実在するかどうか」すら関係がなく、

 ハゲなじりはリスクある表現であるということがわかる。

 したがって、「ある属性の人が不快に感じるかもしれないから、ハゲなじりの不適切性を指摘しますね。」という説明は、

 その論証が"「誰かを規定する手法に基づく説得力」の添加が成されていない(ハゲなじりはその属性を持つ対象実在していなくても成り立つ)"がゆえに、「私はいいけど」論法擁護になっていない、と言える。


まとめると、

 誰かをハゲとなじるのは、特定の誰かであろうが、不特定の誰かであろうが、

 また、禿げた何者かが実在するかどうかにすら無関係に、失礼で、リスクある表現である

 これは、「○○論証により、ハゲなじりはリスクがあることが分かる。したがって○○論証は(リスクを論ずる上で)健全な論証である。」と言ってるのと変わらない。

 これは後件肯定という形式的誤謬である


 「ディズニーランド論法」、「(私はいいけど)ディズニーランド好きな人不快に思うかもしれない表現は慎むべきだろ!」という論法においては、

 「不特定対象」を規定することで、"説得力の添加"を行っており、そのような論証は本来濫用されるべきではない(と元記事は主張する)。


 一方、「ハゲなじり論法」、「私はハゲとなじられても何も感じませんが、表現自体にはリスクがあると指摘します」という論法においては、

 私はいいけど論法問題である"何者かを想定することに基づく説得力の添加"が実質なされておらず、私はいいけど論法擁護になっていない。


 上記の両方の例において、「私はいいけど」論法健全論法であることは意味されない。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん