はてなキーワード: 方便とは
この文章を書いている今、かつてなく自殺企図の情動が高まっており、それでもなおそれを完遂することへの恐れから、今なるべく頭の中を冷静にして考えたことを書き留めておこうと思い、手を動かしている。
自殺未遂自体は、10年近く前にやったことがある。部屋に一人の状態でベルトで己の首をゆっくり絞めていき、「落ちる」ところまで行ければあとは死ねると思っていたが、結局自分でリミッターを外すことはできなかった。あとは、家にある薬状のものをとにかく全部飲むというのもやったが、たくさん飲めば死ねるような薬はなく、薬効どうしの食い合わせで運よく死ねるということもなかった。私は所詮その程度ですが、こんなのマウントを取り合いをするものではないと思う。
処方された薬は自分の判断で勝手に飲むのを止めてしまったが、少なくとも今日までは自殺することなく生きてこられた。自殺チャレンジばかりを考える日々から脱却できたきっかけははっきりとは分からない。グラデーションに近いものだと思う。そしてそのグラデーションは真っ白な状態に戻ることは決して無いだろうと感じる。初めて本当に死にたいと考えた日から今日までずっと死のことを意識してきた。下手な例えだけど、シャッフルされた山札から1枚ずつドローしていくうちに「死」を引いてしまったのが10年前で、それ以来ずっと手札に「死」を持っている感じに近い。手札に「死」を持っている状態に慣れていったことで、逆説的に今日までそのカードを使うことなくやってこれたような気がする。
少し話は変わるが、私は私が「自殺したい」と考えていることを他人に表明することをひどく恥ずかしく感じる。そのことを他人に話してしまえば、それは暗に「止めてほしい」ということを意味し、結局のところ本気で死ぬ気はないのだと始めから自己矛盾が露呈してしまうからだ。したがって、本当に死にたいと思うときに私は沈黙するしかない。実際この文章を書くまではそうしてきた。
なるべくキーを打つ手を止めないようにするため、文章の構成を考慮せず思うままに書くことにするが、ご容赦いただきたい。
「自殺をしてはいけない理由とは一体なにか?(あるのか?)」という倫理的・哲学的問いがある。よく答えとして挙がるのは
①生きていればまだ良いこともあるから
といったところだと思う(「自殺するには苦痛を伴う」というのは積極的に自殺を選ばない理由ではあるが、自殺をしてはいけない理由ではない)。
私はこれらのいずれも失当だと思う。
①生きていれば良いこともある
下らないことを言わないでほしいと私は思う。そりゃ良いことも悪いこともあるだろう。でも結局人生における良いことと悪いことの総量を比べることはできないし、最後には誰もが死ぬのである。なぜそれが今ではいけないのか。人生における最後の幸福を味わったら後は死んでもいいのだろうか。少なくとも、死にたい気持ちを自覚し、それを何度もやり過ごして生きてきた人間にとって、残りの人生は死にたい時間とそれをやり過ごしている時間の繰り返しでしかない。
②残された人が悲しむから
実のところ、身体的苦痛へのためらいを除いて、これまで私を自殺させなかった理由の最たるものである。幸いにも、私は家族に恵まれたと思うし、私が自殺した後の家族の気持ちを考えると涙が出そうになる。しかし、実はそれを私が気にする必要はない。なぜなら、実際に自殺した後に悲嘆に暮れる家族の様を「悲しい」と感じる主体であるところの私はすでにどこにもいないからである。悲しいと感じるのは残された者の気持ちを考える「今のまだ生きている私」であり、その意味で身体的苦痛へのためらいと同じだ。
少しそれるが、現行刑法だって自殺を殺人には当てはめていない。自分の保護法益である生命を自分が終了させたところで罪には問えないからだ(容疑者死亡のため起訴できないというのもある)。
したがって、突き詰めれば、②は(残されることになる)私が悲しいから「自殺してはいけない」ではなく「自殺しないでくれ」というお願いでしかないというのが正しい。
死を選ぶことは本当にいつでもできるだろうか。中途半端なためらいがなくなったあの瞬間に人生を終わらせておくべきだった、そうすれば今の苦痛を味わうことはなかったのにといずれ後悔しないだろうか。少なくとも私はいま後悔している。10年前に死ねていれば今日の苦痛はなかった(10年間の喜びも無価値だったのかと問われれば、少なくとも今の苦痛に釣り合うものではなかったと答えるでしょう。死にたいときは常に)。
「死」は切った時点でほかの全ての選択肢を失うという点で最後のカードだ。でも結局その理論は①の理由に行きつく。それは「自殺してはいけない理由」にはなりえない。
私が敬虔なクリスチャンであればこれほど強い理由はなかったろうと思うが、私を含む非キリスト者には全く通用しない。結局なにがしかへの信仰しか救いにはならないという気がしている。
こんなことを平気で言う人間とは関わらない方が良いですよ。
つまるところ、やっぱり自殺してはいけない理由なんて無いんですよ。
どれも思いとどまらせるための方便でしかなくて、あとは本人がするかしないかの判断があるだけ。
ここまで書いたところで紛れていた衝動の波が戻ってきた。
ところで私は家に包丁を置いていないのだが、その理由を人には「私は自炊しないので」とへらへら語っているが、実際の理由は衝動的に自分に使用しないためである。今は刃を己にめり込ませたくてたまらないので、平時の私の判断は正しかったのであり、その正しさを心底憎悪する。
3.日本政府は、今も本気で五輪を開催するつもりなのか、責任を押し付けられずに中止するための方便か、どっち?
俺がぱっと思いつくだけでも、金と、国民の満足感と、国際社会に存在感をアピールできること、あたりは間違いない。
だが、それぞれどれくらいなんだ?
経済波及効果は試算が発表されているが、これに異を唱える意見も沢山あり、信憑性がよく分からない。
https://www.2020games.metro.tokyo.lg.jp/taikaijyunbi/torikumi/keizaihakyuukouka/index.html
だいたいにおいて、賛成派と反対派で試算が違いすぎる。どうしてそうなるんだ。
それもどれくらいなんだ?
試算や見積もりはどんどん変更する上にコロナ要素を入れると、分析された数字が全然出てこない。
そしてこれも賛成派と反対派でリスク評価に振れ幅がデカすぎる、なんでそうなるんだ。
首相や大臣が「五輪は開催したい」みたいなことを言っているが、あれはどこまで本気なんだ?
本当に開催しようとしてるって解説もあれば、実際はもうやる気はないんだがIOCやスポンサーとの政治勝負で有利になるように自分から辞めたいと言うことを避けてる交渉術だ、という解説もある。
実際は政府はどういう考えでいるんですか?
Vivyは、話を盛り上げるための不自然な事件や行動や言動が多くて、自分には合わなかった
たとえばヒロインも含めたAIが、合理的な行動よりも、感情的な行動や言動に動くことが多いため、
素早く判断し行動すべき部分でも、妙に感情が先行することが多く、話のテンポが悪くなり行動や
言動にイライラさせられる場面が多い (もっと素早く行動しろよ!)
自分は、BEATLESSやplanetarianは好きなのだけど、両者にそういったストレスは感じなかった
BEATLESSのレイシアの場合は、超AIの判断が合理的で速いため、レイシアの行動が読めず、少し
後になってから、「そういうことだったのか...」と納得できるようなところにスピード感があり面白かった
planetarianの場合は、AIの技術がまだ未熟であるため、ところどころで不器用な反応が返ってくるようなところに、
子供のような無垢で純真な部分を感じさせられる点が魅力だと思う
Vivyの場合は、人型AIが妙に人間くさく合理性を欠き、言動全体が湿っぽく感情的なのが不自然
そもそも、AIに反対するテロリストの存在からして、説得力が欠けていると思う
AIの危険性を論理的に納得させる部分が無いし、集団で武装し様々な施設を襲うのでは、
AIでなく人間が管理しているシステムだって、同様にシステムの脆さを露呈するはずなんだよね
そういう意味では、暴力に訴えたAI批判というものが嘘くさいし、アクションを見せるためだけの方便にしか見えなかったりする点が、どうも自分には安っぽく見えてしまう
AIの危うさを世間に知らしめたいのなら、もっとシンプルな頭脳戦でシステムの盲点を突いて見せな
ストーリーがお涙頂戴の方に傾きすぎていて、AIかわいそうってだけで、AIについて論理的に考える部分が少ない感じがするんだよね
id:Dr-Seton の以下の記事について
https://dr-seton.hatenablog.com/entry/2021/04/23/222208
フェミニストは、外形的な要素(収入、容姿、年齢など)で格付けせず、「人としてどうか」で判断しているから正しいって言ってるんですけど、マジでアホかと思う。
この「人としてどうか」という判断が、実質的に、コミュ力、発達、容姿、収入等の諸要素を変数として、ブラックボックス化した中学校の内申点のようなものになってるわけでしょ?
それとも「フェミニストの判断は公正公平だ」と強弁するの? そんな無茶な方便に騙されると思ってるの?
外形的な、収入の多寡や容姿で選んで、それを堂々と言うのは、クソだけど正直なだけマシ。
むしろ、それを「人としてどうか」のような全人格的価値の問題にすり替えて、実質的に人を格付けしているのがミエミエだから猛反発されるんだよ。
感謝の気持を伝えるのは人によって様々だけど、単に方便なことが殆どで軽い連中ばかりだ。
他人にするのはどうでもいい。だけど自分の関わってるジャンルや部門に対して、「あれに携わった人たちには感謝している」なんて言われるのはむず痒いし、そんな軽い言葉を投げられたほうはたまらない。気持ちわりーと思う。
その言葉の裏には「感謝の気持くらいありがたくうけとってけ」という恩着せがましさがにじみ出ていると常々思う。
そんな言葉、こっちに来たら二度と吐けないんだよ。ようは外から見て傍観しているだけで、一緒に戦おうという姿勢も感じない。サッカーで言えばサポーターではなく、サンデーモーニングの解説者並みの部外者がわーわー言ってるようにしか思えないんだ。
他には差別は良くないだの言ってるんだけど、人間はもともと生来のルッキズム的な動物であって、選択してきたから恐竜に食われずに生き残れたんだよ。選択するってことはすなわち差別するってことを含んでて、それはあんたが俺をフォローせずに無視したように必ず発生する。いいんだよ、だってあんたは俺より人気者だしそんなことでいちいち傷つきはしない。万単位のフォロワーを抱えるなら当たり前のことだ。しかし差別は良くないと言うなら話は別だろう。差別しないなら万人は愚か万物と等しく自分の位置を置かなくてはならない。それが本当の差がないということであり、選択して切り捨てないということだから。
左派リベラルの多くはこの切り捨てないという発想に自己矛盾を抱えている。だからリベラルなんて方便としてしか機能しない。人間はもともと差別的で救いようがない糞便のようなものだし、それは差別しないという発想を持ってしても糞便と等しく存在しているという意味では似たようなところがある。
この人は間違いなくこれからも人を選び続けるだろうし、きついものからは目を背け続けると思う。差別しないなんてスローガンを掲げるやつはおしなべて差別的だから。
前提として、以下を読みました。
1. 元記事 https://nuc.hatenadiary.org/entry/2021/03/31
2. chokudaiさんの返信 https://chokudai.hatenablog.com/entry/2021/04/01/115755
3. nucさんの謝罪(?) https://nuc.hatenadiary.org/entry/2021/04/02
ふだんはインターネットのあれこれについてROM専ですが教育と教育倫理に携わる者の端くれとして3の記事に対し、このような方が教育を大声でかたることの危険を感じたため筆をとった次第です。
私は教員→ソフトウェアエンジニアとして数社→公教育ではないとある教育機関で勤務、といった経歴にあり、大学で学ぶ程度の教育学と小中高領域の教育に関しては多少通じています。ちなみに務めた会社にGoogleは含まれず、競技プログラミングについてはソフトウェアエンジニア時代にちょっとかじった程度で歴史やコミュニティに詳しいわけではありません。
1の記事についても賛同・異論含めていろいろあるのですが、そちらは各個論点についての意見が異なる程度の話ですので割愛します。なお、両者の知り合いでもないので通りすがりによるネットの怪文書程度の位置づけで結構です。
いきなり教育の話から逸れて恐縮ですが、謝罪慣れしていない方がやりがちな失敗がいくつもあり、謝罪文として看過できない点をいくつか指摘します。
教育哲学・児童心理などを学んだり活用する立場にある私にとって、トラブル対応や謝罪について考え実践する機会は山程あるのでその経験から思ったことでもあります。
他人のためを思ってやったことが相手に対して失礼だったとき、傷つけたとわかったとき、「そんなつもりはなかった」と言い放つことがどれほどひどいことか、私は見てきました。
ハラスメントやそれらにまつわる謝罪で最も悪手の1つです。間違えた側にできるのは一切の言い訳なく謝ることです。
https://note.com/tm88817/n/ne5025239f31a から私が肝要と思っている節を引用しました。
この文章がタイトルに示されるような謝罪文であるならば、この一点においてすでに重大な間違いを犯しています。
余談ながら、謝罪の本質を中学生ぐらいの子どもにそのように教える機会があります。経験上、成績がよく普段は問題を起こさないが内実プライドが高く誤り慣れていない子どもは「そんなつもりはなかった」「相手が勘違いした」といった言い訳をする傾向にあります。私の個人的な体感ですので一般化はできませんが。
これについては、意図せず失礼なことを書いたとお詫びしたいと思うと同時に少し背景の説明と本来の意図をご説明させてください。
先述と同様です。失礼なことを書いたと自覚しているなら本来の意図の説明は不要です。
背景と意図を説明するのは「自分に過失がないと確信しており、誤解を解くために誠意を尽くす」場合です。過失が誰にもなくても誤解やすれ違いというのは生まれるものですから、そのときは真摯に伝え直すのみです。
私は、このけんちょんさんのために仕方ないと思って記事を書いたのですよ。本当に面倒で書きたくなくて、他に書くものもあり、ツイッターで書こうかなと宣言して自分を鼓舞までしたのに、2ヶ月以上かかりました。
nucさんがchokudaiさんを不快にさせる文章を書いたことについて謝るために、矛先を向けさせるような形で第三者を巻き込む必要もなければ、あなたの事情を説明する必要もありません。
また、自分を鼓舞までして2ヶ月以上かけて書いた事実があったとして、謝罪を受けた側に何の意味があるでしょうか。過失を避けるように努力したのであれば法的にも情状酌量の余地はありますが、「努力をしてやったことだから引き起こしたことの罪が軽くなる」、なんてことはないのではないでしょうか。
言いたいことはたくさんあるのですが、「教育者として避けてもらいたいこと」に焦点を絞ります。
結論だけ言うと、これだけの悪手を悪意なく行う人に、教育者として後進の育成に関わってほしくないと感じました。成功者だけでなく被害者が生み出されることを危惧しています。直接指導でなくとも、技術力を活かして別の形で関わって頂くこともできるのではないでしょうか。
そりゃそうじゃないですか、「競技プログラミングをする」という表現は当時はなくて、「プログラミングコンテストに出る」と言っていたわけです。だから、競技プログラミングといえば、自分たちが大学生の頃の集まりを指すわけです。
発端となった1の記事では田舎初段といった言葉を用い、まさにそのことをご自身で説いておられたかと思うのです。
特に後者の「競技プログラミングといえば、自分たちが大学生の頃の集まりを指す」は少なくとも私にはまったく自明ではありません。ある程度客観性を持った事実なのかどうかを確認するためGoogleで「競技プログラミング」について検索をかけてもnucさんと同じ解釈を見つけることはできませんでした。
5歳くらい歳が離れると一部の言葉が通じなくなることがあるのは、少し前に「アンチ」という言葉で強く実感したことがあります。これもそうなのでしょう。
唐突に、。穿った見方をすれば、今回のコミュニケーションの失敗の原因を年齢差に帰しており、自身には過失がないといった主張に読み取れます。
歳が離れると一部の言葉が通じなくなることは、年の離れた相手の教育に携わっていればどうやってもわかることです。
ですがこれを理由にしてこちらから対話を閉じたり、「言ってもわからないだろう」といった態度をとるような方に教育を声高に語っていただきなくないです。
私がかつてドラゴン桜に対して抱いた印象を思い起こさせます。東大に入るのは「かんたん」、かんたんには但し書きのカッコが付きます。
ただし適切な素地があり適切な対策を十分かつ継続的に行えた場合、です。場合によっては家庭からの適切なサポート、障害やハンディキャップを持っていないこと、も条件に含まれます。
1の記事で以下のように述べられており、大学院に行くことが人生の選択肢にない人の存在にショックを受けたとありますが、そのときに培われた想像力を今一度働かせて頂ければと思うのです。
まさか戦後生まれで大学院に行くことが人生の選択肢にないことがあるとは思わなかったので、私は本当にショックでした。30を過ぎるまでこれにまったく気が付かなかった自分自身への怒りで、視界がおかしくなっていました。
とある医学部教授から「読んだよー。文章はいいけど、お前が卒業生をひょいひょい適当にエンジニアにすると教授会で問題になることがあるから、するんだったら出来の悪いのにしてよね。いいね。ほんと頼むよ。特にそこにいる生徒会長みたいなのはだめだから。」ということなので、今後は、あらかじめ「出来が悪いかを問い合わせる」約束をしてきました。
ちょっとした怒りが湧きました。
今後nucさんに面接対策を依頼し、OKをもらえた学生は医学部教授が出来が悪いと認定した医学部生になる、ということとなります。
このような文書を公開し、残し続ける限り、nucさんの生徒・元生徒が目にする可能性があります。
教え始める前にせよ後にせよ、もし私がnucさんの生徒としてこの一文を見たらと思うと激しい動悸がします。
この一文をどんな思惑があって追加したのかわかりませんが「諸事情により今後は医学部生の生徒を取ることを控える可能性がある」程度で良かったのでは。
「かわいそうなことに、りりあんさんは、いかれた3人の模擬面接官が今まで何をやっていたんだと慌てふためいたことにより、2週間のリアルタイムアタックを宣告され、無理やりクリヤーさせられました。コスパがよかったですね。でも、こっちの胃までおかしくなるから真似しないでね。」で終わるのですが、これだけ書いてもぜんぜん広まらなさそうですよね。そこに、フィロソフィーと教育関係の問題意識の話を突っ込むとこうなります。
1の記事における教育関係の問題意識の話については首肯できる箇所もあり、志の高い方という印象を受け共感もありました。しかしながら1の記事で持ち込まれた教育関連の話が、自身の記事を広めるための方便・道具であったことをここで暴露しておられます。
自身の教育論を手段として使われることは主張自体の価値や正当性を毀損するものではないですが、3の謝罪文の端々にあらわれる不味さから、教育を声高に語らせてはいけない方だという印象に修正されました。
特に教育と一言に言っても指す領域は広いことを認識されておられない点。アカデミックな領域についてはnucさんは私などより遥かに広く深い見識をお持ちなのだと思いますが、それが全てであるかのようには誤解されたまま教育問題をバズるための方便として喧伝することは事実認識を歪めることにつながります。
以上が教育関連で私が主張したいことです。
しかしそれは、LGBTを嫌いと口に出す自由がなかったからで実は内心ではLGBTをよく思ってない人が大勢いて、実際LGBTは理解されていなった。
実際はまだ嫌われているのに理解が深まったと思い込んだLGBTが政党を作り政治に殴り込む。
そのとき有権者は、口では理解を示していたけどやっぱみんな嫌いだったんだと思い出す。
そして内心の嫌いが増幅される。
そういうこともあり、ある人事がLGBTを内心で嫌うようになったとする。
世間ではLGBTの理解が深まったように見えているので、履歴書の性別欄に男/女/ゲイ/レズ/…と表記されるようになった。(ここは性別書かなくていいと議論もあるがとりあえず仮定)
その人事はLGBTだから採用しないと言うことはできない代わりに、LGBTを不採用にできる理由を探し始める。
表に出ないけど、LGBTはマイナスからのスタートを強いられるようになり、LGBTと告白すると何故か採用率が低下することになる。
アファーマティブアクションで採用するようにすればいいかもしれない。
でも、内心で嫌われている職場で仕事をすることは、私個人としては想像するだけで胃が痛くなってくる。
そうなると表の世界ではこんなに受け入れられているのに、実際は相変わらず差別されている状況が続いて溝が深まるばかりだ。
結局、内心で嫌う自由は上っ面の世界を綺麗に見せたいけど差別することは許してほしい人の方便で、マイノリティの苦しみを解決するものではない。
そしてタチが悪いのは、内心は見えないので誰も内心の差別心を諌めることができないことだ。
内心で嫌う自由を認めてほしいと言っている人たちは(マイノリティに)理解のあるマジョリティ君として見られたいとしか言っておらず、マイノリティを救いたいとは一言も言っていない。
マイノリティを救うには、やはり内心で嫌う自由すら許してはいけないことになる。
(元増田もそのSagaを理解しているから内心で嫌う自由を許容したいんだろうけど、前述の通りそれは何も解決していない)
私はそこは嫌い方の問題だと思っている。
その複雑な関係性を紐解いて評価した結果として、当人(≠属性)を嫌うことは許されることにすればいいと思う。
レッテル、ステレオタイプだけで嫌いと言うのをやめようと言うことだ。
ただ、各々が今までレッテルやステレオタイプで人を判断することで効率化してきた人間関係に莫大なリソースをかける必要性が発生する。