2024-07-12

考察:絵の付加価値、または今のツイッターランド惨状について

前提:この日記は一個人考察である。この日記言及する人が全員そうという訳ではないことも十分承知している。その上でこれを読んでほしい(そうでもしないと「自分はそうではない!」というコメントで溢れかえるだろうから

絵を見る人々の中で価値観に差が生まれてるような気がする。

「絵の作者に価値を見出すか否か」でかなり分断が生まれていると考察している。

自分価値観他人にはないということはよくあることだ。(「え、街中で綺麗な文字見かけた時にどのフォントが気になりませんか!?」「え、便利なサービス見かけた時にバックエンドフレームワーク何使ってるかとか気になりませんか!?」と書けばわかりやすいだろうか?)

おそらく、見出さない人はイラストAIイラストでも気にしていない。「別にかわいい/萌えるからいいじゃん」と言った感じ。

しかしたらマイナージャンル/CP/性癖なら「供給が増えた!!」となっている可能性もある。

一方、見出す人はAIイラストだとわかると複雑な気分になる。

その絵を描いたもの=AIイラストモデルに対してマイナス付加価値が設定されており、さらにはそのユーザー=AI術師に対してマイナス付加価値を設定する。「こいつAI使ってたからこの人の絵嫌い」と言った感じだ。

もしモナリザを描いた人が完全に無名ひよっこだった場合、今ほどの価値は生まれていたのだろうか?もし大罪人だったら?自分はそうはならないと思っている。ダヴィンチが描いているからあそこまでの価値一般に広まっていると思っている。(正直、自分はあの絵のARG要素くらいしか魅力を感じない)

今のツイッターランドで起こっているであろうことの一つに、フィルターバブルエコーチェンバーによって「全ての人は絵師を気にしている!」(またはその逆)という幻想が生まれていることがある。絵師界隈、さらにその中の反AI村という村社会の中で情報更新されていないように見える(一部の過激派のせいで対立が激化している原因の一つにも思われる、こっちはノイジーマイノリティとかの効果もあるが)

もちろんこれは反々AIに対しても言えるが。

少しは村の外に目を向けて得られる視点考察もあるのではないだろうか。

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