はてなキーワード: タグとは
このタイトルと書き出しだけで9割9分の固定派腐女子はURLも踏まずに見なかったことにするだろう。
気持ちはわかる。「また雑食腐女子が『固定派の人ってなんで固定なんですか?逆じゃだめなんですか?』って言いにきたのか…」とうんざりしてるんだろうなと思う。
固定だの雑食だのというCP嗜好は一種の宗教じみたところもあるし、安易に踏み込むと戦争が起きることもよくわかっている。でも私はどうしても気になってしまう。
何故人間関係の在り方とセックスポジション(この場では「性行為における受け攻めの役割分担」を表す言葉として扱う)がリンクしてしまうのか。
私は雑食腐女子である。しかも、作品を見て「こいつらはカップリングにできるな」と思うタイプではなく、作品中の特定のキャラに関わる人間関係を一通り把握したらpixivで《○○(作品名)【腐】》で検索して「この作品の人間関係は界隈の中でどう扱われているのか」を把握してから推しカプを「選ぶ」タイプだ。キャラ同士の関係の在り方が見たいのでセックスポジションには興味がないとも言える。
そういうわけなので、別軸逆も読む(AB固定として書かれた作品とBA固定として書かれた作品を並行して摂取すること。)し、同軸リバ(一つの作品の中でABの描写とBAの描写が同時に描かれること。ABA。)も読むタイプの雑食だ。相手違いも普通に読むし、総愛され系も読む。
セックスの描写があると「おお、えっちだな」とは思うが、読むにあたってセックスは必須ではないので、基本的には全年齢のものを優先的に読む。
色々な組み合わせのものを読むと、なんとなく比較してしまう。比較すると「何が違うのか」が見えてくる。当然ですね。
何が違うのか。ABとBAとABAではキャラクターの性格や行動原理の解釈が違うのだ。
とあるCPの話をしよう。特定を避けるためにだいたいボカすが、「いやバレバレやんけ」という指摘はご勘弁願いたい。
そのCPにおけるAは天才肌で、持って生まれた要素が多く、どんなところでもすんなり馴染めるムードメーカー。一度認めた相手の面倒は最後まで見てしまうお人好し。惚れた相手には一途な方で、普段はふざけている割に決めるところはしっかり決めるイケメン。
Bは凡人だけれど努力家で、Aからもライバル認定されるほど。少し気難しいところはあるけど、A同様にお人好し。ただその方向が自己犠牲型なので、周りから心配されることもしばしば。カッコつけたがりな一面がある。Aよりも2〜3歳上。
この2人。ABを読むと、「Aはスパダリ。自己犠牲に走りがちで度々不安定になるBをその包容力で受け止めてやる感じ」という雰囲気の作品が多かった。
ところがBAになると「Bが大人の余裕でAをリードする。AはBより歳下なので、若さゆえの勢いで突っ走りがちなのをBが上手く受け止めてやる感じ」の作品が多かった。
さらにABAでは「歳が近くライバル関係なので対等。友人関係の延長でセックスもする感じだし、セックスは一種のスポーツ」みたいな書かれ方をしていた。ABAだけやたらセックスの話なのはおそらく書き手の傾向だろう。(同軸リバは書き手自体が少ないので平均化が難しい)
何故何故WHY。左右が変わるだけでキャラ解釈がこんなに違う。というか、「キャラ解釈が違うだけでセックスのポジショニングまで変わっている」という表現の方が近い気がする。
別に「Aがスパダリであること」と「Aがセックスで挿れられる側に回ること」は同時に存在できるはずなのに!
そもそも、何故腐向け作品はセックスを前提にしているのだろうか。
同性間特殊感情関係性を扱うのなら別にセックスポジションの話はしなくていい。特殊感情が暴走したら勢い余ってセックスしてしまうこともまああるだろうが、別にそれは必須条件ではないはずだ。
「受け攻めの基準はちんちんの向き」って、ちんちん使わない関係性を描写したいときはどうすればいいんだよ……毎回タグに困るんだよ……「AがBに『差し入れ』を贈ったのでこれを『挿し入れ』行為と見なし、ABとする」みたいな付け方してるよ……
ここまで書いて、疑問に思ったことがある。
上でAB・BA・ABAの作品内におけるキャラクター解釈の傾向を書き連ねたが、「BAで多用されるキャラ解釈でセックスの時はAが攻め」の場合、カップリングタグはどちらをつけるべきなのだろう。
もちろん最終的にはちんちんの向きで決定させるべきなのだろうが、ちんちんの向きだけが人間関係の在り方の判断基準なのだと言い張るには無理がないだろうか。作品中で直截にセックスの描写が無ければどの解釈で書こうがカップリングタグは自由、みたいなことになってしまわないか。
何故人間関係の在り方をセックスポジションに反映させてしまうんだ…何故……
ちなみに
「人間関係だけ見たい/書きたいなら腐向けじゃなくて一般向け作品でやればいいんじゃない?」という意見が来るだろうことを想定して書いておくが、一般向け作品は概ね原作で表現されている範囲のキャラクターをだいたいそのままえがく傾向にあり、原作で表現されている範囲というものは基本的に「二者間における一種の『特別』」というものを用意してくれているわけではない。
いわゆる「クソデカ感情」と呼ばれるようなものを摂取するにあたって腐向け作品が一番コスパがいいのでそうしているだけなのだ。
私は腐女子である。過去には自らイベントに参加し本を頒布するなどもしたが今はただの出戻りROM専である。
私が二次界隈から去っている間に、この創作世界にも様々な変化があったように思う。
主に夢だ。
こんなにも市民権?をとっているとは過去の腐女子には想像もつかなかった世界である。
彼女らは大変に気遣って住み分けし、支部ではタグを入れて事前注意をしてくれるし、別に避けているわけではないが彼女らの主張をSNSなどで見たことがない。少なくとも私は。
女体化。
別に嫌いではない。支部でジャンルに女体化を描く人はいく人もいる。しかし大勢いるそのうちの一人にもやっと来る。
その人はいわゆるツイ廃で、心を病んでいる。よく死にたいツイートをしている。自らメンヘラを自称している。
私は過去の経験から、8割くらいの二次同人女は過去未来現在のどこかで心を病んだことがあると思っているので別にそれは気にならない。
TwitterというのはSNSの中でも危険度の高いツールだと思う。呟きツールというだけあって、脳と指先が直結している。
気軽に自分自身についてツイートする。そして自分の好きなキャラについて考察したりする。
しかしこちらは同時に同じような意見を見ることになるので、彼女のキャラ考察というのはキャラでなくてご自身のセルフ考察であるなあというのが分かってしまうのだ。
何しろそのキャラは某人気王道バトル少年漫画の主人公であるので、間違ってもフロイト的な、全ての心の問題は性問題であるみたいな、そういう考察にはなり得ないのだ。
女体化作品でも作者が透けて見えなければよかった。たとえキャラ崩壊してだれおま状態でも気にならない。
しかしこんな明確に自分の問題をキャラに投影して、このキャラの考察はこうでこうで、などと大真面目に語られるともはや二次というより彼女が彼女自身を描いたエッセイ?を見せられているような気になってしまうのだ。
エッセイも好きだ。しかし、それは自分を客観的に見れていたらの話ではないか?
明らかに美化?した理想の悲劇の主人公。女体化。もはやなり変わり夢と化している男性キャラ。
絶世の美人(元はフツメンの男性キャラである)登場人物全員このキャラを愛している。総受け固定、などと語られると
(自分ではなく好きなキャラを語っているというつもりなので)、こちらとしてはヲチ目線で見るしか無くなってしまうではないか。
男体のままならまだ自分をごまかすことができたかもしれないが女体化。
もちろんこちらは見なきゃいいだけの話なのだが、こんな彼女のリアルな友人も見ているだろう垢で、欲求不満です通りすがりの誰でもいいみたいな作品をその女体化キャラでリアルチックに描かれられると、そんな赤裸々で大丈夫かとハラハラしてしまう。
なんだかひと昔前の携帯小説の援助交際女子高生みたいなこと言っている。
援助交際ってお金が目的なんだと思ってたけど、あれ、普通に欲求不満なだけの人もいたのだろうか?
BLという隠れ蓑を纏っているなら他人にその願望をバレたくはないと思っているんじゃ無いだろうか。多分だけども。
きっと未来に死ぬほど後悔しそうな気がするのだけど、ひと事ながら大丈夫なのだろうか。
それとも恥ずかしいと思うのは私がオババだからで今の若い人は平気なのかな。
なんかこう書くとエラソーだなと思ったんで付け加えますが、正直BLの性的表現というのは私も含め全て自己の投影だと思ってます。
自分の性についておおらかに表現するのに抵抗がある女性が、男性同士です、私とは無関係ですよ、という名目の元に性的なものを創作物として昇華させていると思ってます。
GTD(Getting Things Done)はタスク管理の手法の一つだが、この手法には致命的な欠点がある。それは書き出したタスクを「いますぐやる」「自分でやる」「人に任せる」「いつかする」などのカテゴリに分類することだ。これでは問題の全体像をみることができず作業をしているうちに何をしているのかわからなくなる。
この問題を解決するにはすべてのタスクを書き出したリストを作り保管すると良い。そこからタグかなにかで特定のタスクを抽出し分類すれば全体を確認しながら目の前のタスクを処理できる。
タグ間違ってね?
一部の腐女子に「同性愛者の事を考えろ!私達は考えているのにおまえ等は!」て殴られたり「私達の創作や妄想を検索避けしろだの棲み分けしろだの言うやつは同性愛差別だ!」て殴られたり、NLタグ問題で「このタグを使っているやつは同性愛者を苦しめている」みたいに散々言われてきたのだけど、当事者さんは実際どうおもってんのかな?
こういう話の時、当事者が出てきて発言するのあんまり見たことがないんだ
それでいて、当事者が腐女子に何か言うと腐女子はキレてるし、上記の人達トーンダウンしてるか当事者叩いてるし
純粋に疑問
とりあえずNLタグで「これを平気で使ってるやつは間接的に同性愛者を差別している」とか「BLをNLタグで投稿しても人はしなないけどNの意味に悩んでしんだ同性愛者はいる」とか言ってた人、それに賛同した人はゲイの人の言葉に耳を傾けて受け攻め表記の事真面目に考えて他の腐女子さんにも訴えかけて見てほしいですね…
うーん、それも何か引っかかる
ポテサラは日本の主婦という大きい括りの話題だからその数なのは納得なんだけど、NLタグ話になると「女オタクの、更に創作関係の書き手読み手」の中で4000RT、だから何というか多く感じてしまうわけで
腐女子の一部、って言葉になると物凄く少なく感じるけど4000RTしている腐女子がいると思うと一部…?と少し不安になるんだよ
視野が狭いとか言われるならそれまでだけどさ…
本屋見てもまだ過激なの多い気がするけどなぁ…でも、それは自分の認識不足だった、頭に血が上っていた、すみません
じゃあ何であんなにポリコレ関係でTwitterで腐女子さんぶち切れてるんだろうか?当事者の提案なら真面目に考えるべきではないのかな?
あんなに意識高い発言して周り攻撃してたのに、いざ当事者から声かけがあると存在をなかったように無視しましょうとか人間はいないとか言ってるの変だと思うのだが
NLタグ問題なんて当事者の声見かけなかったけど(自分が見てなかっただけならごめん)これを使う奴は差別主義者だとか、当事者はこういうのに傷ついて自札してるんだぞとか凄い事言ってたのに
無茶苦茶面白いのはこういうの指摘されると慌てて豚の皮を被って「同じ仲間なのに何故攻撃するんですか!?一緒に肉屋に抵抗しましょう!?」と周りの豚に必死に仲間アピールしてきたり(危機が去ると皮を脱いでまた捌く側にまわる)、「こいつの方が捌きやすいですよ!何故自分なんですか!?」と他の豚を差しだそうとしてきたりする小悪党ムーヴする所
ただの性癖なのに、自分達が責められないよう散々当事者利用して盾にしてきて言い訳がどんどん過剰になっていって「同性愛者を肯定してくれる素晴らしい存在」ぶり続けた結果なんだよなとしか?
SNSやらなければいい感ある
オンラインで同人誌販売したことないのでわからないがタグでちゃんとシチュエーション説明されているので
タグや商品説明と内容かけ離れなければクレームは来ないのでは?
Pixivなんかも同じ気がする
……こんなこと言うともう間違いなく、真の左右固定派にはぶちのめされる。
今は自粛してるけど、同人誌即売会でスペースの前で硫酸でもぶっかけられるかもしれない。
なのでこう……増田につらねるわけなんですけれども。
私は趣味で女性向けの二次創作――要するに非公式BLをかいている。
同じ趣味を持つ方ならなんとなく分かっていただけると思うが、どのジャンルのどのカップリングにも、相手や左右固定と名乗る宗派の人たちがいる。
それで、反対に私は組合せには殆ど拘りがない。もちろん好みはあるが、“組合せが理由”で読めないものが、どのジャンルでもほぼ存在しないのだ。
先に言っておくが、私には固定派の方々を責めるつもりは一切ないし、どちらが優れているとか、正しいとか、ポリコレが云々とか、そういうことを議論するつもりもない。
苦手なものも含めて自分を形づくる要素の一つだし、私も組合せに地雷がないだけで、シチュエーションとか物語の展開とかにはすごいめんどくさい地雷がある。
で。
本題に入るのだが、私はここ5年くらいずっと固定派になりたい。メチャクチャなりたい。
ライトな理由としては、ピクシブに投稿するときに楽だからだ(ぶちのめされそうな理由である)。
イラストを1枚ずつ投稿するのが主流の男性向けとは異なり、女性向け同人ではイラストや短編をかいたらまずツイッターにアップして、それがある程度の枚(本)数たまったらログとしてまとめて投稿、という形式が一般的だ。
この際にタグをつけるのだが、私の場合、普通にしているとタグがとっちらかってしまう。
あまりにいろんなカプをかいているため、つけるタグに死ぬほど悩むのだ。というか、あからさまに固定派には絶対的に優しくないログである。
検索避けのために、かいたカプは全部タグづけするか?とも考えるが、すぐに(全部1枚(本)ずつしかないのにタグをつけるのも、それオンリーのログを期待している人にとっては迷惑なのでは?)と思い直し、悶々としてしまう。
そんな訳で、もう3年くらい自分のピクシブアカウントにはオフ本のサンプルしかアップしていない。
正直に言おう。
本当に、本当に本当に羨ましい。
閑話休題。
非固定派は生きにくい。……いや、それだけでは言葉足らずだろう。
ひとりで楽しむぶんには、おそらく地雷が少ないほうがハッピー二次創作ライフを送れるのだろうと、私も考えている。なにせ見られないものが少ないし、それなら見ないようにする努力にパワーを割かなくて済む。
先日某字書き漫画がバズった際に見かけたツイートの中に、「我々は結局、趣味だからといって“社会”をやることからは逃れられない」という趣旨のものがいくつかあった。
そして、社会をやるためには、「何処かに属さなくてはならない」のである。
これが難しい。何せカプが固定出来ないので。女性向け同人において、どのカプを嗜好するかというのは、あまりにデカい“所属”なのである。
ツイッターのbioに「A×B」と表記することで、我々は取り敢えずの“所属先”を得て、社会に参入している。「ABの女」として。
これだけのことが本当に本当に難しくて、もう5年も悩んでいる。
実は5年前に持っていたツイッターのアカウントでは、「AB中心B受け」とbioに掲げていた。
当時は良くも悪くも素直なコドモだったので、界隈とは関係なく自分が何を好きかとか、AB界隈の雰囲気とかに疑問を殆ど持たなかったのだ。だからまあ……ピクシブで日夜CAやBAを検索して、ブクマもそこそこしていようと、自分は「AB中心B受け」の女だと思っていた。ツイッターでは本誌でBが活躍した話ではしゃいだり、ABの妄想ツイートをしたりして、楽しんでいた。そこになんの矛盾もなかった。
でも諸事情で一度アカウントを消し、1年くらいツイッターをやめた。
1年間ピクシブとカプサーチ(当時もうピクシブの時代だったが、ジャンル自体の連載開始がサイト時代だったので)で供給を得、自分も何本かかいてピクシブやサイトに投稿した。
1年後、ツイッターアカウントを新たに取得して、私は愕然とした。
私は社会に馴染めなくなっていた。
現在私は5年前と違うジャンルにいるが、良い出会いに恵まれ、ツイッターでは好き勝手な呟きをしている。
けど現在のジャンルは男女カプだから、BLではまた勝手が違うよなあ……とも思っているのだ。
なんでかというと、最近またBLカプにハマって、できれば交流をしてみたい、と感じるからだ。私も社会をやってみたい。
けど私は非固定だ。ABもBAも読む。どっちも好きだ。そしてAというキャラクターは、「攻めにしたい人と受けにしたい人の間には、相互理解は難しいだろうな……というレベルでの解釈の断絶がある」。
ちょっとぼかした言い方をすると、「いざという時頼りになる俺様攻めかエッチな年上受けか」みたいなものだ。平成の攻めが好きか、令和の攻めが好きか、みたいなモンだと思って欲しい。
固定派が多いのだ。
そして私自身、固定派の多いカプにハマるのもこれが初めてではない。
そのたびに両方の界隈を外から眺めては(入れないな……)とハナから諦めてきた。
ここ数年、即売会で本を2、3冊出してそのままジャンルを去る……みたいなことを何回か繰り返している。大抵私を挟んだ両隣はお友達である。まあ当然だし仕方ないが、普通に寂しい。
だけど今回は、社会をしたいのだ。私だって、コミュニティの一員になってみたい。交流をしたい。
固定しなくても社会がやれない訳じゃないとは思う。
でも固定派の方が圧倒的に社会はやりやすいのだ。所属がはっきりしているから。
しかし、それで自分にも他人にも隠しごとをしてABないしBAの村で生きていくのって……どうなの?と最近よく考える。人狼ってこういう気持ちなんだろうか。
本当につらい。
支部で漫画探そうとするじゃない?タグ検索して。二次創作の話なんだけど。
文庫本みたいになってるのとか、数行のポエムみたいなあれ。ツイッターとかで見掛けるやつ。
自分は漫画とか絵が見たいときに文字読みたいとか思わないから出て来ても完全にスルーするし、
小説とか文字読みたいときは小説で検索するから目に入らないんだよね。
他人に見て貰いたくて投稿してるなら、損してるんじゃない?って思うんだけど。
そんなに全部が全部悪いほうに考えるもんじゃないよ。自分のことだけフォロバしない人がいたときも、それで傷ついたならその人から離れなさい。あなたに何の益もない。もっといい絵描く人たくさんいるんでしょ。それで、怖がらずまずつながりタグやってみなさい。期待せずに。ちらほら反応来るから。多くはないかもしれないけど。もう自分はダメだおしまいだという前に、自分はここにいますって証明をしなさい。挨拶をしなさい。タグを使いなさい。感想を言いなさい。種をまいてから芽が出るのを待ちなさい。出なきゃ、また巻いたらいいんだよ。ほかの趣味も探しながら。それがすべてじゃないんだよ。
今更おけパの話とかツイ読んで、私の経験を書きたくなった。オタク歴三年半のただの自分語りである。
ツイッターのアカウントで話すには気恥ずかしいのでこの匿名サービスを初めて利用してみることにする。
まず、恥ずかしながら私は高2の1■歳である。なので、まだわからないことしかない。自分の無力さに気が付いたばかりの思春期だ。これを読んでいる大人の方は「こういう時期もあったなあ」と恥ずかしくなってくれているんじゃないかと思いあがっている。
私はツイッターを始めてから三年の間、誰かに話しかけたことがない。趣味垢を作ってから三年ほどフォロワーがbotしかいない鍵垢で神と崇めてた絵師様の絵を見てふぁぼりつを飛ばしていただけの存在だった。
そしてそのころはフォロワーが一万人以上いる神絵師/神字書きのツイートにリプライをタメ口で送りタメ口で返され、通話の約束を取り付けているフォロワー数百人くらいのアカウントが不思議で仕方がなかった。そもそも自分が話しかけないのが悪いので嫉妬などはそこまでなかったのだが、なんの作品もアップしていない一般人がなぜ「神」と楽し気におしゃべりしているんだろう?と今思えば双方に失礼でしかない思考をしていた。
あるとき、私はとある絵師様を見つけた。知らないジャンルの知らないキャラクターのイラストを描いていた。
絵柄がとても好みだった。シチュエーションも、その人の妄想ツイートも、全て好みだった。しかしそのジャンルに興味を持つこともなくただ時折見かけるツイートにいいねするだけで、だんだん忘れていった。
そして二年ほどたった最近、とある人気ゲームに手を出した。飽きたらアンインストールするつもりでだらだらとプレイしていた。
その時ふと、かつて読んだ物凄く好みの漫画に出てきたキャラクターがこのゲームのキャラであることに気が付いた。その人のIDもアカウント名もフォローしていたことさえも忘れ去っていた私は、死に物狂いで探した。もともと好きだった作品の、そのキャラクターをやっと知って同じ土俵に立てたと嬉しくなったからだった。
やっと見つけて作品を読み直したときの衝撃は計り知れない。まるで世界が一気に広がって、そのゲームの世界観にむりやり取り込まれたかのように錯覚した。到底敵わないと思うよりも前に作品に感動して、没入した。そして、これが問題だった。
察する人は察してしまうと思うが、このゲームは元々設定がほとんどない。アニメ等も公開されているがその解釈は全てプレイヤー本人にゆだねられている。その解釈が固まる前に私は神の解釈を読み、凄まじい感動を覚えてしまったのだ。
それからしばらく、神が書いた数年分のツイートをむさぼるように読んでいた。私が神を忘れ去っていた二年の間にすでに神はジャンルを移動しており過去ツイを漁るのは少し大変だった。ただアカウントをそのまま使っていらっしゃったのは幸運以外の何物でもなかった。
○○のジャンルのツイートを拝見して、と長文の感想を送った。返事が来たのが嬉しくてさらに送った。その返事にそのゲームのキャラクターのイラストが添えられていた時は飛び上がって喜んでいた。それからおけパ中島のように神に気安く話しかける知らないアカウントに嫉妬して通報とブロックしたりしていた。ドロドロ期だ。
ほとんどすべてのツイートを読み終わってしばらくして、だんだん飢餓感を覚えるようになっていた。すでにジャンルを移動していった神からは供給がなかったからだ。だから、自分で創作を書き始めるようになった。公開する気もなく、ただ自分だけが楽しむために。勉強時間と学生という身分の自由さをフル活用して書いた。今までも、オリジナルの一次創作や夢小説を書いていたから書くことは苦痛でなかった。
書いて、書いて、書いて、神のツイートを読み返さなくなって、最近の日常ツイートをRTしなくなって、ある時、自分の作品を通して神を見ていたはずが、自分で自分の作品が好きになっていることに気が付いた。当たり前だ、神の解釈をベースにしたとはいえ書いているのは自分なのだから。自分と解釈一致するのは自明の理だ。
そうしたら、急に自己顕示欲が出てきた。自分の書いた作品を読んでもらいたい。神になれなくても、神の目に留まらなくとも、私も神のように誰かの好みになれればいいなと。pixivにアップするのは少しハードルが高い気がしたのでまずはツイッターのアカウントを作ることにした。初めての公開アカウントだ。ようやく、ほかの人と交流を始めた。
同じくらいの年代らしい同じジャンルのアカウントを覗いて下調べして、繋がりたいタグを使って。初めて、私はツイッターで自分の存在を主張した。フォロワーが百人できた。なんでもない日常のツイートをするようになった。いいねが付いた。ただ嬉しかった。
さて、当初の目的では誰かに作品を読んでもらいたくてアカウントを作ったはずだった。でも初めて誰かがインターネット上で自分を認識してくれた喜びに酔っていて、作品のアップロードのことなど普通に忘れていた。それと私のFF層の雰囲気もあって、今更アップロードすることに恥ずかしさを覚えていた。
だから、学校を休んだ日に「すぐ消すよ」と注意書きをつけて学生のフォロワーたちがほとんど授業中の時間帯に小説を画像化してアップしてみた。数分していいねがついた。二時間ほどで四ついいねがついた。結構好み、と仲のいいフォロワーからリプも一つだけ来た。ツイートを消すかどうか迷った。その時なぜかすとんと腑に落ちた。
そうか、神は私と同じなのか。神はただ自分の書いたものをツイッターにアップしてくれてるだけの、次元が違う誰かでもない、同じこのゲームのこのカプのファンなんだ。私と同じように自分の解釈で話を書いて、たまたまそれが私に刺さって、私が勝手に見上げていただけで、同じ立場にずっといたのか。
その人には友達もいるし私の知らない交友関係もアカウントを始めた初期に仲良くなった誰かもいて、ただツイッターを楽しんでるだけで私に崇められる謂れもない、普通に絵と文章がめちゃくちゃ上手いだけの人なんだ。
気が付いてから、今度は神ではなく、文字書きの先輩としてジャンルの先輩として私をこのゲームにハマらせてくれたきっかけとして感想を送った。絵が好きです解釈が好きですこのゲームを好きにさせてくれてありがとうございますこれからも応援してます、そんなありきたりな感想だったけど、自分の中で一つの決着がついた気がした。その感想をきっかけにweb再録と未アップのイラストも公開してくれたのは本当に嬉しくて、あの人も嬉しかったんだなと思えて、これからも神ではなく推し絵師として一生推していくことに決めたのである(これは若さゆえの誇張表現)。
結局なにが言いたいのかはぐちゃぐちゃで、ただ自分の体験を整理したかっただけな感じだが、規模が違っても、見よう見まねでも、同じ立場に立ってみれば見えるものもあるんだなーとあなたに伝えられたなら嬉しい。それから、そのことをもう知っている大人のみなさんには、ネットの使い方をよくわかっていなかった子供が三年かけてやっと少しだけわきまえてきたことを喜んでもらいたい。
そして、期待の超新星字書きが活動を始めたことも祝ってください。
色々な失敗とかやらかしから私が学んだことは、神になろうとしてない実在人物を神とするのは本当にただの迷惑行為だろうし、かってに「信者」側がその人とその周りをコントロールしようとするのなんて論外だということだ。普通に考えて当たり前のことを、私は見失っていたらしい。
自分の才能に絶対の自信がある思春期にこの経験が出来て、そして誰かを傷つけてしまう前にそれに気づけて、またツイッターのたくさんの方達に気づかせてもらえてとてもよかったと思っている。
これからも、いくら崇めても問題ない創作キャラに傾倒して楽しく創作ライフを送っていければいいな、そして私の作品が誰かに刺さりますように、という願掛けもこめて。
どこに吐き出そうと考えて、ここでいいかと決めた。
自分がどうしてそんな決まりを作ってしまったのかを考えている内にもやもやして、どこかに吐き出したくなってしまったのだ。
少し前置きが長いかもしれない。飽きたら途中で読むのをやめてほしい。ただ、自分が吐き出したいことをつらつらと書いているだけなので、面白みはないと思う。
私は所謂、字書きだ。
一番最初の始まりは、夢というジャンルを知ったことからだった。幼い自分が、自分の名前をいれて、話に入り込めることがとても素晴らしいと思った。自分もその世界に入り込んで、キャラと共に行動したい…こんな主人公を作ったら、物語はどうなるだろう、原作で死んでしまったキャラを助けられないだろうか、なんて色んなことを考えられることが素敵だった。
そして小説を読むこと自体が好きだったこともあり、たくさん夢を読んだし、普通の小説も読んだ。その世界観を想像するのが楽しかった。
最初は読むだけで満足していた。というより、今でも出来るなら素敵な夢小説や小説を読むだけの読み専でいたいとは思っている…。
でも、ある一つの夢小説と出会って、私は自分でも書こうと思うようになってしまったのだ。もうずいぶん昔のことだが、今でもその人のお話を読みたいと思ってる。どうして、そのページしかブクマしなかったのか…昔は検索除けってあまりなかったから、キャラ+夢でよく引っかかったのだ。…もう一度読みたいけど、サイトもわからないから難しいだろう、でもいつか出会えるといいなと願ってる。
さて、話は逸れたが、それから私は字を書いた。
最初なんて、ひどかった。擬音や会話文しかない、地の文なんてない、そんな小説とも呼べないもので…実は今でも残しているのだが、読んだ瞬間、爆笑である。
それでも、楽しかった。書くということが趣味になった。読むのも変わらず大好きだった。
ただ書いた文章は世間に出すということはあまりしなかった。サイトを作ってひっそりと活動したことはある。夢というのはそういうジャンルだったからだ。ランキングとかで調べてやっと出てくるものなのだ。
そういうものだから、自分が書いた夢を表立って誰かに読んでもらうことは少なかった。それ以外にもNLなんかも書いていたから、NLは許されると思ったから色んな人が見る支部にもあげられた。ハマったCPは当時はマイナーで、増やしたいという意志で支部にあげた。そのおかげか小説や絵が増えて、同士も見つけられて、楽しく数年やっていた。
だが、それは突然だった。支部に夢をあげることが認められた…というより、夢というものが世間に見られていいものだという事件?だろうか、そんな出来事があった。たぶん、名前を言わなくてもわかるんじゃないだろうか、当時支部のランキングも夢ばかりになっていたから。
そして厄介なことに、私はそのキャラが大好きだった。
その映画が始まる前から…大好きで、色んなことを背負っている人なんじゃないかと考えていた。映画を見て、気づけば…私は思いのたけを書いていた。そのキャラに幸せになってほしい、その思いから…書いたのだ、夢を。
…支部にあげたのは、もう衝動的なものだった。支部にそのキャラの夢が上がっていたことは知っていたし、なんなら読んでいた。だから、映画がきっかけで、思考がそのキャラばかりになって…気づけば、支部の新しいアカウントをつくり、夢小説をあげた。
深夜テンションというのは恐ろしいものだ。というより衝動で、よく頭に浮かんだネタや場面を文字に打つのが好きで…そういう時は手が止まらず書ける。満足して、私は寝た…そして、
いいねやブクマがありえないほどついたのだ。そして恐ろしいことに、ランキングにも入るようになった。書いた作品は…どれも、ランキングに入るのだ。
旬ジャンルというのはすごいなと思った。こんなに読んでもらえるし、良いと言ってもらえるのかと驚いた。
評価してもらえたことも嬉しかったし、ツイッターで語り合える同士もできた。
楽しかった。
でも書いていく内に…私はそのキャラの夢を、読めなくなった。
それがタイトルにある通りだ。いつからそんな決まりを作ってしまったのかはわからない。
でも、作らなければ…万が一、それが起きてしまったらと考えたんだと思う。
”創作をしているとき、他の人が書いたそのキャラの夢を読まないことに決めた”
ネタも…できるだけ、見ないようにした。
なぜ、そんな決まりを作ったのかと言えば、ついったーなんかで見たことがあるからだ。
「これ、どこかで読んだことがある」「これ、〇〇さんのじゃないの」
そんなことを誰かに、私もいつか言われるんじゃないかと思った。創作をしている上でネタ被りはあるものだ、私は別に被ってもいいと思うし、むしろその人の考えはまた違うからぜひと思う。
だが、私が怖かったのはその人の文章をそのまま…自分で小説の中に使ってしまうのではないかと考えたのだ。
最初は自分が気をつけていれば、読んでも大丈夫だと思っていた。でも、そのキャラの夢を読んで頭に残ったそれを、無意識に自分の小説に書いてしまったら?…それは書いている相手に申し訳ないことだと思った。
すると、どうなるのか…好きな字書きの人達に感想を送れないのだ。支部にあげる前から読んではいたから、その人の夢は好きだった、読んだら素敵だ!と思うのは間違いない。でも、その決まりのせいで…大好きだった人の文章に、言葉をかけられなくなった。
それでも読むことはあった、そういうタグが流行ってもいたから…そういうときは、絶対にそういう話の流れは書かないように意識して書いた。
…でも、そうすると書くのが大変なのだ。
衝動的に書くことが多いから、そういうことを考えると辛くなって…それならやっぱり読まないほうがいいと結論付けるのだ。
それって楽しいことなのかと考えることも多くなった。書くことは楽しいが…それと一緒ぐらいに読むことも大好きなのだ。だから、読めないというのはきっとストレスにもなっていたのだと思う。あと、大きいジャンルだからこそ人付き合いも色々あって…精神的にも辛くなり、私はそのジャンルから離れた。
離れたし、そのキャラの夢も書かなくなったのに…なぜか今も読めないままでいる。
嫌いになったわけではないと思う、でも…色々あったからなのか、読みたいという気持ちがない。
それがなんだか悲しかった。
あんなに大好きで、書きたかったし読みたくて仕方なかったキャラの夢が読めないのだ。
どうして、私はこんな決まりを作ったのだろう。
今もそのせいで…私は、新しくハマったジャンルの夢小説は読めなくなった。
数が少ないというのもあって、増えてほしいという思いで書き始めたが…その代わりに自分はその夢を見れなくなるのだ。
めんどくさい決まりのせいで、私は…好きな夢をあきらめなければいけない。
ああ、もっとうまいことできれば、楽しく創作できるのだろうか…それとも読み専でずっといるべきだったのかと考えるが…書くのも好きなのだ。
そんなめんどくさい自分に嫌気が出てくる。
ただ、今回こそ、自分が書くことをやめた後は…楽しく読めるようになっていたい。
お気持ち文を読むのが好きなオタクがここ数日の流行りにのってお気持ちを書く。
ジャンルごとにアカウントを変えてきた。中学生の頃からヘタクソな絵を書いてはアップして、GWとか同人イベントとかのたびに自然に発生する「繋がりたいタグ」に乗っかっていたのに、一年以上動かして折に触れて繋がりタグをしているのにフォロワーは40人程度(良くわからない投資とかを勧めるアカウント含め)とかはザラだった。絵にもいいねは0~3くらいしかつかない。
それをジャンル移動するたびに繰り返していたのに、あるジャンルで急に絵に10いくつのいいねをつけてもらえるようになった。絵はそんなにうまくなってないから、何が違うんだろうと思っていたら、フォロワーとの交流だって気づいた。交流する風土の界隈だったっていうのもあるんだろうけど、今までより積極的に相互の絵にいいねをつけるようにして、リプも送っていたら自分の絵のいいねも増えた。今までは、片道フォローの神の絵の、その中でも刺さったのにしかいいねを押さないでいたので。
もっとちゃんと絵がうまい人は違うんだろうけど、繋がりタグでフォロワーを増やすような界隈、主要キャラの生誕祭タグでいいねが50~100くらいの画力のコミュニティはたぶんこれでいいねが増える。絵のいいねが増えると繋がりタグでお迎えいただける確立も高くなる。相互が増える、RTしてもらえる確立が増える、同程度の画力の多くの人の目に触れるようになる、いいねが増えるのループができる。なんだそんなもんか。
ダ・ダ・恐山のTwitterで「近寄るな……解釈が混ざる……」という発言があった(正確にはこのセリフを含むツイート)。
このツイートを最初見たときはなんとなくわかる〜くらいの気持ちだったから、全然意識してなかったんだけど、今になって急にめっちゃこれ……ってなってる。
現在めちゃくちゃに流行っている、多分みんなわかるので名前は伏せるけどでっけーやつが大元のソシャゲに、私も爆ハマりしてしまった。
爆ハマりした後、腐女子である私はいわゆる「推しカプ」ができて、最初はROM垢でその推しカプを描いている人たちを見ているだけだった。
しかしそのうちに自分でも描きた〜い生産した〜いとなってしまい(私は絵描きです)、新しくアカウントを作りそこで自由に自分の好きなカプを描いたりキャラを描いたり、語ったりしていた。
アカウント作りたてのこの時はフォロワー数10人とかでほぼROM専状態。フォローしている人はみんな大好きな絵を描く人たちだけ。みたいな。
でもそのうち、仲良くお話出来る人とか推しカプについていっぱい語ってくれるフォロワーみたいなのほしいな、という欲が出てきてしまった。
人間なので仕方ないと思うけど、やっぱり絵を褒められると嬉しいし、描いたらいっぱい見てほしいし、もちろん推しカプ仲間が増えるのは嬉しい。
そうして私は繋がりたいタグ云々あれこれに手を出した。推しカプは結構大きいカプ(少なくともマイナーではない)なので、すぐにタグはそれなりに広まって相互の人数も増えた。
そこまでは良かった。それなりに話せる人も増えたし、楽しかった。絵を描いたら細々といいねをもらい喜んでもらえた。嬉しかった。
だんだんRTとかで絵が回って、フォロワーが増えてきた。といっても最近話題の神とか何千人フォロワーとかじゃない。
それに比べたら本当に少ないけど、それでも普段ひっそり暮らしている私にとってはめちゃくちゃ多いフォロワー数になってしまった。
※何度も言いますが普段から表で活動している人に比べたらマジで少ないです
相互の人数もめちゃくちゃ増えた。もちろん全員好きな絵を、文字を書く人だから、見ているだけでも楽しい。
毎日推しカプがどこかで更新されるタイムラインは、あまりにも私の精神を豊かにした。
けど、このあまりの豊かさに、私の心がキャパオーバーしてしまった。
というか大半がそういう人(オタクは考察をよくするので当たり前かもしれない)で、毎日いろんな解釈や考察が流れてきた。
ここで本題の「解釈が混ざる」という話になるのだが、推しカプ、マジでびっくりするほど考察がある。解釈がある。
すごい。口開けてれば賢い人たちが考え出した考察や解釈が流れ込んでくる。マジ?
これやばいな……マジですごい……天才か?って頭悪い発言しかできないんだけど、本当に毎日そんな感じだった。
そうしてそんなふうに垂れ流される考察たちを与えられるまま飲み込んでいるうちに、自分の解釈や考察がなんだったか分からなくなっていた。
いや、元々そんなに考察するタイプじゃないけど、それでも自分の中のカプ観とか解釈とかそれくらいはあったはずなんだ。
少なくともこんなにフォロワーが増えるまでは。
それが今では、自分の見ているカプ観は他人のものなのか自分で考え出したものなのか分からなくなってしまっていた。
新しい情報が出されて、自分なりに咀嚼して解釈を出すのが基本だったんだけど、今はそれをする前にタイムラインに考察・解釈が溢れるからまずそれを咀嚼してしまう。多分これが良くないんだと思う。
だからタイムラインを見るのをやめました。やめたというか、あんまり見ないようにした。解釈が混ざるから。
もう混ざってしまった解釈を一旦まっさらにしたい。まっさらな状態で推しカプに触れて、もう一度解釈し直したい。それを自分のものにしたい。