はてなキーワード: 社会的制裁とは
どちらが訴えた側に同情的になるかや、どちらが訴えられた時点で(無実でも)社会的制裁を喰らうか、
自分はどちらでも悪質で許せないと感じますし、身体暴力ならまだ許される風潮も特に感じないので何とも言い難いところです。
そしてどう考えても、AEDを施しながらの痴漢行為と、AEDを施しながらの非性的な暴力行為では、前者のほうが蓋然性が高いと思われます(男→男への暴行はゼロではないかもしれませんが、蓋然性には大きな差があります)。
実際に痴漢行為が行われてるなら起訴されて当然なので問題ないのでは。
女性の体を見られることへの嫌悪感が男性より強いことを理由に挙げてましたので、見られる嫌悪感そのものは女性には男性と同程度にしか存在しないと否定したまでです。
合理的配慮として異性よりも同性が近くにいれば同性に頼むことは一般的だと思われます。女性も、男性が倒れていて近くに救助できる男性がいたら男性に頼む方が安全だと考えるでしょう。
異性しかいない場合でも、身体に必要以上に触らないように気をつけつつ、体をなるべく隠せるようにしながら救助するという点においては男性も女性も変わりません。その中でセクハラとして訴えられる可能性、訴訟リスク自体はほぼ同程度ではないでしょうか。(殆ど皆無、また仮に訴訟を起こされたところで原告が勝てる見込みもないということです)
合理的配慮を超えて、女性とAEDとセクハラを結びつけて考えることには別の社会的な意味づけがあるのでは。
差別と言われても仕方ないです。
男性がAEDを男性に使用したら、必要以上に身体を触られたとして、暴行罪だと訴えられた。
という場合と、
男性がAEDを女性に使用したら、必要以上に身体を触られたとして、痴漢行為(セクハラ)だと訴えられた。
という場合で、
どちらが訴えた側に同情的になるかや、どちらが訴えられた時点で(無実でも)社会的制裁を喰らうか、
を考えてみてください。
そしてどう考えても、AEDを施しながらの痴漢行為と、AEDを施しながらの非性的な暴力行為では、前者のほうが蓋然性が高いと思われます(男→男への暴行はゼロではないかもしれませんが、蓋然性には大きな差があります)。
たとえば公共の場で気分を悪くして嘔吐している人に、首元を緩めてあげる処置ですらも、
相手が女性であればできるだけ周囲にいる女性に処置してもらおうと私は思いますが、それが普通の感覚ではないでしょうか。
自分が男で、男性の上半身を晒すことには頓着しないが、女性には躊躇う、それが現在の日本では常識と思われます。
また、
“セクハラだけを他の問題より強度に問題視するのには無意識の女性蔑視、女性が同じ人間であるより先に別のものとみなす心理があるのでは?”
についてですが、
まず、セクハラは男性→女性に限るものではないです。だからセクハラだけを強度に問題視したとしても、それはどちらかの性への差別ではありません。
AED問題の本質は私的制裁・社会的制裁されない保証が無いよね?って話に尽きるんだが
何故か弁護士先生は訴えられたことがないとか見当違いな話をしてる。
#MeTooは悪く言ってしまえば法的手段や証拠・法的根拠も関係なしに女性の証言だけ100%採用して私的制裁・社会的制裁してしまえる手段だ。
それは法的に処置が取れない程度の性的被害のカウンターに対して絶大な効果があったが、そんな一方的な便利な解決手段が何のデメリットもなく存在する訳がない。
例えば、警察や司法が全く使い物にならないからって暴力で解決する世界になったら滅茶苦茶だ。北斗の拳みたいな世界まっしぐらでしょう。
フェミニストをはじめとしたネット活動家は女性が被害に遭ったという証言だけ100%信用し、相手を一方的に叩いてきた。
それは当然冤罪がかなりの確率で発生しうる手段だ。告発者がウソついてない保証なんてどこにも無いからね。
草津市議のMeToo事件だとか冤罪ふっかけたことが明らかにされたが、冤罪に加担した加害者共は済ました顔して今日も活動してる。
そんな状況でフェミニストらネット活動家が暴れない保証なんてどこにあるだろうか?
そんなのどこにも無いね。煙すら無いところから燃やし尽くしてきた例が沢山ネットに転がっているのだから。
こんだけ話題性が高いAED問題、狂った女性が被害を訴えだした場合、100%ネットニュースになるだろう。
そうなった時にフェミニストが騒がない保証ある?という話が一番のキモなのだが。
性嫌悪としか思えないようなキチガイが暴れまわっても誰も止めない世界で信用するのは不可能な話だ。
ネットリンチは恐ろしい。地裁で無罪判決を獲得した医師がいたが、ネットリンチの被害がとてつもなく大きく子供が自殺してしまうことになった。
ネットリンチで木村花さんが自殺してしまうように影響力がとてつもない事を忘れてしまっているのだろうか?
刑事・民事で有罪無罪の法的決着なんて一切関係ない恐ろしい社会の暴力を恐れているのだ。
それがAED問題では助けないという非情な選択を取るだけで真のゼロリスクになることが分かっている。
間接殺人とかバカなこと言ってるヤメ検まで登場した。狂った理屈だな?
※末尾に追記2(5/7 19:26)、追記3(5/8 01:45)を付与。
※園子音氏に関する一部表現を修正。週刊誌報道を認めての謝罪ではないと判断したため。こちらで係争中と見られる件の善悪についての判断をするのは不適切と判断し、関連する記述は削除した。(5/8)
何故、フェミニストの中では「たわわ」がNGで、園子温は"無罪"(論じる必要がない対象)なのか?何故、オタクがバッシング対象で、ホストは共感の対象なのか?フェミニストの性質の中にその答えが眠っている。
「フェミニストの活動家達には、何故こんなに一貫性が無いのか???」
こんな事を一度でも思った事のある方は、少なく無いのでは無いか。
何故、フェミニストは、実際の被害者が居ない「たわわ」にお熱になるのに、被害者と称する女性からの訴えが週刊誌に載った園子温にはさほど関心を示さないのだろうか。
何故、フェミニストは、「海、似合って無いね」動画における反応のようにインドア派の男性(というかオタク)への蔑視を隠しもしない一方で、実際に女性を搾取するホストに対しては、さほど怒りの声を上げず丁重に扱ってしまうのだろうか。
何故、成人指定でも無いお色気漫画のゾーニングを強く求める一方で、BLに対するゾーニングに抵抗し自由を求めてしまうフェミニストが出て来てしまうのだろうか。
フェミニスト諸兄は、胸に手を当てながら読んで頂き、自分に当てはまる点について、「アップデート」する事は出来ないか、じっくりと考えてみてほしい。
フェミニストは、「〜だから、ダメ」というタイプの論理を多用する。
フェミニストが火をつける炎上は、基本、この論理のタイプで起きる。
一方、フェミニストは「〜だから、良い」というタイプの論理を使用する事については慎重だ。
この論理を使用する場合、フェミニストでなくても言える以上の結論となる事は、あまりない。「性的表象」のような妙なフェミニスト用語を使うケースは滅多に見ない。誰もが「そりゃそうだ」と思えるレベルの、ある意味無意味な内容の時に、好んでこの論理を使う事になる。
これはどういう事を意味するのか。
フェミニズムは「何が良いのか」「何がダメなのか」という事の境界線をきっちり引くことに、正面から向き合っていない、ということだ。
そして、境界線がないが故に、個々の事象に対する良し悪しの判断が、個々のフェミニストに内在する、明確な境界線のない嫌悪の反応(つまりは「お気持ち」)に委ねられてしまう事になる。
「一人一派」と言う表現は、その現状を言い換えているだけに過ぎない。
次の論戦を見てみよう。
https://togetter.com/li/1873195
この議論で最も重要な指摘はCDB氏による以下のコメントである。
小宮先生は『まずUN WOMENの主張を理解せよ』と仰いました。なので、『UNWは広告表象を問題にしており、表現を修正すれば掲載可能である』と主張していると解釈されるのか、それともUNWは作品そのものが広告掲載に不適切であると主張している』と解釈されたのか、小宮先生の解釈を伺っています。
「たわわ」の広告表象が問題であるのか、作品が問題であるのか、という質問である。小宮氏はこれに直接回答する事を避けている。
小宮氏を少し擁護すると、これは小宮氏でなくとも回答が困難な問いであろう。何故なら、UN WOMAN側がどちらの解釈が適切なのかを提示していないからだ。そもそもフェミニズムが、この場合にどう判断するかという線引きに十分に向き合ってこなかったのだから、小宮氏にはどちらとも言えないのである。
UN WOMANのコメントがなければ解釈が出来ない、という構造は興味深い。つまり、結論が先にあって、その理論付けは後から行う、と言う実態を示唆しているからである。
多くのフェミニストの主張では、個々の事象に対して、それを許すか許さないか、についての個人の無意識的なバイアスに基づく判断が先にある。そこから理屈が逆算される形で構築されるのである。
最近、「当事者性がある人が批判するべき」「当事者性がなくても批判できるべき」と、シチュエーションによって主張が安定しない論者が話題になった。
理由は簡単で、その場その場で結論から後付けで理屈を構築しているからである。
シチュエーションによって、議論の構造と前提が異なるため、その場で自分に都合の良い形(言い換えると「お気持ち」)で論理を組む事になる。結果として、ダブルスタンダードな主張が散見される事になる。
良し悪しに関する客観的な物差しの不在はまた、男性に向ける物差しを自分に適用しないように巧妙にサボる事も可能にする。
「海、似合ってないね」という例の動画を見れば、これがジェンダー的にかなり多くの要求を男性に課している事は間違いない(性別を逆にして、スタイルの悪い女性に「海、似合ってないね」と言ったら大炎上するのは、火を見るよりも明らか)。しかし、何人かのフェミニストはこの動画を絶賛した。
それは、彼女らが自身の中にジェンダーについての規範をインストールしてこなかった事を強く示唆している。言い換えると、相手に求める厳しさを自分に適用していない、という事である。
「たわわ」や「宇崎ちゃん」に怒りながら、BLの不健全図書扱いに怒るフェミニストもまた、非常にわかりやすい例である。男女間で別の基準を適用することの狡さを、本人の中で言い訳をしながら共存させてしまっているのである。
フェミニストは、ダブルスタンダードと言われても意に解さない。
自分が悪者になりうるような基準を、そもそも自分の中に持たない(もしくは言い訳、という形でパッチを当てる)事で、「自分がおかしいのではないか」と懐疑心を持たなくても済む、という構造があるからである。
なので、フェミニストが自分が責められた時によく使うロジックは、「それには当たらない(だから自分は悪くない)」である。常に自分は(何やかやと言い訳をして)安全地帯にいることになっているのだ。
私見だが、
この文章を読んだフェミニストは恐らく「これは、きちんと書けていない。だから自分の話では無い」と矮小化するか、「この論理は破綻している。だから認める必要はない」と全てを排除するか、の大きく2つの類型に向かうのではないか、と予想している。
フェミニストの一部に非常に性格の悪い人間が居る。多分本人は気づいていないだろうが、周囲からは丸わかりである。これはフェミニズムが他責型の人間にとって居心地が良い構造にあることと無縁ではないだろう。
フェミニストは行動を起こした結果がどうなろうと、その事にはあまり関心を持たないし、結果に責任を取ろうともしない。ましてや「これはやり過ぎたのでは?」と思う事もない。
大量の人間を集めて、一人の人間を徹底的に糾弾するほど、社会的に強いメッセージを発している。にも関わらず、問題が起きても、誰も責任者が出てこない。これはあまりに情けない話で、呆れている。何故フェミニストはこんなにも無責任な人間の集まりなのだろうか?
オープンレターでもう一つ興味深いのは、「教授」などの肩書きをとても重要視している事だ。単なる署名であれば肩書きは不要であるはず。肩書きをつける事で権威を付けて相手を攻撃しようと言う意図を読み取る事ができる。
たわわの件でも「UN WOMAN」が日経新聞に抗議するというアクションが取られている。
演繹的な議論を嫌う性質と、結論ありきの権威主義は相性が良いといえば言い過ぎだろうか?
この文を読んで、「アカデミックなバックグラウンドを持つ人物かどうか確認出来ないからダメ」と考えるならば、それはつまり権威主義の病が膏肓に入っていると言えるだろう。
フェミニストは自分を省みないので、まともにこれを読まない人間がきっと多数だろうが、フェミニストでなければ首肯する点が多いのではないか。
また、上記の逆になるように行動するようなフェミニストは健全であるとも言える。皮肉ではなく、そのようなフェミニストであれば全力で応援したい。
他者にばかりアップデートを求めるフェミニストに自らのアップデートが出来るとは到底思えないが、実現すれば結果としてもっとジェンダー的にフェアな状況が生まれるように思える。
若い世代でフェミニズム離れが進むのは、こういうフェミニスト・フェミニズムの(卑怯な)特性に嫌気が差している部分も大きいと考えるからだ。
面白いなー。園子温への対応の話以外にも一貫性の無さを取り上げているのだけど、園子温の件を否定できれば俺無罪!!という感じのブコメが多くて興味深い。通底するテーマは批判するかしないかに関する基準の無さ、一貫性のなさだよ。園子温に対する考え方をちょろっと批判した、という程度では揺らがない部分。
BL無罪の人なんて、フェミニストの矛盾を体現するようなアクションだったけど、そこには全く目を向けない。まー、フェミニストは、自分に問題があるかもしれない、という論理は受け入れ無いということが良くわかる。
lacucaracha:
有罪だから語るべきものがない、って不思議な論理だね。UN WOMANが、園子温(や榊秀雄)のような現在進行形の問題よりも先に、たわわのように複雑な議論が必要な事象を糾弾したのは何故?
cinefuk:
「女性差別的な文化を脱するために」と、特定の人間を貶めるためにフェミニストが結集し、オープンレターを叩きつけ、失職に追い込んだのと比べると、今回は弱々しいですね。名指しでないオープンレターぐらいはあってもよかった。
(女性原作者のオープンレターをフェミニストの手柄にするような下衆しぐさはしませんよね?)
「たわわ」との違いは、園を免罪しようとする擁護が出なかったからでは。炎上案件は、フェミの批判より反フェミが盛り上げてる印象
たわわには反論すべき論理もあるけど、それ故に炎上の責任を負わされる、という構造があるのであれば、それは容認していいの?
ウクライナが抵抗したから戦争が激しくなった、みたいな論理ですよ、それ。
todomadrid:
園子温を支持しているフェミニストなんて存在するの?そしてそもそも、広告のバッシングは広告主や媒体、もしくは痴漢をバッシングしているのであって、オタクをバッシングしてるわけじゃないので勘違いでは。
何で「園子温を支持している」にすり替えてるんだよ。こういうフェミニズムの卑怯さの構造を説明したんだからしっかり読め。
フェミニストのオタクバッシングは結構見苦しいものがあるので、これも話をすり替えないように。だから、たわわと園子温事案の熱量の差は何だよ?という話をしている。
kohgethu:
誰が性的加害やらかした映画監督どもを無罪と言ってるんだ?奴らは粛々と社会的制裁を受けてるし騒がなくても罰せられている真っ最中なので騒ぐ必要が全く無い。もしも当人が足掻いたならたわわレベルに炎上するよ。
https://www.jprime.jp/articles/-/23703
Domino-R:
一昔前に、一部の女性が自分はフェミニストをやめたと、怒りながらに距離を置くのを見ていたが、理由が分からなかったんだな。
フェミニストとの議論を通じて気付いたのは、フェミニストの立論が場当たり的で、論理がなく、端的に不誠実だという事。何故か自己中心的で、話のすり替えに余念がないクズが多くて、腹が立つ事がやたら多いんだよ。
フェミニストは、ツイフェミに限らず、例えば立憲民主の中で、まともな議論を尽くさずに議員を辞職させたりしている。害悪が大きくなるばかりじゃん。その構造がクリアでなかったので、まず見える化をしようとして書いた。
今回まとめた特徴に合致しないフェミニスト、ほんと見つからないね。居たら連れてきてよ。1人でも居ます?
こっちに移動
まあ行くだけなら問題ないよ。
だけど、関係のない末端に『生娘シャブ漬け丼』とか注文するクズは割と本気で死ねと思ってる。
吉野家が潰れようがどうということはないが、アルバイトの子たちは関係なくね?
『働いてるなら同罪』なんて言うゴミもいるけど、あの発言の後にすぐ辞めて職が決まるわけないでしょ。
働きたくなくても生活のために働く人いるでしょうに、そういう人まで巻き添えにするのは間違ってんだろって思うわけ。
あの発言をしたのは本社にいた奴だろ。なら、社会的制裁を与えるならソイツじゃん。なんで力のないバイトの子たちに嫌がらせしてんの。
それ、ただのイジメじゃん。
やってることは生娘シャブ漬け発言のゴミ野郎と同じだよ。むしろ、こっちの方がバイトの子たちの精神的苦痛与えてる犯罪行為じゃん。
「さっさと訴えてどうぞ」
本当にこれ。
俺はジェンダークレーマー炎上でも古塔つみでもガンプラ転売ヤーでもウィル・スミスでも、ずっと一貫して言ってきた。
権力勾配を背景に女に言うことを聞かせる、ってのは非紳士で非人道的ってのはみんなわかっている
それをやった場合、明るみに出れば社会的制裁があって、職や立場を失うことが多い
しかしだ
それは替えが効く人の話だ
会社の偉い人は、別の人が偉い立場につけばいいだけなので替えが効く
スポーツ選手も、その人がいなければ勝てない、戦術が成立しなくなる、とかはあって、別の人でもゲームそのものは成立する
しかしよ
映画監督の場合、その監督がいなければ、その作品丸ごと存在しなくなる
映画なんてなんでもいい、ってことならその人がいなくても映画は出てくるけど、「この作品」は絶対に出てこない
このような人が権力勾配を本気で利用しようとしたとき、この人が失脚すると困る人達がすごい数存在しているせいで、周囲が擁護に回らざるを得なくなる
なんなら自らが供物になることもやぶさかではない
こういうタイプの暴君を制御するのって、今行われているような利害関係のない世論からのバッシングしか機能しない気がする
一体、どう対処したらいいんだ?
替えが効く人のセクハラならなんとでもなるんだよ…
替えが効かない暴君は…
本来ならばバイキンマンを言葉で説得するか、あるいは彼を拘束したのち裁判によって量刑を決めるべきであって、アンパンマンの独断で暴力を振るってもバイキンマンの肉体的精神的自由を損なうだけで、更生をうながす効果がないのは明らかだ。
鉄拳制裁ののちに、バイキンマンが反省して悪事を控えたなどという話は聞いたことがない。
分別が未熟な成長過程にある子どもの観るアニメなのだから、親たちが「本当は暴力で解決するのはいけないんだよ」と教育することで修正しているのだろうが、果たして本当に私たちはそういう教育を受けてきたか…? 反暴力の教育は、一体いつ施された?
実は大人になった今でも、「バイキンマンは鉄拳制裁を受けて当然だ」と密かに思っているのではないか。
いつかバイキンマンがあなたを訪れて、ほおに出来たアザを見せてアンパンチの被害を告白してきたときに、あなたはバイキンマンに寄り添えるか。
「まずそもそもバイキンマンも悪いよね」と口を滑らしてしまうのではないか——…
コラム・ “殴っちゃダメ” は反暴力の教育ではない
暴れまわる幼稚園児を、先生や親は「殴っちゃダメ」と叱る。幼児は一旦それで大人しくなる。
でもそれだけでは反暴力の十分な教育にはならない。それは応急処置に過ぎない。
「殴っちゃダメ」の丸暗記では、のちの人生で直面する複雑な局面に応用が効かないんだ。
暴力への理解レベルが初期値のままに知性だけがレベルアップすると、迂回のために高度な理屈が発明されることになる。
- 殴っちゃダメというけれど、殴るとは己の欲望に身を任せて無辜の他人を傷つけることであって、アンパンマンは「殴って」などいない
- バイキンマンの横暴もある意味、暴力だ。バイキンマンこそが先に「殴った」
- 「殴っちゃダメ」だからこそ、それをあえてすることでバイキンマンの悪事の酷さを思い知らせることができる
- アンパンチを受けてなければ、バイキンマンはいずれ厳しい社会的制裁にさらされる羽目になるので、バイキンマンにとっても殴られたことは良かった
私はこんな感じの意見をみるたび、暴力が働いているのでは、と疑う。
暴力の主要な効果、内面化——… 暴力を目の当たりにして心がひるんでしまい、対抗を諦めて暴力側を受容するために自分を説得する説明を積極的に作り出してしまうこと。変形した心の殻に沿うように成長した精神は、暴力を正当化する理屈を、本当に自分の自由意志で作り出したのだと錯覚する。歳を重ねる過程で、暴力側が正しくて間違ってるのは自分だ、という考えに矛盾しない論理だけを無意識のうちに選択して摂取するようになる。ある日、暴力に侵された彼が自分がされた行為をコピーするように他の誰かに手を上げてしまったときに、彼の中にはもはや暴力を否定する理屈は残っていない。暴力を客観的に認識できない。自分の暴力が見えない。