はてなキーワード: 暴走とは
結論をいえば、「コミュ障でキモい外見の私ははたから見ればわけのわからん犯罪者予備軍なんだろうな」と改めて悲しい気分になったというだけだ。いつものことであるが、それでも悲しい気分になる。
今日は「君たちはどう生きるか」を観るために映画館に行った。映画が始まる前に流れる、様々な新しい映画の予告編。その中の一つにクレヨンしんちゃんの映画があった。
・しんのすけとよくわからんいじめられているキモい陰キャの2人に宇宙人かの気まぐれですごい力を得て
・陰キャは得た力で腹いせ的に街を壊そうとするが制御しきれず暴走し、
という流れのようだ。それにしてもいかにもな「いじめられている陰キャ」のステレオタイプっぷりよ!クレヨンしんちゃんはそういうアニメだとは理解しているが、ずいぶんコテコテな感じのキャラだった。そして同じように「いかにも」な見た目で、実際いじめられっ子だった私は陰キャの彼の立場が多分ほかの観客よりも高い解像度で想像できてしまった。
映画の制作者は、力を与えらえれて暴走する、しかし同情もできる人間として陰キャの彼のような人間を考えたのだろうが、見た目までステレオタイプ的な要素を詰め込む必要はなかったのではないだろうか?
まるで彼…というか私のような人間はいじめられるような目にあって当然だし、気まぐれで力を与えられれば暴走するロクデナシだと言われている気分になった。まぁ実際いじめられてはいたのだが。フィクションの中、それも予告編でまでいじめらたことをひきずりたくはない。
最終的に陰キャの彼に救いはあるのだろうか?きっと彼は暴走を止められて改心するという流れになり、その時は優しい言葉をかけられるのだろう。しかし物語が終わり力を失ったあとの彼は社会を混乱に陥れた、でも力を失った元怪物であり、物語が始まる前よりももっとつらい現実に向き合わなくてはならなくなるだろう。肝心の「君たちはどう生きるか」が始まる前に、つらく悲しい気分になった。
いまだにゲンで覚えた広島弁が口ついて出るからコンテンツの影響はあると思うが、
良い影響悪い影響の可能性を事前検閲して選別するなんて不可能だろう。
オウムや日本赤軍に影響を与えた書物を全部選別して発禁にできるか?
室町幕府とかを見ていると、
「自分の領地経営に専念して中央の統制からは距離を置く大名」がいて、
前者は政治へ介入してくるし、それが暴走して内乱が勃発することもある。
後者も、半ば独立して強大化して、幕府の統制が利かなくなるのは問題である。
あと、前者が領地を長いあいだ留守にしてると留守役のNo.2に領地を乗っ取られたりして、
そんな乗っ取りをするような奴は独立志向であることが多いので、やっぱり幕府の統制が利かなくなる。
そこで江戸幕府は考えた。両方の良いとこどりをしよう。
といって領地に腰を据えて独立を志向するのも防ぐことができる。
いやあ、神制度だよな。
この映画はひとつのSNSの崩壊とそこからの解放を暗喩している。
蒼鷺はツイッターバードを表している化身のような存在なのは確定的に明らかだし、
塔の中の世界は自由に発言(ツイート)できるSNSの世界を表している。
鳥の住人が多いのは自由な世界を象徴しているのと、アバターとしての匿名性を表している。
SNSの製作者(大叔父)は自由で平和な発言を出来る世界を夢見てこの世界を作るが、
義母は気丈な態度を崩さないが、姉(主人公母)に対する負い目や、眞人が心を打ち明けてくれていないだろうということ、
そしてマリッジブルーや妊娠によるホルモンバランスの変化などにより内心はグズグズと傷ついていってしまう。
そんな時に自由に発言できる世界としてTwitterというSNSにハマってしまい、抜け出せなくなってしまう。
蒼鷺は大叔父の命で維持できなくなったSNSを管理する後継者にするために主人公をどうにか招き入れようとする。
しかしそこには母親はいなく、過去の母親が存在するだけだった。
そう、SNSには過去のツイートが残されているのだ。眞人は過去の母親のツイートから母親の気持ちを知ることになる。
蒼鷺の羽根を持っている、つまり公式バッジの付いている主人公を食べることはできなかった。
ユーザーの純粋な気持ちの象徴であるわらわらは、攻撃的なユーザーであるペリカンに食べられてしまう。
大叔父の血族であるヒミはモデレーターとしての役割があり、ペリカンを炎上させることで規制している。
インコたちはSNS内に溢れる自己主張の激しい民衆で、彼らは勝手に自治を初めて排他的な社会を築き始める。
義母は自身の暗い感情を隠すため、鍵垢の岩戸へと引きこもっている。
しかし主人公はヒミという運営権限の一部を持つユーザーの助けを借りて義母の部屋へとたどり着く。
結果的に義母の本音を見た主人公は義母と心を通じ合わせることができるようになる。
まだ明確に権限を持っていないユーザーに他ユーザーの鍵垢の中身を提示するのは私的利用職権乱用であり、
元々運営に文句のある声がでかい自治厨の村長(インコキング)はキングといえど元々ただの一般ユーザーでしかないため
文句をピヨピヨ垂れ流すだけであったが。
しかしモデレーターの不祥事を見つけたことで、鬼の首を取ったかのようにそれを武器に運営へ直談判しにいく。
主人公は元々自己主張が苦手で寡黙であったが、義母との一件で本音をさらけ出してぶつかり合うことの大切さを学んだ。
そのこともあり、自由だが閉じた世界であるSNSの継続は拒否し、本当の世界で生きていくことを選ぶ。
そして、偶然積み木というあまりに杜撰な管理体制を見てしまったインコキングは激昂し、それを糾弾することでこの世界が崩壊してしまう。
個人個人がよりよい生き方を目指すことが社会全体をいい方向に向けていくという社会科学的な思考についての内容がある。
インコたちは真逆で、自身の主張をし続けた結果SNS世界の崩壊という社会全体への崩壊へと結びついてしまったのだ。
元の文も読んだけど君は大変真っ当な意見を書いてるよ
でもねリベラルやらフェミニストの言うことの危険性も理解してるよね?
彼ら彼女らは何らかの理由で活動してる破壊者たと捉えたら異常性に腑に落ちるんじゃないかね
それと、赤信号を渡らないのが普通で渡るのは異常者という表現の仕方に異論はないが
コソコソと人のいない峠に一人で行き誰ともつるまない走り屋と町中で飛ばしたりドリフトでタイヤ跡つけたり人と集まって大騒ぎして暴走行為をする輩
反社会性を持つ人間にも堂々と主張するものと、コソコソしてるネズミもいる
建前では両方等しく違反者だが、警察のリアルでは堂々してる異常者は危険だと追いかけ
俺はLGBTやオタク界隈等についても似たような所があるという認識だが、今の世の中は輩が取り締まれ無くなってネズミにもしわ寄せが来てるという印象だ
ここまで「現代的」を正面から扱ったアクション映画はなかったと思う。
イコライザー、ジョンウィック、ミスターノーバディといった「お前実は殺人マシーンやったんか!」という
登場人物全員が心の傷を抱えていて物語を通じてそれが癒されていく。
マッツの軍役がトラウマになっているだけでなく、家族を亡くした、虐待を受けてきた、コミュ障等々。
軍人マッツ+弱者男性3人+移民の若者+娘という組み合わせはかなり現代的。
ここがたぶんこの映画の一番のウリ。
この映画はマッツの妻が列車の爆発事件に巻き込まれて死んでしまうところから話が始まるのだが、
その列車にはギャングの告発者が乗っており同じく死亡していた。
そして列車の発車寸前に降車した男と93%人相が一致する男がギャングの関係者だった。
マッツと仲間たちによる血みどろの復讐劇が幕を開ける。
主人公が人殺しまくって「実は勘違いでしたテヘペロ」なんてことありゅ?
この映画にはいたるところに「偶然はある」というメッセージがちりばめられている。
そして同時に何かに苦しんでいるものは「偶然はない」ということにすがろうとする、という
妻が死んだマッツに声をかけるシスターは「偶然なんです」と声をかけマッツは「偶然なんてない」と答える。
殺人兵器として最前線で戦ってきた元軍人のマッツは偶然なんてものを信じるのは弱い人間のやることだと考えているが、物語内でマッツは妻の死を受け入れられずに弱者男性ズの持ち込んだちょっと考えれば「大丈夫か?」というようなあれはギャングがやったんだ!という陰謀論をコロっと信じてしまう。
この映画はノルウェーの映画なんだけど、なんていうか「アフタートランプ」時代の映画だなって滅茶苦茶感じた。
自分たちが苦しんでいるのは偶然ではないはずだ。どこかに悪者がいるはずなんだ。そうであってほしい。
という思いに「情報」がハマってしまったとき、人はたやすく騙されるし
騙された人はたやすく本来では考えられないようなひどいことをしてしまう。
前回最終回ひとつ前の終わり方が最後にひとつふたつ不幸をぶっこんできそうで
「兄さん……」ってセリフでCMに入ってそのまま出てこなくなるラウダや
「人類のほとんどを抹殺しろと言われればこうもなろう」って巨大MAに乗り込むプロスペラや
議会連合の巨大兵器を破壊するために単身向かうスレッタと大爆発の後に○年後みたいなエピローグが入ったりするなどの予想はことごとく外された
1期最後のフレッシュトマトビンタはなんだったんだよというほどに美しい終わり方
あの大河内一楼とは思えない美しい終わり方
鉄血はもうこれ以上ないくらい「違うんだよな~」って思わせてくれたが
でもこの終わり方ってAGEに近い部分があると思うけど、やっぱり主役がジジイじゃなく可愛い女の子だと面白く見えてしまうのだろうか
戦場のリアルとか科学的考察の深さとか人の命の儚さを描いたら不幸にしかならないというのは老害の思い込みだったのかもしれない
なんにしても新しい時代のガンダムとしてとても素晴らしいものを見させてもらった
最後にデータストームが暴走して全員取り込まれて幽体のまま宇宙飛んでってハッピバースデーディアチルドレンって歌うラストでも良かったと思うのはハゲ信者
先日娘が生まれた。
私と妻共に初産で、互いの両親から離れた地方都市で、新生児の娘と3人で暮らしている。
強い違和感を覚えたのは、娘の出生後に私の両親が訪れた際のこと。
ミルク育児を選んだ妻に対して、「母乳でなければ健康な子供が育たない」「愛情が育まれない」などと平気で悪態をつく。私が居ればその場でフォローするなり嗜めるなりのことは簡単なのだが、私が赤子の世話で外している時に限って言ってくるのでタチが悪い。
母親はミルク育児に理解はあり、妻の味方になってくれようとはするが、その場で強く父親を否定できない様子だったそうだ。
その時点では妻もそんなに気にしていない様子だったが、問題は続く。
幸いにも無事に娘が生まれたことは、互いの両親や親戚に祝福され、様々なお祝いもいただいた。妻の両親にとっては初孫ということもあり、日頃の感謝を伝える意味でも「みてね」という写真共有アプリで、互いの両親に日頃の娘の成長を共有している。結論から言うと、これが良くなかった。
動画と写真を共有を開始してまもなく、私の父から「母親に笑顔がないので赤ちゃんが不安になります」「ミルクは太りやすいです」などのクソリプが、連日私や妻の投稿した写真や動画に紐づいたコメントに投稿されるようになってしまった。コメントは妻の両親も見られる仕様になっており、私が「娘は妻のことが大好きなので何も問題ないです」「余計なお世話😎」と応戦するも、まるで意に介さない。さすがの妻も気にせずにはいられない様子で、次第に娘の状況を報告することが少なくなっていった。
私の父親は典型的なSNSをさせてはいけない部類の人間で、ネットリテラシーはおろか、普段のコミュニケーションでも相手の状況や価値観などを想像することもなく、思いついたことをその場で発言してしまう。無論本人には悪気はなかろうが、故にタチが悪い。離れて暮らすには支障は無いが、親戚や、特に奥さんの両親や親族のいる場所に出してしまってはいけない人。
増田諸兄も同様の経験はないだろうか。Twitterで晒しあげられるクソリプ見て、一体どんなやつが投稿しているのやらと笑っていたら自分の親だったという絶望感を味わったという話だ。
以上で話はいったん一区切り。この状況について、今すぐにどうこうする気はないし、対処療法的な策は少し考えれば思いつく。その気になれば父親のアカをBANすることも容易い。いったんはそれで解消する程度のいざこざである。
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一言で言えば、私は父親との関係をミスっている。振り返れば関係構築の機会が十分に与えられることがなかったのかもしれない。
父は高度経済成長期の只中に生まれ、首都圏の大学卒業後にメーカーの営業一筋40年間。定年まで勤め上げ、高校卒業後に専業主婦となった母親と共に3人の子供を育てた。何せ企業戦士という言葉がポジティブに使われていた世代よろしく、私が小学校に入学して以降は単身赴任で全国を転々とし、思い返せば思春期以降にまともに話をした覚えがない。そして、私が高校を卒業後に家出同然で地方へ移住してしまって以降、その機会は完全に奪われてしまった。
様子がおかしいこと自覚したのは、父の定年後に久々に実家に帰ったときのこと。父は大概リビングで無言でスマホをいじっている。何をしているのかと思えばyoutubeで右翼コンテンツの類をヘビーリピートしているのだった。ちょうど『ネット右翼になった父』というwebメディアの記事がバズった頃。当時の私にとってはそのことがひどく憂鬱で、同世代の友人にそのことを共有したりしてとりあえず笑うことにしたのだが、父とは特にコミュニケーションすることはなかった。
家族を経済的に成立させるという点において、父は立派な人間だった。子供の頃はよく遊んでもらったし、海外旅行や外食はほぼ無かったが、進学費用をはじめ経済的に苦しかった記憶は無いし、不倫やDVなど、いわゆる毒親と呼ばれる要素は皆無だったので、総合すれば素晴らしい父親に恵まれたと今でも思う。一方でコミュニケーションに難があり、また、個人の思想やライフスタイルの多様性が尊重される時代において、価値観をアップデートする機会に恵まれなかった結果として、前述のような問題として表面化してしてしまったと感じている。
勝手にアプデ済ませとけと思う一方で、父にとって最も身近な若者である私と兄妹が、その役目を果たすことができなかったことに責任の一端を感じないでもない。父同様に、これまで私も父との会話をサボってきたのは事実なのだから。
こうした問題を世代間における価値観のギャップと切り捨て、ともすれば縁を切れと脊髄反射で発言する輩がいるが、私はそれをサボりたく無いのだ。現実的には、両親のサポートが必要な場面は今後も生じるだろうし、観念的には、そうした家族の面倒ごとは大袈裟に言えば私のアイデンティティそのものに関わってくる問題だと思う。こういう事象をサボった結果として、自分が将来娘と絶縁する世界線もないとは言えない。無論、努力した結果絶縁されるのは仕方ないとして、それをせずに絶縁するのは違くない?と。
少し極端な物言いになってしまったが、要するにアプデに失敗した老人の暴走という問題として片付けたくはなくて、家族のコミュニケーション不全を見直す良いきっかけにしたいと思っている。昭和の終わり〜平成の初めにかけて生まれた人間にとって、同様の問題を抱えている人は多いと思う。死ぬほどだるいしムカつくけど、一緒に頑張っていきましょう。
最後に妻よ、私と父親のサボりによって被害を被ってしまって本当に申し訳ない。時間はかかるし、今後も問題は起こるかもしれないけど、少なくとも今よりは改善できるよう努力します。
娘よ、私の至らぬところで君の祖父という人間について、希薄な情報しか残すことはできないかもしれないけれど、父ちゃん頑張るので許してくれ。