はてなキーワード: 実写化とは
アイカツが好きになって8,9年位、初めてが初代のクリスマス回で色々衝撃受けてそれからずっと。
アニメ、DCD、ソシャゲ、ライブ、イベント、グッズ、etc...と100%全てを把握しきってるわけじゃないけどアニメはリアルタイムで可能な限り見たし地方に行ったりしてるときは遅れなりdアニメとかなりで追った、DCDも昔からいい年して何やってんだろってたまに自虐しつつもつい先週もやってた、イベントは金銭的な問題が大きかったので近場をメインに。
今後どうなんだって期待と不安の中で今回のアイカツの新プロジェクトの発表、結論から言うと凄い喜びも怒りもしづらかった、とは言えコンテンツを続ける気でいた事自体は嬉しかったと言った感じ。
実写化がかなり衝撃的だったせいでアニメじゃないのかってキレてる人もいたし、こんな事になるならアイカツ畳んで別の名前で始めろみたいなのも見た。
ゲームに関してもシステムがだいぶ変わったみたいでマイキャラ、これまでのカードの扱いどうなるのかで不安なってる人も見た。
でもアイカツがまだ続くなら嬉しい、自分も不安だけど今すぐ死ぬことは無くなったわけだし、自分の好きな霧矢あおいや一ノ瀬かえでや新条ひなきは当分TVやゲームなどの表に出ることは無くなったと思うけど、コンテンツが完全に畳んでプレバンとかでグッズも全く出なくなるわけでもないのでまだ期待というか追っかけれる事に安心してる。
9年近く追っかけてきた熱意、人生80年でも1割アイカツに寄り添ってたしこの後も恐らく看取るまで寄り添うつもりなので1割どころかかなりの割合がアイカツになるんだろうなって。
ただ何年もただ追っかけてたのはちょっと失敗したなとも思ってる、多分この期間あれば自分の好きなキャラクターを描く練習してれば割といい絵描けたんじゃとか、気持ち悪いけど楽器練習してアレンジとかオリジナルソング作れたんじゃとか所謂創作方向に昇華していればもっと明確に「アイカツで人生変わった!」みたいなことになってたと思う。
すっかり年も取っちゃって熱意はあれど動きは鈍くなっちゃったけど、これからまたアイカツを好きになって行きたいし、次のアイカツプラネットがこれまでと一線を画する、リスタートみたいな感じなら自分ももう一度動きを取り戻したい、んでまた更にアイカツを好きになりたい。
プラネットが始まる来年頭、それまでは準備期間というか、アイカツのこれまでに感謝しつつ次のアイカツを快く迎え入れるようにしたい。
とある鍵垢同人女より商業作家さんのお気持ち表明についての構造整理
https://anond.hatelabo.jp/20200712141747 さんの激おこ文章、同人女サイドでは、ひとくくりに糾弾されて普通に嫌な気持ちになったけど、気持ちはわかる。
(私は同人女ですが、かつて別名義の本名で文学系一次創作詩歌・評論を発表していた人間です。自分の作品を私物化・海賊業されて…という経験はありません)
主さんもおっしゃる通り、商業として作品を商品にした以上、それを自分のものと主張するのは難しくなります。
「作者」と「読者」ではない、お金の介在する生産者と消費者の関係は、金銭契約により生産者と使用者の関係を生み、その生産者も雇用主・被雇用者に細分化するものです。
作品の発表に当たり人の手を経れば経るほど、その作品の所有層全体に見る自分の割合がちっぽけになっていきます。
この問題を切り分けて考えると、
(1)作品を発表した
(2)ゆがめて解釈された
(4)それにより純粋な「作者」の契約外の人間に利益が発生した
(なお、前提として、「作者」は作品を発表するにあたり企業などの商業的な発表媒体と契約を結び、「作品」は「商品」となっています。)
発信者の解釈する自作品と、受信者の解釈するその作品の間に、何らかの解釈の違いが生じることが、第一の難しさ。
・アート作品をプレスリリースした際、一方向から撮影した1枚しか写真が載らず、別の一面の情報が伝えられなかった。
・カラーの風景画を取材され、新聞にモノクロで掲載され、色味の再現が十分でなかった。
・詩吟の節回しとして本来長音が入らない箇所を、聴き手の記憶頼りのレビューで長音のように表記された。
・使用楽器の質にこだわってリリースした楽曲を、百円均一の音質の悪いスピーカーで再生された。
・ある特定のホットサンドメーカーを使った料理のレシピを、異なる製品で作った結果、焦げておいしくなかった。
ここには、「発表媒体」による不自由と、「ツール」による妨害が存在します。
いずれも、その作品の情報の伝達時の「再生」方法が、その作品を表現しきるに満たない、という問題です。
今回の漫画作品では、おそらくこうした再現性の問題はほぼないでしょうが、
【「作品」を再生する受信者は、必ずしも「作者」の思惑通りに「作品」を享受しない】。
その結果、【本来の作品のポテンシャル外の評価・解釈が生まれる】。
これは、芸能人や政治家が発言した内容を任意に切り取って報道する偏向報道もそうです。
本来与えられるべき情報量に到達できないまま受信者が作品を評価することが、作品発表の第一の関門です。
「××くんは○○くんを好き。▲話で腰に手を回してるからセックスした」
「▲▲さんは実は●●ちゃんを嫌いなんじゃない?」
「●●ちゃんは本当は腹黒で、○○くんに近づく奴を陰で×してる」
二次創作は、「●●という作品の○○という人物がもしも××したら」から端を発するものです。
つまり、二次創作の原動力は、作品の「余白」と「違和感」です。
その「違和感」の着眼点や「余白」の範囲は、作者によって規定できません。
二次創作には「パロ」という文化が存在し、読み手側が「もしも○○だったら」と仮定することで、作品の余白は無限に継ぎ足されます。
さらに、「違和感」は、疑えばいくらでも生み出すことが出来ます。人の行動の裏の意味について考えすぎてしまうとか、創作に関わらない人間関係と同じように。
【「余白」や「違和感」などの、二次創作の要因は、作品のいたるところに存在する】。
【作品を、想像力を持つ人間に届ける以上、この「解釈のゆがみ」の発生を止めることはできない】。
これが第二の問題です。
少年少女が生きる意味・死ぬ意味に向き合い、あらがい、自己を実現する、人生の解の物語です。
その物語では、一人一人の死には厳然たる尊厳があり、死は尊重されるべき、という観念が少年たちに獲得され、通底していました。
しかし、その物語がアニメ化された際、監督の好みで物語の大筋が改変され、少年たちの命運も、登場人物の人生の意味も、その監督の解釈により書き換えられました。
「アンインストール」というテーマ曲が有名なゼロ年代のアニメですので、主様やこの記事をご覧の方もご存知かもしれません。
こうした、【自己解釈による横取り・ただ乗り】が、主様の同人女に対する一番の怒りなのではと感じています。
これが第三の問題です。
例えば原作ファンが実写化を叩くのも、おそらく類似した心理によるものです。
そして、このただ乗りを素人(同人女)がする場合、その目的は3つが融合しています。
「自己実現」「他者からの承認」「何かに打ち込み成し遂げる快感」の3つです。
自己の考えを開示・表明することで自己を実現する。それを承認されて行為が加速する。同人イベントなどの目標を達成し、達成感を得る。
これらが融合し、「カップリング界隈」という一つの社会に生きる「同人女」としての個性を、一人の人間の中に築いている。
「趣味の活動」という、第一の人生を生きながらある程度の匿名性が担保された第二の自己を獲得することが、「二次創作界隈」では可能なのです。
しかも、その第二の自己は、第一の人生を妨げません。いざとなればアカウントを消去して関係を断てる、切り捨て可能なインスタントな人生。だから同人活動は気楽に楽しめます。
一次創作主ほどの切迫した人生・生活感が、二次創作主でいる間には、必要ないのです。
【「自己実現」「他者からの承認」「何かに打ち込み成し遂げる快感」は、「同人女」に第二の人生を与え、同人女を生きやすくする救済である】。
これが、SNS社会の現代で、同人作品の発表がなくならない理由ではないでしょうか。
しかし、取れる策が自衛しかない小さな政府・大衆民意・経済の尊重の今の世の中では、二次創作されるのが嫌な一次創作者は二次創作嫌だ二次創作禁止と言える会社で発表するしかありません。アルファポリスとかしか思い浮かびませんが。
一次創作で金儲けしながら作品を自分一人のものとして主張したいなら、同人でやるしかない。
企業に自分の作品を買い上げてもらうことはあきらめる。企業の製造ライン・企業の販路・企業の広報、そういうものに載せてもらった時点で、作品の方針を取る手綱は自分のものではなくなる。
生活のために金儲けすればするほど、作品の権利元が分散して、作品が多くの人の手を経て連帯の所有物になっていき、純粋な「作者」の手元を離れていく。
「商」業の性質上仕方ないです。
両得で叶えることは難しいと思います。残酷ですが、主様のおっしゃるとおりですね。
これに言えることはありません。
「利益」と「権利」に対する、同人活動者の考えの浅さに直面するたび、私もくやしくなります。
公式が発表していない自作ねんどろいどの写真をSNSに発表する。
公式のロゴに類似したロゴを使ったスマートフォンケースの受注生産。
全てアウトです。公式の受け取るべき権利の横取り。公式の意図しない第三者の営利活動が原因で、立体商品が発売されなくなったジャンルもあります。
それでも横行しています。「痛い目を見ていないから大丈夫」なんですね。
私が同人活動をしている作品は二次創作に好意的で、二次創作の中でも特に禁じるものを明記したガイドラインもあり、公式サイドで映像制作に関わっている方によるファンアートの投稿も盛んです。
それでもガイドライン中で明記されている禁止行為をする人が後を絶ちません。
「みんなやっているからいい」。
公式から二次創作全面禁止のお達しが出るまで続けるのでしょうか?
そこに倫理はないんでしょうか?
ここを踏みとどまってほしい、という、主様のメッセージの最後の一文だけでも、少しでも多くの同人女に届いてくれればよいと思います。
以上。
構造の整理と言って、結局私のお気持ち表明でしたが、以下に内容をまとめます。
●まとめ
(1)作品を発表した
【問題1】「作品」を再生する受信者は、必ずしも「作者」の思惑通りに「作品」を享受しない。その結果、本来の作品のポテンシャル外の評価・解釈が生まれる。
(2)ゆがめて解釈された
【問題2】二次創作の要因は、作品のいたるところに存在する。作品を、想像力を持つ人間に届ける以上、「解釈のゆがみ」の発生を止めることはできない。
【問題3】「自己実現」「他者からの承認」「何かに打ち込み成し遂げる快感」は、「同人女」に第二の人生を与え、同人女を生きやすくする救済である。
(4)それにより純粋な「作者」の契約外の人間に利益が発生した
原作厨「演じる俳優は声優と同じであくまで黒子でいてほしい、キャラクターに準拠してできればカテコでも素を出さないで、SNSでは変にキャラの真似はしないで。原作へのリスペクトとプロ意識を感じれば推すこともあります」
俳優厨「推しくんのキャリアの一端として興行のことを考えて推してるのを批判されても困る、こっちのファン活動はこれ。カテコで素の俳優としての想いは聞きたい。原作厨がキャラクターを通して接触イベに来るのはおかしい」
これは一例であり、原作厨にも俳優厨にも全く違う考えや主張もあることは勿論承知している。
その上で、たとえば上記のように、原作オタと俳優オタのスタンスはおそらく永久に相入れないものだ。
考えてみれば当たり前のことで、2次元至上主義のアニメオタクと芸能畑の追っかけは、同じオタクと括れないほど違う人種。それらをひとつの舞台という作品にブチ込んで両取りしようというのだから、価値観も大事にしているものも衝突するに決まっているのだ。
2.5次元の厄介なところはこのネーミングだ。2.5と言うが、個人的には3だと思う。強いて言えば3-0.5だ。そこに展開されている舞台も、興行に必要な様々な役割の人や会社も、すべて芸能界のものである。.5とはただ単に、発案・企画を二次元作品から持ってきたというだけのことで、舞台という形がもはや、アニメ・漫画・ゲームを中心とした二次元コンテンツの世界とは全く違う、三次元の芸能の世界のものなのだ。
そう、あれほどオタクが忌み嫌っていた実写映画化・実写ドラマ化と、実態的に言えばなんら変わりはないのである。
ところが、二次元コンテンツ界隈に理解がある人が、「原作へのリスペクト」という実写化批判の最大の争点を持ち出し、さらに二次元コンテンツがベースであることを強調するために考え出した名前が「2.5次元」。このネーミングのおかげで今日の商業的成功、2.5次元という界隈の確立に至ったのだと思えてならない。
仮にも2とつくから、二次元しか知らないオタクが騙されるのだ。あれは3だ。三次元の、芸能の世界と関わりたくないのであれば、どんなに好きなジャンルでも2.5次元には触れない方が身のためだと思う。
個人的には地雷も特になく、昔から二次元も三次元も並行して消費してきた雑食なので、2.5次元に特に強い抵抗はないものの、それでも二次元をベースに考えて2.5次元を見ようとは思えない。基本的に生身の人間が出てきた時点で、三次元の世界の存在だ。それを二次元に重ねる面白味もあるものの、もともと三次元を楽しめる人間にしかできない楽しみ方ではないかと思う。
そう考えると、女オタク界隈はいつの間にか三次元を楽しめる人間がずいぶん増えたような気がする。昔はナマモノと聞けば忌避し、少しでもアイドル的なものに拒否反応を示すオタクが多かった。今2.5次元を楽しんでいるオタクは、たとえ原作で見る作品を選んでいるとしても、三次元を楽しむ才能がある人なのではないか。
三次元を楽しむ才能のないオタクはいる。おそらく今は少数派になってしまっていて、肩身の狭い思いをしている。俳優や声優にキャラを重ねることに違和感がある、コスプレやフィギュアすら避けているという人。2.5次元のライブ(ミュージカル作品の曲だけやる)のMCで、役者として喋ることに動揺するオタク。それは三次元のオタクの感覚から言えばごく普通の、なんの違和感もないことだ。だからそういう人は、2.5次元に近づかないほうがいい。
なぜ「近づかないほうがいい」とまで言うかというと、本人が傷つくということも勿論あるが、周りの2.5次元を楽しんでいるオタクも必死だからだ。原作厨は原作厨、俳優厨は俳優厨でオタク特有の苛烈な必死さを持っている。これは出会わないようにするより他に打つ手がないのである。
それなのに、よりによってその両者を引き合わせ、両方から動員数を稼ぐことで成り立つ興行。それが2.5次元舞台である。この文化の交差点は地獄だ。この地獄が金を生み出す仕組みは、一体いつまで栄えるのだろうか。
数年前の公演で好きなCPが舞台版に登場し、その公演をきっかけにCPを好きになった人が増えた。
もちろんSNSや同人イベントでも人が増え、今まで顔見知りばかりで活動していた当CPも賑やかになった。
それ自体は嬉しかったのだが、舞台をきっかけに好きになった人たちはキャラクターではなく『キャラクターを解釈し、演じた俳優』を見ているのだ。
原作からそのCPにハマった人たちと舞台からハマった人たちとでは温度差があるように感じる。
舞台しか観ていない人、原作の他CPで活動をしていたが舞台で活動CPを変更した人、いろんな人がいる。
ただ、舞台から好きになったという人たちと話していて「おや?」と思うことも多々ある。
好きなシーンや好きになったきっかけの話になると、舞台の内容を話し出すのはどうかと思う。
このシーンが良かった。ではなく、役者の演技について話し出すのだ。
原作ではキャラクターの表情まで描かれていないのに、あのセリフであの表情をするのが彼らの心境に合っていて好き。といったかんじだ。
ちなみに、そのシーンでキャラクターがどんな心境だったかは公式から発表されていない。
俳優の好きな物をキャラに持たせたり、俳優の着ていた服を着せたり、キャラの特技が俳優の特技になっていたり、俳優の発言を取り入れたり。
それが一度や二度ではない。俳優ありきでキャラクターを描かれるともやもやする。
しかも俳優同士のCPを創作しだす人までいた。中にはR18の作品も。
べつに舞台の話をするなと言うわけではない。舞台きっかけでハマるのも悪いことではない。私も全力で彼らを演じてくれた俳優の事は好きだ。
ただ、私は原作の二人が好きで活動をしているため原作の二人を見てどう感じたのかを知りたいだけなんだ。俳優の解釈を聞いているわけではないのに。
最初こそそういった発言をここまで気にすることはなかったが、それが積み重なるとさすがにストレスになる。
推しCPは前回の公演と今回の公演で演じている俳優が違うのだが、「別公演で見てたらハマらなかったと思う」と発言している人を見かけてしまった。
本当に俳優ありきなんだなと、俳優としてしか見ていないんだなと、なんとも言えない気持ちになった。
それから今日に至るまで、舞台からハマったことを公言している人たちが主催のアンソロジーが発行された。
案の定、各自あとがきのページには「舞台でハマりました!」「舞台のあのシーンが良かったです!」というコメントのオンパレード。むしろ主催たちがそんな状態だ。
中には俳優さんの名前を出している人もいた。主催は確認しなかったのか、それで良しと思ったのか分からないが、私の感覚だとアンソロでそれはあり得ない。
あとがきは一番最後のページに掲載されていた。せっかく良い話だったと余韻に浸っていても、あとがきで舞台を意識して描いたと言われたら冷めてしまう。
その二人じゃなくても成立するんじゃ?という内容の作品もあった。アンソロならもっとキャラクターに向き合ってほしいと思うのは贅沢なのだろうか。
読む人の中には舞台を観ていない人もいるかもしれない。実写化に否定的な人もいるかもしれないのに。そこまで気にするのは神経質なのだろうか。
舞台とは関係ないが、その人たちがこのCPが一緒にグッズ化されなかった事を烈火のごとく怒っているのもはっきり言って怖い。
いつだったかに販売されたグッズには、CPの内一人の姿しか無かった。
それを見た彼女たちは、なんでペアじゃないんだ!この会社の商品は二度と買わない!と大騒ぎしていたのである。
舞台のおかげでグッズになる頻度が上がっただけで、元々そのキャラクターのグッズが出ることの方が珍しいんだが。
あまりに荒れているので、購入したなんて言える雰囲気ではない。グッズ化、素直に嬉しかったのになぁ…。
舞台化、実写化する作品が増えた今、私と同じような経験をした人もいるかもしれない。
逆に、愚痴の対象となった相手の気持ちが分かるという人もいるかもしれない。
これは私の考えだが、舞台は原作に限りなく近い二次創作だと思っている。
俳優の解釈が合うかどうかで好きか嫌いか別れるのではないだろうか。
2.5作品全体に言えることだが、同じキャラクターを演じていても解釈まで丸っきり同じとは限らない。それぞれの俳優に合った表現もあると思う。
長々と愚痴を綴ったが、舞台を否定しているわけではない。このような発言をしている人たちを嫌っているだとか、憎んでいるというわけでもない。
素晴らしい作品を作られる方たちなのに何故…という気持ちからである。
しかし作品と作者は別物。要は好きなメディアの解釈違いなのだ。
同人も趣味の世界なので無理して仲良くしようとする必要もない。
少し距離感を考えながら付き合っていこうと思う。
読んでくれた人がいたらありがとう。
念のためにフェイクが入っているので、分かりにくかったらすいません。
何度でもすがりつくに決まっておろう
一度で終わりだと誰が決めた?いかにも愚昧で浅慮な考え方よ
ただ連載しているだけでジャンプも単行本も売れる金の成る木を何故みすみす手放す?
このまま続けておけば新しい柱として君臨しえたのだぞ?
それをお前らは何故あっさりと見逃す?
それをほんの少し変えれば良いだけではないか
鬼舞辻無惨はあと僅かの所で逃げ去り衰えつつも脅威を向ける
壊滅した鬼殺隊と柱は今度こそ逃すまいと特訓を積む
その中で新しい日輪刀なり新しく柱になったものなり新展開が描けるではないか
そして最後の最後、成長した鬼殺隊が協力し、ヒノカミ神楽でついに打ち倒す
さしたる手間ではあるまい
だというのに、何故その様な形をとらない?
何も漫画の話だけではない
既に手を出したアニメや番外編は勿論のこと
アプリやソシャゲのコラボ、ドラマCD、劇場版、果ては実写化の道もある
なのにそれらを向かえる用意もせず何故ただ一人生き急ごうとする?
今の展開で終わらせる覚悟があったとしよう
誰も傷つかず誰も死なない、ただ穏やかな時の流れる学園編を本誌でも書けば良いではないか
何故それすらせずに、話を畳もうとする?
己が能力を見出せず打ち切られてゆく者
そういったものとお前は違う、確かな才能があるのだぞ
引き延ばし、もがき、拘泥し、他紙に移籍してもなお打ち切りに抗うものが殆どだった
それを不意にして、全てを捨てるというのか
己の中の、仲間の持つ次なる希望に託すというのか
実におこがましい、その為に生命を投げ打つなど到底考えられない
それを叶えられたのは何故か?
何度でもすがりつくに決まっておろう
一度で終わりだと誰が決めた?いかにも愚昧で浅慮な考え方よ
ただ連載しているだけでジャンプも単行本も売れる金の成る木を何故みすみす手放す?
このまま続けておけば新しい柱として君臨しえたのだぞ?
それをお前らは何故あっさりと見逃す?
それをほんの少し変えれば良いだけではないか
鬼舞辻無惨はあと僅かの所で逃げ去り衰えつつも脅威を向ける
壊滅した鬼殺隊と柱は今度こそ逃すまいと特訓を積む
その中で新しい日輪刀なり新しく柱になったものなり新展開が描けるではないか
そして最後の最後、成長した鬼殺隊が協力し、ヒノカミ神楽でついに打ち倒す
さしたる手間ではあるまい
だというのに、何故その様な形をとらない?
何も漫画の話だけではない
既に手を出したアニメや番外編は勿論のこと
アプリやソシャゲのコラボ、ドラマCD、劇場版、果ては実写化の道もある
なのにそれらを向かえる用意もせず何故ただ一人生き急ごうとする?
今の展開で終わらせる覚悟があったとしよう
誰も傷つかず誰も死なない、ただ穏やかな時の流れる学園編を本誌でも書けば良いではないか
何故それすらせずに、話を畳もうとする?
己が能力を見出せず打ち切られてゆく者
そういったものとお前は違う、確かな才能があるのだぞ
引き延ばし、もがき、拘泥し、他紙に移籍してもなお打ち切りに抗うものが殆どだった
それを不意にして、全てを捨てるというのか
己の中の、仲間の持つ次なる希望に託すというのか
実におこがましい、その為に生命を投げ打つなど到底考えられない
それを叶えられたのは何故か?
ただ連載しているだけでジャンプも単行本も売れる金の成る木を何故みすみす手放す?
このまま続けておけば新しい柱として君臨しえたのだぞ?
それをお前らは何故あっさりと見逃す?
それをほんの少し変えれば良いだけではないか
鬼舞辻無惨はあと僅かの所で逃げ去り衰えつつも脅威を向ける
壊滅した鬼殺隊と柱は今度こそ逃すまいと特訓を積む
その中で新しい日輪刀なり新しく柱になったものなり新展開が描けるではないか
そして最後の最後、成長した鬼殺隊が協力し、ヒノカミ神楽でついに打ち倒す
さしたる手間ではあるまい
だというのに、何故その様な形をとらない?
何も漫画の話だけではない
既に手を出したアニメや番外編は勿論のこと
アプリやソシャゲのコラボ、ドラマCD、劇場版、果ては実写化の道もある
なのにそれらを向かえる用意もせず何故ただ一人生き急ごうとする?
今の展開で終わらせる覚悟があったとしよう
誰も傷つかず誰も死なない、ただ穏やかな時の流れる学園編を本誌でも書けば良いではないか
何故それすらせずに、話を畳もうとする?
己が能力を見出せず打ち切られてゆく者
そういったものとお前は違う、確かな才能があるのだぞ
引き延ばし、もがき、拘泥し、他紙に移籍してもなお打ち切りに抗うものが殆どだった
それを不意にして、全てを捨てるというのか
己の中の、仲間の持つ次なる希望に託すというのか
実におこがましい、その為に生命を投げ打つなど到底考えられない
それを叶えられたのは何故か?
ただ連載しているだけでジャンプも単行本も売れる金の成る木を何故みすみす手放す?
このまま続けておけば新しい柱として君臨しえたのだぞ?
それをお前らは何故あっさりと見逃す?
それをほんの少し変えれば良いだけではないか
鬼舞辻無惨はあと僅かの所で逃げ去り衰えつつも脅威を向ける
壊滅した鬼殺隊と柱は今度こそ逃すまいと特訓を積む
その中で新しい日輪刀なり新しく柱になったものなり新展開が描けるではないか
そして最後の最後、成長した鬼殺隊が協力し、ヒノカミ神楽でついに打ち倒す
さしたる手間ではあるまい
だというのに、何故その様な形をとらない?
何も漫画の話だけではない
既に手を出したアニメや番外編は勿論のこと
アプリやソシャゲのコラボ、ドラマCD、劇場版、果ては実写化の道もある
なのにそれらを向かえる用意もせず何故ただ一人生き急ごうとする?
今の展開で終わらせる覚悟があったとしよう
誰も傷つかず誰も死なない、ただ穏やかな時の流れる学園編を本誌でも書けば良いではないか
何故それすらせずに、話を畳もうとする?
己が能力を見出せず打ち切られてゆく者
そういったものとお前は違う、確かな才能があるのだぞ
引き延ばし、もがき、拘泥し、他紙に移籍してもなお打ち切りに抗うものが殆どだった
それを不意にして、全てを捨てるというのか
己の中の、仲間の持つ次なる希望に託すというのか
実におこがましい、その為に生命を投げ打つなど到底考えられない
それを叶えられたのは何故か?
「商品券」をお肉やお魚だけでなく、林業や農林水産品に広げて検討していく方針だそうです。何でこんなに商品券にこだわるんでしょうか。後々、今の状況をハリウッドで実写化したら良いコメディ映画になりそうですね。 https://t.co/epHlfUFavw— 須藤元気 (@genki_sudo) 2020年3月27日
ばら撒くならばまだユキチケ撒いて、そこから消費税廃止したらどう?
この問題だけは米国や英国見ていたら出羽守にならざる得ないよねw
向こうも一律で撒いているのは区分けしている時間すら惜しいからなのに。
そろそろ日本でも議員なりが感染しそうな段階にきてそうだよね。
しかし元大蔵省の自称経済学者やらが大恐慌はこないだとか麻生みたいにバラマキや減税は意味がないとか残念な事を言っていた件と言い、日本って経済に携わっている人間が致命的なまでに空気読めていないのは事実だよね。