はてなキーワード: 闇市とは
近所の繁華街の隅っこに、闇市の趣を残すバラック商店街がある。
そのアングラな雰囲気が廃墟と歴史感があって割と好きで、目的地へ少し遠回りになっても通り道にすることがあったのだが、ある日気付いた。
トタンのような素材で囲った壁にぺたぺたと秩序なく貼り付けられているポスターが、全て立憲民主党と共産党なのだ。
自分が観光や歴史探訪気分で歩いているこの真っ暗な商店街には、当たり前だが日々生活を送る人が住んでいて、暮らしているわけだ。
そんな人達はきっと裕福の逆のところに住んでいて、自分の不幸を嘆き、何かに怒りをぶつけてやっと生活を維持しているのだ。
そんな時、思いの代弁者として出てくるのが、立憲民主党や共産党なのだ。
きっと彼らには、将来の日本がどうとか、未来がどうとかは関係なくて、ただただこんな状況におちいったのは、政府であり自民党のせいで、だから叩くのは当たり前、と考えているんだろう。
ただ批判するだけでなくより良い提案を考えようとしている国民民主党より、自民党をひたすら叩くことが目的な立憲民主党の方が支持率が高い理由はここにあるんだろう。
ふと気になって、Twitterを開いてみた。日経やその他のニュース記事につく非難のコメント。句点句読点を知らない、てにをはを正しく使えない、社会的弱者と思われる彼らのコメント。
ツイートを遡ると、今の自民党政権をばちばちと叩いている彼らは、2009年から数年のその時には、しっかり民主党を叩いていた。
彼らの目的は「怒る」なのだから、きちんと話し合おうとしても無駄なのだ。
コロナウイルス=アメリカ。相手が無尽蔵の生産力を誇るとかまったく考えずに、いま戦端を開かないと 日本の生命線が失われてしまう!とばかりに。
マスコミは煽りに煽って、国民はそれに踊らされて、とにかく戦わなきゃだめだ!と政府を突き上げ非常事態へ突き進む。
国民には「欲しがりません勝つまでは」と耐乏を強いて。
経済冷え込ませて耐乏して ウイルスの蔓延が止まったとしても、それはまだ勝ったわけじゃないんだよね。
一時的に収まってるだけで、みんな外に出てきたら また増殖は始まる。
根治させてるわけじゃなくて、遅滞させてるだけなんだから。
いつまで戦いは続くんでしょうね。
山本五十六さんが構想してたように 短期決戦でカタがつけばいいんだけど。
”クスリの開発”がいつになるのか
下手したら2年3年続くかも・・・。夏になっていったん収まっても 来冬にまた再発するだろうし。
仮に コロナによる直接的な死者を1万人救うかもしれないけど、代わりに 死んだ方がましという人々を100万人生み出す作戦に思える。
戦時経済は 戦争中は景気は持つんだけど、だいたい戦後に反動が来るんだよね。
太平洋戦争時も、戦時中は配給とかちゃんと機能してたんだけど 戦争末期~戦後は制度崩壊して闇市スラムが立ち並ぶ暗黒期が到来した。
あんときは朝鮮戦争特需があったけど、今回もそういう特需に乗れるかな?
何が正しいのかはわからないけど、
少なくともまともな報道ではない ワイドショーとかニュースショーに踊らされてる世論 及び 首相官邸 に自分の命運が託されてる状況がすごく嫌だ。
多分親戚縁者の中には戦争に行って亡くなった人、
空襲で亡くなった人、
成人するまでに病気なりなんなりで亡くなった人がいる。
小学校は新制かな。
教師は戦時中に教育を受け軍国主義を叩き込まれてたのに戦争が終わってGHQによってそれまでの価値観すべてを否定された人たち。
もう教育勅語は教えてはならん。
但しせっかく教育した子どもたちを戦争に送り出さないと非国民扱いされる恐れがなくなりホッとはしてるのかもしれない。
そんな人たちに教育される。
家に帰ったら食べ物はない。
焼け野原などに勝手に作った畑で家族総出で作った野菜と闇市で着物と交換してきたお米ばかり食べて成長する。
遊びといったらお金持ちの家ならおもちゃも多少あっただろうけれど、
兄弟にも食べ物を分け与えなくちゃならないからいつでもひもじい思いをしている。
ただそこらに落ちている不発弾を小さくて何もわからないから触ってしまって死んでしまう近所の子はいたかもしれない。
とにかく国には何もない。
外貨がない。
海外旅行は許可されていないどころか、明日生きていくためのお金もない。
ただ活気はあるし人でも足りないから、戦争を生き残れた壮健な父親の働き口ならいくらでもある。
父親が戦争から帰ってこなかった家ならお母さんは働き口に困ったかもしれない。
それでもなんとか仕事を選ぶことはできないけれどそれでもやっとこさ見つけた仕事をこなして帰ってくる。
父親の場合は仕事の後は軍隊式の上下関係が残っているから飲み会に誘われたら飲めなくても参加しないわけにはいかない。
そんな家族に育てられるので、ちゃんとした家庭教育なんて受けられない。
近所のお兄ちゃんお姉ちゃんたちにずっとかまってもらったりして日が暮れるまで外で遊ぶ。
生き残ったお年寄りが親代わりなこともある。
新制中学に通うことになる。
多分義務教育が長くなったことで家族からごちゃごちゃ言われてる。
その高額な費用はどこから出すんだって話でまた親から嫌な顔をされる。
もしかしたら近所の人やお兄ちゃんからのお下がりで我慢させられたかもしれない。
世は高度経済成長。
中卒でもなんとか頑張れば給料がもらえる。
よほど気に入らないのでなければ所帯を持った。
所帯を持ってしばらくすればなんとか関係も安定させられる。
子供も戦争で人口が減ったのだから増やさないといけないから嫌でも作る。
子供には自分が経験できなかったことをすべてやらせてやりたいので、
塾も行きたがるだけ行かせてやる。
自分が本当はやりたかったことだというのは言いたいけれど言えやしない。
そのうちに子供が反発し始める。
自分が反抗期の頃はもう就職していたから自由に物を言うのもわかるが、
お前はまだ親のすねをかじっているのに何を言うのか?
(おしん並感)
せっせと働いて大学まで出してやる。
同僚は定年までに成人病で何人か死んだ。
もののない時代に食べられなかったものを食べすぎたといえばそうだが、
企業戦士として働き詰めでようやく楽ができるようになるというのに、
定年前に死んじまうとはな…
俺もあと何年生きられるのかわからんが、
せっかく平和な世の中になったのだし、
生きられる限りは頑張りたいものだ。
部下の首を切れというのか…
みんな真面目に働いてきた奴らだぞ…
なんで首を切らねばならんのだ…
労組は何をしているんだ!
孫は可愛い…
もう二度と戦争なんて嫌だ…
ん?なんだ?
『老害』とは何のことだ?
俺たちのことを言うのか…!
平和で勉強も自由にできて欲しいものも買える世の中に生きているのに、
まだ足りないというのか!
時代が変わったというが、
誰が変えてきたというんだ!
今は若くて何でもできるだろうが、
人生は短い、
お前だっていつか年を取るんだぞ!
年を取れるんだぞ!
そこまで生きていたくてもできなかった者たちのことも考えたことがないのか!
今どきの若者は何を考えているんだ!
以上戦中派の親から聞いたことなどをもとに想像した仮想の80歳の男性の人生ですが、
世代ごとに苦労する内容が変わるだけで、
まあ誰だって余裕がないときにはそこまで考えられないでしょうけれどね。
また自分の考えも伝えられたら、
という思いをほんの少し持てたら素敵だとは思います。
煽りでも何でもないので教えて欲しい。
「反社会的勢力は時代とともに移り変わる」←これ正論じゃない?戦後間もない頃は今でいう反社会的勢力が闇市を立ち上げて、国民に物資が行き渡るようにしたわけでしょ?その時代は少なくとも反社会的勢力ではないわけだよね?
もっといえば江戸時代に「切り捨て御免」とかやってた物騒な連中だって、当時は反社会的勢力どころか士農工商でいえばハイエストソサエティに位置していたわけでしょ?
それを追認するだけの閣議決定がなぜここまで叩かれるのか、さっぱり意味不明。
それに、ウチの会社でも契約書に暴排条項を入れているけど、あれだって一義的に決めてしまうと、必ず抜け道をついてくる勢力がいるはず。そうすると、無理にフィックスするよりは、フレキシブルに運用するほうが良いともいえる。この意味でも、閣議決定は理にかなっている。
それがなぜ叩かれるのか。安倍憎しの感情論で突っ走っているだけのように思えて仕方がない。
反安倍は一度冷静になったほうが良い。
家系図を作ってみようと思いちょっと戸籍取り寄せてみた増田である
大した話ではないのだが嫁には言えないので増田にかきちらす
出身地が解放同盟の支部があるところで30歳になるまで知らなかった、調べなければ一生気がつかなかった
今は都内に一軒家があって、俺も妹も大学出てるし、母親も短大出てる
つまり金は普通にある中流階級で差別階級だと思ったことがなかった
俺は無事に結婚もできたし、妹も結婚できていて、まあ父親がちゃんと家にいるので、母親も普通に結婚できたんだろう
部落出身という意味では、母方の父親が部落の生まれで、そこからどうやったのか養子縁組で戸籍ロンダリングして別名字になったようで
今に至っているようだ、いや確かに考えてみればじーさんとばーさんの話聞いた時、戦後の闇市でヘップ売ってたみたいな事言ってたからそれで勘のいいやつなら気がつくんだろう
俺はネットに触れなければ同和問題そのものを知らなかったので仮に調べたとしても一生その地域が同和地区であるなんてことに思い至る事すらなかったと思う
現状差別らしい差別を受けた記憶は無いし多分これからも無いと思うが、単純に驚いたので
まあ増田に書き散らして忘れることにしよう。
最初に言っておきたいのは、これから語るすべてのことはつくりばなしであるということ。人間が泣いたり笑ったりするのに、それが本当のことかどうかなんて関係がないと思うんだ。
おばあちゃんは常々「死んだらすべて終わり。生きているものが大事。」と言っていた。空襲で死んだ友達の最期の言葉が「お前の人生を大事にしろ」だったからだという。死んだ友達のぶんまで生きようと戦後を必死に生きてきた。
それが認知症になったら「私は天国にいるけれど死んでいない」と言い始めた。正直、何を言っているのか分からなかった。わけのわからないことを言うようになったおばあちゃんに苛立つこともたくさんあった。ご飯にしましょうと言ってウンコを食べ始めたこともあった。
ある日、おばあちゃんは荻窪に行きたいと言った。荻窪のどこに行きたいかと聞くとアメ横だという。おばあちゃんそれは荻窪じゃなくて上野でしょうというと「ああ、そうかい」と言ったので上野に連れていった。上野は思い出の場所だと常々言っていた。
ところが、上野駅に着いて駅舎を見せると狂ったように「浮浪児がいる、浮浪児がいる」と叫び始めた。それは単に戦争の嫌な体験を思い出したというより、目の前に本当に浮浪児がいるような振る舞い方だった。おばあちゃんは幻覚を見ているのだろうかと思った。
かつておばあちゃんは闇市の話なども楽しげに語ってくれていた。それらも若い頃の思い出として語るぶんには楽しかっただけで、そのときには物凄く不愉快なことだったのではないかと思った。
私には本当のおばあちゃんがどんな姿をしていたのか分からなくなってしまったけれど、おばあちゃんと一緒に遊んだときの写真は大切にとってある。
太平洋戦争の最中、じいさんは広島県の呉にいた。海軍のパイロット養成校(予科練と言っていた)に所属していたじいさんは、パイロットではなく整備工になるために入ったらしい。
呉は今では見る影もないが、当時は軍港としてかなり栄えていた。有名な大和と武蔵もその目で見たらしい。建造していることは内緒だったが、あんなでかいんはバレバレじゃ、と笑っていた。武蔵は山口の沖ですぐ沈んでのう、と目を細めながら言っていた。何人か、同期も武蔵と一緒に沈んだとも。
整備工になるために予科練に入ったじいさんだが、残念ながらじいさんが最高学年に上がる頃には戦況は悪化していて、訓練機すら飛ばせない状況だったらしい。
じいさんはその頃から毎日毎日、軍事工場で飛行機を作っていた。
元々、機械弄りは好きだったじいさんは飛行機を作るのは楽しかったらしく、メキメキと腕をあげたようだ。あまり戦争のことは話したがらない人だったが、海軍の飛行機がいかに苦心されて作られていたかは楽しそうに喋っていた。
戦争に負けるな、とは何となく感じていたが、上官が怖かったし、そんなことを口に出せる空気ではないころ、呉にアメリカの飛行機が不時着してきた。
勉強がてら、じいさんは同期と連れだってアメリカの飛行機(グラマンといっていた)を見学に行った。
そこでじいさんは「あぁ、この戦争は負ける。」と確信したそうだ。
「わしらはな、飛行機を手でネジを締めて作る。アメサンのはどうじゃ。リベットうちじゃ。ダダダダダ、と作るわけじゃ。作る数がそもそも違う。こんな戦争、勝てるわけがない。」
グラマンがそもそも内地まで飛んで来とる。本土決戦で、みな死ぬ。
それが、17歳のじいさんの太平洋戦争に対する結論だった。死にたくはないが、死ぬしかない。
昭和20年8月6日、じいさんは工場でいつも通り、朝の体操をしていた。突如として、工場のガラスが、ビリビリ、と音をたてて鳴った。なんだなんだ、と外に出ると、有名なキノコ雲が広島の街のほうにあがっていた。
原爆だ。
じいさんの生死を分けたのは、宇品の工場に配属されなかったことだ。宇品に配属されていた同期は救出隊として投下直後の市内に入り、黒い雨を浴びてその後の10年でバタバタと死んだらしい。
運の悪い事にたまたま休暇で広島の市内に戻ってしまった同期は、大火傷を負って呉に帰ってきた。1ヶ月もしないうちに亡くなったそうだ。
そうして、知り合いや同期が死んでいく混乱のうちに、戦争は呆気なく終わった。
じいさん達の基地には進駐軍がやって来てキャンプをはったので、仕事もないじいさん達はキャンプに忍び込んでは物資をかっぱらい、闇市でさばいていたらしい。「あそこは元々わしらの基地じゃしのう。」とあまり悪びれずに言っていた。
実家に帰ってこないじいさんをひい祖父さんが連れ戻すまで、そうやって生計をたてていたらしい。
戦後、予科練は学校としては認められず、じいさんは小卒の学歴になってしまい、ずいぶんと苦労したらしい。職を転々としながら、職業訓練校に通って資格を手にし、最終的には水道工として定年まで勤めあげた。
飛行機を作っていた頃の経験が生きたのかは分からないが、子どもの頃のじいさんは自転車や草刈り機の発動機やら、何でも直せる人だった。
じいさんは戦争によって勉強することも出来ず、学歴も手にすることが出来ず、戦争を恨んでいたのだろう。戦争の話はしたがらず、呉には生涯、足を運ばなかった。
本当は、京都大学で物理学を勉強したかったじいさんは、自分の学歴の無さを生涯恥じながら、87歳でこの世を去った。
苦労しながら水道工として定年まで勤めあげ、身の回りのものは何でも修理できたじいさんは、恥ずべき事なく、立派な人生を歩んだと思う。
「この世界の片隅に」のドラマ版が今週日曜最終回を迎えた。自分にとっては呉旅行に行く前日に見てドハマリし道すがら原作コミックも買い、舞台となった街を散策できた思い出深い作品だった。
映画版では尺の都合から削除せざるを得なかったリンさんとの物語もしっかり描かれ、さらに原作であまり描写されなかった近所の人々にもしっかり焦点が当てられ、よりボリュームのある物語に仕上がっていたと思う
各話も緩急を付けて見どころを設けすずさんと周作さん、二人の関係性も深く描くことに成功していた
アイスクリームのシーンは二人の仲睦まじさが伝わり絆が深まる姿を丁寧に描いていて「砂糖の配給が停止になって、闇市で配給の50倍の金額で取引されてる時期にアイス食うのはいくらなんでも不自然すぎる」という違和感もまぁ気にならないレベルに収まっていたと思う
いままで現代編については否定的な意見もあったが、最終的には今現在そこにいるすずさんを描く形に集約し映画とは違った余韻のある良い最終回を迎えたと思う
途中どうしても見ることができなかった回はあったが
概ねドラマとして大成功の部類だろう。ネットでの評判も上々でツイッタで感想を検索しても「泣いた!」「感動して目が腫れ上がった」「ラストにはほっこりした」と大絶賛だ
実に素晴らしい作品になったと思う
…これが「この世界の片隅に」でなければ
実のところ第一話が始まってから猛烈な違和感を感じてこれは本当に「この世界の片隅に」なのか疑うくらいだった
最初の違和感は兄洋一の出兵が決まったシーンでの家族のやり取りで母親であるキセノが涙を流したことだった、ここで泣くのは「この世界の片隅に」としては違和感があった
それ以降でも北條家へ嫁ぐことが決まった前日に不安を母親に漏らし泣き始めるすず
2話以降でも、広島産業奨励会館前で周作が子供の頃ばけもんに誘拐されたとき一緒にいた少年だったことに気がついてすずは涙を流し
それ以降も母親との別れを告げるすずの甥に当たる久夫が帰り道涙を流し、洋一の戦死の報を受けて石一つしか入ってない骨壷を抱きかかえて母親が号泣し
毎話毎話何かにつけて涙を流していた
自分にはこれが猛烈に違和感に移り最終話前の話まで見るのを止めてしまった
原作で涙を流したシーンはギャグとしてオチに使った空襲で義父円太郎がすずさんと晴美さんを庇ってそのまま寝てしまった回を除けば
晴美さんが亡くなった時限爆弾の回と終戦のときだけでそれは意図的にそうしているのだ
戦中においては、自分たちが正しいことをやってるからこそ理不尽な暴力には屈しないって共通した考えがあったからこそ人前で泣くことはせず(時代的に人前で泣くと反戦を疑われてしまうって事情もあった)
その日常を支えていた信念が飛び去ってしまい、自分たちの耐えてきた日々が誰かを犠牲にした上に成り立っていたことに気がついてしまったからそこで涙を流し
戦後は居なくなっていった人たち会えない人のために自分が笑顔の入れ物になりたい、なによりも泣いたら勿体無いという気持ちから泣くことを止めるのだ
それは作中物交で漁村に向かう帰りの道すがら刈谷さんと話す中で
「生きとろうが死んどろうが もう会えん人が居って ものがあって うちしか持っとらんそれの記憶がある
「晴美さんとは一緒に笑った記憶しかない じゃけえ笑うたびに思い出します」
という会話でも明らかで
辛い時代の中戦中耐えてきた理由、それが飛び去った後また泣くのを止めた理由
そこは物語を描く上でいちばん重要なポイントで原作を読んだ人や映画を見た人なら違えることはない
翻ってドラマ版だ
ドラマは泣く、事あるごとに泣く、誰もが皆辛い時には涙を流す
ドラマで泣いて泣いて泣く理由が一般視聴者向けにわかりやすい表現にしたから、とか実写にするにあたって原作や映画の通りだと不自然に見えるからという改変なら良かった
脚本担当が原作をあまり理解していなくて、分かりやすいドラマに組み直した結果だったのなら許せたかもしれない
脚本家は原作の内容を理解してそのテーマもわかった上でそれに対してダメ出しして改変したのだ
「泣いてええよ、我慢せんでええ、ここはあんたの家なんじゃけえ、我慢したらおかしくなるよ」
ここで理解った
脚本家はテーマを違えてたわけでも、分かりやすい安易な改変をしたわけでもない
テーマについて理解したうえでそのテーマに、「この世界の片隅に」が「この世界の片隅に」である根幹にノーを叩きつけてるのだ
はっきり言えば脚本家は「この世界の片隅に」が嫌いだったのでは無いかとさえ思う、少なくとも作品の重要なファクターの一つについて否定的だったのは間違いないだろう
結果的に見ればドラマは大成功の部類で多くの人の心に残る名作となった
でもこれは「この世界の片隅に」ではないし、「この世界の片隅に」を否定する物語だ
もちろんそれが必ずしも悪いわけではないし原作が好きな人にもドラマ版に満足してる人もいるだろう
ひょっとしたら原作が嫌いだったからドラマ版の改変でようやく自分の求めてるものが出てきたって人もいる
少なくとも真逆のことをやって多くの人の心をうった名作を作った脚本家の実力は極めて高い