はてなキーワード: 腫瘍とは
このたびの東日本大震災で、東北から関東の一部まで大被害を受けましたが、我が社も陸前高田の坂井宏所長御夫妻とそのご子息および、各店の所長の御家族五人、YCスタッフ一〇人がお亡くなりになりました。深く哀悼の意をささげます。また、YC店舗は全壊六戸、半壊・一部損壊一七戸という被害を受けました。
今回の震災の被害対策については、政府の対応は誠に非能率で憤慨するところ大でありますが、グループ本社及び傘下各本社は、宮本副社長販売担当のもと、労力的にも、資金的にも迅速に対応し、その報告を聞いていささか心を癒されました。今後とも被災地YCの復興に全力をあげるつもりであります。また政府の被災地全体にわたる救済、復興の不手際については、紙面で厳しく批判し、督促してまいります。
さて、震災後の五月二十六日に、読売新聞が週刊新潮の無責任なデマについて提訴した名誉毀損訴訟に対して賠償金の支払いを命ずる判決が出て、全面勝訴しました。
この新潮報道では、二〇〇九年六月十一日号で、「新聞業界最大のタブー"押し紙を斬る"」というタイトルで、「読売18%、朝日34%、毎日57%が配られずに捨てられていた」と断定しております。判決では「読売新聞においては"押し紙"が存在すると推察することもできない」として、新潮報道が全面否定されました。
新聞が二割、三割、五割以上もの紙を配らずに捨てるというような不合理な無駄をしていれば、用紙代、印刷代、輸送費及び人件費の消耗で直ちに倒産しているでしょう。
過去十年間の読売新聞の決算報告をもとに数字を申し上げれば、この十年不況で日本経済が停滞し、また新聞外のメディア、特に電子メディアの普及等もあり、販売部数が減少したことは事実であります。
しかし、二〇〇二年三月期と、二〇一一年三月期の十年間の読売新聞の収支を申し上げると、販売収入は二六四九億円から96.61%の二五六〇億円に減少、その落ち込み幅は3.39%に過ぎません。その間のABC部数は一〇一五・二万部から98.74%の一〇〇二・四万部に減少、落ち込み幅は十年不況の中で僅か1.26%であります。
それに対し、景気を最も敏感に反映する広告収入は、一五〇六・九億円から53.16%の八〇一・二億円に減少、落ち込み幅は46.84%にも達します。
それにもかかわらず、黒字経営を続けているのは資材、人件費の節減や、製造工程の近代化、合理化による節減と保有株の配当収入、不動産賃貸収入の安定もありますが、最大の原因は販売収入の減少が極めて僅かだったからであります。
週刊新潮の言うように、印刷した新聞の18%も捨てていれば、このような安定した販売収入はあり得ません。
大きく言って、読売新聞の収入構造は、販売6、広告2、不動産賃貸収入、配当収入、巨人軍等の事業収入2の割合です。そのうち二割を占める広告収入が十年不況で半減したのに、堂々たる黒字経営を続けていられるのは、ここにおられるYC所長の皆さまの日常の努力による販売収入の安定でありまして、皆さまの献身的な愛社精神と堅実な経営努力に心から感謝申し上げます。
ちなみに、最近倒産の多発している米国の新聞の広告収入依存度は、七割から八割であり、これは宅配制度の不備によるものです。
さて、原発問題と今後の日本と世界経済の問題について若干言及致します。
現在稼働中の原発もいずれ点検による稼働中止になり、このままでは来年には、日本の全原発が稼働停止になります。もし、日本の電力の29%をまかなってきた原発が動かなくなれば、日本の産業生産は縮小し、かなりの企業が倒産し、失業者が増大し、税収は減り、国家財政は破綻する恐れがあります。
菅首相は、現在9%の再生可能エネルギーを20%とか25%に増大するという夢を語っていますが、彼の言う再生可能エネルギーのうち8%は水力発電です。これを増強しようとすれば、民主党政権の言ってきた「コンクリートから人へ」を逆転させ、ダムを建設しなければなりませんが、それには五年、十年かかるし、また日本にはその適地もなく、コストは巨大になります。
菅首相の言う太陽光、風力発電は、現在全発電量の0.5%くらいで、日本の地理上、適地が少なく、風力発電は海上に巨大な浮体を作って乗せるほかなく、それも巨額な出費をもたらします。
太陽光発電は、理想としては良いのですが、実際に広大なパネルを作ろうとすれば、それも巨費を要し、一朝一夕にできるものではありません。
そうなれば、今問題になっている玄海原発のように、政府が安全を保証する点検済みの原発を再稼働させていく以外には、日本の経済、財政、産業、国民所得を維持する道はありません。
私が枝野官房長官をはじめ、関係政府要人や専門学者達に聞いたところによると、福島第一原発の事故は、地震によるものではなく、大津波によるものだということです。
つまり、地震による揺れで原子炉が破壊されたのではなく、大津波によって原子炉の冷却装置を稼働させる電源と冷却装置をつなぐ配電管が破壊され、冷却装置が止まってしまったこと、また海水を汲み上げるパイプ、そのための発動機の損傷もありました。
海面上一〇メートルの所に作られた第一原発は壊れましたが、一五メートルの高台に作られた女川原発は、津波による被害がなかったので、今すぐにでも稼働できるのです。日本海側、瀬戸内海側の原発は、二〇メートルの津波をかぶる心配はありません。静岡県の浜岡原発も、完全な防潮施設を作れば安全になるでしょう。福島第一では電源を地下に設置してありましたが、浜岡では建屋の屋上に設置してあります。
福島第一の事故で、たくさんの人災的原因が明らかになりました。この経験と知識と高度な日本の技術をもってすれば、耐震性は証明されている日本の原発に対し、さらにどんな津波が来ても、外部電源とつながる炉の冷却装置を損傷しないような防御装置を構築することは可能でしょう。震災後四カ月たっても、こういう措置を稼働中止中の原発に対して取ってこなかった政府は、一体何を考えていたのでしょうか。
ドイツが原発を中止したといっても、ドイツはフランスの原発から電力を輸入しているからできることです。
過剰な原発アレルギーで、日本の電力の三割を止め、節電とか自粛とかを連呼しているのみでは、日本はいずれ産業国家として世界三等国に転落し、貧困や失業に悩まされるのではないでしょうか。
読売新聞社は、この不況の中で、大手町の一等地に三三階の新社屋を建設します。首都直下型地震が来ても安全な耐震性、非常の時の自家発電や、交通途絶対策としての非常食の備蓄等、完壁なビルを無借金で建てます。
私が社長に就任した二年後、借入金はピークで一六四一億円余ありました。社長就任以降今まで五六五四億円設備投資しましたが、現在すでに返済し、数百億円の預金があります。つまり、二十年前に千数百億円借金をしなければ、新規設備投資ができなかったのです。しかし今、大手町に最新の建設技術の全てを取り入れた高層ビルを建てるのに、新たな借金は必要ありません。
現在の我が社の基本的な経営体力は、皆さんの努力による安定した販売力、YCの店力、全従業員の愛社精神が基軸であります。
さらに、読売新聞の主張する税制改革案を含む財政、経済、社会保障、産業政策等が、ポスト菅の内閣によって実現されれば、不況も解消し、広告収入の低落にストップがかかり、増収になり、その成果を皆さんとともに享受できるようになるでしょう。
次に今回の読売グループの人事異動について説明します。すでに新聞等に細かく報道されているので、重点について述べます。
内山前社長は昨年春、令夫人が大きな手術をして以来、術後が思わしくなく、そのショックで本人もいささか精神不安定になり、特に3・11の地震後の社務にはほとんどたずさわらないという状態になり、私宛に、夫人の看護に専念したいとの辞表が提出されました。
内山君は私の永年の忠誠な部下であり、私には万感こもごも至る思いもありましたが、新聞社として緊急非常の事態の中、その辞表を認めました。
老川東京本社社長は定年に達していたので、グループ本社の最高顧問としてグループ全体について指導してもらうこととしました。
私は依然、事実上の最高経営責任者として残りますが、八十五歳という高齢を考え、実務は白石興二郎君に、グループ・東京本社の代表取締役社長を任せることにしました。白石君は、編集局長、論説委員長、メディア戦略局長、社長室長等を歴任、社務の全般に通じており、最適任と思います。また、政策理論家として社外でも評価されている早川準一君にグループ本社の副社長兼副主筆として私を補佐してもらいます。
販売担当の宮本友丘君は東京本社副社長に昇格、私の直轄下で、東西の販売政策を指揮してもらいます。
内山君の病気のこともあるので、八十五歳という最高齢で、事実上の最高経営責任者である私の健康状態について報告しておきます。
今月、慈恵医大病院で、世界的な血管外科の大家として知られる大木隆生先生に、全身の内臓検査をしてもらいました。その検査結果の一部を読みます。
これは大木教授より読売診療所の近藤所長にあてられた報告書です。
「渡辺さんは、息切れなどの症状もなく、極めて健脚です。血液検査については、γ-GTが少々上っている以外、異常はありません。肝機能は極めて正常です。
次に、心電図と脈波検査を行いました。血圧は正常、閉塞性動脈硬化症がなく、脚の血流が良好です。
CT検査の結果、まず脳に関し驚くべきことに脳の萎縮が全く進行しておらず、頭がさえていることが見てとれます。脳動脈瘤、甲状腺、嚢胞や腫瘍もありません。心臓も肥大や大動脈弁石灰化もなく、極めて若々しい状態にあり、六十歳代くらいの若々しさと言えます。肺にはがん、腫瘍も認められません。極めて健康的な肺です。膵臓が唯一の所見のある部位で、萎縮があり、前糖尿病と言えます。腹腔動脈、上腸間膜動脈、および左右の腎動脈に狭窄はありません。
腰椎に高度の変形を認めます。腹部大動脈、腸骨動脈に動脈瘤や狭窄病変などはありません。膀胱に異常はありません。現時点で治療を行う必要はないと思われます。
内臓脂肪が多く、膵臓が萎縮していますので、一層のカロリー制限と定期的な運動を続けられることは膵臓のみならず、高血圧、痛みのある膝関節にとっても良いことです。
最も素晴らしいことは、八十五歳と高齢であるにも関わらず、脳に萎縮が全く見られないことです。人間にとって肝心な脳、心臓、腎臓、肝臓が全て六十歳代と思えるほどの若々しさです。
東京慈恵医科大学外科学教授血管外科 大木隆生 読売診療所 近藤和興先生御侍史」
以上が目下の私の健康状態なので、新社屋の完成する年、つまり米寿までは持ちこたえるでしょう。この世には小生が早く往生することを願っている人も少なくないようですが、その人達は失望されても仕方のないことです。
最後に、ポスト菅の首相が誰になるかを予想することは、巨人の勝敗の予測よりも困難であることを告白してごあいさつと致します。
一応言っておくけど、平熱が低い人は基礎代謝が低いので太りやすいよ。
そういう「太りやすい体質」というのは存在する。
平熱が低いって言うか要するに筋肉が少ない奴ね。
そりゃ各人1日の消費カロリーはちげーよ。
そしてそんなん全部含めても同体格でまー200kcalほども差は出ないね。
くだらねー反論するな。
それよりほんっとーに極たまに
これだけは、摂取カロリーがBMI増やすほうにばっかり使われてて
摂取カロリーに比してもガンガン太るし、慢性的にだるくなってたりする。
こういう人達だけだよ「体質として肥満」とか言っていいのはね。
世にいっぱい居る
「食べてないのに太る」とか
「いくら食べても太らない」とかの99%は
何の不思議もなく太ったり痩せたりしてるだけ。
「太りやすい」とか庇ってやる必要ないよ、って話だよ。
もうたくさんの人に訳されてるけど,じぶんにはあまりしっくりこないのでまた訳してみた。
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今日世界最高の大学のひとつでみなさんの卒業式に同席できることを名誉に思う。本当のことをいえば,私は大学を卒業したことがない。これが大学の卒業式にもっとも近づいた瞬間だ。今日,私の人生から三つの話をしたい。それだけだ。大したことはない。たったの三つだ。
最初の話は点を結ぶことだ。
私はリードカレッジを最初の6ヶ月で退学した。でも本当に辞めるまでさらに18ヶ月かそこらモグリとして出入りしていた。じゃあなぜ退学したんだ?
話は私が生まれる前に遡る。私の生物学的な母は若い未婚の大学院生で,彼女は私を養子に出すことに決めた。彼女はどうしても大学卒に養子に出したいと考えていたので,誕生と同時に弁護士夫妻に受け入れられるようすべて準備済みだった。でも私が生まれて,土壇場になって彼らは本当は女の子が欲しいと決めた。それで順番待ちリストの次にいた私の両親に夜中に電話がかかってきた。「予想外の男の子だったんです。欲しいですか?」「もちろんです」生物学的な母はあとで,母が大学も出てなくて父が高校も出てないことを知った。彼女は最終合意書に署名するのを拒んだ。数カ月後に私の両親がいつか私を大学にやると約束して彼女はやっと態度を変えた。これが私の人生の始まりだ。
17年後私はたしかに大学に行った。だが私は世間知らずにもスタンフォード並に高価な大学を選択し,労働階級の両親の蓄えは全て学費に費やされていた。6ヶ月経って,私はその価値が感じられなかった。これからの人生で何をしたいのかわからなかったし,大学がすべきことを発見する助けになるとは思えなかった。なのに私はここで両親がこれまで貯めた金をすべて使おうとしている。だから私は退学して,みんなきっとうまくいくって信じることにした。あの時はとても怖かったけど,振り返ってみればあれが私のこれまでで最良の決断だった。退学した瞬間,もう興味の持てない必須科目を取らなくてよくなったし,ずっと面白そうなクラスに入り込むことができるようになった。
ちっともロマンティックじゃなかった。寮に部屋もなかったから友達の部屋の床で寝た。コーラの瓶を返却してもらった5セントで食料を買った。日曜の夜には街の向こうまで7マイル歩いてハレークリシュナ教の寺院で週に一度のまともなご飯を食べた。最高に楽しかった。そして興味と本能に従って迷い込んだいろんなものが後に大きな意味を持つことになった。一つ例をあげよう。
リードカレッジは当時国内最高のカリグラフィー講座を持っていた。キャンパスのあらゆるポスター,引き出しのラベル,みんな美しい手書きカリグラフィーだった。退学して普通のクラスを取らなくてよくなったので,カリグラフィー講座に参加してやり方を学ぶことにした。セリフ書体,サンセリフ書体,文字の組み合わせで変化する文字間のスペースの量,すばらしいタイポグラフィがどうしてすばらしいのかを学んだ。カリグラフィーは美しく,歴史的で,科学では捉えられない繊細な芸術だ。そしてそれを私は面白いと思った。
これらの何一つ人生で現実的に役立つ見込みなんてなかった。でも10年後,みんなで最初のMacintoshを設計してる時に全部思い出したんだ。そして私たちはそれをみんなMacに詰め込んだ。Macは美しいタイポグラフィを備えた最初のコンピュータだった。私が大学のあのコースに潜りこまなければ,Macが複数の書体とプロポーショナルフォントを備えることは絶対になかった。そしてWindowsはただMacをコピーしたので,おそらくパーソナルコンピュータは今日のようなすばらしいタイポグラフィを備えることがなかっただろう。もし退学していなければ,絶対にカリグラフィー講座に参加しなかったし,パーソナルコンピュータは今日のようなすばらしいタイポグラフィを備えていなかったかもしれない。もちろん大学にいた時に点がつながるのを見通すことはできなかった。でも10年後振り返ってみればとてもとても明らかだ。
もう一度言う。将来点がつながるのを見通すことはできない。振り返ってつなげることしかできない。だからあなたは将来なんらかの形で点がつながると信じなければならない。ガッツ,運命,人生,カルマ,なんでもいい,なにかを信じなければならない。いつかこの道を進めば点がつながると信じれば,たとえ人と違う道に向かうことになってもハートに従う自信を持つことができる。それが違いを生むのだ。
私は幸運だった。人生の早いうちに好きなものを見つけられた。ウォズと私は20歳の時に両親のガレージでAppleを始めた。一所懸命働いて,ガレージにたった二人だったのが,10年で従業員4000人の20億ドル企業にまで成長した。30歳になる一年前に最高の作品,Macintoshを発売した。そして首になった。いや,自分の始めた会社からどうやって首になるっていうんだ? 私たちはAppleが大きくなったので一緒に経営するのにとても才能あると思えた人物を雇った。最初の一年かそこらはうまくいった。でも将来のビジョンが食い違い始めて,最終的に喧嘩になった。そしてその時,取締役会は彼の側についた。それで30歳の時,首になった。世間の誰もがそれを知っていた。大人になってからの人生すべての中心が失われて,本当に最悪だった。
数ヶ月は何をしていいのか本当にわからなかった。前の世代の起業家たちから渡されたバトンを落としてしまって,彼らを失望させたと思った。デビッド・パッカードとボブ・ノイスに会って,このひどい失敗を謝罪しようとした。本当に誰もが私の失敗を知っていた。シリコンバレーから逃げ出そうとさえ考えた。でもなにかがゆっくりとわかり始めた。私はそれまでの仕事をまだ愛していた。Appleでの出来事は私の気持ちをすこしも変えなかった。ふられたけどまだ愛していた。だからやり直すことに決めた。
当時はわからなかったけど,Appleから解雇されたことは私にとってこれまでで最良の出来事になった。成功者の重圧は,またなにもあまりわからない初心者の軽やかさに入れ替わった。おかげで私は人生で最も創造的な時期の一つへと解き放たれた。
次の5年間に,NeXTという会社と,Pixarという会社を興し,後に妻になるすばらしい女性と恋に落ちた。Pixarは後に世界初のコンピュータグラフィック劇場映画トイ・ストーリーを制作し,今では世界で最も成功したアニメーションスタジオだ。びっくりするような出来事があってAppleがNeXTを買収して私はAppleに戻り,NeXTで私たちが開発した技術は今のApple復活の基盤になった。そしてローレンスと私は共にすばらしい家族を築いた。
Appleから解雇されなかったらこれらは全部起こらなかったとはっきり確信している。ひどく苦い薬だったけど,患者にはそれが必要だったのだ。時として人生はレンガで頭を殴ってくる。信念を失うな。私が進み続けられたのは自分のしていることを愛していたからだと確信している。あなたは愛するものを見つけなければならない。恋人を見つけるのと同じくらい仕事でもそれは真実だ。仕事は人生の大きな割合を占める。本当に満たされる唯一の方法は,すばらしいと信じる仕事をすることだ。すばらしい仕事をする唯一の方法は,それを愛することだ。まだ見つけていないなら,探し続けなさい。腰を落ち着けるな。見つけたら,あなたのハートが教えてくれる。恋人との関係のように,それは歳を重ねるにつれてもっとすばらしいものになる。だから見つけるまで探し続けなさい。腰を落ち着けるな。
三つ目の話は死についてだ。
17歳の時,こんな感じの引用文を読んだ。「毎日を人生最後の日のように生きれば,いつか間違いなくうまくいく」印象づけられた。それからこれまで33年間,毎朝鏡を見ながら自分に問い続けてる。「もし今日が人生最後の日だったら,今日これからしようとしていることを本当にしたいかい?」そして答えが何日も続けて「ノー」だった時,何かを変えなければと気づくんだ。
もうすぐ死ぬと思い出すのは,人生の大きな選択を助けてくれる私の遭遇した最もいい方法だ。外野の期待,プライド,恥や失敗への怖れ,そんなものは死に直面すればほとんどみんな本当に大事なものを残してどこかへ行ってしまうからだ。いつか死ぬと思うことは,何かを失うという考えに陥るのを避ける私の知る最良の方法だ。あなたはもう裸なのだ。ハートに従わない理由なんてない。
1年くらい前に癌と診断された。朝7時半に検査を受けたら明らかにすい臓に腫瘍があった。私はすい臓がなにかすら知らなかった。医者はほぼ間違いなく治療不可能なタイプの癌で,3ヶ月から6ヶ月以上生きることは期待すべきでないと言った。先生は帰ってやりたいことを順にやりなさいと言った。死を迎える人への医者のお決まりの対応だ。つまりそれは伝える時間があと10年あると思っていたことをたった数カ月で子供たちに伝えるということだ。つまりそれは全部手はずを整えて家族が出来るだけ苦労せずにすむようにするということだ。それはつまりさよならを言うということだ。
一日腫瘍と過ごした。その日の夜生検を受けた。内視鏡を喉から胃を通して腸に入れて,すい臓に針を刺し,少し腫瘍の細胞を採取した。私は鎮静剤を投与されていたのだけど,顕微鏡で細胞を調べた結果,手術で治療できるめずらしい種類のすい臓がんだとわかって先生たちが大騒ぎしていると付き添っていた妻が教えてくれた。手術を受けて,ありがたいことにいまはなんともない。
これが私が死に最も近づいた瞬間で,あと数十年はそうであってほしい。この経験があったから,死が有用だけどただの知的概念だったころよりもう少しだけはっきりと言える。
誰一人として,死にたくはない。天国に行きたい人ですら死にたくはない。だが死は我々全員が共有する終着点だ。これまで死を逃れた人はいない。そしてそうあるべきだ。なぜなら死は生命の最良の発明に思えるからだ。死は生命の変革担当係だ。古いものを追い出し,新しいもののための道をつくる。たった今,新しいものとはあなた方だ。でも遠くない将来みなさんもだんだんと古いものになって追い出される。ドラマティックになって申し訳ない。でもこれは真実だ。
あなたの時間は限られている。だから誰か他人の人生を生きて時間を無駄にするな。誰か他人の結論を生きるというドグマに捕らわれるな。他人の意見に自分の内なる声をかき消されないようにしろ。そして最も大事なこと。自分の心と本能に従う勇気を持て。あなたの心と本能はもうあなたが本当になりたいものを知っているのだ。他のことはみんな後回しだ。
私が若いころ,全地球カタログというすばらしい出版物があった。私たちの世代のバイブルの一つだ。ここからそう遠くないメンローパークでスチュアート・ブランドという人物によってつくられ,詩的な感覚を人生にもたらした。まだ1960年代でパーソナルコンピュータもデスクトップパブリッシングもなかったから,全部タイプライターと鋏とポラロイドカメラで制作された。まるで35年早くやってきたペーパーバックのGoogleみたいだった。理想主義で,整然としたアイデアとすばらしい思想で満ち溢れていた。
スチュアートと彼のチームは数号のあと,すべての活動を終えて最後の号を出した。1970年代中頃で,私はみなさんくらいの歳だった。最終号の裏表紙には,あなたが冒険好きだったらヒッチハイクをしようかと思ってしまうような早朝の田舎道の写真があった。その下に「ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ」の言葉があった。それは終刊にあたっての別れのメッセージだった。ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ。私はいつも自分にそう願い続けてきた。今,みなさんが新たに卒業するにあたって,あなたにもそう願う。
ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ。
本当にありがとう。
SONY(暗黒騎士ランスロット)「ふむ…売れているのが不思議なほどだな…。下がれ!」
SONY「聞こえるか?任天堂よ。」
任天堂(聖騎士ランスロット)「…貴公らが敗れるのも時間の問題だな。」
SONY「わがソニーにとって個人情報流出など些細な問題にすぎん。それを知らぬわけではあるまい?」
任天堂「……」
外の声(ダメだ、個人ブログ……援護を要請するんだ…我々だけでは……抑え……きない)
任天堂「…日増しに高まるお客様の不満を抑えきれないようだな…?」
SONY「所詮、ソニーネットワークはWifiと違いセキュリティが劣っていたからな。少々荷が重すぎたということだ。」
任天堂「ハードの力で人を縛り付ける、そうしたソニーのやり方に問題がある―――そうは思わないのか?」
SONY「縛り付けた覚えなどないな。彼らは力で支配されることを望んだのだ。」
任天堂「望んだだと?」
SONY「世の中を見渡してみろ。どれだけの人間が自分だけの判断でゲームを購入するというのだ?自らの財布を開き、リスクを背負い、そして自分の手でゲームを進めていく。そんなヤツがどれだけこの世の中にいるというのだ?」
任天堂「……。」
SONY「貴公らの革命を思い出してみよ。貴公らが汗を流し、命を懸けて開発したハードを遊んだ民はどうだ?自分の身を安全な場所に置きながら勝手なことばかり言っていたのではないのか?」
任天堂「彼らは手持ちのハードを維持するだけで精一杯だったのだ…。」
SONY「いや、違う。被害者でいる方が楽なのだ。弱者だから不平を言うのではない。不満をこぼしたいからこそ、弱者の立場に身を置く。彼らは望んで”弱者”になるのだよ。」
任天堂「ばかな!人には自分のゲームハードを決定する権利がある。自由があるのだ!!」
SONY「わからぬか!本当の自由とは誰かに与えてもらうものではない。自分で勝ち取るものだ。しかし、民は自分以外の誰かにそれを求める。自分では何もしないくせに権利だけは主張する。新ハードの登場を今か、今かと待っているくせに、自分がその新ハードを買おうとはしない。」
任天堂「人はそこまで怠惰な動物じゃない。ただ、我々ほど強くないだけだ。」
SONY「任天堂よ、貴公は純粋すぎる。民に自分の夢を求めてはならない。支配者は与えるだけでよい。」
任天堂「何を与えるというのだ?」
任天堂「ばかなことを!」
SONY「人は生まれながらにして深い業を背負った生き物だ。幸せという快楽のために他人を平気で犠牲にする…。より楽しいゲームを望み、そのためなら他のゲームをないがしろにすることだっていとわない。しかし、そうした者でも罪悪感を感じることはできる。彼らは思う…、これは自分のせいじゃない。世の中のせいだ、と。ならば、我々が乱れた世を正そうではないか。秩序ある世界にしてやろう。快楽を貪ることしかできぬ愚民にはふさわしい役目を与えてやろう。すべては我々が管理するのだ!」
SONY「虐げているのではない。我々は病に冒されたこの世界からその病因を取り除こうとしているにすぎん。他組織に影響を及ぼす前に悪質な腫瘍は排除せねばならんのだ!」
任天堂「身体に自浄作用が備わっているように心にもそれを正そうという働きはある!」
SONY「それを待つというのか!?フフフ…、貴公は人という動物を信用しすぎている。民はより力のある方へ、より安全な方へ身を寄せる。そのためなら愛するゲームを裏切ることもできる―――はちま!」
任天堂「はちま…!何故、きみがここに……?」
SONY「紹介しよう、任天堂殿。彼女こそがイードの忘れ形見にしてゲハブログの正当の後継者、はちま寄稿だ!!」
任天堂「!!」
SONY「貴公の指摘したとおり、ソニーネットワークはもうおしまいだ。しかし、彼女が我が手の中にある限りゲハの民はソニーの下僕となろう。」
任天堂「はちま…、きみは…、いったい?」
はちま(カチュア)「私はアイマスを愛していたわ。たった1つのゲームだもの、当然よね。でも、アイマス2は私のゲームじゃなかった。そして、私を見捨てた。手に入らないのなら、いっそ―――。」
任天堂「はちま!!」
SONY「私の売上を奪った会社と別れるのは惜しいが、これ以上、負けハードを痛めつけるつもりはないのでね。失礼させてもらうよ。」
任天堂「ま、待て!!」
SONY「さらばだ、任天堂よ。」
参考→割れ厨jinと割れ厨はちまとアタシ的とガジェット通信ファミリー総合スレ まとめ
「戦争に正義も悪もない。皆が犯罪者ともいえるし、犠牲者ともいえる。ある意味では、勝者が正義であり、敗者が悪ともいえよう。それが世の中ってもんだ。」
http://anond.hatelabo.jp/20110725201746
1匹病気になった。病院に連れていったけど、膀胱に腫瘍が出来てるそうで、輸血して手術すれば助かるかも知れないと言われた。猫の輸血用の血液を用意している病院などない。「連れて帰ってもいいけど、自力で食べられないし、介護が必要」と言う。私は人間の介護で手一杯だ。とても、猫の介護まで出来ない。出せる金額まで入院させてもらって、連れて帰ってきた。エサをちゃんと食べたかどうか、他の2匹のエサと一緒だとわからないからゲージを買ってきて、病気の猫と猫のトイレとエサ箱を置いた。人間の介護のために家を出て、8時間後に帰ったときは死んでいた。(こんなギリギリの状態のを生かしておいてくれたんだ、先生すごいなあ)と動物病院の先生にまず感謝した。葬儀屋さんを呼んで、引き取ってもらった。よく使っていた寝床を一緒に焼いてくれるよう頼んだ。
責任持って飼っていても、生きるか死ぬかの瀬戸際になった「ペット」にしてやれるのはこんなもんだ。
野良猫のために、ちょっと泣いてやったら忘れなよ。それだけで充分な供養だよ。
日本の現代医学は癌患者に対し抗癌剤での延命治療が主なのはなぜで
しょうか?他国では代替医療による食事療法や温熱療法がメインに変わ
りつつある原因は1985年アメリカの国立癌研究所(NCI)のデヴィタ所
長は米会議で抗癌剤は10人に1人は腫瘍が縮むが癌細胞は自らの遺伝子
を変化させ抗癌剤を無力化してしまう反抗癌剤遺伝子(ADG:アンチドラ
ッグジーン)の発見を報告。また、1988年にはNCIの数千ページの
報告書「癌の病因学」で「抗癌剤は強力な発癌物質であり投与すると他
臓器に新たな癌を発生させる」と公表した。今までの常識を覆すこの発
表は製薬会社に多大な損害を与えるとして、口外してはならないという
戒厳令が敷かれました。抗癌剤は0.1gで7万円、延命治療を施せば何百
万の費用がかかり癌患者は正に病院の為の金脈にすらなっており、また
今日抗癌剤を信じ、熱意と努力を持った医師と患者が犠牲になっている
のです。
コーディネーターさんから電話が来て、そう聞かされた。 正直「やっぱりね」という感じ。自分に決まる予感がしてたから。 父が悪性リンパ腫に罹患している事がわかったのも、ちょうど去年の今頃だった。 癌が国民病と云われるようになって久しかったけど、まさか自分の家族が患うことになるとはと、母と2人最悪の事態ばかりを考えていた。 主治医の説明を受け、余命宣告されなかった事に安堵はすれども、治療の過程におけるリスクがある…即ち、何らかの原因で死んでしまうという可能性が1%でも存在しているという事が怖くて、怖くて、毎日夜になると自室に引きこもって泣いていた。 そして、今。 父は奇跡的にも腫瘍が全て消え、普段と何ら変わらぬ生活を送っている。 去年、あれほどやつれ、禄に歩くことも出来ず、ドデカい輸液パックに24時間繋がれていたのがウソみたいだ。 さぁー、私も早く仕事を見つけなk(略 と、安堵していた所に届いたのが、例のあのオレンジ色の封筒だった。 バンク自体には、父の病気が発覚するよりかなり前に登録していたのだが、まさかよりによってこのタイミングで来るとは。 しかも、骨髄採取する病院は、父が入院していたのと同じところ。 普段はこんな事軽々に考えはしないんだけど…この時ばかりは「まさに運命だ」と思ってしまった。 (人の命がかかっていることだから、あんまこういう事は思っちゃいけないとはわかってるんだけども…ね。) まぁー、正直全身麻酔で? 腸骨に針ぶっ刺しまくるとか? 説明聞いただけでも結構怖かった。 一緒に説明についてきてくれた親友もめちゃくちゃビビってた。 正直今も怖いし、この一件を知った親戚からはマゾだとかアホだとかとも云われてる。 (流石に腹がたったけど、まぁそう思われてもある意味仕方が無いことだから…。) でも…それでも、私はドナーになる。 あの頃のことはあんま思い出したくなかったから今まで考えないようにしてきたけど、こうして文章にしてみたおかげで改めて決心できた。 取り敢えず、頑張ってみる(`・ω・´)
タイトルに不適切な表現がありますが、あえて使わせてもらいます。不愉快な人はごめんなさい。
3年前の今頃、夫が重度の男性不妊だと分かり、現在まで子供なし。今年中に体外受精をしようと夫婦で決めていたので先週の私の誕生日(土曜で夫の仕事が休み)に不妊専門の病院へ行ってきた。
本当はもう少し早くに不妊外来へ行く予定だったんだけど、婦人検診の乳がん検査にひっかかってしまい、精密検査に時間がかかってしまった。
エコーで腫瘍が左胸に1つと右胸に2つみつかり、そのうち1つは問題なし、残り2つは「異型細胞」で癌ではないが正常でもなく、今後癌化する可能性もあるので半年毎の経過観察ということに。体外受精をする予定だとあらかじめ伝えていたので、主治医は今後はホルモンの影響等も考えて経過観察する予定だと言ってくれた。
エコー、マンモグラフィー、MRI、針生検と、癌の可能性がなければしない検査(針生検)までしたので、結果が出る前に乳がんの覚悟はしていた。30歳になる前1ヶ月間は乳がん検査と結果待ち。まだ20代だし3つの腫瘍が全部癌ならすぐに全身に転移して死ぬのかな・・・と、とても不安だたけど、私を不安がらせないようにか、夫は「絶対癌じゃないよ」と言うだけだった。
3年前、夫の精子検査の日、夫は結果を聞く前に仕事に戻ったので私は一人で結果を聞いた。
先生:「はい、○○さんの奥さんね?えーっと、ご主人とは自然妊娠は無理ね。精子が少なすぎるから。体外受精でも無理だろうね。子供ほしいなら顕微授精以外無理ね。」
私:「え・・・・?」
先生:「顕微授精の説明は看護師から聞いて帰ってください。はい、お疲れ様でした。」
私:「え・・・、先生、無理って絶対に無理なんですか?」
先生:「絶対とは言えないけどこの数字じゃねー、考えても仕方ないよ。」
徐々に自分の体から血の気が引いていくのを感じて、意識がボーっとして、大して何も質問が出来なかった。ただ、先生の言い方が冷たくて冷たくて、平常心を保つのがやっとだった。何で夫は帰ったんだろう、一緒に居てほしかったと強く思った。今考えれば、同情した言い方をすると泣いてしまうかもしれないから、淡々と言ってくれたのかもしれない。
なので、今回は自分の検査だったけど、結果を聞く時は一緒に居てほしかった。癌じゃないと思うけど、もしも癌だと言われた時には、夫に隣に居てほしかったから仕事を休んで一緒にきてとお願いした。有給があまってるので休めたけど、「結果聞くだけなら一人で行けるでしょ?」って言われた。夫は私がお願いしたら嫌でもお願い事を聞いてくれるのでそれはありがたい。だけど、自分の本意じゃないことも口にするので、時々傷つく。
乳がん検査の結果を聞いた帰りの車の中で、「今は癌じゃないけど、来年には癌になってるかもしれないから、早く子供、作らないとね。もし癌になったらしばらく子供作れないもんね。」って私が言ったら、「見つかってないだけで、俺の体のどこかにも癌あるかもしれないし。」って言われた。夫にとってはその程度の事なんだ・・・と思った。
今までは、夫が不妊で子供が出来ないから自分に引け目はなかった。だけど、自分が癌になって夫の子供が産めなくなるのは申し訳ないと思った。だからすぐに体外受精の病院へ行くことにした。
だって、もし妊娠中に発ガンしたら、癌の治療と中絶のどちらかを選択しないといけない。治療をしないで出産する人もいる。それで子供を残して死んでしまう人も居る。考えすぎだろうけど、やっぱり癌化する可能性があるのなら、今後の最悪の状況は頭をよぎる。
誕生日の前日、外食をしてホテルに泊まった。ちなみにホテルは会社の保養所指定先。誕生日、結婚記念日は必ず外食をしてプレゼントとカードを渡すようにお互いしてきたので、今回も夫はそうしてくれた。だけど、その渡し方が悲しかった。渡し方くらいでって男の人は思うだろうけど・・・。
今までは食事の時にバースデーソングが流れてプレゼントを渡されるとか、日付が変わった瞬間に渡されるとか、そういう演出をしてくれる人だった。
今回はホテルについてベッドに転がったら、「はいこれ」ってプレゼントとカードをベッドに置かれた。午後10時くらいで、まだ誕生日じゃなかった。
私:「え?もう?まだ誕生日きてないよw」
夫:「20代のうちに渡したいから」
私:「え?だって誕生日プレゼントでしょ?誕生日にほしかったな」
夫:「30代とかいやでしょ?20代のお前にあげたかった・・・云々・・・」
夫は同級生で、誕生日は11月。いつも私が先に年をとるけど、自分では今年30歳になるのがそんなに嫌じゃなかったから、夫が20代の私に固執した発言をしたのが悲しかった。
次の日、私の誕生日、日本でも有数の体外受精の権威の病院へ行った。夫の結果はやっぱり悪くて顕微授精以外無理だと言われたけど、私は状態がよかったらしい。
男性側が不妊の場合は、女性は正常でも不妊でもあまり関係なくて、排卵誘発剤を使ってできるだけ沢山の卵子を作って、薬で全部を一気に排卵させて、卵巣から直接卵子を採取する。自己注射になったので、誘発剤は自分で注射器で毎日打つことになった。看護士が別室で注射の打ち方を教えてくれたけど、自分のお腹に注射器を90度の角度で針の根元まで刺すなんて、グロいし怖い。いきなり練習でやってみてと言われたけど、緊張してうまく出来なくて、痛かった。針がお腹に刺さっていかなくて、「痛い、これ以上針が入らないんですけど」と私が看護士に言ったら、「大して痛くないくせに」って夫に言われた。人に刺されたら痛くないんだろうけど、自分で自分に刺すのは、うまく出来ないから痛い。どうせなら「頑張れ」とか「大丈夫大丈夫」とか、そういう励ましの言葉がほしかった。
お昼頃に病院についたけど、初診で体外受精の準備が全部整ったので、自分でする薬や注射一式を渡されて、スケジュールも説明されて、あとは自分のタイミングで始めてくださいって言われた。今度病院に行くのは、自分で誘発させた卵子を採取してもらう時。少しづつ治療が始まると思ってたのにいきなりスタートを切らされた感じがあって戸惑った。
たまたま病院が私と夫の母校大学から車で30分くらいの所にあったので、その日は誕生日だし、病院が終わったら、大学まで行って、昔し住んでたマンションを見たりよく一緒に行った居酒屋に行ったり、同級生が働いてるバーによって久しぶりに話がしたいって夫に言っておいた。子供を作る前に、少し昔しを懐かしみたかったから。
病院を出て夫に「大学近辺に行くんだよね?」って言われて「うん」って言った。病院を出た時19時を過ぎていて私は検査が多かったので疲れてたけど、誕生日なので楽しく過ごしたかった。夫は精液検査だけだったので、待ちくたびれてたのかもしれない。何だか二人とも疲れてた。
「あと2回ここくれば、それで終わりだよね?」って夫が言って、私はキレた。
これから家で注射をしたり色々準備して、病院に行くのはあと4回。そのうち2回は私は腹腔鏡手術をしないといけない。夫は1回、オナニーをして精子を出すだけ。
こんなこと思っちゃいけないんだろうけど、夫のせいで私は痛いきつい辛い思いをしてホルモン治療をするのに、夫はアダルトビデオを見てシャーレに射精すればそれで終わり。体外受精は男性と女性の精神的肉体的負担が全然違う。本当は「夫が健康だったらこんなことしなくていいのに」って思ってるけど、精子がなくて辛いのは夫だから、それは言わないようにしてた。だけど、最近の夫の思いやりのない発言に限界だった。
「2回じゃなかったっけ?」って夫がまた言った。かる~く言った。意外と大したことないねって感じで言った。私が口を開いたら醜い言葉しか出ないから、ずっと黙ってた。涙が止まらなかったけど、横を向いて気付かれないようにしてた。これから顕微授精に向けて私がなにをするのか、夫婦で説明を受けたのに、夫は聞いてなかったんだ。だって2回じゃない。
乳がん検査の時、「もしも癌でも、自分のことを第一に考えて、子供は無理して作らなくてもいいよ」って言ってほしかった。
誕生日の日、「30歳おめでと。30代も一緒に楽しく過ごそうね」って言ってほしかった。
注射が痛いって言った時、手を握ってほしかった。
帰りの車で、「体外受精で辛い思いをするかもしれないけど、一緒に頑張ろう」って言ってほしかった。
きっと私がこうしてほしいって言ったら、そうしてくれる。夫は優しい人だ。だけど、自発的に思ってるわけじゃないのがわかって辛い。
「何で心配してくれないの?」って言った後「大丈夫?」なんて言われても嬉しくない。
体外受精までして子供を作っていいのかも不安だし、答えが出ない。もしかしたら子供は作らないほうがいいのかなって時々思う。
ありのままの出来事を人に言うと、単なる夫への愚痴・悪口になるので友達にも言えない。
最近こんなことが続いてたけど、本当は夫は優しい人だし大事にしてくれてると思う。夫のことが大好きだし夫も好きだと言ってくれる。
毎日一緒に夕食を食べてくれるし、週末も一緒にいてくれる。いつもパソコンばかりしてるけど、外でも手をつないでくれるし、夫を知ってる人はみんな「愛妻家だよね」って言ってくれる。
ただ、すごく鈍くて察することをしないだけ。私が普通の声のトーンで怒ったら気付かない鈍い人。
自分たちの事は客観的に見れないけど、客観的には幸せな夫婦です。自分でも幸せだと思ってる。
今回、色々とヘビーなことが短期間に集中したので誰かに愚痴りたくて増田に思いを綴ったけど、こういうことを乗り越えて他人が夫婦になっていくんだと思う。
そう思いたい。だから頑張ろう。
明日は誕生日なんだが、人生でもっとも不安を抱えながらの誕生日になりそうだ。
検診の医師には1年に1回検査を受ければいいと言われたが、不安なので後日、
病院にいこうと思う。
いろいろ調べてみたら、卵巣の腫瘍は9割が良性で、1割が悪性。
その1割に入っているかどうかは手術をして摘出してみないとわからないようだ。
その1割に入っていたらと思うと……。
仕事のことも旦那のことも割とどうでもよく、気がかりなのは子どものことだけだ。
子どもが大人になるまで生きていられるだろうかということ
ばかり考えている。
そして、もうこの世にはいない父のことを思い出した。
私の父は母と離婚した。当時の私は5歳。両親の離婚後、私は父と会うことはなかった。
父は数年後再婚し、2人の子どもをもうけたが、胃がんにかかり45歳でこの世を去った。
父が死んだ時、一人は3歳、一人はまだお腹の中にいた。
つまり、3人も子どもがいながら、誰一人と成長した姿を見ることなく
死んだのだ。
そんな父のことが頭をよぎっている。
もし私の残り時間が少なかったとしたら、今からでも毎日を大事に
すごさなければならない。
[2010.3.24]
国民皆保険制度を始めるという法案であり、下院で過半数を取って成立した。しかし、現状の法案にはかなり大きな穴があいている。アメリカの医療費が世界一高額なのは、その費用の大部分が、訴訟リスクに対する保険料と、あまりに高額な医療費によって破産する患者が踏み倒した分の回収に占められているからである。
この問題を放置したまま皆保険を始めるとなれば、高額な医療費の請求が、そのまま保険という丼勘定によって全員に背負わされる事になる。破産によって踏み倒された分の回収が終わってしまえば、それ以上の破産による踏み倒しは発生しなくなるので、税法が認める償却期間の間は高額で推移するが、その後は徐々に下がっていくという見通しらしいが、肝心の、医療過誤裁判に対する訴訟リスク保険については、放置されている。
訴訟リスク保険は保険会社のドル箱であり、患者向け医療保険よりも、はるかに効率の良い儲け口である。
皆保険制度によって、国民は医療を受けやすくなるが、訴訟リスク保険には、一年間に診療できる初診患者数に上限がつけられており、患者は居ても、診療できないという状態になる事が簡単に予想できる。初診患者数に上限があるのだから、診た患者からは、可能な限り高額な診療報酬を引き出さなければ、採算割れを起こすという構造になっている。つまり、皆保険制度によって医者にかかりやすくなったからといって、お金にならない簡単な病気の患者ばかりが来るようになると、医者の側が破産する事になる。来た人全員を、緊急の手術が必要な患者であるとするぐらいのことをしないと、割に合わない。腹痛なら盲腸、盲腸を取っているならば腹膜炎や切除しても害が無いとされている脾臓破裂。熱や眩暈といった内科的症状ならば腫瘍があるとするぐらいの事は平気でやってのけるし、病理検査機関は、医者の診断通りの結果を出すというサービスができなければ、仕事を受注できない。こうして、高額な医療費と、それで破産する患者という存在が生み出されている。この構造こそが問題なのだが、現状の皆保険制度は、状況を悪化させるだけである。破産する患者は減るだろうが、医者のモラルは悪化していくであろう。
これを避ける為に、初診患者数に上限の無い訴訟リスク保険契約を作れば良いというのは、明らかに間違いである。一日に集中力をもって対応できる患者の数には限界があり、その限界を越えて診療せよというのは、幾らなんでも間違いである。
医療費の見積もりを出すコンサルタントの所に行って、自費で各種の検査を受けて、高額の治療が必要な場合には医者の所に行くが、そうでない場合には市販薬を適当に飲めば治るとやるには、その診断を下すコンサルタントが、結局は初診担当医となってしまい、訴訟リスク保険に入らなければならなくなる。各種の検査キットやレントゲンのセルフ撮影といった自己判断の為のサービスを一般化するというくらいしか、やりようが無いが、これはこれで、手技を持った医師以外は不要という事になりかねないし、そんなことをしたら、限られた初診患者数という制限の中で利益を追求している医師にとっては、いろいろとバレてしまってマズい。
医療過誤訴訟における賠償金額は、支払った診療費を上限とするという制限を加えるのが一番合理的なのだが、こうすると、訴訟リスク保険は不要になってしまい、保険業界と医療過誤裁判でメシを食っている弁護士業界が困るので、猛烈なロビー活動を展開する事になる。実際、このロビー活動によって、医療改革法案は、今回成立したような、保険業界と弁護士業界の既得権益には一切触れないという、不自然で歪んだ制度となったとも言える。
始まるばかりの制度に問題があるのは当然であるが、そういった問題のうち、制度が始まる前の検討の時点で確認された問題については、制度が始まる前にすべて対応が取られるのが、最低限度の仕事であろう。
http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/706
ほうっておいた腫瘍がすくすくと成長して、おまけにそこから出血して貧血になり、現在手術を前提としたいろいろな検査を受けている身からすれば、
「こいつにはぜってーかかりたくないな」
もし主治医がこのブログ主だったら、強硬に主張して変えてもらう、と思う。
なんか全然違う。あまりに違いすぎてなかなか具体的に言えないが、
以前から、なぜこんなつまらない内容のブログにブクマがいっぱい付くのか不思議だったが、今は読むとまず腹が立ってしまい、血圧が上がって身体に実に良くない。いかん。
ついでにもう一つ。
http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/703
検査のときなど、患者さんに靴を脱いでもらう機会は多い。靴は患者さんのもので、たいていの人はその場に脱ぐんだけれど、靴をベッドの下にしまわないと、機械をそこまで持っていけない。このときに、「靴を主治医の足でベッド下に押し込む」のと、「主治医が腰をかがめて靴を揃える」のとで、やっぱり印象が全然違ってくる
これは絶対やってほしくない。(自分の靴であるにもかかわらず)"不潔な"感じがする。私は全く気にならないが、どうしてもというなら、スリッパに履き替えさせろ(スリッパなら足で扱われてもそう気にならないんじゃないか)。
おつかれ。こないだ「キンタマが痛い」→「すぐ病院に行け」と言われた横増田ですが、
という感じで、とりあえず「キンタマが痛い!」と思ったら病院へ行った方がいい。いやマヂで。
ちなみに看護婦さんに局部を見られるぐらい、どーってことない。インキンの治療で、紫外線ランプにM字開脚しながら、看護婦さんに薬を塗ってもらったり、前立腺の触診でオッサン医師に肛門から指を入れられて、わずかながら射精してしまったりとかもする。
むしろ、女の子の産婦人科の診察に比べれば、男の局部ぐらいどーってことない。あと、万が一の場合でも子どもが欲しいからといって、慌てて中田氏とかしちゃダメ。もしキンタマが膿んでて、その膿が女の子の体に悪さをしたらどーする。
爆笑問題の田中が2000年に睾丸摘出の手術を受けたが、自分も同じ病気になった。
テレビでは笑いのネタになっているが、この病気は悪性腫瘍(ガン)です。
結構、シャレにならないので男性の人達はこれを読んで認識を深めて頂きたいと思います。
発見は8月上旬。自転車に乗ったら右の玉をサドルにぶつけた時に痛くて
さわってみたらなにか大きくないか?と疑問に思い、左と比べてみたら1.5倍ぐらい大きい。
ただ、痛みはなく、射精もできるので1週間ほどほっておいた。
お盆休みになり、家でゆっくりしているのとジーンと軽い痛み?違和感?が出てくる。
仕事も忙しくなかったので、お盆明けに病院へ行くと、睾丸にできるガンである
可能性が高いと伝えられる。
・この病気は10代後半~30代に多い。
・発症者数は10万人に1~2とめずらしい病気。
・強い痛みがないため、1年以上放置してしまう人もいる。
・超音波検査(エコー)でみると確かに左と比べて右がまだらのため腫瘍であることは確実。
・睾丸は1つになり精巣機能は弱まるが、子供を作ることは可能。
今回は発見が早かったが、この病気は進行が早いので、早急に摘出手術をすることになった。
ガンと言われてショックを受けつつも夜に手術。
実際の手術時間は1時間強。下半身だけの麻酔なので摘出後の部位をその場で
見せてもらったりした。
入院期間は1週間ほど。さらに1週間後に病理検査の結果が出た。
・診断はセミノーマstage1。他に転移はなし。
・生存率はstage1・stage2:ほぼ100%、stage3:60%。
・再発率は10~15%。ただし、抗がん剤の効果が非常に高いので、根治は可能。
・抗がん剤には10%ほどの確率で精巣機能を失う場合があるため、
そのため、定期的な検査で経過観察となり、今に至る。
まとめ
・睾丸が肥大していたら、ほっておかない。
・睾丸の炎症と誤診される場合があるため、性能が高い超音波検査(エコー)が
・結婚している方で子供を作る予定がある人は早く作っておいた方がよいかも。
おまけ
入院期間中は看護師さんに毎日局部を晒すという辱めにあいます。
みんな若い女性だったので、一番そこが辛かった・・・
もう、32歳になっちゃったよ。
しかも、独身男です。
実は、神経線維腫症2型という病気で(1型はレックリングハウゼン病と呼ばれるらしい)、3、4万人に一人だと。
こりゃ、レアだと喜ぶべきなんだけど、そうもいかない。
なぜって、神経に腫瘍ができて、圧迫していろいろと鈍るわけですよ。
私の場合は延髄にできて右半身麻痺みたいな。
しょうがないから、手術で摘出。あれはしんどかったー。
(実は、まだほかにあるけど)
しかも、優性遺伝で、まあ、これをもった親が方いっぽういると、1/2で遺伝するんだと。
実際、父親がその病気(突発性みたい)で、苦しんでるわけで、それが子供(自分)に遺伝したわけです。
(わたくし、3人兄弟なんですが、私ともう一人遺伝しているようです)
ちなみに、この病気の内容を知らされたのが大学卒業して院に入ったとき、ものすごくショックでした。
(ああ、おれ、欠陥なんだなと。。。)
そんなことも実は考えていて、結婚しようとプロポーズしたことはない。
自分の子供もそうなるかもしれない、相手もそれを悲しむ、俺もそうそう普通にいられないかも、etc...
(正直モテル方ではないが、社会人になって結婚したいとおもった人は2人ほどイタ)
なんか、自分をうらやむと、親をうらやむ。
親にここまで育ててもらって感謝はものすごくある。
正直、病気になっている父親は尊敬している。誰よりも尊敬している。
で、話をもどすと正直、結婚したいなんていつも思っている。
で、周りから早く結婚しなさいよなんて言われる。
そん時は「35まで結婚しないことにしてる。もっと遊びたいから」なんてごまかし、言っている。
で、先月彼女と別れた。
おれ、彼女のことものすごく好きだった。
一生そばにいたいと思った。
でも、別れた。
ちなみに、振られたんだけどね。
ほんと、プロポーズしたい。
■追記
そんで、優しい言葉をもらった。
ありがとう。
録画を消してしまって、youtube に上がってた録画は瞬殺された。以下うろ覚え。
「…あのね。私…死ぬかもしれない。」
「………?」
「首のちょっと下のところ腫れてるでしょ…さわってみても大丈夫だよ」
「確かに少し赤くなって腫れてるみたいだね、さっきエッチした時は気づかなかったけど…」
「つまり…癌ってこと?」
こういう時って目の前が真っ暗になるってよく言うけど、本当に真っ暗になるんだ。
「あ、お願いそんな顔しないで…私も辛くなるから」
「黙っておこうと思ってたんだけど」
人には癌を予防する遺伝子が2つあって、普通の人は両方ONで生まれるんだけど
彼女はそのうちの片一方の遺伝子がONになっていない…というようなやたら癌になり
やすい体質をもって生まれてきた…というのを聞かされたのは、その甲状腺の手術が
無事に終わってしばらく経ってからの事だった。
その頃には、この遺伝子の病気が少しづつ進行していて首の後ろにも脳にも
もはやどうしようもないくらい癌は増えていた。
親からこの遺伝病を貰う確率は50%だったとのこと。
どんなに生きたくても生きられない運命持った人だっているんだ。
むやみに癌になりたいとか寝ぼけた事言わないで欲しい。
ある日突然あなたのおじいちゃんよ、と母が私に年老いた男性を紹介した。
父・母・私の典型的核家族の中に、ぽんと老人が混ざった。
痩せぎすの体と日に焼けた顔、まるで猿のようだなとぼんやりと思っていた。
それが5歳の冬の出来事。
詳しい事情は大人の中で掻き消されてしまったから
何故祖父と同居することになったかは未だによくわからない。
とりあえず祖父は母の弟夫婦に追い出された、と言うことだけは理解した。
祖父は頭が悪い人だった。
足し算引き算がギリギリできる程度の人で、でも私のことを溺愛してくれていた。
だから私も祖父が大好きになってしまった。
小学校の高学年に上がる頃、祖父が急に痩せだした。
痩せぎすだった体はもっともっと細く棒きれのように貧相になり
日に焼けた褐色の肌は土気色に変化していた。
不審に思った母が病院に連れて行った所、末期の癌だと宣告された。
肺癌。
ヘビースモーカーだったからかもしれない。
祖父には詳しい事情を伝えずそのまま即入院。
半年後食道に転移。
更に半年後、脳に転移。
癌が祖父の体を蝕んで行き
抗がん剤が体力を食いつくし
私は学校が休みの日には祖父の好きな食べ物をしこたま持って母と病院へ通った。
甘いものが大好きだからドーナツを持って
卵焼きが大好きだから必死に卵焼きを焼いて
伝えることも忘れてがむしゃらに祖父の好きなものを持っていった。
ある日、遂に祖父は母のことを忘れてしまった。
「どちら様でしたかな?」
母は気丈に振舞っていたけれど、家に帰って泣いていた。
それからしばらくして、何もわからなくなってしまった祖父が
病室でぽつりと言った言葉。
私の名前。
母の名も父の名も自分の名前さえすっかり忘れてしまった祖父は
私の名前をはっきりと呼んだ。
驚いて祖父を見たが、祖父はそのまま眠ってしまった。
1月3日、祖父と出合って丁度10年目の冬。
私の名前を呼んだ祖父は、そのまま永眠した。
どうしてあの時、祖父は私の名前を思い出したのだろうか。
私は祖父に溺愛されていて、私も祖父を溺愛していた。
それだけのことかもしれないけれど。