はてなキーワード: 甘ったれとは
何不自由なく甘ったれた環境でぬくぬくと育ってきた。いわゆる親ガチャには成功したほうだと思う。幼い頃から小説ならいくらでも買ってもらえたから、どこかに出かけるたびに本屋に寄るようねだり、1冊ずつ買ってもらっては読みほした。当然本好きに育った。中高生の頃ぼんやりと、自分はきっと本と関係する業界に就くのだろうと思った。大学生になってもその想いは変わらないまま、最近就活を迎えた。
愕然とした。
好きな雑誌?ほとんど本か漫画しか読んだことがない。やりたい企画?企画ってそもそもなんなんだよ。どうやって作ればいいんだよ。会いたい人?そもそも本以外の趣味なんてなく、TVもほとんど見ないのに芸能人のナニガシなんてわかるわけがない。
そして気づく。そもそも私より本をたくさん読んでいて、それ以外の趣味もたくさん持っていて、コミュニケーション能力があって、弁舌の立つ人間が、おそらくこの世界には五万といること。
正確に言うと、ずっとずっと昔からぼんやりと気づいてはいたのだ。編集者になるには多様な興味関心が必要だと、なんとなく察していたのだ。でも見ないふりを続けてきた。だって今まで苦労したことない甘ったれなのだ。最後にはなんとか帳尻を合わせられるだろうと踏んでいた。とうとうここにきて露見した。最早取り返しのつかない状況で、取り返しのつかない人生を送ってきたことをはっきりと自覚したのだ。
もういやだ死にたい そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい
──岡野大嗣
やっと自分の愛が、こんなにもちっぽけでつまらないものであったことに気づく。
集英社も講談社もポプラ社もそもそもESすら出せなかった。今日なんとか新潮社を出したけど、書いている最中には小説を一番好きだと宣いながら好きな作家にはあまりにも有名な作家ばかりをあげる自分の情けなさにほとほと嫌気がさしていた。ねえ、俺は今まで文芸誌ひとつまともに読まずによく平気な顔で本好きを名乗ってこれたね?
文藝春秋を出したいけれど出せる自信がない。小学館を出したいけど受かるわけがない。
でも、ああ。
今自分が何も持っていないことに気づけてよかった。本当に何もかも手遅れになる前に自分がこんなにもくだらない存在であることに気づけてよかった。とにかく頑張ろう。内定を貰っている友人もいるけど、貰っていない友人もいるから。今切り替えればきっとどこかには繋がるはずだから。自分は一生本に携わって生きると確信していたから、今どうすればいいのかさっぱりわからないけど。でも何とかなるって信じたい。私の未来はまだ全部台無しになったわけじゃないんだって。今から、……新しい未来が開けるはずだって。
来週の合説を予約した。とりあえず小学館のESを書く。3時間ほど泣いたら何かの諦めがついたから今この文章を綴っている。1年後の自分が、10年後の自分が、これを見て笑ってくれますように。
そしてここまで読んでくれた君にどうか一つお願いがあるんだけど、こんな情けない実情は恋人にも友人にも言えやしないから、ここまで読んだよしみで罵倒なり励ましなり残していってくれやしないだろうか。私に人との繋がりを感じさせてくれないかな。
自分がしんどくて、身近な人に優しくする余裕が無い。
むしろ、呑気そうにしやがってとか、俺に頼りやがってとか、イライラしてしまう。
気分屋で甘ったれな彼女に極力優しくしてきたが、今はそんな余裕はないし、むしろなんで俺がこんなにお前を甘やかさなきゃいけねえんだよぐらいに思ってしまっている。
上述の通り相当な気分屋なうえ、他人に興味のない人間なので、これを機に俺の元からはさっといなくなるだろう。
まぁ、それならそれで仕方ないが少しばかり虚しい。
依存はしていないが、(させてくれるようなたまではない)こうして頼る人間がいないというのもまたしんどいことだ。
Uberで美味い飯でも頼むかなあ。
そんなにイケメンと運命的な漫画みたいな恋愛したいならはてなでお気持ち長文書いてる暇なんかないわけで
現実問題、女が誰もが股開きたがるレベルのハイスペックイケメンなんて、毎日忙しくて充実してるんだからそんなことしてる暇なんかないわけで
その生活スピードに合わせられないどころか、男の方が合わせてくれると思ってる甘ったれた思想
TVシリーズも旧劇もリアルタイムでは見ていないが、新劇の前には一通り見ていた、程度の思い入れ。
解説サイトとかはつまみ食いするけれど、資料集とか一次資料などにはほとんどあたったことがない。
いや、面白かった。観てよかったし、何度も観に行くと思う。
特に、ミサトさんが良かった。撃たれるシーンや突撃のシーンとか泣いたよ。
(撃たれて壁によりかかってるシーンは、アウトレイジの大友の「何かってえと腹やられるな」というセリフがふと浮かんだ)
終盤のそれぞれのストーリのところは。右隣のオッサンがいちいち嗚咽してたから急に冷めたけど。
それはよいのだが、乗り切れないのはラストシーンだよ。
俺が、特に旧劇を観てエヴァがいいなと思ったのは、ハッピーちゃん♪ちゃん♪で終わらせてない点だった。
普通の映画なら「色々辛いことはある。でも、他人がいる世界を望むんだ!」となったら
エンディングはアスカと手を取り合って世界を再建していくみたいな雰囲気で終わるだろ。
他人と触れ合えて幸せを感じても、結局ひとりになる瞬間はあるし、恐怖を抱く瞬間も必ずある。
それに映画はラストシーンで終わるが現実は死ぬまで続く。その人生の終焉が不幸で終わるということもある。
その両面性を見せずに美味しい上澄みだけ掬って提供されるのが普通の映画だと思っていた。
エンターテインメントとして、そのような楽しさは理解しているし好きではあるのだけれど、
「でも虚構よな。現実はこんなんじゃないじゃん」という心の声が常に響いていた。
だけれど、旧劇は「気持ち悪い」で終わった。
ハッピーだけじゃなぞ甘ったれるな、という現実っぽさも入っていた。
キャラクターや映像も好きだったけれど、俺にとってリアリティがあったから好きだった。
それがシン・エヴァでは、徹底的に破壊された世界がいつの間にか再建されて平和な日常になっていた。
そして未来に向かってつがいが走っていくという陳腐なラストシーンだった。
50代になって入社してきたおじさんがいるんだけど、研修中に逃げ出した。
レジと商品だけ覚えれば普通の会話で成り立つ商売なのに研修3日目で逃げるってどんだけ甘ったれた生き方してきたんだろうかって。
普通のスーパーなのに、ここすら出来ないってどこに行っても役に立たないんじゃないのかなってね。
ホント普通の研修だったんだけど、ここがお菓子売り場ですーとか案内して、レジの打ち方も教えただけ。
難しい所あったら言ってくださいね、わからない所があったら言ってくださいね?メモ取っておいてくださいねって、
当たり前の事を言っただけで何一つ難しい事は言わなかったんだよね。
というのも以前の研修担当が一日で詰め込もうとするような人で、それじゃ今の人は残らないって言って、ようやく交代して今に至る。
ここ半年で5人ほど採用したけど、6人目がこんな情けない人だとは思わなかったよ。
「他のところでも同じことやってきましたから、大丈夫です」って言ってたから、同じことを説明するかもしれないけどごめんねって先に伝えておいたのに。
「ぼくには難しくて覚えられないです」だって。
今まで何やってきたの?同じ事やってきたんじゃないの?バカなの?
ホント信じられない。
バイトの若い子にも同じことを教えてきたけど、1年位は殆どの子はいるのに。
某サービス運用してるんだけど、いいねをつけてランキングみたいなのを作るわけです。
表向きは誰が誰に良いねを入れてるのかわからないようにしてるんだけど、ちゃんと記録されてます。
はてブ民ならわかるけど、投票をするために捨て垢作ってゴリゴリ投票を操作するのってマジでうざいんだよね
規約で禁止してるし、何なら毎日不正してるバカがいないか見回るんだけど、定期的に湧いてくる。
コイツら悲しすぎる。ネットの閑古鳥鳴いてるような弱小サービスで虚構の承認するって、人生オワッテる
何が悲しくてこんな人生になってるんや
バレなければいくらでも不正して良い。みたいなゴミクズ感性も怖いし、サービス管理者が何も見ていないっていう甘ったれた思慮の浅さ、IQの低さにも反吐が出る
本当に悲しく怖いのは、たいていこの手のユーザーは表向きは皆さんと仲良くします。がんばります。みたいな人当たりの良さそうな投稿してるんだよな
サイコパスこわ
人を怒らせる天性の才能を持ったバカとかも来るし。何なんすかね、
五体満足それ以上、恵まれた環境で過ごしてきたはずなのに、不穏な記憶ばかり蓄積。というより記憶力が悪く、不穏=大事なことだけ憶えている。希死念慮は社会人になって薄まったものの、代わりに時々気分が突然落ちる。そして月に1,2日くらいしか頭が回ってると感じる日がない。
これは...どっち?
①性格なので治らない。受け入れて余生を過ごす。
②医療機関を頼るともう少し希望を持って過ごせるようになる可能性がある
税金の恩恵を存分に受けて社会に出てきたし、還元できるところまで行きたいという気持ちはある。が、頭は働かず、気力も続かず、気持ちの面では今日を生きるので精一杯。
ぐるぐる...下手に診察を受けた結果、自己憐憫と何かに対する言い訳に使って終わるのでは...しかもこれって精神科、心療内科、神経内科どこの扱い...そもそも今のところ生きていくのには支障をきたしてないしな...転職等の環境変化は一時的な憂さ晴らしになっちゃうだけだろうし...なんか甘ったれてるだけなのかも...生きていくなら、このままジリジリやっていくしかないんだろうか...ぐるぐる
そういう増田って単に都会に生まれていたら隠れた俺の才能が発揮されて成り上がれたのにって妄想にいい歳こいて浸ってるだけ
異世界にチート持って転生したら無双できるとか言ってるキモオタと変わらんのよな
地方から上京して成り上がってる人間は「都会や上流でも滅多に持ってない技能や知識を継承できてる」奴しかいない
そんなもの田舎でさえ探せないカスが文化資本とかチャンチャラおかしいわって話だよな
アフリカで泥水啜って自衛や食うためにのために丸木弓作って戦わなきゃならない奴らに比べればよっぽど恵まれて甘ったれんなって話だわな
第三弾はこれか
正確には、自分はまだ20代で結婚もしていない。旧帝大レベルとまではとても言えないがMARCHよりちょっと上のレベルの大学を出て就職して現在3年目。それなりに忙しいものの特別なスキルが身に着くわけでもないような事務仕事をしていて、しかも会社は産休育休はあるものの復帰不可という謎設計なので、子どもが欲しいならいつかは辞めなければいけない。結婚を前提に付き合っている彼は全国転勤あり。件の方と同じような人生を送る道が見えている。
転勤の頻度にもよるだろうけれども、自分も正社員あるいはそれなりのお給料をもらって働きたいならスキルを身に付けなければならない。今のところその方向で、今の仕事の延長線上にある資格を取ってその流れで転職しようと思っている。
で、思ってしまうのが「自分は経済的自立をしたいのだろうか?」ということ。
元々とにかく怠惰で、毎日起きるのが憂鬱で仕事に行きたくなくて、家に引きこもっているのも全然苦じゃないタイプ。彼もそこそこ高収入で「仕事したいならしていいけど、無理ならそれでいいよ」みたいな感じだしなので、周囲からは働くことを強制されていない。
甘ったれた性格なので「パートだけで生きていきたい……正社員やだ……週3日くらい働くくらいがちょうどいい……」なんて考えてしまうことも多く、彼の言葉に甘えたくなってしまう。一度正社員辞めたら戻れないよ、とか、離婚のリスクが、とか言われても、「だって全国転勤の夫についていくには仕方ないじゃん!」と言い訳して無計画に仕事を辞めたくなってしまう(いやまだ結婚してないけど)。
……まあここまで考えつつも、結局いつだって考えが煮詰まって出る結論は「なるべくスキルを身に着けて正社員を続けられるように頑張ろう」というものだったりするんだけどさ。上段のアドバイスも確かにそうだと思うし、働き続けている友人と仕事の話が出来ない(引け目を感じてしまいそう)のも嫌だし、彼に生活を頼りまくるのも気が引けるし。
それでも私は怠惰なので、「ほぼまっさらな状態から何かスキルを身に着けるのもしんどい」「転職活動するのも面倒」「どうせ彼の転勤で辞めさせられる」「手に職と言っても多くはやりたい仕事じゃない」と言い訳したくなってしまう。憂鬱だ。
「誰も傷つけない笑い」ということばを聞くたびに、少し、もやっとする。「誰も傷つけない笑い」自体はいいことだと思う。傷つけるよりは傷つけない方がいいし、笑いにおいても、笑いでなくとも、あらゆる場面でなるべく傷つくひとが少ない方がいい。ただ、「誰も傷つけない笑い」ということばは、いつもではないけれど、ときどき、微妙なニュアンスを含んでいることがあって、それが私をもやっとさせる。
そこには「本当に頭がいいひとは」ということば使いを聞いたときと似ている感じがある。その後に続くことばはなんでもいい、ただ「本当に頭がいいひとは」ではじまる文章のうち、けっこうな割合で、実は、話題になっているのは、その、当の「本当に頭がいいひと」への称賛ではなくて、「その条件を満たさない身近にいる頭はいいかもしんないけどちょっとムカつくあいつ」ではないか? あのひとは頭いいかもしれないけどさ、本当に頭がいいひとってのは私たちにもわかりやすく説明してくれるのにね、あのひとはそこがちょっとね、みたいな。称賛に見せかけてその目は別のところを横目で見ている。
同じように、「誰も傷つけない笑い」を称賛することばを聞くとき、いつもではないけれど、そこには「かつて笑いで傷つけられた私」の恨みの響きがこもっていることがあるように思う。そこには、なんというか、ちょっと甘ったれた感情がまとわりついていて、それがこちらにねとっと投げかけられる感じがする。ねえ、あなただってやだよね、わかるよね、弱い私たちを守ってほしいよね。みたいな。これはまあおおげさな書き方だけれども。そういうときは、もう、「これが嫌い」と言った方が良い、と個人的には思う。何が好きかで自分を語るのは素敵なことだけれど、好きというものを称賛しつつ、それに満たないものを否定したい気持ちがあるのであればそれは明確にした方がいい。そんなことで好きなものを利用するのがいいことだとは思えない。
そして何より、そのような顔で「誰も傷つけない笑い」を称賛するひとたちは、みな一様に、自分は弱者で、弱いのだから、そのような笑いによって傷つけられるばかりのかわいそうな存在で、あたかも自分は笑いで誰かを傷つけたことはないし、これからもそんなことなんて起こり得ない、というようなピュアな被害者意識を当然のように持っていて、そしてきっとそれを自覚もしていない。「自分はこの点で間違いを犯すことはない」という意識もされないくらいの信念に裏打ちされた、でもあくまで弱い立場からの被害者意識の滲出。
弱いのだから直接「誰かを傷つける笑い」を否定することはしない(できない)けれど、しかし一矢報いたい。その甘ったれた被害者意識を、その語り口から感じることがあって、もやっとするんだろうな。別にいつもじゃないし、本当にやさしい気持ちでこのことばを口にしているひともけっこういることはわかっているのだけれど。
しかしこういう「響きからこういうニュアンスを感じ取ってしまう」みたいな話って、自分で自分の文を読んでてもちょっと思ったけど、ありもしない電波を受信するひとみたいにも見えなくはないね。わかるひとにはわかってもらえるかもしんないし、わかんないひとからすると勝手に電波受信してなんかゆってるこのひとやばい、みたいな話なのかも。実際のところどうなのか、は検証のしようもないことなんだけれど。という、ぼやきでした。長々と書いたけれども、ここまで書くほどもやもやしているわけではない(なんなんだ)。
画用紙にクレヨンで描いた幼稚なイラストを、過去によく母親や幼稚園の先生に見せていた。「描けたよ〜!見て見て!」……と。すると、それを見た大人は言う。「わぁ!上手に描けたね〜!」
珍しい体験ではないだろう。現に私もそう褒められた過去を持つし、子どもが絵を描いたら皆そうやって褒める。
腐女子の私もTwitterを始めた頃は、パースも構図もデタラメなBLのアナログな落書きを、写真に撮って投稿していただけだった。しかし数少ない閲覧者にいいねやRTをもらい、たまにリプをもらい、だんだん自信をつけていったのだ。そしてアナログから板タブになり、液タブを新調し、iPadで絵を描くようになった。次第にフォロワーも増え、本を出し、アンソロに参加し……。まだまだ欠点だらけなものの、以前よりも多くの人間に絵を見て貰えるまでになった。
振り返れば、ここまで同人活動を続けてこられたのは、フォロワー1桁代の頃の数人による反応が大きい。言うなれば幼子にとっての『ママ』である。絵を見てもらって褒めてもらう行為が、どんなに貴重であるかを今回の事件で痛感したのだ。
私の表現を不快に感じる人も居るだろう。反応がなければ絵を描かないのか?自分が絵を好きなら問題ない?他人の評価など気にしない?そう思う人はそれで大いに結構。だが私はそれを踏まえても、やはり多くの人に作品を見て欲しいし、その承認欲求が大きなモチベーションとなってきた。絵を投稿したあと、ソワソワと5分ごとに通知欄を覗く人以外は以降の文章を読まないでくれて構わない。
これから書き連ねるのは、私の懺悔と後悔も含んだ、小さくも悲しい出来事である。説教したい訳では無い。ただ思ったことを垂れ流している、ただのオタクの戯言である。
さて、今回の事件は──ただのフォロワー同士の諍いなのだが──、Twitter上で『ママ』を求めすぎた絵描きによるものだ。その絵描きはフォロワー数よりフォロー数のほうが多く、いいね数もほぼ無いオリキャラ絵をよく描いていた。よくリプを頂くので私は彼女と相互なのだが、正直に言って絵が上手くない。投稿頻度が高くTLを追いにくいため、こっそりミュートにしている。
この時点ではただの絵描きだ。だが彼女は違った。相互になった絵師や小説書きのもとに、DMやリプで自身の絵を貼っつけるのだ。相手の推しキャラや推しカプではなく、自身の考えたオリジナルキャラを。そして感想を求める。いいねやRTを欲しがる。彼女はそういう人なのだ。
私も例に漏れずその絵を送られる対象のうちの一人であったが、適度に受け流していた。無視したり侮辱したりしては、彼女を傷つけてしまうと懸念したからだ。この頃、私は自分が絵を投稿した初期にフォロワーから『ママ』のように褒められていたことを自分に投影し、「自分よりも下手な絵を褒めてあげる私って素敵!」などと酔っていたのかもしれない。少なくとも、尊敬の念で褒める気など微塵も無かった。それこそ幼い子の絵を褒めるように、『この装飾が素敵だね』『可愛い色使いだね』『雰囲気に合っているね』など。毒にも薬にもならないようなコメントをしていた。
しかし、そのコメントは彼女にとって承認欲求を満たす麻薬になっていたらしい。私以外の人にもそういった感想を求め続けた。他の絵師にもその行為を繰り返し、受け流すことで承認欲求は倍増した。「あなたも○○ちゃんから絵送られてきた?あれってどうしてる?」などと他のフォロワーから相談されたこともしばしば。腫れ物に触るように、私たちは彼女を取り扱っていた……と、思う。
昨夜のことだ。とある絵師が投稿した作品に彼女はリプライで自分のオリキャラ絵を貼った。しかし当の絵師は無視し、それを見て彼女は拗ねた。メンヘラ気質なことは知っていたが、その行為ひとつで病みツイを連投し、あからさまに拗ねたのだ。(『拗ねた』という表現をあえて使わせて欲しい。それほどまでに幼稚だと思えるからだ)
絵師はエアリプで「私だって興味のある作品を選ぶ権利はある」とのこと。その通り。絵師には同情しかない。だって絵師本人は何も悪いことなどしていないのだから。とはいえ、ある意味で私のほうは重罪だ。適当に褒めそやして、彼女の承認欲求を膨らませてしまったのだから。
絵描きのはしくれである私としては、絵を描く行為を好きでいて欲しくて、そうやって褒めていた。しかし、私は彼女の良き『ママ』にはなれなかった。適切に指摘し、良い方向へと導くことは出来なかったのだ。ただただ自尊心を高めるだけで、彼女自身のスキルを成長させるには至らなかった。
そういえば──。幼稚園の頃は落書きを褒められていた私だが、中学生の頃、美術の時間にクラスメイトから言われた。「お前の絵、それだと腕の動きおかしくね?」
今でもセリフを覚えているのだ。当時は悔しくて悔しくて仕方なかった。なんとか笑顔を繕い、「え〜?何それひどくなーい?」と笑い飛ばした。だが、クラスメイトの言葉はその後の私を大きく変えた。確か、その頃からだろう。私が人体パーツを意識するようになったのは。過去の絵を光に透かして、反転した絵が歪んでいたと自覚したのは。
お絵描きをするのに大切なのは、褒めてくれる『ママ』ではない。ズバリと指摘してくれる『クラスメイト』が必要だったのだ。そしてそれをバネに描きまくる不屈の精神と、自己を分析し見直すポテンシャルも同様に不可欠なのである。そこまでして絵を描かなければ、膨れ上がった承認欲求など満たされないのだ。世間はお前のママじゃない。そんなにSNSは生ぬるくない。
思えば、私がパースも構図もぐちゃぐちゃな頃に褒められていたのも、別に私が無条件に愛されていた訳では無い。当時は、下手でも下手なりに工夫や伸び代が見られたからこそ、フォロワーは褒めてくれたのだろう。「描く度に色塗りが上手になってる!」「どんどん自分の絵柄を確立しているね!」と、フォロワーは私の絵と向き合って評価してくれていたのだ。『ママの甘やかし』ではなく、適切な評価だったと、今更になって思う。
もちろん、絵が下手なまま、話が面白くないままSNSに投稿し続ける人はいるし、それが悪いとは微塵も思わない。無条件に認めてくれる存在を求めるから反感を買ってしまうのだ。
そういった面では私も当然未熟者だ。高い評価を得る絵師を見ては、劣等感を感じ、深く落ち込む。予想していたよりも投稿が伸びなければ、反動で承認欲求がどんどん膨れ上がる。だがそれではダメなのだ。自分の絵が認められないのは、そうである理由が存在するはずだ。成長なしに、手放しで褒めて貰おうなど甘ったれた考えでしかない。この事件を通じて私は痛感した。己のいい加減さと、未熟な考えを。
結局、彼女は筆を折るのだろうか。まだ絵を描き続けるのだろうか。私のもとにオリキャラ絵が届けられた時はなんて言おう。当事者の絵師は今後どうなるのだろう。
とはいえ、絵描きはいつでも褒めてくれる優しい『ママ』の存在を、心の奥底では欲しがっている。私も無意識のうちに『ママ』を求めているのだろう。きっと、この甘えん坊状態はいいねの数を気にしている状況ではずっと変わらないはずだ。絵描きとして、早く独り立ちしたいものである。