「誰も傷つけない笑い」ということばを聞くたびに、少し、もやっとする。「誰も傷つけない笑い」自体はいいことだと思う。傷つけるよりは傷つけない方がいいし、笑いにおいても、笑いでなくとも、あらゆる場面でなるべく傷つくひとが少ない方がいい。ただ、「誰も傷つけない笑い」ということばは、いつもではないけれど、ときどき、微妙なニュアンスを含んでいることがあって、それが私をもやっとさせる。
そこには「本当に頭がいいひとは」ということば使いを聞いたときと似ている感じがある。その後に続くことばはなんでもいい、ただ「本当に頭がいいひとは」ではじまる文章のうち、けっこうな割合で、実は、話題になっているのは、その、当の「本当に頭がいいひと」への称賛ではなくて、「その条件を満たさない身近にいる頭はいいかもしんないけどちょっとムカつくあいつ」ではないか? あのひとは頭いいかもしれないけどさ、本当に頭がいいひとってのは私たちにもわかりやすく説明してくれるのにね、あのひとはそこがちょっとね、みたいな。称賛に見せかけてその目は別のところを横目で見ている。
同じように、「誰も傷つけない笑い」を称賛することばを聞くとき、いつもではないけれど、そこには「かつて笑いで傷つけられた私」の恨みの響きがこもっていることがあるように思う。そこには、なんというか、ちょっと甘ったれた感情がまとわりついていて、それがこちらにねとっと投げかけられる感じがする。ねえ、あなただってやだよね、わかるよね、弱い私たちを守ってほしいよね。みたいな。これはまあおおげさな書き方だけれども。そういうときは、もう、「これが嫌い」と言った方が良い、と個人的には思う。何が好きかで自分を語るのは素敵なことだけれど、好きというものを称賛しつつ、それに満たないものを否定したい気持ちがあるのであればそれは明確にした方がいい。そんなことで好きなものを利用するのがいいことだとは思えない。
そして何より、そのような顔で「誰も傷つけない笑い」を称賛するひとたちは、みな一様に、自分は弱者で、弱いのだから、そのような笑いによって傷つけられるばかりのかわいそうな存在で、あたかも自分は笑いで誰かを傷つけたことはないし、これからもそんなことなんて起こり得ない、というようなピュアな被害者意識を当然のように持っていて、そしてきっとそれを自覚もしていない。「自分はこの点で間違いを犯すことはない」という意識もされないくらいの信念に裏打ちされた、でもあくまで弱い立場からの被害者意識の滲出。
弱いのだから直接「誰かを傷つける笑い」を否定することはしない(できない)けれど、しかし一矢報いたい。その甘ったれた被害者意識を、その語り口から感じることがあって、もやっとするんだろうな。別にいつもじゃないし、本当にやさしい気持ちでこのことばを口にしているひともけっこういることはわかっているのだけれど。
しかしこういう「響きからこういうニュアンスを感じ取ってしまう」みたいな話って、自分で自分の文を読んでてもちょっと思ったけど、ありもしない電波を受信するひとみたいにも見えなくはないね。わかるひとにはわかってもらえるかもしんないし、わかんないひとからすると勝手に電波受信してなんかゆってるこのひとやばい、みたいな話なのかも。実際のところどうなのか、は検証のしようもないことなんだけれど。という、ぼやきでした。長々と書いたけれども、ここまで書くほどもやもやしているわけではない(なんなんだ)。
勝手に感じることは全部自分が思ってることですよ。