はてなキーワード: やさしい気持ちでとは
しつこいとかキモいとか思われないために誰かにしつこくすることはやめた
でも誘われたら断ることはしなかった
でも私は今も一人だし
誰かが困っていたら助けるようにした
仕事場では優しい!って何人かの人に言われるようになった
でも私は一人だし
好きな人とも結ばれなかった
せめて子供のころの夢をかなえようと
でも、こんな何もない大人が一人で地元を出ても、ただ一人なことが強化されるだけだった
私は一人だったけど、それでも親が一人いたし
でも今はそれもいなくて本当に一人だ
ずっと誰かに愛されるよりも愛する気持ちを大事にしようとしてきた
昔を知っている数少ない友達からは、遅刻もしなくなったし 優しくなったし 今の(性格)のほうが絶対にいいよっていってくれた
でも私の周りには誰もいなくて
ぜったいに高校生とかの時のほうが、人がいた
やさしい気持ちでいるだけじゃ誰も寄り添ってなんてくれなくて
つらい
でも我儘な気持ちを出しても人が離れていくばかりで
好きな人ができたらその人のために生きたいと思っても重いとか、孤独だから俺なんかが好きなんだよとか言われた
だれか一人に入れ込んでしまうとそういわれるからひとりに入れ込むのはやめた
薄っぺらい関係だけの知り合いが増えて、誰とも連絡を取ることもなくなった
何かをどうにかしようとすればするほど、状況が悪化していくようで
つらいよ
昨日の夜、夢を見た。
駅前でサークルのメンバーと飲んだ後、電車に乗って帰る夢だった。電車はゆっくり走るから、乗り換えの駅に着くまでずいぶんかかったけれど、その分おしゃべりが弾んだ。真っ昼間の出来事で、車窓から入る日差しが暖かくて気持ちよかった。その時のメンバーは、先輩と私含めた同期の数名だった。夢の中で、私は幸せだった。
なぜか、飲んだメンバーの一人に、サークルとは無関係な人物がいた。高校時代に恋をした同級生の女の子だった。私はその女の子に彼氏が居るのを知らずに告白し、あっさりと振られたのだった。
誰かが、「お腹が大きくなってきたね」とその女の子に話しかけた時、初めて女の子が妊娠していることを知った。飲み会に来た同期の一人が妊娠していることは知っていたけど、まさかその子も妊娠しているとは思っていなかったので、とても驚いた。
確かに注意して見てみると、女の子はゆるい服を着ていて、お腹がふっくらと膨らんでいた。やさしい気持ちでお腹をさすった感触は、今でも右手にかすかに残るほど鮮明だった。
目が醒めて少ししたとき、この夢は、深層心理にある自らのコンプレックスを露呈させたものだと気がついた。かつての同級生や同期にはみんな、きっと愛する人がいて、キスしたりセックスしているのに、私には何もない。
夕食を取ってベッドに横たわった時、ふと、サークルの同期の女性とセックスをする妄想が、意図せず頭をよぎった。赤い口紅を塗った彼女は、仰向けになった私の上で腰を振っていた。ひどい妄想を断ち切ろうとしたけれど、必死になるほど妄想は生々しくなり、茶碗にこびりついた納豆のネバネバのように頭に残り続けた。理性では止めたいのに勃起は収まらず、ついに我慢できなくなって、ぶちまけてしまった。
サークルの活動や飲み会がコロナで激減していたので、片手で数えられるくらいしか彼女と会ったことがない。彼女は、適切な距離感を保ちながら人付き合いしていくべき友人の一人である。にもかかわらず、大切な友人を、性欲とコンプレックスのはけ口にしてしまった自分を軽蔑した。
コンプレックスの中で嬉しそうだった自分や、ひどい妄想にふける穢らわしい自分、ねじ曲がった人格の自分。そいつらをいくら軽蔑しても、それが紛れもなく私であることにやるせなく思う。考えていくうちに、私の存在がどんどん嫌になる。近いうちにサークルの活動があるけれど、彼女に会った時、私はどうなってしまうのか、彼女に酷いことをしないかと不安になる。
あんな浮かれた夢なんて、見なければよかった。
「誰も傷つけない笑い」ということばを聞くたびに、少し、もやっとする。「誰も傷つけない笑い」自体はいいことだと思う。傷つけるよりは傷つけない方がいいし、笑いにおいても、笑いでなくとも、あらゆる場面でなるべく傷つくひとが少ない方がいい。ただ、「誰も傷つけない笑い」ということばは、いつもではないけれど、ときどき、微妙なニュアンスを含んでいることがあって、それが私をもやっとさせる。
そこには「本当に頭がいいひとは」ということば使いを聞いたときと似ている感じがある。その後に続くことばはなんでもいい、ただ「本当に頭がいいひとは」ではじまる文章のうち、けっこうな割合で、実は、話題になっているのは、その、当の「本当に頭がいいひと」への称賛ではなくて、「その条件を満たさない身近にいる頭はいいかもしんないけどちょっとムカつくあいつ」ではないか? あのひとは頭いいかもしれないけどさ、本当に頭がいいひとってのは私たちにもわかりやすく説明してくれるのにね、あのひとはそこがちょっとね、みたいな。称賛に見せかけてその目は別のところを横目で見ている。
同じように、「誰も傷つけない笑い」を称賛することばを聞くとき、いつもではないけれど、そこには「かつて笑いで傷つけられた私」の恨みの響きがこもっていることがあるように思う。そこには、なんというか、ちょっと甘ったれた感情がまとわりついていて、それがこちらにねとっと投げかけられる感じがする。ねえ、あなただってやだよね、わかるよね、弱い私たちを守ってほしいよね。みたいな。これはまあおおげさな書き方だけれども。そういうときは、もう、「これが嫌い」と言った方が良い、と個人的には思う。何が好きかで自分を語るのは素敵なことだけれど、好きというものを称賛しつつ、それに満たないものを否定したい気持ちがあるのであればそれは明確にした方がいい。そんなことで好きなものを利用するのがいいことだとは思えない。
そして何より、そのような顔で「誰も傷つけない笑い」を称賛するひとたちは、みな一様に、自分は弱者で、弱いのだから、そのような笑いによって傷つけられるばかりのかわいそうな存在で、あたかも自分は笑いで誰かを傷つけたことはないし、これからもそんなことなんて起こり得ない、というようなピュアな被害者意識を当然のように持っていて、そしてきっとそれを自覚もしていない。「自分はこの点で間違いを犯すことはない」という意識もされないくらいの信念に裏打ちされた、でもあくまで弱い立場からの被害者意識の滲出。
弱いのだから直接「誰かを傷つける笑い」を否定することはしない(できない)けれど、しかし一矢報いたい。その甘ったれた被害者意識を、その語り口から感じることがあって、もやっとするんだろうな。別にいつもじゃないし、本当にやさしい気持ちでこのことばを口にしているひともけっこういることはわかっているのだけれど。
しかしこういう「響きからこういうニュアンスを感じ取ってしまう」みたいな話って、自分で自分の文を読んでてもちょっと思ったけど、ありもしない電波を受信するひとみたいにも見えなくはないね。わかるひとにはわかってもらえるかもしんないし、わかんないひとからすると勝手に電波受信してなんかゆってるこのひとやばい、みたいな話なのかも。実際のところどうなのか、は検証のしようもないことなんだけれど。という、ぼやきでした。長々と書いたけれども、ここまで書くほどもやもやしているわけではない(なんなんだ)。
この間 夫の実家に生まれた子供(娘)を連れて行ったんだけど、義父がベタベタと私の子供を触るんだよね。
いや、ベタベタってのも私の印象でしかなくて、義父にとっては可愛がっているだけなんだろうけど…とにかく気持ちが悪い。
とにかく 度が過ぎたら引き離すつもりで義父が子供に絡むときは子供の側を離れないようにした。自分でも目が恐くなってたと思う。
多分、義父にはそんな気持ちはこれっぽっちも無かったから遠慮なしに触りまくってたんだろうけど。
これって子供が娘だからだろうか。息子だったら もっと寛容に、やさしい気持ちで見れていたんだろうか。
その一本だけなら観ないか、今ほどは楽しめないだろうって作品あるよね。
例えば『ポプテピピック』は、パロディの元ネタや声優について知らなければ、何も面白くないだろう。
BSで同じ時刻にやってる『ミイラの飼い方』は、それだけでも楽しめるんだけど、他のアニメが殺伐としているので(30分前は『キリングバイツ』ですよ)、より一層やさしい気持ちで楽しめるんだと思う。
『異世界スマホ』『ダイナミック コード』あたりは、他の完成度が高いからこその悪目立ちだ。
『デスマーチ異世界』は、設定が似ているってだけの『異世界スマホ』のパワーを借りて、一周回った楽しみ方ができる。
他に何かありますか?