はてなキーワード: 平和とは
1.何かが流行る
2.猫も杓子も同じことをするので飽きる
3.ソレをするのはみっともない、ダサいとなる(ダサ化)
4.時代とソレが結びつき、数年後よりできなくなる(今更化)
6.何も知らない若者がソレをしはじめる、この時上の世代はダサくてできない(聖域)
子供に「首に水筒をかけてたら危ないぞ」と声をかける事案が注意喚起されたとライブドアが記事にした、多分事案に突っ込むネット文化に乗っかったバズ目的の記事だろう。
https://news.livedoor.com/article/detail/26808998/
これに対する地元民の反応が、男性は『長閑なところだし100%親切』に対して女性は『田川市ではわいせつ声かけ事案が続いてるのでおそらく警戒を強化されています』
同じ地域で住んでいても男性は変質者なんかいない平和でしっかりした地域と感じ、女性はわいせつな声かけをする事件が続いて警戒を強めている地域と感じている。
ワイの県で草
田川は長閑なところだし100%親切だろうに…道行く中高生ですら通りすがりに見知らぬワイに挨拶するくらいしっかりしてる地域やぞ
田川市ではわいせつ声かけ事案が続いてるのでおそらく警戒を強化されています。そういった背景も是非ご承知願いたく。
田舎の小学校では『不審者徘徊や声かけはとにかくすぐに通報をお願いします』ということになっています。
人の目も少ないのでやむを得ない所もあります。
一つ言っておくと、現状を変えたくない、新しいことは怖い、「外」は外「内」は内で暮らしたい、どちらかと言えばお気持ちが重要……そういう心性に基づく思想を保守主義と言います。
一方で、現状を変えることも厭わない、新しいことは楽しい、「外」も「内」もなくなればよくない?、どちらかと言えば理屈が重要……そういう心性に基づく思想が革新主義です。
誰もが、幾分か保守で幾分か革新です。割合は人それぞれ。どちらがいい、悪い、上か下か、そういうのはありません。これ大事です。どちらが絶対に良くてどちらが絶対に悪いということはないんです。あなたは多分、真っ当に教育を受けてきた人なんでしょう。ひょっとしたら、理屈で正しいことが正しくて、感情に振り回されるのは間違ったことで、従ってより理屈が通った新しいことは受け入れるのが正しい、受け入れられないのは狭量で間違ったことだ……みたいな考え方を内面化しているかもしれません。それはちょっとした呪縛です。あんまり気にしない方がいいです。誰でも、必要以上に努力を強いられることなく、社会の片隅で暮らし、その範囲で感じ考えたことに基づいて振る舞えばよいのです。それで社会がうまく回るような仕組みを作るべきなのであって、そうやって民主主義というのは回っていくものなのです。誰かの判断だけが正しいから、その人に従おうというのは民主主義ではありません。誰もが主人であるから、誰もが思うように振る舞ってよい、それが民主主義です。
さて、こう前置きした上で言いますが、あなたの考え方はかなり保守寄りです。憲法改正反対も「なんとなく不安だから」、金権政治に憤るのも「むかつくから」……と考えれば、それらも極めて保守的な反応と言えるでしょう。悪い意味じゃ無いですよ。ですから、あなたの自認がどうあれ、あなたはとても保守的な人間だということをまずご理解いただければと思います。そして、それは別に悪いことではないということも。別に、「なんとなく不安だから憲法改正には反対」で構いませんし、「むしろ外国が不安だからなんとなく改正したい」でも別に構やしないのです。みんなのそういう総意で創意すればそれなりにうまいこと形に落とし込むのが官僚という頭のいい人たちの仕事なので、せっかく税金払ってるんだから、投票という義務を果たしたらあとは成り行きを見守っていたらよいと思います。
じゃあなんで、長々レスを付けるのか。実は、少しだけあなたが「不安」に思った方がいいのでは……ということについて、「どちらかと言えば革新寄り」な私の見解を少しだけお伝えしたいと思ったからです。少しだけお時間いいでしょうか。まあ「革新寄り」な人間の言うことですから、話半分に聞いていただいていいのです。お茶でものみながら聞いて(読んで)ください。別にあなたを革新主義にしようとか思っちゃいません。(そもそも、そんなこと不可能です! 会ったことも無いあなたの「不安」をぱーっと解消して、新しいモノ好きの人間にするとか、そんな怪しい洗脳みたいな真似が言葉だけでできるなら、増田に書くよりよほどほかにすることがあるでしょう。)
私の思うその「不安」というのは、あなたも薄々感じているとおり、あなたの「不安」を外に出せないということと関係があります。あなたはあなたの「不安」を人と共有できない、と感じている。それはおおむね正しいです。それは、その「不安」が間違っているからではない(これは何度でも注意しておきます)。その「不安」が人を傷つける可能性があるからです。賢明なあなたは、どこかでうっすらとそのことに気付いている……あるいは、そうどこかで教わったことを内面化できている、そのおかげで、今のところはその不安を口に出さずにいる=誰かを傷つけることから免れている、というわけです。では、その不安を外に出したらどうなるでしょう。
あなたはすでに中年とのことですが、ひょっとしたら自分か親戚に子どもや甥や姪がいるかもしれませんね。親しい人、大切な人の一人や二人はいるのではないでしょうか。自分以外の誰か、目の中に入れても痛くない、あるいはその人が苦痛を負っているなら、その一部を分け持ってもいい、そう思える人の一人がいないでしょうか。あるいは、この先、そういう人が現れる可能性はないでしょうか。保護しなければいけない子、親戚でも近所でも、そんな縁がつながることがあるかもしれません。では、そのとき、その人がトランスジェンダーであったら? イスラム教徒であったら? その人が将来連れてきた伴侶がそれらの属性の人であったら?……そのとき、あなたがそんな発言を残していたら、それは確実にその「あなたの大事な人」を傷つけることになります。それはあなたにとって「不安」ではないでしょうか。
心というのは、表に出していないつもりで、結構端から洩れているものです。テレビを見ているときにちょっと眉を曇らせる、普段のちょっとした言葉や態度の端々に、あなたが考えていることは現れてくるものです。よほど厳しく自分をルールで律してでもいない限り(そういうのは革新主義の人の得意分野ですが)、あなたはおそらくあなたの内心を隠し偽ることができないでしょう。それだけに、軽々にああいった書き込みをしてしまうことには、少し慎重になられた方がよいのではないかと思うのです。ただしそれは、あなたの今感じている「不安」を押し隠すという方向である必要はなく、「不安」をそのまま剥き出しにしない……それが無闇に人を傷つけるものに成りにくいように配慮できたら、あなたの「不安」は幾分か少なくなるのではないでしょうか。
たとえば、
・トランスジェンダーを女性用スペースから排除してほしい→トランスジェンダーの生きにくさと女性の不安を共存できるようなやり方を検討してほしい
・移民を排斥したい→移民の人との間の文化的摩擦が最小となるよう十分な配慮を望む
・イスラム教徒とは共存できない→イスラム教の教義に基づき(これは実際にそう)日本社会との相互不干渉の維持に勉め日本社会への理解を促進してほしい
ね。
そもそも「異教徒ブッコロOK」というのは、愛の宗教を歌い「汝の敵を愛せ」とイエスが言った聖書を奉じるキリスト教ですら延々とやってきたことです。ユダヤ教が現にやっていることでもあります。逆に、人種、民族、身分格差は認めない、異教徒(一神教の)の信仰も認める、という教義のイスラム教が彼らより危険だというのは、少し公平性を欠いた議論であると思います。世界的に見れば、神を信仰しない日本人は相当「気持ち悪い」人々と思われていますが、それはそれで心外ですよね。うっすらとした信仰心みたいなものはあるし、それで社会がおさまってるからいいじゃん、と私たちは思っています。日本の一部で起きた過激な事件に紐付けて(たとえばオウム事件などに寄せて)キリスト教国じゃない国はこれだからダメだ、日本人とは共存できない、とか言われたら、少なくとも「それはちょっと誤解があるよ、大多数の日本人はそんなんじゃないよ」と言いたくなりますよね。それと同じです。
トランスジェンダーの多くの人は、不安がってる女性の中に飛び込んで「うぇーい」したい人ではありません。ただ、男性の中にいて感じている「居心地の悪さ」を、可能ならなんとかしたい、それだけのことです。解消する方法はなんでもよいのです。私はたとえば、もう真っ裸で入る公衆浴場というのはあきらめて、みんな水着で入るようにすれば全部解決だと思ってますが、たとえばそういうことです。みんなでちょっとずつ不自由を分担すれば、誰の「不安」も解消できるので、ナイスアイデアだと思うのですが。
それから、あなたの感じる「左派」への不安、ちょっと分かるのです。なぜなら、どうも「左派」の目立つ人々の中には、自分は「正しい」、自分は「弱者の味方だ」、自分たちは「正義の守護者だ」、自分たちに反対する人間は「悪だ」……そういう雰囲気を漂わせ、そういう言行をする人が散見されるからです。これはあまり感心できないことです。敵を「排除する」とか自分たちは正義でありこれは「変わらない」……それらは極めて「保守主義」的な言動であり、彼らが口にする革新的な主張と相容れないからです。保守主義がダメというのではなく、言行不一致で人を不安にさせるのがダメなのです。もちろん、ゴリゴリに保守主義的な左派にもそれなりの存在意義はあります(岩盤層の維持といった意味で)。ただ、彼らが主流となることはないでしょう。それに比べて、保守と名乗りつつ十分柔軟な発想ができる革新主義者、というのは、なかなか信頼がおけそうで、多数の支持を得るのも当然かもしれません。保守的な主張により保守派から、柔軟な態度や言動により革新派から、それぞれ支持を受けられるからです。後者が支持者を不安にさせないのは不思議ですが、彼らがその柔軟さによって巧みに顔を使い分けると考えれば、必ずしも不思議では無いでしょう(その点、革新の旗を掲げる保守主義者は、顔の使い分けが下手なように思います。素直な人々と言えばそうなのですが。)。左派の方々が現状で支持を得られないことには、それなりの根源的な理由があり、それはあなたが心配したり後ろめたく感じたりしなくてもよいことです。彼ら自身が考えるべきことです。あなたは先のエントリで、自分がなぜ左派に投票「できないのか」について、延々と述べているように感じました。それは、まるで「左派に投票するのが『正しいのかもしれないが』、こういう理由でできないのだ」と誰かに説明しているように見えました。でも、大丈夫です。最初に述べたとおり、たとえば投票といった場において、あなたがあなたの考えた通りに振る舞うことに、何の問題もありません。あなたは、自分が左派寄りだと思っているかもしれませんが、私から見れば十分保守寄りですし、だからといってそれがいけないということは全然無いからです。はっきり言いますが、革新主義者しかいない島があったとして、私はそんな島に住みたくはないです。もちろん、保守主義者しかいない島があったとしても同じ。これはおそらく7割から8割の人が、実際そうなんじゃないでしょうか。両方がいて、あれこれ意見を交わしながら、都度都度方針を決めて、あるときは保守的に、あるときは革新的に物事が進んでいるというのが、一番平和で適切ではないかと思います。だから、それでいいのです。
まあ、長々となりましたけど、要するに「あなたは別に今のままでOK」、ただ、「将来も後悔しないような言動ができるよう、少しだけ配慮した方がHappyじゃね?」って話なのです。軽々しく排除的な言動を、たとえ匿名でもしてしまったら、最後は自分自身だって傷つくのでは無いかなあという、ただそれだけの老婆心でした。なんだか偉そうになってごめんなさい。最後までご静聴ありがとうございました。
「違法じゃないし」と、どう考えても人の迷惑なるようなことも平気でする。
相手の話を聞いて理解し、妥協点を探っていく平和的な解決方法が取れない。
私が中学校の時の友人の話をしよう。名をMという。ガリガリでいつでもワンパンで倒せそうな子供だった。
Mは体育の授業の持久走では絶対に走らなかった。体育の先生は40歳くらいの柔道専門のいかにも強面の人で、いわゆる不良も体育の授業だけは真面目に受けていた。そんな先生相手にMは堂々と絶対に走らないと宣言し、牛歩戦術ばりのダラダラとした歩きを披露した。その光景はその先生を煽っているようにすら感じられた。
体育教師の怒声が飛ぶ。正座のために先生が指さしたのは日陰でもなく太陽が照りつけるコンクリートの上だ。気まずさが辺りを包み込む。みんなの視線を集めているMは無言で歩き出し、当たり前のように正座を始め、グデーと腕を伸ばし体を丸めてヨガのポーズみたいな格好をした。このポーズは彼がやる気がないことを全力でアピールするために愛用していたものである。
ある日の給食時間中、Mは心無いサッカー部の男子に「お前野菜とか食わないでデザートとかの美味しいものしか食べないな」と悪口を言われた。その日以来、給食時間には誰が何と言おうと頑なにあの謎ヨガポーズを取り続け一切給食を食べなくなった。Mのデザートはいつもそのサッカー部の男子がありがたく頂戴していたという、胸糞悪い話でもある。
あの謎ヨガポーズは彼なりの筋の通し方で、精一杯の反抗手段だったのであろう。非暴力・非服従のガンジースタイルで彼はいつも自分の気に入らないこと全てと戦っていた。
私が中学に入るとクラスに剣道の経験者がいた。入学したての時に、その子に誘われて軽い気持ちで見学にいくと、椅子に座らされて簡単には帰れなくなり、そのままずるずると剣道部に入ることになる。中学1年生の私を思いっきりビンタしたい。踏みとどまれよ。何せそれまでの私の人生に剣道との接点なんて何もなかったのだ。今思うと中学からいきなり剣道を始める方がどうかしていた。
そんなこんなで始めた剣道は、いかんせん面白くなかった。野球、サッカー、バスケなどと違い、剣道は遊びでやっても全く面白くないというとにかく救えないやつだった。暑い、臭い、汚いの三拍子そろっていた。
私は己がはまり込んでしまった剣道という沼に1人でも多く引きずり込みたかった。そして生贄としてMが選ばれた。多少強引とも取れる平和な交渉の末に彼は剣道部に入った。小学生のときは家にこもりがちだったMを外の世界に引っ張っていったので、彼の母には大層感謝された。WINーWINである。
ある日、Mは、アップの素振り中に、面・胴・小手のリズムで、めん、どう、くせ〜〜と叫びながら竹刀を思いっきり空高く放り投げた。Mは竹刀も拾わずそのまま部室に駆け込むと、周りの静止も聞かず、着替えてそのまま帰ってしまった。我慢の限界だったのだろう。そのまま自然な流れでMは剣道部をやめた。1年持たなかったが、今思い返すとよく耐えた方である。顧問4段、副顧問3段というガチ剣道指導者に囲まれた当時の私たちには逃げ場などなかった。中学から部活に入りそれまでまともな運動習慣がなかったMにとって、あの環境での練習に耐え忍ぶことは、想像を絶するほどのストレスだったのだろう。
生贄はいなくなったが私は結局3年間剣道に捕らわれたままで、高校になったら絶対に辞めてやるとのモチベーションだけで最後までやり遂げた。
Mには逃亡癖があった。自転車で実際に校外に出たのは1回や2回ではなく、駐輪場で教員や友達に捕まった未遂まで含めると1年で10回を上回る。駐輪場で確保された後に、教室に連れていこうとすると、自転車のチェーン式の鍵を持ち出して、近くの柱にズボンのベルトと絡み合わせて己の体を固定させて、「動けない〜〜」と手足をバタつかせてみんなを呆れさせた。自転車で学校からの脱走に成功したとしても、親の許可も得てないので家には帰れないし、インドアを極め煙草などの非行にも縁もゆかりもないMにいく場所などなかった。
Mは遊戯王にハマっていた。カードでも遊んでいたが、何より当時放送されていた遊戯王5DSというアニメにハマっていた。
「遊戯王のアニメって所詮カードを売るためのでっかいCMだろ」
と私がMに話した時、Mは口をパクパクさせて抗議の意をしめしてきた。私の失言癖は今も変わらないが、己の無配慮に今更ながら申し訳なく思っている。
Mは遊戯王5DSの敵キャラ・鬼柳京介(きりゅう きょうすけ)から大きな影響を受けており、中学2年生の一時期は事あるごとにこのキャラの口癖である「満足できないぜ」を連発していた。清々しいまでの中2病だ。当時の私はというと、Mが何か変な行動を起こすたびに、同じアニメのクロノス教授の真似をして、「ドロップアウトボーイなの〜ね!」と煽っていた。性格の悪い中2病だ。
Mは持ち前の地頭の良さを屁理屈にしか使わないので、学校の成績は壊滅的だったが、そこをイジるといつも半笑いでちょっと怒っていた。普通に学校生活が送れないという意味では、リアルガチでドロップアウトボーイであったMの言動は私を退屈させなかった。だからこそMと友達だった。酷い友情の形もあったものである。
不器用で要領悪いが自分を貫くMの姿に好感を持てた。多くの人が眉をしかめるMの言動も私は常に面白がっていた。
あの頃の私はM君係として周りに認識されていた。1年こそ違うクラスだがその実績が認められ、当然のように2. 3年生の時Mと私は同じクラスであった。奇行が目立ち何かと周りから浮きがちなMに対して、私は特別扱いして諦めずに、失礼なこともいう対等な友達として接した。
なぜここまで詳細にMのことを覚えているかというと、それは彼と過ごした中学生生活がかけがえのない色褪せないものであるからというのももちろんあるが、正直に話すと、今の私が中学校の特別支援学級の担任だからである。
特別支援学級にはMのような子が大勢いる。Mの特徴は自閉症に当てはまるのだ。今ならMはおそらく自閉症の診断名がつき支援学級に在籍しているだろうが、15年ほど前にそんなクラスは存在しなかった。ただ変わった子が教室にいつも普通にいて、私はその子の世話係的な役割だった。
心ない言葉をなげる人は多分自分を守ることを考えている。自分を守ることと他者を攻撃することを同一視している。自分が間違っていることを認めてしまうと何もない気がしてしまっているんだと思う。自分が正しいことを示したくて他者を攻撃している。自分が正しいということを、その言葉を使って表現したいだけで、その言葉そのものに意味はない。自分が正しいことこそ意味があると思っている。
何を期待してその言葉をなげてしまうのか。自分や自分の考えの正しさを示したいのか。その正しさのなかに、その行動は含まれているのか。
凡人は空虚な正しさを捨てて一回自分に何もないことを認めて、そこから始めるしかないのだと思う。何が大事で何が大事でないか、何かを持っている状態でなく何も持っていないところから始める。
逆に非凡な人は、何かを持っているからその何か以外のものを持つ必要がないんだな。そういう意味で凡人のことはわからないのかもしれない。
そして私は空っぽになった。でも、この空っぽをどう埋めればいいのか。これを探していくのが人生なのか。だとしたら苦しい。この何もなさとどう付き合っていけばよいのか。
その答えは多分そこなしの沼しかない。
何の見返りもなく愛せるもの、無償の愛を送ることのできる対象を見つけるしかない。ただし、他者が絡むのはよくはない。他者への期待が膨み、見返りを求める可能性があるから。
人の沼を絶対に馬鹿にするな。特に意味など求めるなどもってのほかだ。その人にしかわからない意味があるし、その存在が意味だからだ。そういうものがあることを理解するだけでもいい。それが不可侵なものだと理解してくれれば世界は平和だ。
各自が自分の沼に浸れているうちは平和だ。その世界では比較など無意味だ。
しかし、この道は孤独に通ずる道でもある。この孤独を自分で愛せるようにならないといけない。
この孤独を愛せたら死も楽しみになれるだろうか。
参考文献
匿名だから厨二病を発揮する権利はフル活用すべきだけど、たまには現実も思い出してね
子どもたちはちゃんと大人たちを見てるので、他国の子どもたちが、研究者や起業家や技術者に憧れている横で、下記をやりたがる日本の子どもたち
- スポーツ選手 ← 嘘が入り込む隙が比較的少ない
- Eスポーツプレイヤー ← 嘘が入り込む隙が比較的少ない
- YouTuber ← 短期的な再生数ならともかく、長期的な再生数は嘘が入り込む隙が比較的少ない
- 水商売 ← 国立大でミスコン(当然整形もある)を容認していて、風俗やりながら高等教育を美談として扱うあたおか教育者がいっぱいいる国
子ども『親の面倒なんかみたくね〜』
日本の子どもが親を尊敬しているのは調査国最下位の37%で、
親の面倒なんかみたくないし、(強いて言えば)金は出してもいいけど他人に親の面倒を看て貰いたいし、
体の不自由な人、 お年寄りなどの手助けはしないし、弱い者いじめは見なかったことにするし、
なによりも自分自身のことをダメな人間だと思っている
日本 米国 中国 韓国 親(保護者)をとても尊敬している 37.1% 70.9%⭐️ 59.7% 44.6% どんなことをしてでも自分で親の世話をしたい 37.9% 51.9% 87.7%⭐️ 57.2% 親の経済的な支援をするが、世話は家族や他人に頼みたい 21.3%⭐️ 19.3% 6.3% 7.3% 体の不自由な人、お年寄りなどの手助けをしたことがある 53.5% 78.7% 78.8%⭐️ 60.8% 弱い者いじめやケンカをやめさせたり、注意したことがある 27.2% 63.2%⭐️ 54.2% 50.5% 私は人並みの能力があると思う 55.7% 88.5% 90.6%⭐️ 67.8% 自分はダメな人間だと思うことがある 72.5%⭐️ 45.1% 56.4% 35.2%
みんながみんなそれぞれの陣営に立って対立して、誰かが当選しても延々と攻撃し合ってる。相手が口を閉ざすまで石を投げるのをやめない。
スポーツみたいに互いを称え合うという段階がいつまでたっても来ない。
やっぱ一般市民をビームで焼き払ったり爆弾を仕掛けて自爆テロに使ったりして惨たらしく虐殺するとか敵を殺して問題を解決するのがガンダムだよな。
水星の魔女は人が死ぬことがそれほどなく不思議パワーで誰も殺さずに敵を無力化し、ついでに「さらば全てのGUND-ARM」をやって戦争を終わらせてしまった。
「やめなさい!」のフレッシュトマトじゃ血が足りない。もっと血を見せてくれよ。
学校の同級生が卒業後に敵味方に分かれて殺し合う、そんな血の同窓会が学園ものの醍醐味じゃねーのかよ。