はてなキーワード: 天皇とは
悪評が全国区に轟く北の大地では今日も記者が逮捕されるだの辞める辞めさすだのとお騒がせでしたね
そもそも北の大地は札幌から少し離れるだけで価値観やら何から何まで数世代タイムスリップする土地だから、現代の価値観で考えたらそりゃ全国区のニュースに平気でなりますよ
昔の炭鉱街なんて悲惨極まる状況になっていて、超高齢社会でよそに逃げれないほど金がないか、精神障害があるか事情のある人たちしか居着かないんですよ。社会的な弱者だけが取り残されてじわじわと町が消滅するのを待ってるだけの土地がそこいらに連なってるのが今の試される大地ってわけ。
社会的弱者を支援するような職種の方々もそんな町では程度が知れる人しか残らないんだよ。まともな感覚な人だとまず逃げ出しちゃうんだけどそれも仕方ないし、むしろ早く逃げた方がいいぞと個人的には思うばかりだよ。
どういうことかと言うと単純に不便とか仕事がないとかそういうレベルの話ではなくて、そういうドくそ田舎っていうのはまともに話が通じる相手ってのがほとんどいないんですわ。話が通じないってのは住民たちがでは決してなくて、行政だったり教員だったり医療者だったりそういうきちんとした立派なお仕事と言われるような人たちに話し合いができない人たちが本当に多い。
何かあったときに助けてくれるような人たちの倫理観がバグってることが多いからこんなドくそ田舎は本当に住むところじゃない。一刻も早く令和の価値観の通じる都市部に、せめて札幌に逃げ出したほうがいい。
頭おかしい教員が多い理由は、大地内のやべえ教員も簡単には辞めさせらないから田舎に飛ばすってことしかできんわけ。生徒をいじめて喜ぶ教員とか、別の教員をパワハラしまくって潰しまくるような奴も解雇にはそうそうできないから左遷、左遷と回されて結局ドくそ田舎に流れ着く。ドくそ田舎はみんなの倫理観がぶっ壊れてるからそこでようやく目立たなくなってそのヤバ教員もずっとそこに残るようになる。そういう構造になってる。
行政のおかしい奴らが多い理由は、ドくそ田舎では役所勤務は超超エリート扱いになるからなのと、まともな人は高校からすぐによそに出てくからでしょつ。超超エリートの俺がなんで生活保護の相手ばっかりしなきゃならねぇんだってうんざりしてるような奴らしかいない。そもそも住民の数割以上が生活保護なのに。ていうか生活保護か炭鉱か何かの障害年金で暮らしてるような人たちしかいないからね。まともに働いてるのは貧乏農家だけだわ。行政が無能なのは全国共通なんだろうけどここの奴ら無能かつ人権意識が全くないから、めんどくさい住民は近くの精神科病院と結託してかたっぱしから精神障害と診断しては医療保護入院させちまう。ひどいのは精神科病院もそういうこと平気でやっちまうんだから。けれどもこんな役所職員が超超エリートな土地では恐れ多くも精神保健指定医大先生に至っては現人神よりも尊い存在なので手がつけられん。監査の先生だけが蜘蛛の糸だけども監査請求できる人なんかひとつまみもおらん。
普通の内科の医者とかはどうかと言うとこれまたひどい。厚生労働省は地域医療、地域医療と仰るが現実の地域医療をおわかりか。若い医療者が地域に行って何を学べと言うのか。ドくそ田舎には何十年もそこだけで働く先生も多いけどそういう先生の地雷率は異常。患者もスタッフも医者を奉って丁重に扱うからここじゃ医者は天皇よりも偉い存在で、医者の機嫌を損ねたらもう診てくれないってのが平気である。医者から一方的にあなたはもう治療しない、何かあっても見殺しにしますって平気でやっちまう。治療は撤退します、なんて気取った表現なんだろうけど。やべえ医者もここでは部長だから若い医者も似たようなやり方を学んでしまって患者の意思なんか誰も尊重なんかしねぇ。言うこと聞かないと抑制されるか無理やり隔離されちまうし、まともな運用なんかされてないから延々縛られて閉じ込められっぱなしだぞ。しかも精神科じゃなくて内科病棟で看護師の、せんせーなんかあの人危ないぽいんで縛りますね、の一言で開始されちまう。
本当に恐ろしい。こんな土地は住むところじゃない。寄るな、寄ったら逃げろ。過疎地域が過疎になる理由はそういうところに拠るのだろうよ。
ゴールデンカムイでは人がポンポン殺されるけど、令和の北海道ではそれより残酷なことが平気でされてるんですよ。ここはそういう土地、そういう意味で試される。
だからさ、いじめで自殺とか、問題学長とか今さら?って感じしかしないわけ。残念だけど。北海道だぞ?
学校が隠蔽体質とかそういう次元の話じゃないわけ、そこに住まう人たち皆がおぞましい生き物だったってこと。本地からわざわざ取材に来たって何もわかるわけないでしょう。しつこいけど北海道だぞ?
この業界の人なら暴君のやってることなんか10年前からみんな知ってただろうよ。なんらかのパワーで表立たなかっただけで。国立大なのに入学の半分以上AOと推薦なんだぞ?面接点の配分と差の付け方も露骨でエグいぞ?
かの暴君の悪行は氷山の一角なんでないかい?自分の部屋で昼間っからグジュグジュグジュグジュ酒飲み散らかして気に入らない奴は辞めさせて、働かないでもアドバイザー料もらえるのが国立組長ならどんなヤのつく組長よりおいしい仕事だわな。
そういう土地。自分の常識が何てちっぽけだったのか思い知らされる。そんな土地。地域医療なんかくそくらえだ。
どんなに広い道でもここでは歩きスマホしちゃいけない。走る車は皆認知症と思わないと命が足りん。自分が病気になる前に逃げろ。子供生まれる前に逃げろ。ここの学校に入れるくらいなら寮に入れてでも都心に行かせろ。逃げろ。
「天皇家を尊重している。その上で国民主権の日本国憲法で天皇のあり方をガチガチに縛っていることに反発している。だから国民としての責任をもって天皇家を日本国憲法の枷から解放しようと、日本の共和制を目指して改憲を目指す」という立場って右翼と左翼のどの立場なのか。
あんたらもあいちトリエンナーレの件で天皇の写真を焼くなんてとかでキレてませんでしたっけ…?と思う
ツイートではなくて、こうちゃんとした一つの感想文?としてまとめようとすると前置きとかいい感じのまとめとか必要で、いきなり書きたいところだけ書くわけにはいかず大変だった。あと携帯で長文書くの疲れる。みんなどうやって長い文書いてんだ。そんなわけで構成が雑で尻切れトンボ気味ですが許してください。ほんとひどい文章なのでいたたまれなくなったら消します
東大全共闘と三島の討論のドキュメンタリーを見て三島に強く共感したという話をする。内容の細かい解説はしない。プライムビデオにあったんで見てください。youtubeにTBSが上げてるやつはもっとコンパクト。
まず、三島が議論の冒頭からいきなり始める「エロティシズム」について共有しておきたい。これはサルトルのいう「猥褻」という概念から引っ張ってきたもので、いわゆる一般的な性的衝動というよりも衰弱したもの、無気力なものを指している。他者をオブジェとして捉え、他者が予測不可能であること、操作不可能であること、転じて「人間であること」を認めない態度。
文脈的に良いか悪いかといえば今回は悪いものとして使われてる言葉。
「他者を物体視するエロティシズムというのは、自と他が関係している状態とは違う。関係に入るということはすなわちそこに対立があり闘いがあるということ」と、三島はこの猥褻さを批判しており、暴力にはむしろ人間的な関係性がある、と学生に共感のポーズを見せる。議論の出だしにこう語ることで私は君らを頭ごなしに批判しにきたんじゃないよと言いたいのだ。
つづけて、そのようにエロティシズムを批判しつつも三島は「かつては小説家としてただエロティックにのみ世界と関わろうと願っていた」と言う。
この部分を聞いて、それがまさにいま自分(筆者)がいる次元なのだと気づいた。
振り返ってみるとどうも自分は人と関係するということにいい思い出がなく、関係が強いものであればあるほどその相手といるときの自分が「本来の自分」でない気がしてしまう。(実際、関係から開放されると安らぎを感じる) そして世界がコントロール不可能であることも常にストレスだ。電車はダイヤじゃなくて自分の都合に合わせて走ってほしい、映画も自分の見たい時間に始まってほしい、人の生活音が鳴るときはまず断りを入れてほしい。自分のこうしたストレスの根底にあるのは「自分が世界にフィットしていない」ことを見せつけられることへの恐怖だ。
エロティシズムとは違う気がするが、似たような傾向自覚されてないだけで多くの人間が共有するものだ。(エロティシズム以外の名前を当てようとしばらく考えたけど思いつかなかった)
インターネットを見ていると昨今は「思想のトレンド化」が激しく、日々流行りの服を着替えるように思想のトレンドを着替えて「遅れたことを言っている人」にならないよう皆必死こいている(一年前まで「男女間に友情はありえない」としたり顔で言っていた人間が今年はしれっとLGBTQを擁護するツイートをリツイートしている、みたいなのを何回も見た。もう少し意地張れよ、そんなんだから差別主義者に思想の借り物感を見抜かれるんだよ、と思う)。
つまるところこれは自分の「主観」に落ち着くことへの恐れであり、世界を三人称で見たいという欲求とも言い換えられる。たった数年前までもてはやされた育メンという言葉はもはや一種の差別用語、下手にフラットな思想の持ち主を気取りそんな単語を口に出そうものなら冷ややかな目を向けられる。このスピード感の中で誰が自分の主観にこだわりたいと思うだろうか。人の思想を借りて乗り換える、主観は持たず三人称だけを持つ、それが一番楽なのだ。こうして人々はエロティシズムに走る。
三島曰くこうした猥褻な世界観に欠けているのは他者との関わりであり、それを生むのが「意地」である。
「(エロティシズム的な世界との関わりを捨て)どうしても一つの関係に入りたくなっていった。それが当然対立を生むことになって、対立が他者というもののイリュージョンを作っていかざるを得ない。それで私はとにかく共産主義というものを敵にすることに決めたのです」
三島はここではっきりと「敵にすることに決めた」と言っている。
そう、三島にとって共産主義は敵にしないこともできた存在だったし、事実かつてはそうしてきたのだ。しかし三島は自分で選ぶことによって共産主義という敵を作り、それにより世界と関係を持った。
ここを踏まえれば三島がこの討論の間ずっと楽しそうなのも頷ける。立場の違いは本質的なものではないということをあの場で三島だけが知っていたからだ。三島は自分の思想を作品として表現するだけではなく、生の対立の中に身を置かないと気が済まなかったのだ。このへんをよくわかってない全共闘の芥は「作品は自立空間だ。三島がこんなところにデマゴーゴスを披露しに来てるのは三島が敗北している証だ」と言い返しているが、三島に言わせれば作品を発表するだけ、一瞬しか続かない解放区を作るだけで満足しているのはエロティシズムに過ぎない。(が、三島は彼を論破しに来たわけではないので強いてそこを芥に認めさせようとはしない。)
右翼だ左翼だに結局「論理的着地点」などありえないし、あり得たところでそれは本当に世界と関わっているのか?と言われるだろう。少なくとも机をバリケードにしたことが実際に世界になんの革命をもたらしたのかといえば、机が汚れただけである。内容が即形態であり形態が即内容である活動は他者を必要としないので自己完結で終わる。
脱線するが、途中で芥にヤジを飛ばしてちょろっと喋りに来る学生が「現実的な実在的社会的諸関係が先行する、それをお前は無視している」とめちゃくちゃセンスのない言い回しで(全体的にこのときの全共闘の言葉選びはセンスがない)芥の論を批判するが、これが「その関係を切れっつってんだよ!」という芥だけでなく、三島にも苦笑で流されてるのは「関係が現実にあり、それが自らに先行する」というかなりナイーブな決めつけをしてしまっているからではないかと思う。三島の考える関係とはあくまで自らが選んで作る「イリュージョン」だから。
右翼と左翼に本質的な違いはないし論理的な決着もつかないという話に戻る。
これは三島が言っていることではないのだが、つまるところ論理も「意地」の道具でしかないのだと思う。
論理が無力だとは決して言わない、しかし論理は使い手に媚びる性質があるのだ。
三島は途中、珍しく自分のノスタルジー全開で天皇に腕時計を授与されたエピソードを話す。その時の天皇の姿が自分にいかに立派に見えたかを三島は強調しており、またそれが個人的な経験であることも認めている。
三島はこの経験が彼の愛国主義、つまり「意地」の原点なのだと考えていた。
それは自分の個人的な体験や世界と繋がりたいという欲求の唯一無二の現れ方なのである、だから変えられない、と。
その意地>論理という三島のイデオロギーがはっきりと現れたのが以下の箇所。
「僕は論理の通りに行動しようと思ってない。つまり意地だ。もうね、ここまで来たらもう意地だ。」
このとき、東大の学生の間には「論理捨てるって宣言しやがったよこいつ笑 もう負けたなw」というニュアンスと思われる笑いが起きている。
ここで東大の学生はこの日の討論における自分たちの勝利、三島の完全な敗北を確信したのだろう。そして三島は翌年に切腹した。
しかし、あれから50年経った今日、やはり正しかったのは三島だったのではないかという気がしてくるのだ。
テン年代では没落していたひろゆきが今、ネットの神様から論破の神様として転生している現象にそれが現れている。ひろゆきは「善」という概念を持ち出さない。善は常に主観的だからだ。倫理的にいいかどうかは置いといて論理的にはこうでしょ?、というのがひろゆきの基本スタイル。
この「判断の放棄」はまさに三島が再三述べてきた「他者の物体化」「エロティシズム」にほかならない。
彼を崇拝する現代のネットは、かつてないほどにエロティシズムな世界観を求めているのだ。
ひろゆきが曖昧だと一笑に付す善には、ただし、こんな側面もある。
「善、っていうのは、突き詰めれば『ある何かの価値観を持続させる』ための意志なんだよ」
ちなみに小説ではこの「善」は人間の本性に反する歪な概念として批判的に扱われていた。人間とは本来気まぐれな有限の存在であると。
しかし三島はこの本性に逆らうこと、持続させようという意志にこそ真の人間らしさがあると考えた。
ひろゆきに批判的な態度を保ちつつも彼の動画を見た多くの人はこう言う。
この「だけど…」という違和感を生んでいるのが聞き手の「意地」であり「善を持続させようとする意志」なのだ。それは正しいかもしれない、だけど認めたくはない。そう、「正しい」からと言って認めなければいけないわけではないのだ。先程も言ったように論理は使い手に媚びる(論理学の人にめちゃくちゃ怒られそうな仮定ですが…論理とは一つの信仰体系なのです)。とすれば数十年後には真逆のことを論理的に説明する人間がいてもおかしくない。
多くの人が誤解しているが、論理は常に偏見という土台の上に立っていて、論理を積み上げることよりもその土台を見直すことのほうがよほど難しいのだ。
ひろゆきみたいなタイプは「人を言い負かしたい」という「意地=土台」が最初にあり、その上に論理を積み立てていくから「論破」において強く見えるんだと思う。しかし論破が目的化してその先がないのだ。
ひろゆきは人の欠点は指摘できるが、自分の考える「理想の世界」の話は絶対にしない。そんな意地を持った途端にそれは自分の論の弱点になるから。
ただし、そうして「論破」だけを繰り返した先に何がある?もちろん何もない。仮にひろゆきが提案する通りに世界を運営してみたら、きっとそこに残るのは論理に服従した人間たちの何もない荒野だろう。
「今のは一つの詭弁的な誘いでありまして非常に誘惑的であったけれども、私は共闘を拒否します」
イデオロギーの違いを超えて人間として認め合う、平田オリザが説く「シンパシー(同情)からエンパシー(共感)」という思想がその時、三島と学生たちの間にはあったのだと思う。
三島個人は昭和という時代に生まれ、天皇制に基づいた美しい日本を信奉したためその衰退に殉ずる結果となった。しかしそのイデオロギーと、そこに三島を導いた彼の考え方は別であり、それは単に「敗北した破滅の思想」だとは思えないのだ。
伝説の英雄の血を引く人とかみんな好きでしょう。
我々にも天皇という人がいるわけだし。
世界中でも王政がまだ残っているし、人間は血統大好きなんだよ。
有名な武将の末裔とか、名家の末裔とか、それだけで話題になるじゃん。
だから、伝説の勇者の末裔は、末裔というそれだけで重宝されるんよ。
DQ3の場合、アリアハンの名士であるオルテガの息子なわけだし、
旅立ちのほこらの人の話から、昔は多くの人物がここから旅立っていったとか言ってるから、アリアハンは多くの名士や英雄を排出してきた土地なんだろう。
2134年11月6日、日本の天皇が崩御した。天皇に子はなく、この日をもって象徴天皇制は廃止、日本は共和制へと移行することになる。
直前の世論調査によれば、皇室の存続を望む者は8割を超えていた。にもかかわらず、皇室は消滅した。それはなぜか。
かつて、20世紀半ばに活躍した政治学者の松下圭一は「大衆天皇制論」という小論を書いている。そのなかで松下は、第二次世界大戦以前の天皇制と戦後のそれとでは、制度を支える心理が大きく変化していることを論じた。すなわち、戦前において畏怖される存在だった天皇は、戦後の人間宣言を経て、愛される天皇へと変化したというのだ。
松下はさらに、愛される皇族の条件として、「平民」として恋愛もする一方、「小市民層の日常的要求の理想」でもあらねばならないとした。つまり、普通の人間であると同時に、優れた人格をもつことが期待されるようになったというのだ。
この観点からすれば、戦後の皇族はみな一様に大変な努力を重ねたと言えるだろう。時折、スキャンダルのようなものが噴出することはあれど、大衆の期待に沿うべく、「理想化された平民」を演じ続けた。
だが、大衆の願望は、皇族が人間として生きていける限度をはるかに越える水準に達した。
それが顕著に表れたのが、結婚をめぐる問題だった。皇族の結婚相手は、大衆の意を受けたメディアから厳しい精査に晒され、わずかでも問題があるなら、苛酷なバッシングの対象になった。
結婚した後も、プレッシャーは続いた。皇室の厳しいしきたりに加えて、男子を生むことを求める強烈なプレッシャーはしばしば女性皇族を精神的に追い詰めた。そして、それによる体調不良までもが、メディアでのバッシングの要因となった。
そのような皇族の有様をみて、いったい誰が我が子を皇族に嫁がせようと思うだろう?
皇族が適齢期に達すると、同年代の名家の子女たちは結婚を急ぎ、間違っても自分が「見染められ」ないよう必死になった。皇族との結婚を決意した者も、「理想化された平民」を求める大衆の餌食となり、やがて消えていった。
保守派は旧宮家の皇籍復帰を叫んでいたが、皇籍離脱から長い年月を経て「理想化された平民」像には遠く及ばない彼らの復帰を大衆は認めなかった。保守派とて「理想化された平民」像から逸脱する皇族を必死で叩いていたのであり、いわば自業自得であるとも言えた。
マコさまも、姪っ子だとしたら、あんな男で大丈夫なの?くらいは親に聞くかもしれないけど、別にそれで終わりやん
それでもマコさまはごね通して結婚しちゃえば終わりだけど、坊ちゃんの方は人生の選択肢ゼロでしょ?
本当に人権侵害だよね
それでも今までの方は権威があり、国民に敬愛されてたからこそ天皇という立場をやれたわけだけど、坊ちゃんが大人になった時、それを受け入れるとは限らないよね
法的には無理だよね?
じゃあもし坊ちゃんが、マコさまみたいにごねてしまったら、マサコさまみたいに鬱ということにされて、国民はお姿を見ることはなくなるのかな?
可哀想すぎるよね
後継が20人くらいいて、その中から希望者がなる、とかだとなりたい人はいるかもしれない
でも1人じゃあなあ
歌舞伎役者とか、伝統芸能の跡取りとか、有名な寺の住職とか、代々の名家は沢山あって、誰に強制されるわけでもなく、家の掟として個人的に存続してるとこあるよね
その先のことは、天皇家の人たち自身で、女系でいいんじゃない?となればいいんだろうし、当主を遠縁から持ってくるならそうしたらいい
それで基本的人権も守られたらいい
民間人になって、ジャパンロイヤル株式会社とか設立して、外交や名誉仕事、まあ今の公務だよな、それを受注して生計をたててもらうのもひとつよな