はてなキーワード: 嘲笑とは
保守党の井川は、寿司屋の件をどっちもどっち扱いした上で、とにかくなんでもキャビアをぶっかけたりカウンターに高級時計並べて撮影会するノリを下品な成金の店で本物の高級寿司じゃないと嘲笑した
それが暇空の逆鱗に触れた
わたしは二十代後半の女です
男性社員の多い職場で働いていますすがよく「子どもはつくらないの?」と聞かれます 今日も暇そうな会長に散々セクハラじゃないよと予防線を張られながら聞かれました
(弊社の独身男性に女を宛てがい辞めにくくさせるために遠回しに誰かと番えと促しているんでしょう)
わたし 子どもはきっと産めます 血迷って子どもが欲しいと思ってしまった時に妊娠できるか検査を受けたのでそこは断言できます
父は出産の時に「側に居ても何もできないから」と釣りに行く様な人で
母はそんな父に苦しめられてきたカサンドラでありながらも「わたし正直者だから」を口癖に平気で暴言を吐く様な人で(わたしにしたことの一例をあげると 象の足みたい 目がない 太っている等の暴言 センター試験の点数を見て情けないと泣く など)
当然その二人の間に生まれたわたしは社会的常識を教えてもらえず
(たとえば正直者を免罪符にして思ったことを口にしてはいけないとか ハンカチを借りたら洗って返さなければいけないこととか 誰かが大変な時に助けずに自分のやりたいことを優先してはいけないとか)
そんなわたしに常識を叩き込んでくれる友人や先生にも特に恵まれず
けれど自力で努力しても限界があり また幼い頃から親に教えてもらえる子たちとは当然のように差が出来てしまい その差は嘲笑と見下しを呼び
いつのまにかわたしを構成する主成分は60%の水ではなく 98%の惨めさと2%の非常識さになっていました
立派に人でなしです
化け物です
と言うよりきっと親たちも元々が人でなしだったんでしょう
ではこんな人間から生まれた子どもを幸せにできる自信があるかと言われれば 当然ありません
わたしがどれだけ努力しても 生まれた子どもがどれだけ努力しても 子どもは惨めな人でなしになるのです
なぜならわたしは人でなしから産まれた人でなしだからです 人でなしがいくら人間のふりをしようと人間にはなれないからです
そんな不幸になると決まっている子どもを 少子化で労働力が減った国のために 国を存続させる礎にするために産むなんてもっとひとでなしになります そんなのは御免です
寂しいとは思います 人でなしの両親とはとっくに縁を切っています
(同い年+1秒だか1分だかの姉は居ましたが もうわたしの心の中にしかいません)
子どもがいない以上 わたしの人生に残されたライフイベントは死のみであり 考えるべきことといえば「いかに迷惑をかけずに死ぬか 〜安楽死制度導入希望〜」ぐらいです
終わりゆく日々のことだけ考えて死んでいくのはどれほど惨めなんだろうと思います
でもいいのです わたしの体の98%は惨め成分でできているのだから全部今更の話です
それよりもわたし以外の誰かを不幸にしたくない それがわたしの願いであり責任だと思います
もし子どもを産まないわたしを 「労働力へのタダ乗り」「無責任」「他の子どもたちに負担を掛けるだけでしかないどうしようもない存在」だと思っている方がいらっしゃるのなら何も言い返せませんが せめてもの協力として毎年児童養護施設へ寄付をしています そういうサイトがあるので これも一つの子育てです
もしそれでも赦せないと仰るのなら 是非是非安楽死制度の導入へ賛同なさってください
わたしはアルツハイマーとリウマチを発症した元祖母(縁切りしているのでこう呼びます 本当は憎んでいるのでこんな風にさえ呼びたくありませんが)が死ぬまでの壮絶な半年間を見ていて 長生きは地獄だと思っているので 出来ることなら迷惑をかけないうちにさっさと死にたいのです
被害に遭ったのは私の弟です
弟は高校生で、内向的な性格のオタクでアニメや漫画の他にミリタリーが好きです
暇空にミリオタをバカにされたことで暇空アンチになり、カルピス軍団と接触していたそうです
私も暇空関係を眺めてはいましたが、家族との話題に出すことはなく、弟がカルピスに感染していることは知りませんでした
文鳥はカルピス軍団の中でもリーダー的存在で、中の人はアラサーぐらいの女性です
弟は文鳥を信頼しており、また文鳥を同性の男性だと思ったまま電話番号や簡単なプロフィールなどをDMで教えていました
カルピス軍団のみんなでオフ会をすると言われ向かった先には文鳥一人しかおらず、文鳥は弟に前から気があったと告白し、弟はそのままホテルに連れ込まれたとのことです
放っておくと左右の眉毛がつながるような、身なりに無頓着な弟が急に垢抜けて不審に思っていたら、彼女ができたと打ち明けられました
私は喜ばしく思いそっと応援しようと思いあまり触れず、まさか成人女性に弟が遊ばれているとは思いもよりませんでした
弟の変化をいいことだと考えていたのに、2月頃から弟の様子がおかしくなりました
彼女にバレンタインチョコをもらったが、同封された手紙に書かれている名前が自分ではなかったというのです
ほどなくして、弟はふさぎこみ引きこもりになりました
母は心配して泣き、家の中はめちゃくちゃになりました
カルピス軍団に深入りするうち文鳥と関係を持ったこと、しかし文鳥はカルピス軍団の姫扱いで他の多くのカルピスと奔放に関係を持っていたこと
バレンタインの日に彼女はカルピス軍団行脚してチョコを配り歩いていたため間違えたと、泣く弟を嘲笑うように言ったそうです
カルピス軍団はアンチ暇空として当初は集まったものの、現在では誰彼かまわず関係を持ちたがる文鳥の穴兄弟だらけの集団になっているそうです
文鳥は、それまで女性と付き合ったこともなかったまだ未成年の弟を、無数の遊び相手の一人と同列に扱ったのです
キミたちがすでにReactやVueやTypeScriptを鮮やかにコーディングできることはよく知っている。
だが、弊社が運用更新保守業務を請け負っているサイトの中には、いにしえの「XHTML」で書かれたものがまだちらほら残っている。10年以上リニューアルしていないような古めかしいサイトに多い。
そのうちのどれかを、君たちの誰かが担当することがあるかもしれない。
その時はぜひ気をつけてほしい。
<img />、<br /> のように自分で自分を閉じるスラッシュを必ず書くのがXHTMLのルールだ。
もちろんこんなルールに丁寧に従わなくても表示は正しくされる。
だが、ソースをバリデータに通せば閉じスラッシュのない空要素はすべて文法エラーとされる。
納品先の意地悪な情シスがいちいちバリデーションして結果にケチをつけてくることだってある。
そういう隙のない納品物を目指してくれ。
なお、いくつかのXHTMLサイトは君たちの先輩が組んだものだ。CSSには君たちの知らない謎のテクニックがたくさん書かれているだろうが、それを参考にする必要はない。当時はそうするしかなかったが、もはや無用のものばかりだ。
だが、それを見てキモいとかダサいとか大きな声で嘲笑してはいけない。それを組んだ人は案外近くの席に座っていたりするからだ。傷つくんだ、けっこう。
流石にないかな。
そんなことしたらこれまで積み上げた愛国描写がただの嘲笑へと変わってしまう。
俺は障害児ガールズが好きだから、変な右翼にファビョられて潰されてほしくない。
愛国心も障害もない人間共が自分の正義の足しにしようと、おせっかいな隠し方をし続けてきたものの実在を世に知らしめて欲しい。
障害者に性欲があるのは、日本で一番有名になった障害者が証明しているはずなのに、未だに認めようとしない「無辜の善良なる市民」がいるから困る。
アイドルがウンコするのを否定するのがファンの役目だと勘違いした「優しいお友達」のような振る舞いはこの世界にある醜さの中でも際立ったものの一つではないだろうか?
ガチの大喜利っていうのはケータイ大喜利(終わっちゃったけど……)とかああいうやつ?
ブクマカこそ「笑い」と「嘲笑」「見下し」「嫌悪」等のマイナス感情が強固にイコールで結びついててそれ以外の手札を持たないから
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2339319
「おれたちニホン教に改宗しろ」と迫る日本人が多いからではなかろうか。個人的には創価学会(教団組織)は嫌いだけど、学会員の鳥居をくぐれない禁忌はしばしば嘲笑の対象になるが、禁忌を守る態度としては尊敬する
こういう素朴な人たちの思想は完全に間違っているけど不満は本物だから何らかの対処は必要なんだろうな。正しくないからと言って無視し続けると米国のような分断を生む。
中韓には勝てないと分かって、女性を押さえつけることもできず、アイヌ沖縄も相手にしてもらえないので、今度はムスリム差別を始めるのか。
攻撃的差別的なツイ多いね。全部合わせろじゃなく配慮可能な範囲で対応し無理な所は無理なので受け手に対処してねってものでしょ。アレルギーに置き換えたらどうなの?ここは日本とか来てなんて頼んでないとかイタい
将来的には全国に広げるとして、まずは一つの市町村単位で、誰でも安心して過ごせる特区を創る。
「不寛容には不寛容」ということで日本国籍のネトウヨだけは最初に排除する。
心理的安全性が確保されたところで、リベラル系の新聞社や政党からお金を出して、特区内ではどのマイノリティも安心して過ごせる環境を整える。
・レインボーパレードや政治デモも定期的に開催できるようにする
・自分たちの身内の不祥事は自分たちの戒律でさばけるルールも確保する
なにより凄いのは、「日本はおかしい。なぜ連日、トップニュースがWBCなのか?」とメディアへの義憤にかられる女友だちですら、「オータニは好きだけどね」とひとこと言わずにはいられないことだ。ふだん「信用できるオトコなんていない」と、男性への不信を語るフェミ友ですら、恐る恐る「オータニってどう思う?」と聞いてみれば、「いいよね!!!」と顔が明るくなる。もちろんそれは「野球の腕が凄い」ということではなく、「何だか分からないけど、あの人凄い」という称賛である。いったい、これはどういう現象なのだろう。
大谷翔平の凄さとは何なのか……なんてことを考えていたとき、Twitterでトレンドに入っていた言葉に膝を打つような思いになった。
「大谷翔平のただしさと息苦しさ」だ。
思わず声をあげて笑ってしまう。その瞬間にスルスルと理解する。野球に関心などなく、プロ野球は特に苦手で、マッチョな男集団を怖いと感じる女ですら(私です)、オータニへの好意を語らずにはいられない理由について。
そもそも、これはTwitterで、オータニは「高校生みたいでキモい」「ネオテニー(幼形のまま成熟した状態)っぽい」とか、「欠点がない=人間的魅力がない」「無機質だ、男性のメス化だ、中性化だ」など、オータニの光を前にした男たちが「僕はオータニを認めない」というようなことを口にしたためにボコボコにされる様を見た男性ライターの有料noteのタイトルである。
つまり、オータニは一部の男たちにとり「正しく」、それ故に「息苦しい」存在ということのようだ。ライターの意向は他にあるのかもしれないが、Twitterでは思い思いの解釈でバズったのだろう。なかなかの島国的発言、ホモソ(男性中心社会ですね)の日本男子的な正直な感覚に私には見える。そしてそれ故に……オータニの正しさと、その正しさで焼かれている男たちの存在が見えるからこそ、女はオータニに希望と未来を見いだしオータニを語りたがるのかもしれない。
ある種の男性たちは、オータニが「男というだけでは連帯しないタイプの男」であることを繊細に敏感に見抜いているのだ。どこかで目にした記事だが、オータニは男どうしの下ネタに交わろうとせず、女性を性的に嘲笑する仲間をたしなめたことがあるという。そのエピソードが事実かどうかは分からないが、「そういうこと、オータニさんならあるだろうな」と思わせる説得力がオータニにはなぜかある。根拠はないが、なぜか、ある。それが先の男性たちの「オータニが性的な成人男性に思えない」発言につながるのだろう。この場合の「男」とは、間違ったことも、キモいことも、不正義も、男どうしならば……と互いに目をつむり許しあえる、ぬるい男湯で生きられる日本の男ジェンダーのことである。オータニはそのぬるま湯には入ってこない、そもそもそのぬるま湯が嫌なのでは……というのが伝わるからこそ、ある種の男たちはオータニに傷つくのかもしれない。
(略)
そんな世界から自分の心を取り戻すために、今月はオータニが必要だったのかもしれない。ミソジニーでホモソーシャルな空気をまとっていない(ように見える)オータニさんの“正しさ”に、ようやく深い呼吸ができた。男どうしの「な?」が通じそうもない男に、ある種の男たちが感じる不安の正体を知ることもできた。そして、そんな男どうしの「な?」の通じない世界の風通しの良さを私は心から願っていて、その象徴にオータニさんがいたのかもしれない。女虐めを悦楽にする男たちの下卑た笑いをオータニの最強の光で燃やしてくれればいいのにな。
(略)
ついついX(twitter)を見てしまって無駄な時間を過ごしてしまう
面白いポストや動画などを見て楽しい気持ちになるならいいんだ。
しかし、だいたい怒りのや誹謗中傷的なポストを観測して、こいつ何やってるんだろう、頭おかしいんじゃないのとかを見つけて他の人の反応みたりしてしまう。
しかも自分に無関係なのに、自分が否定されてるように思えるものなども見てしまってイライラしている
以前はそれおかしいよとか、その考え方ちょっと違うじゃないとかリポストしてたけど、それはやらなくなった。
ただの意見の押し付けで無意味だから。レスバ合戦も自分に直接関係ないもの、当事者以外はマジで意味がないので。
少し前に車椅子女性の話題で盛り上がっていたときに思い出した。
小学生時代、ある同級生の母親は、彼女の夫が押す車椅子に乗って運動会やら授業参観やらの行事を観に来ていた。周りの保護者より少し若く見える、痩せた、色の白いお母さんだった。
その同級生は子供のくせにそこはかとなく辛気臭いオーラを纏っていて、暗くて友達もいないのに一人で何か喋ってニヤニヤしているようなやつだった。当たり前にずっといじめられていた。仮にOとする。
Oは児童養護施設から通ってきているのに、学校行事にはいつも両親が揃って参加していた。休日には家族揃ってスーパーで買い物する姿を度々見かけた。
母親の病気のこととか何か事情があって家族で暮らせないのだろう、と今ならば想像するに難くないけど、施設育ち=親がいないという認識の当時のわたしたちの目には、別に居を構えながらも仲がよさそうなO一家の姿は異様なものとして映った。
ひどい話だけど、Oだけでなく家族ごと、クラスメイトから、いや学年中から差別されていた。気がする。
例のごとく車椅子でグラウンドにやってきて運動会を観覧し、教室に戻って昼食をとる際、土のついたタイヤのまま校舎に乗り込むO夫婦の姿を、わたしたちは冷ややかな目で見た。ちゃんと入り口にそれ用のマットが敷いてあって、踏んできているにもかかわらず。
小学校高学年、思春期にさしかかり不安定な心身をもてあまし、わけのわからない苛立ちやさみしさをお互いに悟られまいと取り繕っていた。障害とか施設育ちとかの事情を抱え、差別されながらも健気に生きているO一家の姿はいじらしく、尖った心を持ち寄るわたしたちの格好の的だった。
ある土曜日の午後、市の陸上大会に向けての練習があった。全員参加ではなく有志の集まりだったので、普段教室であまり喋らないタイプの子とも仲良くなれて、楽しい。
練習が終わって、わたしたちは麦茶を飲みながらずっと喋っていた。日焼けするからと木陰のところに集まって、実はあの子のことが嫌いとか好きとかキャアキャア叫びながら喋った。
ふと話が途切れ、もうそろそろ帰る?という雰囲気になったところで、一人が「そいえばさー」と口を開いた。
「そういえばさ、どうでもいいんだけど、こないだイオン行ったらOがまた家族でいたんだよ。
でねぇ、これマジだよ?…Oのお母さんが、歩いてた」
わたしたちは、爆笑した。ゲラゲラ笑った。全員で涙を流して、息も絶え絶え転げ回って笑った。
おかしかった。いつも白い顔をして、旦那に車椅子を押されているお母さん。そんなお母さんが自立して歩いているなんて、突飛で、シュールでナンセンスだった。前衛的な発想のようだった。
おかしい以上に、気持ちよかった。言ってはいけない、笑ってはいけないことなのはみんな分かっていた。
広い校庭にわたしたちしかいなくて、おかしいことなんて何もないのに馬鹿笑いして、すっごく悪いこと言ってるのに誰にも迷惑をかけていないから咎められなくて、こんなひどいわたしたちを誰か止めてほしいのに、芝生の上に転がったままどこへでも行けそうな、行ってしまいそうな気がして、怖いけど楽しくて、無敵だった。
曇ってるけど日射しは強くて湿った風が吹いていて、みんな同じ日焼け止めの匂いがしていた。ひざの裏側に芝生が刺さってチクチクしたけど、手で払うとさらりと落ちた。気持ちよかった。
家に帰り、キッチンに立つ母にOのお母さん歩いてんだってーと言うと、「Oさんの奥さんは脚が悪いんじゃなくて病気で体力がないから車椅子なんでしょ。何言ってんの」と返ってきた。つとめて不愛想な母の声になんでか安心したのだった。
数年後Oのお母さんは亡くなったと聞いた。
陸上練習のときのメンバーは、中学に入って少しヤンキー風味になったけど、成人後に同窓会をしたときにはごく普通のかわいいお嬢さんの姿だった。今ではほとんどの子が結婚して親になって、忙しく過ごしていることと思う。
Oが大人になった姿はどうしても想像できない。どんな暮らしをしているんだろうか。
校庭でひどいことを言って笑い転げて、誰か止めてほしいと思った。
その後の人生で、ちゃんと止めてもらえたと思う。元々優しい気持ちの子もたくさんいるけど、意地悪だったわたしたちも、失敗して傷ついて、自分のことが嫌になってもそれでも生きていくという選択をしたとき、他人に寛容になろうと努めて、その習慣が体に馴染んだと思っている。
何の罪もないO一家に冷たい目線を向けて嘲笑っていたことを思い出すとき、ひどかったなと思う気持ちは本当なのだけど、あの陸上練習後のお喋りの時間には青春フィルターがかかっていて、思い出すとキュンとする。
キュンとしたあと、でもやっぱり酷すぎるよねと心の中でつぶやいて、少し許されたような気持ちで回想を終えている。