はてなキーワード: 個別具体とは
王様の暴走は首が切られるまで止まらない、だから破滅の規模がでかい、
国民をステークホルダーとし過半数が「損」と認識した時点で損切りできるのが民主主義
大勢の知恵を結集し無謬のルールを作るのが民主主義及び多数決の主要機能であると信じているひとがいる
いわゆるみんなの合意で決めたルールなのだから一度作った法律は変えられない論
国民の権利と義務はその代表者を引きずり下ろすことでしかない、ルールそのものにはコミットしてない
多数決で作ったのだからやってみて反省があれば再度多数決で修正、廃止できる余地を担保しているのが民主主義で
少数派の意見も汲むのが民主主義とか言い出す連中を見るとイラッとする
挙げ句に民主主義は多数決では無いとか言い出すボケ、徹底して多数決の原則を守ることでしか民主主義は機能しない
半数が「損」と認識できるまで待つしかない、せいぜい「損」だと気づかせる啓蒙をする、コツコツと
時間もかかり手間もかかり、一見遠回りで不合理に見えるが、愚直に原理原則を守ったほうが結果として社会の幸福や利益は最大になると信じるのが民主主義
>100人の村で70人が結託して30人を奴隷にするよう多数決で決める」は民主主義ではない、
いいえ、民主主義です
結託した70人が、それでは社会の持続性が破綻し不条理な結果になることに気づいて軌道修正するときにやはり多数決の原則が守られてなければならない
犠牲も伴い、遠回りだけど、一時的な脱線や暴走も受け入れるのが民主主義の矜持、だからこそ民主社会では教育が重要。
そして憲法はフールプルーフではない、あってはならない、愚行を憲法で定義してはならない
日本の憲法は戦争を愚行と定義しているが、英仏米に聞いてみろ、戦争は正義だ。正解など無い。
憲法はせいぜいインターロックであり、国家の意思決定の振り幅を抑制しているにすぎない。
愚かな意思決定を抑制しているのではなく、愚行すらもやってみて失敗なら反省して民主的に軌道修正のPDCAをやるしかない。
そうやって社会を発展させていく。
俺はそう思うんだけどなぁ
ここに宮台真司(1995)『終わりなき日常を生きろ――オウム完全克服マニュアル』がある。社会学的観点からオウムがなぜのさばり、オウム的なものに立ち向かうにはどうすればよいかを記した本で、少なくとも10年ほど前は哲学・批評・(現代)社会学近辺では必読文献だった気がする。
そんなわけで本棚にたまたまぶっ刺さっていたので「終わりなき日常を生きなきゃならないんだよなあ」ぐらいしか覚えてない状態で再読した。以下では、この本の要約ではなく、気になったポイントを断片的に取り上げていく。ちなみに私自身は特に宮台のファンではなく、ほかに宮台の本は『権力の予期理論』『サブカルチャー神話解体』しか読んでないと思う。宮台が今回何を言ってるのかもほとんど把握していない。
まず読み始めて思ったのは、知識人の対応がどうやらオウムと今回ではだいぶ異なるのだなあということだ。冒頭で宮台は、オウム事件がそれまでの歴史における過去から理解する、言ってしまえばそれまでの歴史の延長線上におけるものとして理解することを激しく拒絶することにまるまる一章を割いている。オウム事件を(それまでの文学等々より悪しき・劣った)オタク文化の影響とか、連合赤軍の二の舞であるとか、そのように理解する知識人を批判する。
この辺りは論壇における立ち位置を示すパフォーマンスが結構含まれている気もするが、そもそもオウムについて語りたいわけではないので内容には深入りしない。ここで問題にしたいのは歴史と出来事の間の関係である。
今回の事件について、いまのところ過去の歴史と連続的に語る言説は私の見る限り絶無といってよいのではないかと思う。右派にせよ左派にせよ、「これまでの日本では起きたことがないたぐいの出来事」として捕らえているようにみえる。流れた川の水が戻ることはないので、むろんそれはある程度正しい。しかし完全に歴史から切り離された出来事が可能なものか、という点に関しては議論があるだろうし、宮台自身かれの歴史の中で取り組んできたことだろうから、とにかく歴史との連続性を強調する言説がないこと、それがオウムのときとは逆であるらしいことだけを指摘しておく。
宮台は「普通の若者が普通にオウムに入ってサリンを蒔いた」という見立てを行う。そのため、「マインドコントロール」(宮台は使っていないようだが「洗脳」もここでは同義語としていいと思う)について、何か特殊な技術であったり、明確な必要十分条件を定義できるものではないことを強調する(自分の講義だってある種のマインドコントロールだと言いながら)。これは社会学・社会心理学近辺ではわりと常識的な考え方であると思う。なので被害弁護団が「洗脳」をかぎかっこ抜きで自明な用語として使っているのには、少なくとも私は少し抵抗を覚えないでもない(「洗脳」と言いたくなるような事実があることを否定しているのではなく、あくまで用語法の問題)。
本全体の骨子となる主張として、宮台はオウムに関わった若者が抱える問題は「『終わらない日常』に耐えかねて『輝かしきハルマゲドン』を夢想し、キツさに耐えかねて『夢想を現実化』しようと」した点にあると主張する。その処方箋として「終わらない日常を生きる知恵」が必要とされるが、その知恵を持っているのがブルセラ女子高生なのだそうだ。なぜならブルセラ女子高生は決してオウムに入ってサリンを蒔いたりしないから、とのこと。まあ妥当性については何も言うまい。
すでに見たようにこの本は世代論の本でもある。宮台は江藤淳やその後の加藤典洋、あるいは宮台と同世代の大塚英志も含め、年長世代が新しい世代を「何かが欠けた存在」とみなすことを強く批判する。「あんたがただって年長世代におんなじこと言われてただろう」というわけであるばかりか、そうした言説は不要なきらきらしさを持った「幻想」を下の世代に押しつける有害なものである、というのが宮台の主張だ。そして大塚に対して「われわれ新人類世代はまだ何かを諦めたが、ブルセラ=ポスト団塊ジュニア世代はようやく諦めるべきものを最初から持たず、そのため何も諦めていない。なのにまた旧世代の幻想に彼女たちを縛り付ける気か」的な批判を行っている。どうでもいいが大塚英志が軽く30年以上同じスタンスを取り続けているのを見ると本当に安心する(20冊かそこらは読んでる程度にはファン)。大塚のツイッター(ていつから本人がつぶやくようになったの? 俺の知ってる大塚はタイピングができなかった気がするが)を見ると、メディアなり知識人なりが統一教会と自民党―安倍との関係を追求しないことにブチ切れてて、やはり信用できるなと思った。政教分離の観点から国葬にも激しく反対していて、こっちは大塚が立憲主義の観点からそう言うのは分かるが、私が政教分離についてよく分かっていないので(天と地の分離ってけっこうキリスト教特有の考えだったりしない?というレベル)、問題意識は共有できていない。こういう場合は経験上5~10年くらい経ってから共感できるようになることが多いが、今回はどうだろうか。
話が逸れた。宮台は可能かもしれない処方箋として(異性を念頭に置いた)コミュニケーションを検討する。「全面的包括欲求」に対して応えることが可能なのは宗教と恋愛だけだからだそうだ。そして恋愛は社会の再生産を行う家族システムへの動機でもあるため、社会は宗教より恋愛をプッシュする。にもかかわらず恋愛からはじき出されて宗教に飲み込まれる若者が多いのだから、恋愛は処方箋ではあるが「やれるなら最初からやってる」程度のものでしかないと宮台は言う。
だから現実的な処方箋としては、旧世代が押しつけてくる「輝かしさ」など忘れて「まったり終わりなき日常を生きろ」ということになる。
「処方箋」の妥当性はさておくとしても、少なくとも統一教会は「若者問題」ではない(原理研については詳しく知らないが)という一点においてすでにそのまま転用はできないなあというのが第一の感想であるし、さておいた妥当性をほじくりたくなるなあというのが第二の感想である。
もう少し有意義なことを言うのであれば、この「まったりしたコミュニケーション」こそが統一教会の本質なのではないか、という気が脱会者や現信者のブログやツイッターなどを見てるとするのだ。10年代に流行った「居場所」の問題はいまだ解決していない。
元増田としてもあり得ないとは思ってるけど、訴える、警告をするといったアクションを起こすかどうかは完全に先方の自由なのと、
法律面から解説しようとしてるのに判例もない個別具体的なケースに100%ないと言うとそれはそれで嘘になるので
「(先方の言うことがすんなり認められることは恐らくなく)争いがありそう」という表現として書きました。(職業病です)
ただ、言ってることは割と無理筋なので、例えば「そもそもただのシリーズ名なので
(自分のサービスと他人のサービスを区別する)商標として使用していない」みたいな主張をして回避することはできるのでは、と思ってます。
訴えることは止められないけど…
女性の場合はセクハラがどうとか痴漢がどうとかマミートラックがどうとか入試差別がどうとか、個別具体的な事象に言及している。何が問題でどう改善するべきなのかが明確。
一方で弱者男性論は何から何まで抽象的。別にセクハラされるわけでも痴漢されるわけでも昇進や入試で差別されるわけでもなく、男として正々堂々普通に勝負して、普通に能力が不足しているが故に普通に競争に負け、それに見合った底辺の立場が充てがわれ、でもそれを自分の能力不足と認めることができないから何かのせいにしたくて、女やフェミが悪いと叫ぶことで解決したゴミカス底辺の思想。全部フェイクなんだよ。
具体的に女に何をしてあげられるかとか何ができるかとか考えてない。単に願望や妄想を呟いているだけ。だから「5000兆円ほしい」みたいなもので、真面目に論ずるに値しないわけ
現在は順風満帆に暮らしていますが、自分が中学生の時に兄が犯罪で捕まり、約2年の懲役刑を受けました。もう10年前になろうとしている話ですが、今なおその時の思いは続いています。
何か事件があった時、一番に配慮されるべきは被害者であることは言うまでもありません。しかし、被害者への配慮と同時に、加害者やその家族も苦しんでいるのも事実です。被害者のことを思うと加害者やその家族は苦しみを語ることは許されません。
また、自らの子供が犯罪を犯したとき、その兄弟はどう思うのか、犯罪加害者の親の皆さんにぜひ知っていただきたいです。
私の家庭はごく一般的な家庭です。サラリーマンとパートの両親と、しっかりと学校に通っている息子3人兄弟でした。犯罪を犯したのは長男で当時は高校を卒業し、専門学生でした(以下、兄)。
どこで、間違えたのか兄は専門学校在学中に犯罪を犯し、逮捕されました。恐らく逮捕され起訴され…と続いたのでしょうが、当時中学2年の私には詳しくは知らされませんでした。不思議なことに逮捕された時や、それを知らされた時の記憶は全くありません。きっとキッチンの机で家族が集まり話されたのだと思うのですが全く記憶がありません。恐らくそれだけ大きな話だったのでしょう。
○罪を犯したその後(両親)
家族が罪を犯したとき、家族はどうなるでしょうか?私の家族の場合、両親は兄の人生に絶望しながらも心配していました。被害者への謝罪の気持ちはもちろんあったと思います。ですがやはり、兄(息子)のことを一番に考えていたと思います。
しかし、両親は自らの子育てに後悔し、とても苦しんでいました。なぜ息子の苦しみに気がついてあげれなかったのか、なぜ寄り添って挙げれなかったのか、なぜ犯罪を未然に防げなかったのか、兄を責めきれず自分の罪のように日々苦悩していた両親は倒れる寸前まで憔悴していました。後悔すること自体は止めることは出来ません。しかし、その様に苦しんでいる人間はどこに救いを求めれば良いでしょうか?「犯罪者の親」の弱音を吐く場所はどこにあるでしょうか?罪は責められても仕方ないと思いますが、必要以上に苦しむ必要はあるのでしょか?ぜひ、どこかで犯罪者家族が救われるような制度があってほしいと思います。
○(私)
私は当時中学生で、両親が憔悴していたため誰にも頼ることはできませんでした。私は思春期であったこともあり多感な時期ですが、家族にも頼れず、また加害者家族である思いが弱音を吐くことを許しませんでした。当時は、加害者家族であることでここまで苦しまねばならないのかと思った記憶があります。
しかし、もしここで自分が挫けてしまえば両親は命を断ってしまうのではないか、何もかも壊れるのではないかととても不安に思いました。そのため、両親に気を遣い、兄の社会復帰について賛同し、兄を責めない立場に尽くしました。
結局自分語りですが、その経験は今にも大きく影響を及ぼし、家は安らぐ場所ではなく気を遣う場所になりました。社会人になってからはすぐさま一人暮らしを始めました。ですが当時の振る舞いは後悔していません。恐らくそうするか、グレて両親の命を含め全てを失うかだったと思います。
○その後への影響
罪を犯したあとの影響はたくさんありました。
・どこかでバレるのではないか。
たくさんのことを気にして生きてきました。一番苦しかったのは両親もそれを気にしており自分の罪のように心配していることです。何度も言いますが、そこまで苦しまねばならないのでしょうか。
取留めなくなり始めたのですまとめます。
犯罪者家族は苦しみ、苦しみ、苦しんでいます。また、それはずっと続きます。
私は犯罪者は罪を償い更生するチャンスがあると思っています。例え罪を犯したとしても、更生するチャンスを与えてください。それが、救いにもなると思います。
罪を犯しても人は更生できます。息子や兄、弟を信じてあげてください。苦しい日々だとは思いますが、皆が責めるわけではありません。罪を犯したら全てがだめになるわけではありません、人生はどうだってなります。長い目で頑張りましょう。
沢山の反応があり驚いています。そして、様々なコメントや意見を拝見し、色んな考え方があるなぁと思いました。犯罪に対して様々な意見があると同時にどこを主観に置くかで考えが変わるようにも思います。
少なからず私の駄文で不快に思われた方もいらっしゃるかと思いますが、私は犯罪者加害者の弟としての目線でしか物を語れません。申し訳ありません。こういう目線もあるのかと思って頂けたらとおもいます。
途中でやめてしまったところもあるので、主にコメントで指摘のあった不足分を書きたいと思います。
○具体的な犯罪の内容について
具体的な犯罪を教えてほしいとのコメントも多かったと思います。私は何をしたかについては知っていますが、「もしここで話したら特定されるのでは」と言う怖さがあります。そしてこの文をもし家族が見た場合分かってしまう可能性があるため伏せさせてください。隠し続けてきた癖が残っているのかもしれません。
どうしても自分語りで終えてしまった所もあり、被害者(家族)への思いはあまり書いていませんでした。そのことについて追記します。
私は、まず大前提として被害者が救済が第一だと思っています。その考えは一般的であり、被害者救済の制度や取り組みは数多くあると思います。私が言うことはおこがましいですが、兄の犯罪で苦しんだ方々もどこかで救済されていて頂きたいと思います。
上の考えを大前提として、ここでは、私自身の個別具体的な思いを書きたいと思います。
私も、被害者が苦しんでいるのに兄の幸せを願うのは間違ってるだろうと思ったこともあります。そしてその考えが加害者(家族)が悩む本質的なところがあると思います。「罪を犯して他人を苦しめた家族」の幸せを願うことは道徳に反しているのではないのかという考えです。これについて私は答えが出ていません。その影響か、兄の幸せを願うとき私は被害者の姿が見えなくなります。誤解を恐れずに言えば私にとってはどうしても家族が幸せになってほしいと思ってしまいます。
ですが、被害者のことを思うことと家族の幸せを願うことは同時に成立しうることなんだと最近思い始めました。偽善的な言い方ですが、罪に関連した全ての人が幸せに暮らすことが一番だと思います。
なお、私は被害者(家族)と兄(両親)がどの様なやり取りをしたかについて全く知りません。それは両親が徹底的に私に隠そうとしていたからだと思います。なので私は兄の犯罪のそれ自体には情報が極端に少ないです。その点両親は大変気を遣っていたのだろうと思います。
○兄の更生について
兄について具体的なことを話すことは避けたいと思います。先にも書きましたがもし仮にこの文が知られた場合どんな影響があるか分からない怖さがあるからです。申し訳ないです。また、兄は深く反省し後悔しています。だからこそ兄を思うことができるのだと思います。もし兄が反省していなかったら見放していたと思います。
具体的な話は避けますが、兄は就職し結婚もしています。結婚相手は兄の犯罪を知っていてそれを受け入れていると聞いています。
加害者や加害者家族の皆さんは未来が全くの暗闇に見えていると思います。ですが、しっかりと反省し更生すれば理解してくれる人がいると思います。決して絶望することなく、ただひたむきに生きてほしいと思います。罪を償うことと生きることは同時にも行なえます。
○私や家族への影響
私は当時中学生でしたので、少しだけ周りから兄のことについて言われたことはありました。当時はとても苦しかったですがなぜかあまり記憶にはありません。そのことを両親には言えず隠していた記憶はあります。当時の担任の先生は私のことによく気を遣ってくれて、それが救いになっていたと思います。その経験から先生という存在はとても素晴らしい仕事だと思っています。
また、家や仕事を追いやられることはありませんでした。そのおかげで兄の更生を考える余裕があったのかもしれません。
そして私も就職に影響はなく、公的な機関で働いています。ですが警察等では影響があるのかもしれません。両親はそのことをとても気にしており、色々と情報収集していたようです。悩んでる方の参考となればいいですが、少なくとも私は就職に関しては困りませんでした。(全てがそうだとは言えないのが不安になる要因です、もしかしたら企業によっては影響があるのかもしれません)
私はまだ結婚していませんが、恋人には兄のことを話したことはありません。話したらどうなるのかという不安があるからです。でもいつかは話さなければいけないとも思っています。
加害者や加害者家族には、罪の種類や家族の在り方、反省の度合いなど沢山の違いがあると思います。私の場合のようではないことも沢山あると思います。その上でそれぞれの人がどんな思いを得て生きているのが考える機会になればと思います。
沢山の反応があり、関心の高いことなんだと感じました。また、様々な意見があり自分や犯罪被害者、加害者について深く考える時間となりました。これを機会に皆さんも考えを深め、どういう形になれどもより良い社会になってほしいと思いました。私は今後加害者家族等の支援の組織のことなども調べ、誰かの助けになれたらと思っています。沢山のお言葉ありがとうございました。
イジメの例示までして「被害者が被害者面するのは当然だ」という話に印象付けてるが
普通のケースで「被害者面するな」というのは、被害者性を押し出すことで加害を有耶無耶にしたり、批判を回避したりすることへの指摘になる
被害者面で誤魔化すなという奴だ
けど、これを「被害者が被害を申告することで発生する加害性への批判なのだ」とズラしてる
違うよな
で、「なんでわからないんだー」といいながら、都合よくそれが成立する事象を切り出して「これが正しいというのか?」と踏み絵をするが
その話がしたいなら、「最近、よく出てくる」なんて話じゃなくて、個別具体的な「〇〇の件で△△が言ってるのは」という話であるはずだ
実際、いくつかの名前が挙がっていたな
でもその話にはしない
そういう自身の卑劣さから目を逸らしても、社会を良くなんてできないぞ
自分が変われてないのにさ
それで俺がさらに言いたかったのは1についての話にしてもさ、結局批判してる側は2〜4まで混ぜてくるから、俺はオープンレター擁護側なんだわ
そういうことは隠されて、まるで「被害者面」というのが、全部そういう人間であるかのように批判してるだろ
そんで、否定や批判が来ると、個別具体的な話に逃げ込んで、「お前はこれが正しいと思うのかぁ」みたいになる
話にならんよな
な、本当は「自分に都合いい事象」について愚痴ってるだけなのに
あたかもそれが全体であるかのように印象付けようとする姑息さについてスルーしておきながら
どっちが「切り取れると思ってる」のかね?
宇崎ちゃんは?
戸定梨香は?
人工知能学会誌は?
Free!は?
『私作る人、僕食べる人』は?
個別具体的に語れる事案は多々あるけど、こういうのって絶対にそこに踏み込まないよな
得てして語られるのは、「おまえは表通りでAVみるのか?」みたいなアホらしい話
誰もが、「規制されて当然の表現をターゲットにした狙撃銃に何を怒ってるんだ?」と嘯きながらロケラン構えてる
個人的には
〇 宇崎ちゃん
〇 戸定梨香
〇 人工知能学会誌
〇 Free!
× 『私作る人、僕食べる人』
ストパンは、さすがにパンツじゃないからを表に出すなよって感じ
『私作る人、僕食べる人』は家庭での家事押し付けに感じて苛立つ人が居るの分かる(サマーウォーズと同じ理路)
サイレンのCMなんかは、怖すぎて放送停止が逆にCMになったが、お気持ちでクレームつくの分かる
みたいな
政策を小出しにする立憲民主党の戦略を批判する人が多いけど、自分は支持者の欲目もあるけど割と好意的なほう。つまり、最初から体系的な政策を打ち出すことで何を恐れているのかというと、以下のことだろう。
→ (1)たとえば「子育て支援」で児童手当の増額を目玉政策として打ち出す。
→ (2)ところが、政権与党も「子育て支援」で児童手当の増額を掲げ、争点を潰しにかかる。
→ (3)慌てて争点を変えるが、当然ながら「主義主張がブレまくり」と有権者の目に映って立憲民主党は見放される。
そもそも自民党はイデオロギーが一枚岩ではなく、岸田や野田のように「反自由主義」や「ダイバーシティ」など従来の野党の政策論の近い意見を持った人間が自民党内には数多くいるので、争点を拙速に決めると容易に争点潰しにあってしまう。そうならないためには、以下のような戦略をとる必要がある。
→ (1)まず、モリカケ問題の究明など、絶対に政権与党が受け入れないであろう政策だけを最初に掲げ、様子を見る。
→ (2)次第に政権与党から、個別具体的な政策メニューが提示されるようになる。
→ (3)それを慎重に観察しながら、政権与党が最後まで拒否あるいは無視している政策が何かを見極めて、それを争点にして選挙を闘う。
ただ多くの人に伝わりにくいという難点は確かにある。あと争点として「消費減税」だけは絶対にダメだと思う。与党が厳しい歳出削減策と一体で掲げるならともかく、今の野党がそれを掲げても「政治的な実現性の低い、甘言で有権者を馬鹿にした政策」としか受け止められない。