はてなキーワード: 個別具体とは
「5号×スレッタってもしかして今なら成立するのでは?」だよね。
https://bbs.animanch.com/board/1909218/
まあ>>1見た瞬間荒れるなと思ったよ。
17話でミオリネに拒絶されてスレッタが傷心中なのは事実だし、
18話以降で5号が登場し「休学中だったエランさんが帰ってきた」だったらワンチャンいけたかもなと思うけど、
これまでの5号が丁寧に丁寧にハニトラに失敗してスレッタの好感度削ってきてんだよね。
17話はスタンガンまで持ち出してスレッタを完全に傷つける側になって、グエルにやられてスタコラ逃げる三下ムーブ。
何を思って「今なら成立」なのか全然わからん。10話ではそういうの盛り上がったけど…。
ローカルルール云々っていうより「本編の何を見ていたんだ?」みたいな叩かれ方をしているんだよ。
5号は16話でベルメリアのことも殴ってるし、スレッタを軽薄に口説ける状態にはまるで見えない。
叩いていたのが女性オタクばかりかというと、それも分からんよ実際…。
スレ内の>>1への批判として何度も書かれてるけど、本編準拠の展開予想なのか、
本編を完全無視したカップリング虚妄なのかでノリが大きく違って、
そのどっちなのかが分からないスレタイと>>1だからあんなに荒れたんだよ(ニュートラルな考察っぽい口調で、内実がCP虚妄)。
5号×スレッタの専スレでは本編を完全無視した妄想がずっと繰り広げられ続けてて、荒らしが来たり叩かれたりもしてない。
あにまんで叩かれた元増田以外にも、Twitterでの男オタと女オタの接触事故もあって、
女オタが描いた二次創作にガンプラアイコンおじさんが考察をリプライで送るみたいなことも起きてる。
(おじさん構文ではない。SFジャンルっぽい小難しい文体と言ったらいいんだろうか。そしてリプライは無視されている)
ツイステやブルアカではこんなこと起こらないのよジャンル自体で男女が住み分けられてるから…。
水星のネタ系二次創作と男女カップリング二次創作のとこは、なんなら半々かも?ってくらい男女比が拮抗してる。
なんかだいたい男性が住み分けの空気を読めてないことによって事故ってるように見えるけど、
ほんの10年前まで「ラノベとか二次エロ漫画なんか読んでるのは、現実でモテないやつの現実逃避だ。現実を見ろ」って言ってたじゃないですか。
その通りなんだよ。わかってたんじゃねえか。
ツイッター検索したらたくさん出てくるよ。「オタク 現実逃避」で2010年以前の日付検索してみてよ。
あまりにオスは有害だの、オスは獣だから檻へ入れろだの言うもんだから、うんざりして自ら檻に入ったのがオタクじゃん。
いつからそういうオタク像が「現実の女性に性欲をぶつけてくる」みたいな現実とズレたイメージに変わってきたんですか。
そのころから「オタクは不愉快」「オタクは気軽に殴っていいもの」ってのは変わってないけどさ、同じ嫌悪感にしてもこのころのほうが正直でよかったよ。
ポリコレが浸透してきて「ナチュラルな差別感覚でオタクを殴るのが難しくなった」から、オタクを必要以上に悪者にする必要が出てきて、加害性を生やし、犯罪者と結びつける作業をやってるだけですよね?
なんでこういう変なこと言いだしたかもなんとなくはわかるんですよ。
昔は単にオタクを気軽に馬鹿にしてたんだけど、ポリコレが進展するにつれて、昔と同じノリでやってたら「自分たちがいじめっ子」として糾弾されるリスクが出てきたからですよね。
だから、自分がたたいてる者はもっと悪者じゃないと都合が悪くなった。
その結果、どんどん変な理屈が生え始めた。
いらないよそういうの。
別に「私が見下している貴様らオタクが勝手に女性の表象を使ってシコるな!キモイ!」って率直に言ってくれたほうがよっぽどこちらは気分が悪くないよ。
むしろ、叩くためにそういう取り繕いの努力までされると「そこまで嫌いなのか……」って気持ちになって余計気分悪いわ。
さすがに自分が被害を受けた痴漢と結びつけるとかさあ、こういうマンガを読んでるやつは現実の女性にもそういう欲望を抱いてるとか、そういう「冤罪」を平気でやってくるのはやめましょうよマジで。
せめて「性的加害を促進する」とかじゃなくて、本来の「女性表象を使ってもてあそぶのは不快だ」って議論に戻りましょうよ。
どう考えてたって、今のフェミニズムの皆さんが言われてることって現実に即してないんですよ。
Colaboと東京都との契約が「公法上の契約」とのことで、その取扱いについて話題になっている。
また、先行したまとめもあるが、
もう少し詳しく見ていこうと思う。
結論を先にいうと、
と考えている。
どのように区分されるのか。
国や公共団体(市町村がその典型)の内部や相互間の関係を規律するルール、および、それらと私人との関係を規律するルールが《公法》であり、私人相互間の関係を規律するルールが《私法》である。
具体的にいうと、公法に該当するものとして、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法、国家行政組織法などがあり、私法に該当するものとして、民法や商法、会社法などがある。
ただし、公法に区分されている法律にも私人間について規定した部分があったり、私法に区分された法律にも国家について規定した部分があるなど、法律単位で明確に区分できるものではないので、概念的なものと理解してほしい。
公法と私法はそれぞれ別の法体系として捉えるべきかどうか、という議論がある。現在の通説は一元論(というより区分の意味がない)であり、判例・実務も一元論寄り(あえて区分しない)と理解されている。
法解釈技術的に見る限り、今日、公法私法二元論を取って取れないことはないにしても、その場合、一元論に対比しての独自の意味は余り無く、従って、どうしても二元論に固執しなければならない、という理由もまた無い、というのが実態
公法上の契約に入る前に、行政庁がその活動を行うにあたって、どのような形式があるのか見ていこう。
一般的に、私人間の法律関係・権利義務関係を作るものは契約である。
契約という手段を用いることもある(後述)が、そのほかに「行政行為」という概念がある。法律上の用語ではなく、講学上の用語であるが、便利なのでこれを用い、具体例を挙げて説明する。
行政行為にはこのような種類があるが、それ自体は余り重要ではない。重要なことは、行政行為とは私人に多大な影響を与えるものであり、法的な根拠が強く求められる(行政の好き勝手は許されない)ということだ。
行政行為は権力的行為の象徴としてとらえられ、その限りにおいて行政権についての法の拘束を問題とする法律による行政の原理を中心とする行政法の諸原理が直接妥当する。
例えばあらゆる行政活動につき妥当する「法律の優位の原則」は言うまでもなく、「法律の留保の原則」に至っては、そもそもそれ自体が行政行為を中心とする個別具体的な行政活動をめぐって展開されて来た
ざっくり言うと、「法律による行政の原理」とは、行政は法律に従って活動しなければならない、という大原則(例外あり)のことであり、この原理から導かれる「法律の優位の原則」とは行政は法律に違反してはならないということで、簡単に理解できると思う。
また、法律に反しなければ行政は何をしても良いわけではない。そこで登場するのが「法律の留保の原則」である。これは、「行政活動を行うには法律の授権を必要とする」という考え方だ。ただ、これはすべての行政活動に妥当するとは考えられておらず、例えば純粋な私経済作用(例えば文房具を購入するなど)については妥当しないと考えられている。
しかし、我が国における一般的な行政慣行として、行政行為に至る前に、行政指導というものが行われている。具体的にいうと、役所に「こんなことできませんかね?」と質問した際に「それじゃちょっと難しいっすね。ここをこうしてもらえるならできまっせ」と回答して貰ったり、役所から、「建物が壊れそうで、このままだと行政処分をせざるを得ないから、今のうちに危険を除去しといてね」と指導されたりするやつだ。
これは行政行為(処分)ではなく、単なる事実上の指導であるので、基本的には法的な根拠は不要であるし、訴訟の対象にもならないと考えられてきた(例えば行政指導を信じた私人が不利益を被った場合、行政庁に責任はないと解されてきた)。
行政行為には法的根拠が必要で、手続き守らなければならず、訴訟の対象にもなるということで、面倒くさい行政行為ではなく、行政指導を活用してきたということだ。
しかし、あまりに便利で幅広に使いすぎたせいもあり、一定の手続きの整備や訴訟の対象とすることは必要だ、と解されているのが現在である。
行政指導には何らの法的拘束力も無いという基本的な考え方からして、行政指導に対する私人の信頼の保護ということが、行政法学上重要な問題とは考えられなかったような時期はもう終わった、ということだけは明らかとなった
第三十二条 行政指導にあっては、行政指導に携わる者は、いやしくも当該行政機関の任務又は所掌事務の範囲を逸脱してはならないこと及び行政指導の内容があくまでも相手方の任意の協力によってのみ実現されるものであることに留意しなければならない。
2 行政指導に携わる者は、その相手方が行政指導に従わなかったことを理由として、不利益な取扱いをしてはならない。
第三十五条 行政指導に携わる者は、その相手方に対して、当該行政指導の趣旨及び内容並びに責任者を明確に示さなければならない。
2 行政指導に携わる者は、当該行政指導をする際に、行政機関が許認可等をする権限又は許認可等に基づく処分をする権限を行使し得る旨を示すときは、その相手方に対して、次に掲げる事項を示さなければならない。
(略)
第三十六条の二 法令に違反する行為の是正を求める行政指導(その根拠となる規定が法律に置かれているものに限る。)の相手方は、当該行政指導が当該法律に規定する要件に適合しないと思料するときは、当該行政指導をした行政機関に対し、その旨を申し出て、当該行政指導の中止その他必要な措置をとることを求めることができる。ただし、当該行政指導がその相手方について弁明その他意見陳述のための手続を経てされたものであるときは、この限りでない。
(略)
行政行為と行政指導を見てきたが、大まかな考え方として、「行政のフリーハンドは認めない」方向で議論が進んでいる点が重要である。
行政の意思の実現は、これまで見てきた行政行為や行政指導以外に、契約という形式を用いることがある。例えば、住民と水道局との給水契約、官公庁舎の建築契約、消耗品の売買契約等々、幅広く存在している。
そして、これらの範疇に含まれない、公法上の契約というものが存在する、と議論されてきた経緯がある。
しかし、先ほど見てきたように、そもそも公法私法二元論自体に疑義があり、公法契約にも疑義が呈されているのが現状である。
いわば狭義の行政契約すなわち公法契約(公法上の契約)という行為類型が存在する、という主張が、伝統的になされて来た。
(略)
特に「公法契約」というカテゴリーを解釈論上設定する意味は極めて薄い、と言わざるを得ないことになる。このような事情にあるために、現在わが国では、公法契約なるものの存在可能性自体は否定しないにしても、現実には極めて例外的にしかその例を認めない見解が、多数であると言ってよい。
そこで、これら行政の行う契約をひっくるめて、行政契約(行政上の契約)として議論されることが多くなっている。
いずれにしても、大きな議論の流れとして、契約であるから行政庁は好き勝手して良い、という方向では議論はされておらず、行政行為・行政指導で見たように行政庁の自由裁量を認めない方向で議論が進んでいることは間違いない(もちろん契約内容にもよるが)。
したがって、行政契約であることをもって、契約主体(行政庁と契約相手)が自由裁量を得る、というのは誤りであると言える。
特に、公法契約が存在するとした場合、行政庁と私人の自由な意思に任せることが原則の通常の契約よりも行政庁の裁量の幅が狭くなることはあれ広くなることは考えにくい。
この方法には、私人との合意があったことを理由に、行政主体が好き勝手なことをなし得る、という危険が内在することをも意味する。先に見たように、現行法上、行政主体の結ぶ契約について、様々な制約が付されているのは、まさに、このような危険を防ぐためである
Colaboと東京都の契約は、「東京都若年被害女性等支援事業委託仕様書」に基づいてなされた一般的な委託契約(請負契約か準委任契約かは結論に影響しない。)であり、公法契約という概念が出てくる余地はない。
従来の行政法学では、行政上の契約を公法に属する「公法契約」と私法に属する「私法契約」とに二分し、前者のみを行政法学の対象としてきた。そして、「公法契約論」においては、報償契約・公用負担契約などを念頭において、こうした公法契約を締結するには法律の根拠が必要とされるかとか、いかなる要件のもとに締結が可能かといった問題(公法契約の許容性と可能性)を主に議論してきた。
また、仮に公法契約であったとしても、競争入札において、予定価格を定めなくて良いという特別法がない以上、一般法(地方自治法)の規定が適用されるものである。
したがって、東京都の「公法上の契約のため当該資料は存在しない」という説明は、①公法上の契約とは考えられないこと、②仮に公法上の契約だとしても予定価格の算定は必要なこと、と二重の意味で誤っていると思われる。
(予定価格の算定をしなくて良いのであれば、地方自治法第234条3項が適用されない法的根拠の説明が必要だ。)
第二百三十四条 売買、貸借、請負その他の契約は、一般競争入札、指名競争入札、随意契約又はせり売りの方法により締結するものとする。
2(略)
3 普通地方公共団体は、一般競争入札又は指名競争入札(以下この条において「競争入札」という。)に付する場合においては、政令の定めるところにより、契約の目的に応じ、予定価格の制限の範囲内で最高又は最低の価格をもつて申込みをした者を契約の相手方とするものとする。ただし、普通地方公共団体の支出の原因となる契約については、政令の定めるところにより、予定価格の制限の範囲内の価格をもつて申込みをした者のうち最低の価格をもつて申込みをした者以外の者を契約の相手方とすることができる。
すなわち、競争入札でなければ予定価格を算定する必要はない、ということだ。
では、東京都若年被害女性支援事業は競争入札で行われたのだろうか。実は、この公募関係のウェブページが全部削除されているのである。
かろうじて、平成30年度は公募が行われたらしきことが見て取れる。
[都]平成30年度東京都若年被害女性等支援モデル事業の一部を実施する事業者を公募します
http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/kodomo/jakunenjosei/jakunenjosei.html
https://www.tcsw.tvac.or.jp/php/contents/mailmagazine.php?key=617
だが、リンク先を見てもらえばわかるようにすでにリンク切れであり、ウェブ魚拓・ウェブアーカイブさえ見つけることができなかった。そして、平成31年度~令和4年度までは公募が行われた形跡すら見つけられない。
通常、こういった公募手続きについては終わった後も消すことは余りないように思うのだが、何故見つけられないのだろうか。(見つけた方はぜひ御提示ください)
不意に予定価格と出てきて、何のことかわからない方もおられると思う。
予定価格とは、ざっくりというと契約金額(落札金額)の上限だ。
不思議なところであるが、例えば議会で予算が1000万円と認められた事業について、入札を行う際には予定価格は950万円くらいになったりする(なので980万円で入札しても落札することはできない。)。
予定価格の算定方法は公表されてないが、一般的には業務ごとに一定の割合を乗ずることによって算出している(例えば役務(労働力)の提供であれば予算額の95%等)。
(ここではそういうものだとご理解ください。詳しくするとまた長くなるので)
ここに書いてきたことは、「東京都が、都とColaboの契約を公法上の契約ととらえており、また、予定価格を定めていない」という情報が正しかった場合です。
個人的には何かの間違いだったと思い
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/otsujikanako/status/1596276961059344384
ここのブコメについて、主に広告批判サイドにあまりにも傲慢な不快原理コメントが目立ったので書くことにした。
個人の感想として雀魂の広告が気色悪い、下品、または不快であると言うに留まるだけなら、それは誰かに否定される筋合いのものではないと思う。
ただ、中には件の広告がアウトだのNGだのというコメントも見受けられる。これらは単なる個人の感想を逸脱して表現の不適切性に結びつけている実例だろう。
個人の不快感に過ぎないものを公共空間(JRは公共空間か?という議論もあるだろうが、ここでは「不特定多数が利用するサービスないしそれが提供される物理的・論理的空間」程度の緩い定義とする)における表現の是非に直結させてしまうのは不寛容に基づいた論理の飛躍だ。
というのも、公共空間は不特定多数が利用するからこそ、特定個人の主観に頼るのではなく、何がどのような悪影響を及ぼすかを客観的、実証的に整理した上で定性的、定量的な線引きを設けるというのが、公共空間のポリシーを設ける本来の手続きであるように思う。いやらしい言い方をしてしまうと一概に"お気持ち"のみに依拠して決められるものでは無く、また別の多くの段階を踏まえなければならない筈のものである。
もし公共空間で不快原理ベースの排除を許してしまえば、際限のない不寛容によって公共空間での表現や言論(に留まればまだ良いかもしれない)は委縮し、利用できる者はいなくなり、その存在意義を失ってしまう。
正直、私にとって上記ブクマの不寛容なコメント群は極めて不愉快なものだ。
もし彼らが「他人に不快感を与えるような表現は公共空間から除外されるべき」という規範を普遍的に正しいと考えているなら、まずは自ら率先してその規範を順守し、私や私と同じような考えを持つ人間に今も不快感を与えていることを省みてブコメを削除するべきではないか? そして金輪際そのような投稿をしないと誓い、はてブを去るべきという結論が導出されるのではないか。
はてなブックマークは上記の公共空間の定義に該当するから、不快原理主義者ははてブにおいても他者に不快感を及ぼす表現を控えなければならないはずだ。さもなければ自分自身の掲げた正義に自ら背くというダブルスタンダードを犯してしまうことになる。
勿論、私は上記のような規範は支持しないが、彼らは彼らで自身の規範を自身に架せばよい。信念のある人間ならむしろそうあるべきだ。
このように不快原理というのは、それを主張する本人らにまで排除の論理を拡大できてしまうわけだ。短くまとめれば「不快原理主義者は不快だから消えろ」に反論する論拠を持たない。不快原理主義者が他人に一切不快感を与えないということは確率的に極めて低いだろうから、存在自体が矛盾しているとも言える。
本当に公共空間というものの持続性について真摯に考えているのであればこそ、不快原理のような持続可能性のない考えを改めて、他者の表現に寛容になってもらいたいものだ。
あ、ちなみに、もしここで上記定義を否定して「はてなは私企業のサービスだから問題ない」と言うのであれば、それはJRにも該当することであって一連の広告批判は失当なものになってしまう。まさかこんな反論をしてくる愚か者はいないとは思うが、無駄なやり取りを減らすためにも一応書いておく。
正直、変数の統制が不十分で根拠曖昧な割れ窓理論まで持ち出してくるブコメを観たときは頭を抱えたよ。
沢山の反応を頂けてありがたいという感想と、あまりにも低レベルな(それこそ文章をまともに読めていない)反論に呆れ果てているのとで半々くらいだ。
うんこが落ちてたら不快なのと同じで、自分の望まない性的なものが不快なのは万人共通。一方で私は『ワンピース』が嫌いだが個人的な好みなので、街中に貼り出されてても我慢している。万人共通というのが普遍性。
「自分の望まない性的なものが不快なのは万人共通」を仮に真とするとして、「自分の望まない漫画が不快なのは万人共通」はどうだろうか?
このコメント主はワンピースを挙げてくれているが、漫画という上位の集合を持ち出せば、それは普遍的な不快さになってしまわないのだろうか?
また、漫画についてはワンピースという個別具体的な例を挙げるのであれば、件の広告も"性的なもの"という抽象概念ではなく雀魂または咲という具体的タイトルで論ずるべきではないのだろうか。そしてその場合、それらもワンピースと同じく個人による好き嫌いがあって当然であり、そこに普遍性を見出すことはできないと私は考えるがいかがだろうか
これは20年前だけど実際のところコミケは10年前のこと(もしかしたら5年前かも)すらかなり情報が消えてる。
まず準備会が個別具体的な話をほとんど残さないし、10年前だとTwitterもそれほど普及しておらず、やってた人のツイートもだいたい消えてるのでTwitterは当てにならない。そうすると2chのコミケスレの過去スレを漁るしかないんだけど10年前だとそれも結構大変
実は数年前まではまとめサイトが貴重な当時のコミケの様子を物語る史料になってた。信ぴょう性が不確かなのは承知してるが、まとめサイト以外で10年前のコミケの様子を見られるものが個人ブログのわずかなものくらいしかないのでまとめサイトですら貴重な情報源だった。ただこれも最近は見られなくなってる。
分かるような分からないような話
たとえば、元増田の言う「公共空間に時計が無くなる」ことのメリットの一つとして挙げてる「時間を忘れることができる」だけど、公共空間に時計が無くなったことで時間を忘れた機会を得たその人は、その後も時間を忘れようと積極的に現状維持を選ぶだろうか?
俺は、ほとんど全ての人が「時間を忘れる機会が今後訪れないように行動する」ことを選択するような気がする
すなわち、個別具体的にいつでも時間を確認できるように、あるいはタイマー・アラーム・リマインダなんかをフル活用して、極力時間を忘れない、あるいは「意識的に・定期的に思い出させる」ようにすると思う
それくらいに、ほとんどの人にとって時間を忘れることはリスクが大きい
時間の扱い方に関する多様性みたいなのは少し同意できるんだけど、「公共空間に時計が無くなる」ことのメリットとして結びつけるのはちょっと疑問符が浮かぶ
役所、公園、商店街といった公共空間には必ずといってよいほど、高いところに掲げられ、大きくその文字を記した「時計」というものが存在する。
しかし、今や、そういった公共空間が仰々しい時計という装置によって、大掛かりに「時」を提供する必要があるのだろうか。
個々人には、古くからある懐中時計に腕時計、今やスマホはマストアイテムであり、誰も「時」を知ることに苦労していない。
そういえば、時刻表に追われる公共空間の代表例、すなわち、駅においても、その空間から時計が撤去されつつあるというニュースがこないだあった。
いわんや、普通の公共空間をや。公共空間にあるあの時計はもう、本来的な必要性を失い、街の中の単なる意匠にすぎないとも思えるのである。
すなわち、公共空間における時計の喪失は、マイナスの側面ばかりではない。
なぜなら、時計の喪失は、公共空間を時間から解放する手始めの手段だとも言い換えられるだろう。
例えば、子どもの頃、夕暮れる公園で時間を忘れて遊具で遊んだ記憶という、実際には存在しない記憶を思い出してみよう。
世の中では、大人のひとつの定義として、「常に時間に追われる存在」というものもあるらしいが、その解放にも、公共空間における時計の喪失が役立つのである。
公共空間に時計が無ければ、公園では時間を忘れて球技をし、商店街では時間を忘れて買い物をし、役所では時間を忘れてて閉庁に間に合わず、というふうに色々な効能が得られるはずだ。
すなわち、子どもの頃の、時間を忘れて何かに熱中して楽しかった嬉しかった、あの記憶が、時計をなくすことで再現できるのである。
まあ、実際には存在しない記憶なのであるが、細かいことはどうでもいい。上記のような大人の定義など誰も言ってないことも、もはやどうでもいい。
つまりは、公共空間における時計の喪失は、そういう意味で、様々な練られ考えられたであろう意匠よりも、素朴で牧歌的な空間の演出に役立つはずだ。
また、さらに多面的な見方をすれば、この現象は、個別的な「時」を持つことで、公共として提供される「時」に打ち克つことができたのだとも言える。
例えば、公共空間が環境音楽とともに押し付ける「12時」と、私のスマホが示す「12時」は全く意味が異なるのである。
何事においても多様性が重視される昨今、時刻においても、その意味の多様性は保持されてしかるべきだ。
当然、その値は常に一意に定まるものではあるのだが、提供形態は一意でなくてもよい。
「時」が、個人の持つデバイスによって、個別具体的な形で提供され、公共空間が「時」を提示しなくなった現状は、多様性の為せる現象のひとつだとも言えるのである。
一意の値であるはずの「時」も多様性を持てるようになった、という点で、世界の価値観の進歩が感じられる。
公共空間はむしろ積極的に「時」の提供を辞めてよいのかもしれない。時間からの解放と多様性のために。
というか、スマホに限らず、懐中時計などは昔からあるものなのに、なんで公共空間が時計で「時」を知らせる必要があったのだろう。
どうして、人々にとってわかりきった知識である「時」を大々的に提供していたのだろう。不合理に感じる。
そう思うと、そもそも本当に公共空間に時計などあったか不安になってきた。役所、公園、商店街など、実際には時計など無かった気もする。
なぜなら、私はスマホで時刻を知っていたから。なんなら、公共空間に居たにも関わらず、スマホを見ていて、公共「空間」という空間を把握していなかった気がする。
だから結局は、公共空間における「時」の提供など、実際には存在しない記憶なのかもしれない。
そうだ。それこそ、水時計で時刻を知るような大昔でもあるないし、勘違いにもほどがある。
沖縄の人は反戦・反基地だといったけど、中国のことを脅威に感じてないわけではない
有事の際は基地が真っ先に標的にされるから、本土の人以上に脅威を感じているのではないだろうか
実際、戦争に備えて住民避難の机上訓練も予定されている(これは沖縄だけじゃやないが)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220620/k10013681181000.html
増田はこの脅威に対して基地を作ることで抑止する、という考えしかないようだけど、反基地原理主義の人はそう考えてはいない
このニュースでは、「軍事力ではなく対話で防ぐ」と書かれている
https://news.yahoo.co.jp/articles/8ad7dec9d29ba4404831489760c5e063a9b15009
笑ってしまうような甘い話かもしれないが、反基地の論理として筋は通っている
北風と太陽の話と同じようなもんだ
>都合が悪い
これは恐らく基地で働く人の話をしているのかもしれない
当然、基地がなくなったら困る、という人もいるだろう
ただ俺が言いたいのは、沖縄の人を俯瞰的に解釈するとしたら「反戦争原理主義」なのではないか、という抽象論なので、個別具体的なこと言われても困る
やれ高額なプレゼントを買わせるや、やれ未成年に援助交際させるや
なんだか訳の分からないものというように見ているが実態は全く異なる
パパ活女子(=PJ)とパパ(=P)にはそれぞれ数通りの人種がおり
さらにその組み合わせによって数通りのかたちがあるのがパパ活だ
パパ活界隈とはフリーランス嬢と客が形成している開かれた市場に過ぎない
PJとして
クソみてえな勘違い素人底辺PJと謎の恋活婆と激安本番アリ底辺デリヘル(援デリ)業者と
Pとして
それぞれの客と糞みてえな貧乏Pがいる
それぞれの説明は以下のような感じだ
高額なプレゼントはフリーのキャバ嬢を枕してもらうためにやるというか貢ぐことそのものが目的かしているドM男の貢ぎプレイだ
たとえばペイターズでもなんでもいいけどそういうP活アプリでマッチングして「大人(数字)」とか言ってくるのがフリーの風俗嬢だ
大人とは要するに本番だ
それにオーケーと答えてホテルを指定してお車代を出してヤルだけだ
ただ大人2~3が相場なのでデリの基本料金からすると微妙で基盤嬢のオキニがいるならそっちの方がいい
援デリは大人2で場所を指定してくるそして日本語があんまり通じない
フリーの風俗嬢は単純な売春行為なので不可罰だが援デリは管理売春でゴリゴリに風営法違反なので気を付けるに越したことはない
まぁ蛇蝎の如く嫌われている援デリだが2万で本番できてかつ普段はお目にかかることすらできないような最貧困女子と30分くらい会話できるので経験として悪くないから怖がらずに行ってみるといい
フリー風俗嬢以外の嬢に初回大人ごり押しはPとしては絶対にやってはならない
理由はないがなんとなく駄目なんだ
だから見分け方だけは覚えて帰ってほしい
簡単だ
もしくは茶飯と大人の金額があんまり変わらねえ(2で飯、3で大人とか言ってくる)
ついでに言えばフリーの風俗嬢ってのはキャバ嬢的なホスピタリティはないのでメールが事務的だ援デリより更に事務的に決まる
なぜか?
簡単だ
ホスピタリティがあったりそこそこ余裕のある奴は身体を売らねえんだ
酒飲むのもダリィし男に媚びるのもダリィしセックスする方がはやくね?って奴もしくはめっちゃ金に困っている奴がやるのが風俗嬢だ
初回顔合わせなんてフリーの風俗嬢は面倒くせえし金にならねえからやりたがらねえ
こいつらがおそらく一番有名なスタイルの PJ だし勘違いクソ素人PJというノイズがあこがれているのもこいつらだ
そして貢ぎプレイをしている奴らが貢いでいるのはこいつらだ
こいつらはまぁ条件がテンプレだ
「初回は顔合わせのみで顔合わせは1で二回目以降は大人も3でオーケー」
とか言ってくる
基本的にはヤレないと考えていい
ガチャを回せばヤレるが回すくらいなら上のフリー風俗嬢とやった方が早いし安いし上手い
ヤレない前提で女を口説く遊びをしたいタイプがこういうPJと遊べばいい
フリーの風俗嬢よりホスピタリティがあるから楽しめるやつには楽しめるだろう
勘違いクソ素人PJというクソとまともなフリーのキャバ嬢との区別は知らん
なのでそういう店と値段は変わらん
ただ高いとにかく高いあと素人感がまったくない
交際クラブの登録費とアプリの月額費用なんて大差ねえからもうなんも変わらん
こいつらはノイズだ
まず前者
もうねうざいだけなんですよ
ホスピタリティの欠片もないクソどうでもいい小娘のクソどうでもいい話を聞くという苦行を顔合わせと称して
5000円請求するクソなんですよ
そして大抵は顔合わせでドロンするんですよ
ガチャの外れ枠なので仕方ないが腹は立つ
次に後者
30歳を婆と言うみたいなそういう話ではないマジでただの婆
50歳とかの婆だ
写真もただの婆だ
ペアーズで爆死した婆がパパ活アプリなら同世代がいるだろうという天才的な発想で婚活しているのかも知れない
婆たちに輝かしい未来が来るのだろうか
そんな感じでパパ活界隈と言っても様々なフリーランスと様々な買い手がいる
マッチングアプリという都合上風俗狂いとフリーのキャバ嬢がマッチングしたり
高スペックキャバ嬢枕狙いの客とフリーの風俗嬢がマッチングしたりする
これを読んだ諸氏が仮にパパ活界隈に参加してみる際にはそういったアンマッチがあっても礼節をもって対応してほしい
婚活や恋活ほどマッチングが難しい界隈ではないのでわざわざイラつく必要はない
むしろ完全にビジネスの話なので何を売るかと何を買いたいかを決めて参入すればすぐに交渉のテーブルには就ける
たまに本番をやるフリーのキャバ嬢もいるしホスピタリティにあふれるフリーの風俗嬢もいるし糞じゃない素人もいる
まぁあれだ
とにかく諸君らの健闘を祈る
ネオリベだか新自由主義信奉者が憲法遵守で信仰の自由云々言うてる。
例えばヤクザ、結社の自由で合法なんだが、これ世界中で日本だけ。
アホかと、
どんな国でも結社の自由が保護されてても犯罪組織の結社の自由なんて認めんのよ、
たりめぇだろw
その組織のメンバーってだけで犯罪になる、個別具体的に犯罪実行してなくても
ところが日本は自由で野放し、結社の自由、憲法だと、戦前の反省だと
組長は手を出してない、指示もしてない、部下が勝手にやった。
アホかとw
ところが表現の自由のポルノとの関係を考えりゃ一定抑制されるのは当たり前で
結局のところは憲法解釈をどこで線引するかは国民、立法、行政の裁量であって。
統一みたいな宗教もどきを容認するのか、それが国民の意思であるかを議論すりゃいい。
てかコーラン神学だって現代法との折り合いはもっと柔軟にやってるわ。
好きなのは、自動車でラクダを轢いたときの責任、昼間ならドライバー、日没後なら管理不全の飼い主。
宗教の皮かぶってようが人を不幸にする実態があるなら規制すりゃいいじゃない。
王様の暴走は首が切られるまで止まらない、だから破滅の規模がでかい、
国民をステークホルダーとし過半数が「損」と認識した時点で損切りできるのが民主主義
大勢の知恵を結集し無謬のルールを作るのが民主主義及び多数決の主要機能であると信じているひとがいる
いわゆるみんなの合意で決めたルールなのだから一度作った法律は変えられない論
国民の権利と義務はその代表者を引きずり下ろすことでしかない、ルールそのものにはコミットしてない
多数決で作ったのだからやってみて反省があれば再度多数決で修正、廃止できる余地を担保しているのが民主主義で
少数派の意見も汲むのが民主主義とか言い出す連中を見るとイラッとする
挙げ句に民主主義は多数決では無いとか言い出すボケ、徹底して多数決の原則を守ることでしか民主主義は機能しない
半数が「損」と認識できるまで待つしかない、せいぜい「損」だと気づかせる啓蒙をする、コツコツと
時間もかかり手間もかかり、一見遠回りで不合理に見えるが、愚直に原理原則を守ったほうが結果として社会の幸福や利益は最大になると信じるのが民主主義
>100人の村で70人が結託して30人を奴隷にするよう多数決で決める」は民主主義ではない、
いいえ、民主主義です
結託した70人が、それでは社会の持続性が破綻し不条理な結果になることに気づいて軌道修正するときにやはり多数決の原則が守られてなければならない
犠牲も伴い、遠回りだけど、一時的な脱線や暴走も受け入れるのが民主主義の矜持、だからこそ民主社会では教育が重要。
そして憲法はフールプルーフではない、あってはならない、愚行を憲法で定義してはならない
日本の憲法は戦争を愚行と定義しているが、英仏米に聞いてみろ、戦争は正義だ。正解など無い。
憲法はせいぜいインターロックであり、国家の意思決定の振り幅を抑制しているにすぎない。
愚かな意思決定を抑制しているのではなく、愚行すらもやってみて失敗なら反省して民主的に軌道修正のPDCAをやるしかない。
そうやって社会を発展させていく。
俺はそう思うんだけどなぁ