はてなキーワード: ノコノコとは
明らかに「虐めて馬鹿にするための出演者」と「褒めて応援する出演者」に分けて
寄ってたかって叩くコンテンツ、今の時代にそぐわないと思うんだよな。
ホストに貢ぐ女以上に人生潰されるし、ネットタトゥー残るし、視聴者が群がって出演者叩いたり叩きに行ったりすること助長してるのヤバいと思うわ。
大体来るのってお金が無いとか、頼る人居ないとかそういう人じゃん?で、明らかに発達障害とかADHDの人とか居る訳でしょ。
そういう弱者を引き出して、何やってるかわからないジジイとババアが人格否定とか圧迫面接もどきのことして虐めて金稼ぐ
コンテンツとしてはかなり醜悪だと思うわ。そしてそういう「虐めて馬鹿にするための出演者」には絶対金を出さない。
平成初期とかならまだSNS発達してないからわかるけど、完全に害出てるよな。
自殺者出るまで続けるのか。
で、一言で言えばドキッ!ホモだらけの戦国大怪獣のあとしまつ~(生首)ポロリもあるよ!~って感じスね
大怪獣のあとしまつ、我は三木聡ファンなのと山田涼介ら主演の熱演もあって、そんなブチギレなくてもいいじゃん、面白いジャン、て擁護してて
たまたま映画観る前にレンタル落ちDVDが700円で売ってて、700円は高ぇなって買わなかったんだけど、立ち喰い師列伝も500円で買わなかったんだけど、ダイの大冒険が値下げされてついに2000円を切ったんだけど、
俺首であとしまつにブチギレてたゴジラファンの気持ち分かった!
いや、上映前にチラシみたら「笑いあり」みたいな書いててちょっと嫌な予感したんだよな
席もやたら空いてたし…
でも、西島光秀は良かった(テレレレー)。ホモ以外にもシグルった一面もあったり。信長も予告だと心配だったけど、アッパータイプのドSホモでキス魔で中々良かった。
秀長も初っ鼻のパワハラはちょっと…だったけど、そこからは人の善さが出てきてよかった。勘兵衛も陰険って感じはなく、むしろ半兵衛っぽくもあり…鳥取の飢え殺しやって三木の干殺しやらなかったの、タイミングの問題かと思ったけど半兵衛スポイルするためだったんかもな
中村獅童はピンポンのドラゴンのイメージだったから、エンドロール見るまで気付かず、無名の若手芸人とかかと…こういう演技力もあるんすね
一徳利休ももちろん良いスね~しかし、利休・秀吉黒幕説メジャーになりすぎでわ?
ワイはへうげで知ったクチ
そういや、映画関ヶ原はひらパー兄さん目当ての歴史知らん人にはマニアックすぎ、歴史マニアにはチープすぎたらしいが、へうげとセンゴクで歴史を学んだニワカには丁度いいこだわりっぷりで良かったんよね
で、本編の話。ワリとグロだし、生首飛ぶところまでちゃんとやるのは偉い。どーでもいいが、ワイ自身は漫画とか文章のグロは平気だけど映像はキツイタイプ…と自認してたが、これ見て割と平気だったんで大丈夫かも
しかし、淫夢で耐性ついてたはずなのにホモキス、ホモ濡れ場連発はキツかったでよ。
変態道糞武将の村重(香川博之のつもりで見てたらエンケンだった)×光秀はちょっと珍しいカップリングじゃないか?ワイは初見。餅のエピソードをこうするか~と思ったが、それよりディープキスよ。そして光秀、お前めもか
ふぅん、武将にしては珍しく衆道を嗜まなかった秀吉との対比か…と思ってたら猿もホモ!
ホ
モ
ま
つ
り
新撰組ホモの御法度とかあったし、そっちの戦国版かな?でもそれがテーマというワケでもなく。でも、男女の濡れ場が一切省かれてるのはある意味新しいかも。ヒロインとのキスシーンとか、ポリコレが言われるようになっても必ずってほど入ってるし(シン仮面ライダーで恋愛じゃないとか言ってたのは意識的だと思う)
ヤスケ、モブでピンボケしてる時からやたら存在感あったけど出番も割と多かった。ただ、チェーホフの銃じゃないけどSSR首ごと物語から退場されても困る。いつ再登場するんだ?って無駄に気になっちゃってたし
ニワカなので高天神城と高遠城混同してて、長篠キャンセルか~って考えてたら始まって混乱した。やり手婆の柴田選ぶのは分かってても面白かったけど、ギャグと見せかけて…ってのはまあ…しかし柴田の演技力、こう見えて女優なだけはある
家康あっさり死んだのは、おっ、影武者徳川家康!?と思いきやただの影武者っつーね。
老獪に生き延びるってのがやりたかったのはわかるが、本物が死なないとギャグとしてはあんまり。半蔵と利三(だよな?)の空中バトルも、中途半端さが…トリックみたいに唐突にゴムゴムし始めるくらいして欲しかった
猿が家康に連れ込まれるのはホモレ…と思いきやその後のコント見るによくわからん。秀長のキャラはいいが、弛緩しすぎて秀吉じゃなくたけしになっちゃってるのはどうか…
暗黒JKはこいつに尺使いすぎじゃね?あっまたホモか…あ、そういうこと…ってのが予想外ではあるし、やりたかったことは分かるんだけどまあ…
清水宗春は嫌儲の清水宗春思い出してちょっと笑ったが、コント自体は史実とのギャップありにしてもあまり…これも首のひとつってのは分かるけど。
神戸信孝がチラっととは言え出てたのは良かった。
怪傑ソロリは御伽衆だから史実バリアーあると思いきや死んだのは予想外だった。道糞もどうせ生きてると思ったが死んだのか?
渡河でゲロ?吐くのはわかるようなわからんような。溺れかけるとかのがわかりやすくね?ただ、ソロリの死から歴史が歪んでるっぽいからこの後アッサリ病死したりして…
オチの前、天海出てくるかと思ったら出てこなかったけど、あそこで死ぬのは悪い意味で予想ついてた。
大オチも、いいたいことは分かるが弱いっつーか、モスケの方を蹴った方が分かりやすくねーかなー
で、あのホモの踊り子はなんだったのか…?多分お国なんだろうけど
学校のクラスメイトとか部活や習い事とか、会社の飲み会意味わかんない なんで嫌すぎる授業や業務を耐えて解放されたのに引き続き顔合わせたくない他人と一緒に居続けるイベントがあるんだろ。
そりゃ会社でも学校でもトラブルや波風なんか立てたくないから挨拶やちょっとした雑談や質問ができる程度の社会性が求められるのはわかるのよ でもそんだけ
勉強や仕事の付属物でしかない人間関係で心が蝕まれるの本当に人生の無駄
他人(家族含む)と社会は人生の進行を邪魔する敵だと思って諦めてる。マリオのステージでドッスンが上から落ちてくるとか、ノコノコが進路妨害してくるとか、あらかじめこっちを邪魔したり傷つけるためにプログラミングされてる。敵なんだから嫌なことしてくるのは当たり前って受け入れて、運よく今日は変な人や不快な場面に遭遇しなかったらその日はラッキーデー。
自分も30代だわ
30後半から上の女性は理解がある彼君を捕まえてなんとかやってただろうけど、もうそう言うこともなさそうなんだよな
男は30代なら、金があるやつは理解がある彼女さん捕まえてる割合は増えてる感触はあるけど、それ出来るの恵まれてる奴らだけだよな
後は地方民なら東京出てきて生きる場所を得たとかも見るけど、今の20代がノコノコ出てきても東京で食い物にされるだけと思うんだわ
大学の奨学金の支援とか、福祉面はだんだん弱くなってるのを感じる
ただ一方で就職状況がかなり良くなってるから、案外簡単に脱出できてるのかも?とも思うんだよな
高卒で働くとかもどうしても親が嫌なら今は選択肢に入るだろうし、毒親問題ももしかしたら簡単に解決する時代に変わったのか?とも思う
ぶつかりおじさんは女性ばかりターゲットにしている、みたいな論調を見かけて、自分の場合は男女問わずぶつかるタイプのぶつかりおじさんだったなと思い出したので書く。
※ぶつかりおじさんの定義は諸説あるようだけど今回は、避けないで結果ぶつかるタイプも含む広義のぶつかりおじさんと思ってください
最初の対象は電車から降りる時に、降りる人の流れが終わる前に乗り込んでくる人だったと思う。
当時はコロナ前で満員電車で通勤していたのだが、降りるより先に乗ってくる人には絶対譲らないぞという精神で通勤していた。
SNSでの暴言とかでもそうだと思うのだけど、やはり「正義は我にあり」と思っている時が人間一番暴力的になる。
段々他の場面でも「あえて避けない」事が増えてくる。
駅構内で進行方向が指定されているのに逆流してくる人を避けない。
歩きスマホで前を見ない+歩道の中央を歩いている人に対して半分しか避けない。
ぶつかることで相手に間違いを教えてやる、という気持ちが10%くらい、
こっちはルールに則ってるのに、ルール違反しているやつに譲りたくないという気持ちが90%くらいだったと思う。
で、ある日、エレベーターから降りようとしたとき、扉が開くと同時に乗り込んできた男性と肩が強くぶつかった。
口論になり、胸ぐらをつかまれ、相撲ののど輪みたいな感じで首を絞められ、「ここじゃ警備員に見つかるから建物の裏に来いや」と言われてノコノコついていった。
今にして思えば危ないが、その時はワクワクした高揚感すらあった。まぎれもなく悪いやつに、正論をぶちかますチャンスだとでも思ったのだろうか。
結局相手もそれ以上の暴力行為には及ばず、こっちも日々妄想していたほど能弁に正論を語れたわけでもなく、グダグダのまま解散した。
その日以来、ぶつかりおじさんを引退した。いずれトラブル起きるから損なんだよな。
皆さんはどう思っただろうか、私は正義を貫くべきだっただろうか。
ちなみに自分はエスカレーターで(関東では空けておくことが多い)右側で立ち止まるおじさんも兼任していたのだけど、ジジイにステッキで殴られるという事件がありそちらも引退した。
あるきっかけ。感じた怒り。それを消化というか消火できずにいると、それはやがて自分の人生上の怒り、というところまで拡大していく。そしてそれが解析困難だと、あらゆる意欲を失っていく。意欲の失い方、堕落の仕方は完璧だった。投げ出したんじゃない、先延ばしし続けたのだ。その結果、人生を諦めて放棄したように錯覚するところまで行き着いた。あまりにも自然にそこまでフェーズを移してしまった。
怒りを感じて、怒りをどうすることもできないと感じると、無力感を生じる、そうして問題と向き合うのを先延ばしするうちに無気力になっていく。
もう届かない怒りをどうするのか?
結論は?
根源の相手を探すか、他の人に八つ当たりするか、それ以外か。忘れるか。
時間が経てば忘れられる。小さくなって消えていく。だけど直後はそれが判らない。
人間全体が憎くなって、それを晴らす方法も分からない。自分は一方的に相手からやられ続けるだけだと思うようになる。
実際は、私の人格は多重複合構造であり、怒りと報復のテーマだけで動いているわけではない。
でも感じられない。どれをとっていいかわからないと感じる。どれか一つしか選べないような気持ちになる。あるいは統一できないといけない気持ちになる。
どんなフェーズでもいい、どんな精神状態でもいいから、やるべき行動を続けることを止めないんだという自分への約束は無意味なことに感じる。
もう一度そのテーマについて1から再検証するべきではないかと感じる。事実3日も4日も自分に課した義務を放棄してるのだから、今さらノコノコ元の状態に戻れない、なんの成果もなく元の生活に戻ったらただの損失でしかなくまた同じ事を繰り返すから、あと1〜2日無駄にしてもこの問題に向き合って考えるべきだと感じる。
しかし私は多重複合的な精神構造で生きてる。私の精神状態は常に揺らいでいる。その気になればいつでも問題に正しくフォーカスできるというのは幻想である。
それは存外難しく、一度機を逃すと再びそれが上手くいく確率は、実はものすごく低い。それを待っているよりできることをやったほうがはるかに実がある。わかっているのに私は動かない。4日は無駄になったと認めて損失の合計を4日間と計上するよりも、5日間の時間と引き換えに何か大きな気づきや悟りや決心やその他投じた時間に値する価値を得る、損失を取り戻すことに執着する。
それは時間が経てば経つほど困難になるほとんど不可能なギャンブルだ。なのに私はいつまでも損失を認めることができない。ただじゃ起きないと思ってる。ただで起きなければ失ったモノが戻ってくると錯覚してる。実際はただで起き上がる方がずっと賢く、失うものは取り戻すより最小限に留めるほうがずっと良いということが判らない。5日かけて何かの気づきを得たと思っても、5日を失ったことに変わりはないことが解らない。
私は精神状態さえ持ち直せれば恒久的に安定して前進を続けられると思っている。
そうした思い込みの末に今の泥沼の中にいる。
「取られるはずなのないもの」に足を取られて、「すくわれるはずのないもの」に足元をすくわれて、「怒るに価しない怒り」のせいで結果自らの人生すら破壊しようとしている。有り得ない有り得ないと喚いている、それが私だ。
私は自分で止めるしかない。自分で違う場所を目指すしかない、怒りだろうと、他のどんなネガティブな感情だろうと、ネガティブな経験だろうと同じ事で、私がそれに“やられて”しまうのを誰も助けないし誰も哀れまないし、誰も意味を与えることもない。私は独りきりだ。誰も私の現状に納得のいく説明などできないし、してくれない。私は放置されているし、見放されている。いや違う、私は関心を持たれていない。私の境遇も、私の過去も、私の努力も、私が怒りを抱えながら藻掻いたり悩み苦しんだり、そういうことに“この世”は関心が無い。少なくとも、私の場合はそうだ。他の人間の待遇は知らない。他の人間は関係ない。他の人間の待遇は違う。他人は他人、私は私のこの世での待遇に目を向けるべきだ。私は今はまだ死ねない。かといって生き続けても私の人生がよくなる保証は一切ない。私は産まれる前にありとあらゆる保険を解約したのかもしれない。他の多くの奴らが付帯させてほしいと契約したものを、私は敢えてぜんぶ外したのかもしれない。特段に人生で虐げられてきたとは思わない。特段にひどい境遇というわけじゃない。ただ、保険や保障や恩恵や共同体利益や、そういう皆と同じ輪の中で得られる福利に私は1つもチェックマークをつけなかったのかもしれない。
だから私の出す結論は何か。進み続ける、行動し続ける、それしかない。死なないのなら死ねないのなら、怒りすら捨てて、前に進まないといけないのかもしれない。これは崖なのかもしれない。ただただ登るしかないのかもしれない。わけのわからない目的のために、ただもう頂上を目指す、それだけしか残されていないのかもしれない。
怒り。許せない人間、許せない思い。
憎い、悔しい、許せない、私は訴える。
その思いを何とかしないとどこにも行けない気がする、進めない気がする。でも【それを見ているもの】は、ない。
怒りの火種で燃やされて終わってしまうのだとしたら、そんな私に、“なにか言うことはないのか”と私は何かに対して問う。
ない。
私は随時、放火される。放火魔は多くの場合、捕まらない、私は一方的に放火される。私が火を消さず怒り狂って地団駄を踏んでいたら、どうなるか?
【そのまま】になる。
私は随時一方的に放火される。放火魔はたいてい捕まえられない。もし捕まえて八つ裂きにすると、私の人生も終わる。そんな危機が何度も起こり続ける。それが私の人生で、私の生きている世界だと思う。そこで私は選ばないといけない。放火魔を八つ裂きにするのか、消火して私自身を建て直すのか。この問いを繰り返し繰り返し毎日看板に書いて掲げる必要がある。やるのは無意味かも知れないが、やらないのはそれよりも無意味に思える。無意味の中でも【より意味のあるように思える無意味】を選択する。それ以外にできることはきっとない。最善は選べない。最善を選ぶのは贅沢な行為である。贅沢は贅沢を許される人生に許されている。贅沢を許される時期に許される。私のモラトリアムは終わった。私へのそういったものの支給はもう終わった。私にできる贅沢な選択はない。私にとって最善の選択は、常に【マシな】選択である。こっちよりはこっちが、あれよりはそれが、【比較的】【若干】【ほんの少しだけ】マシに思える。そういうマシな取っかかりや手がかり、足がかりを、私は掴み続けるしかない。崖をよじ登るならそういうことなんだろう。そんな状況でわざわざ私を燃やそうとする捕まえもできないものたちを、私はどうするのか。私に捕まえられない放火犯を分析する余裕は【ない】。
私は割り切らなければいけない。
あの人間は私に火をつけて逃げた。私はショックを受ける。怒りが湧いてくる。火が燃え広がる。ショックで立ち止まったままになる。消火を怠って、延焼を放置して、5日が経った。あの人間は平然と生きている。当然だ。私はそのことを考え続ける。自分より他人のことを思いつづける。私はあの人間なのか?私の人生はあの人間の人生なのか?私が私の心を放棄するほど、私の人生はあの人間の人生なのだろうか?あの人間の人生について考える価値が私の人生以上にあると、私は本気で思い込んでいる。私が陥ったものというのは、そういうものだ。私があのとき立ち向かわなければいけなかった分岐点は、そういうものだ。
「でも、だって、この怒りは抑えられない、どうしようもないんだ」その言葉の正統性を知っているのは、私一人だ。誰も私と全く同じようにその思いを分かち合ってはくれない。他人は火を消せという。私ははそれを聞いてもっと怒り狂い、火に油を注がれたと感じる。「火をつけたやつがいるんだ!」と私は叫ぶ。他人は「わかるけど火を消せ」と言う。「何がわかるんだ!上っ面で分かったフリすんな!火をつけて逃げたやつがいるんだ!!」と私は叫ぶ。私と他人は永遠に噛み合わない。私は失い続ける。他人への怒りと不信感は膨らみ続ける。それでも誰も私を憐れんではくれない。他人は無理解である。だが私はこの世界でその他人と関わって、時に助けを借りなければいけない。それをしたって私が根っこから救われるわけじゃない。ただ、そのほうがマシだからだ。他人を一切閉め出すよりも、他人と一定関わるほうが【マシな選択肢】だからだ。私はそういう選択をし続けるしかない。消極的だろうが積極的だろうがそうやって選ばないけといけない。選ばない損失と選ぶことで得られる可能性を秤にかけて行動を起こさなければならない。私がいるのはそういう世界だ。進むしかない。上を目指して登り続けるしかない。私がそういう世界を自分で選んだのだ。