はてなキーワード: 狂言回しとは
2019年に印象を残った映画を上げるなら、僕は天気の子とジョーカーを上げるだろう。どちらも大ヒットをした作品で、どちらも非常に「似た要素」を持つ作品だ。
新海誠の作品は前回の君の名はの時も、非常に似た要素を持つシンゴジラがヒットした。新海誠の作品は、どうも数奇な運命作品に巡り合うらしい。
天気の子とジョーカー、どちらも公開時期は近いから、どちらかがどちらを参考にしたという事も無い。
「都会で、周りの人にぞんざいに扱われる」「銃を手に入れ、物語を動かす狂言回しとして存在する」「どちらも既存の正しさに異を唱える作品」
これらの共通点は、単に箇条書きマジックか、偶然だろうか。僕はそうではないと思う。
新海誠も、トッドフィリップスも、どちらも現代社会を描いた結果導かれた必然ではないかと思う。
しかしながらそのような大きな共通点がありつつも、その結果と印象は全く異なる。
トッドフィリップスはジョーカーを「人の温かさを描いた作品だ」と言った。社会的な思想だとあえて言わなかった。
先ほど内容とモチーフが似通っていると言ったが、実はその共通点の中に、二つの物語の差異が存在する。それはまさしく、「人の温かさ」なのだ。
・都会での周囲の人の暴力
風俗店の経営者と聞くと、多くの人は「ちょっと怖い」とか「金持ちそう」とか「褒められたものではない職業」と思うだろう。
これは天気の子の主人公が都会や社会に対して抱いていた感情と似たものがある。
ジョーカーでは、その役割を看板を壊した褒められた存在ではない不良、新卒サラリーに抱くちょっと怖く金持ちそうという存在に負わせている。
天気の子の須賀は主人公を体のいいコマとして使うが、同時に役目と居場所を与えている。
ジョーカーではその役目を、ピエロを雇う事務所と、精神科医が担う。ピエロであることで、役目を与え、向精神薬によって居場所を与えているのだ。
そして周囲の人の中に居た女性は、自分の事を気にかけている、までは一緒だったが、ジョーカーではそれは妄想だった。
ジョーカーの母親は妄想にしか目を向けておらず、誰もジョーカーの事を見ていない。
天気の子の主人公は猫に自分を重ねて助ける優しさを持っていた。
ジョーカーも、幼少期のバットマンの寂しげな顔に自分を重ね、笑わそうとする優しさを持っていたのだ。が。
・『銃』という存在
この銃は、両映画にとって「社会にとっては間違っている、主人公の正しさ」を象徴するアイテムだ。
二人が銃を手にした理由は違えど、持ち続ける理由は、同じだ。片方は風俗店の経営者に暴力(足掛け)をされたこと。もう片方は、不良に襲われた事。
しかし、その銃を持った結果には差異が存在する。「銃を見た人の対処」そして「誰に向けたか」だ。
天気の子では、主人公銃をヒロインの前で撃った。標準を「自分を拒絶する社会」としての風俗店店員に定め、しかし恐怖か迷いかで弾は逸れる。
ヒロインは一回それを拒絶するも、主人公が家出して不安に感じたことを理解した上、それを許容する。
ジョーカーでは、銃を小児病院で落とす。しかしそれに対して社会や人々は、ジョーカーが銃を持った理由を理解しようとせず、拒絶した。
ジョーカーは部屋で銃を持ち踊る時、自分の世界の象徴である母親の椅子に向けて標準を合わせている。結局ジョーカーはその正しさの行き場を失い、自己に閉じ込め、
電車のシーンでは「自分を拒絶する社会」としての新卒サラリーに迷わず発砲する。
天気の子では、あくまで向けるだけで発砲しない。自分の都合の良いように女の子を使って、いなくなっても気にせずに呑気に笑ってる人に対して、脅しとして使う。
主人公にとって世界は「自分を拒絶する社会」ではなくなっていた。主人公も同時に社会を拒絶していた事に気付いて、優しさに触れた。
「女の子一人を見捨てる社会」に対して銃を向けていたのだ。かつて自分がそうなりそうな時に拾ってくれ、見捨てずに愛を教えてくれた一人の女の子に対し、同じことをしたのだ。
ジョーカーはその銃で、「男一人を見捨てる社会」の象徴であるコメディアンを撃つ。自分への愛などないと教えてくれた一人の男に対し、同じことをした。
・『正しさに異を唱える』
天気の子では、兎に角「正しさ」に対して異を唱えている。神社で言われた、「現代の人の考える正しさなど、1000年スパンで考えればないも同じもの」という趣旨のセリフ。
最後のマンションのシーンでも、「昔は海に沈んでいた場所が、あるべき姿に戻ったのかも」というセリフ。正しさというものが絶対的なものとして語られがちな現在に対する批判である。
そして極めつけは、最後の主人公の「天気なんて狂ったままでいい。青空よりも、陽菜がいい」というセリフ。主人公にとっての正しさを「選び取る」セリフだ。
新海誠も「選び取る」事に対して、意識して制作したと言っている。
ジョーカーは「正しさ」を雄弁に語るテレビの向こうの人物を見て笑う。ジョーカーは誰も自分を見てくれず、平気で見捨てる社会に銃を向ける。明らかに世界は狂っているのに、その世界は自分をことごとく無視する。
薬を辞めて、あるべき姿に戻ったことを感じる。正しさの無い世界で、正しさなんて自分で決めていいんだと気付くのだ。「正義なんて自分で決めたっていい」という、主人公にとっての正しさを選び取る。
天気の子もジョーカーも、暴力に遭いつつも、主人公は誰かを見捨てない優しさを持ち、社会から自分を守る銃を持ち、その銃で正しさを行使し、既存の正しさに異を唱えた。
しかしジョーカーの場合は、誰もジョーカーを見ず、助けず、愛など与えなかった。結果的に優しさは失い、銃は社会を襲い、誰かを救うためにその力を使えなかった。
天気の子は現代社会で愛を描くことで愛を表現し、ジョーカーは愛を絵が描かない事で愛を表現した。
愛を与えればいい、そう結論付けるのは簡単だが、僕たちはまだ犯罪を犯してない、
だが金がマックで寝る男を、精神障害を持ち銃を落とす男に優しさを向ける事が出来るだろうか。
少なくとも、優しさを与えないのなら、ちゃんとその道を選んだ覚悟と認識を持ちたい。
そう考えた雨の降る夜であった。
※当然だが以下にはネタバレ要素を多分に含む。
主人公が死んだ後も物語が続く前提で、転生や蘇生を除くとする。
まず、①他の登場人物が二代目の主人公として描かれるパターン。
「天元突破グレンラガン」はこのパターン。
とはいえ狂言回しというか、物語の軸となる人物は必要だろうから①と区別が難しいかもしれない。
「まどかマギカ~叛逆の物語」、「ペルソナ3~FES」はどうだろう。続編扱いになると片手落ち感があるか。
そして、③最初からダブル主人公、あるいは複数主人公して描かれ、途中で誰かが死ぬパターン。
ホモは主人公の幼なじみでフィジカル野球エリートのイケメンリア充。
↓
ホモもレズもお互いの想い人に自分の本音を隠してきたステルス同性愛者だけど最近の展開でホモが主人公のこと好きなの皆にバレて他のトラバにある様に真剣十代しゃべり場みたいなストーリー展開になってる
他にもホモのことが異性として好きだけど他の男には異性として好意を持たれたくないという主張の身勝手なリア充女子が登場する。こいつはたぶん狂言回し的な役割を担っててこいつの介入を通じてホモもレズも自分の気持ちに向き合っていかざるを得ない展開になってる。
漫画として特別面白いとは思わないが少年漫画でLGBTを真っ向から扱った新奇性は評価できる。
ただ相変わらずモブキャラに人外レベルのキャラデザをあてがったりする悪癖があるのでそこは人を選ぶと思う。
あとはキャラクターに各々の理屈を台詞として語らせ過ぎている感も否めないが難しいテーマなのでそこはご愛嬌って感じ。
個人的には単行本を買うほどの漫画とは思えない(つーかニートなので金がない)が今ならジャンプ+で一回だけなら全話無料で読めるんじゃないかな?
「敗者・凡才」サイドにもスポットを当てて感情移入させつつ、最後は天才サイドが勝つ、ということかな(意図が違っていたらスマン)。
すぐに思いついたのは
・りゅうおうのおしごと(小説だけど、漫画化したものがあるので、そちら)
・咲
・(未読らしいけれど、やっぱり)ガラスの仮面
…なんだけど、そもそも、そういうのって大量にある気がするね(とりわけ、芸術系と戦争系、スポーツ・麻雀のように、競技を通じ勝敗がはっきりする系)。
別ジャンルで、そういう系統の漫画が知りたいな。例えば日常系とか。
ビーバップハイスクールって、世代が違うし読んだことないけれど、ヤンキー日常系ケンカの天才ポルノと思っていいもの?
(追記)神童は、ヒロインの天才ポルノであり、ヒロインと狂言回しである主人公の、ほとんどセックスといっていい交流を味わうポルノでもあるよ!オススメ!
だってあなたのそのおっさんずラブに感動する視線に当事者性はないですよね?
自分自身がそこに当事者として入る余地がないのを分かってて、自分の欲求を代わりに満たしてくれる男同士のカップリングを具現化して良かった良かったと感動してるということは、悲しい映画で泣ける泣けるとよろこんでる図式そのもので、それを消費と言うんです。
ペニスの生えたぬいぐるみでしたっけ、そういう表現がありましたが、いわゆる腐女子がBLで性的消費すること自体がペニスの生えたぬいぐるみを使ってお人形さんごっこしてることと同じなのではないでしょうか?
そこにあるのは生身の男性ではない。適当なセリフを狂言回しのようにあなた達腐女子が代わりに言いながら、ぬいぐるみのペニスを出したり入れたり操作して喜んでるのと同じことです。
そこには現実のゲイの男性やアセクシャルの人間の生の声はありません。
腐女子にとって適度に泣ける、感じれる都合の良い物語があるだけなのです。
今回のおっさんずラブも全く同じことが言えるのではないでしょうか?
そこを批判しているのに、一部学者までが今回のドラマやBLがセクシャルマイノリティの理解に貢献したなどといった寝言をいっているのは悪い冗談でしかありません。
おっさんずラブもBLも腐女子のペニス付きぬいぐるみのお人形さんごっこのように都合よく作られた妄想でしかなく、むしろセクシャルマイノリティはシスジェンダー女子の妄想の消費のために利用されているのです。
現に今秋から突然BLアニメの深夜枠が増えたり、ブロマンス寄り、ゲイの恋愛ドラマが増えました。これはおそらくゲイの側からの需要というよりは、それを外から眺めて消費したい腐女子側の需要と供給だと思います。
どうして腐女子の皆さんは自分の好きを健全なもののように考えたいのでしょう?
あなた方がおっさんずラブを愛で、BLを愛でるのは自分の性的欲求を消費するためだと、多少なりとも恥ずかしい趣味だと認めればいいだけではないでしょうか?
そこに変な正義や善を構築しようとするからこれは真のゲイライフとは程遠いと批判もされるのであって、「妄想で何が悪い?」と開き直れば良いだけのように思います。
チラ裏。
決していい話ではない。
今年の頭に、初めて2.5次元舞台を見に行った。主演キャラを変えながら、定期的に続いてる舞台だ。
原作ジャンル自体はずっと応援していたけれど、2次元のキャラが目の前で動いてるのを観る、というのがプレッシャー(イメージと違ったらどうしようとか、脚本とか演出が合わなくても退席できないぞ、とか考えていたのだ。余計な心配だったけど)で、舞台の方はずっとスルーしていた。
次の主演に抜擢されたのは、私の推しだったのだ。
私の推しは個性が薄いというか、濃すぎるキャラたちの中に放り込まれた普通の子、みたいなタイプで、狂言回し的な出番があったとしてもメインに回るような感じではなかった。なのに主演。
今後もずっと濃いキャラで回していくと思ってた舞台のセンターに、推しが立つ。
まじかよ。
すぐにスケジュールを確認した。2週間ほどの上演期間中、都合がつけられそうなのはたった1日、夜公演の1回だけだ。
私の推しはもちろんのこと、あらゆる全てのキャラクターが全力で歌って踊って生きていた。
今までの公演を観なかったことよりも、たった一度の今回の公演を観られたことを神さまに感謝したい気持ちだった。舞台を作り上げた方々や、これまでの公演に通いシリーズを支えた先人たち一人一人にお礼を伝えたいと思った。
でもひとつだけ後悔がある。
メインキャストの最後の挨拶でコール&レスポンスを決めよう!となった時のことだ。
初めての観劇だった私は戸惑った。
お客さん参加型の曲は1つもなかったのに??
でもそれ以上に困ったことがある。
私の推し、地味で特徴ないのに、どうしよう。
いや特徴はある、あるんだけど、推しと言えばー?○○ー!!の、○○に入る決定的な言葉が見当たらない。他のお客さんたちと揃う気がしない。
どうしよう。
まごついているうちにキャストさんが声をあげた。
「△△と言えばー?」
●●ー!と応えるお客さんの声は、決して大きくなかった。
私以外のお客さんたちも、同じように戸惑って、何とか応えようとしたのだろう空気を感じたが、そもそも声を出すことすらできなかった私にどうこう言う資格はない。
その言葉を瞬時に見つけられなかった。
恥ずかしい。
申し訳ない。
後悔することはあるけれど、今度はもっと推しのことを考えて、これ!というワードを見つけておけばいい。
だから今回は楽しかった感想だけを呟こうとTwitterを開いた。
最初に目に入ったのは、件のコーレスについての連続ツイートだった。
以下、覚えている限りの内容を書く。
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△△を推してない人が多かったってこと?
私はこの舞台にたくさん通ってたのに、どうして私が行けない日にコーレスを決めるの
私が居ればこんなことにさせなかった
昔鍛えてたから声の大きさに自信ある、何十人分もの声を出すのに
キャラクターの大事なことが、ファン投票とかアンケートとかではなく、声の大きさだけで決まるってこと?
秋のライブ(ミュージカルナンバーを歌うライブ公演があるらしいことを、無知な私はこの時知った)でもこのコーレスやるの?
耐えられない
ほんとに何でこんなことになったの
何で
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読み終えてすぐTwitterを閉じた。
舞台なんか行かなければ良かった、と思った。
私が行かなければ、連続ツイートの方のような、あるいはもっと熱い気持ちを推しに持っている方に席が当たったかもしれないのに。
あのキャラが推しだと言いながら、推しに掛ける言葉がない私よりも、もっとふさわしい人が公演を観るべきだったのに。
シリーズを支えて、追い続けているファンの方々に、感謝よりも先にお詫びをしなければならないと思った。
本当に、申し訳ない。ごめんなさい。
2週間ほどの公演期間中、唯一行ける日が、どうしてコーレスを決める日だったのだろう。
どうして1日だけ都合がついてしまったのだろう。
私のスケジュールがもっと詰まっていれば、観に行こうなんて思わなかったのに。
チケットが取れなければ良かったのに。
結局、そのジャンルについてのTwitterアカウントは削除した。
ここまでが、今年の頭にあったことだ。
今この文章を書く気になったのは、現在使っている雑多なアカウントのフォロワーづてに、かの舞台のライブ公演が無事に終わったことを知ったからだ。
気合いの入ったフラワースタンドが飾られていたことと、連続ツイートの方も参加したらしいことも同時に知った。
おめでとう。最高の舞台が素敵な閉じかたをしてくれたのなら、本当に良かった。
でも、私はもう、二度と行けない。
男親から性的虐待受けたり母親からネグレクト気味に育てられた中学生の女の子
母親が海外にいっとき出張するからということで、母親の昔の恋人に預けられる
その元恋人は昔小説家だったけどとある事件で小説が書けなくなってた
それぞれ抱えてるものはあるけど、徐々にお互いを思いやるようになるのと同時に自分の問題とも向き合っていく
絵柄と設定からメルヘン丸出しのオジサマx女子中学生ものだと思ったらいい意味で予想を裏切られた
でもまあ1巻でちょうどいいくらい
これ以上gdgd続けてもしょうがないし
ただ1個だけ気になったのは元恋人のオッサンと同年代と思われるおっさんとの書き方の差がありすぎたこと
見た目おじいさんのキャラと、どうみても30そこそこにしか見えないおっさんが馴れ馴れしく話してるのはすんげー違和感あって最初意味不明だった
下手すりゃ親子レベルに見える書き方だったし
あと用務員になる部分は余計だったと思う
見たけど、ただのクソ脚本じゃん
そら現実にSNSで当てつけ空リプかましてる女見たら性格わりーなコイツって思うけどさ、
アイマスのこれはいい展開思いつかなかったから正ヒロイン的な立ち位置のキャラが狂言回し押し付けられただけだろ
いじめだの陰湿だのって深読みしすぎだし、たかがスマホゲーの脚本に何を求めてるのかわからんわ
そもそもアイマスのシナリオなんて食玩付きラムネのラムネみたいな存在だってファンが一番わかってるはずなのに
それであんな騒ぎになるのは普段の細かい不満が溜まってるせいなんじゃないのか
少し離れて別のコンテンツでも覗きに行ったらどうか
小学生の頃に父の寝床にあったミステリ短編アンソロジーのひとつ。
小学生の頃にはこれに恐怖しながら頁を繰っていたものだが、そんな感性を持っていれば読書は楽しくて仕方ないだろうと思う。
作者もタイトルも覚えてないので、もう二度と会えない作品でもある。
ネタバレも糞もないけど以下あらすじ。詳細はたぶん色々と違ってるはず。
ビジュアルのよい若い女性である事もあってマスコミは色めき立ち、連日週刊誌やワイドショーで引っ張りだことなる。
当人のキャラクターと裏腹に作品の内容は重く暗いものだたが、選考委員を唸らせるだけの内容のあるものだった。
狂言回しの編集者はマスコミに出る女子大生の軽い言動と作品の乖離に違和感を覚える。
一方、彼女が写ってる写真や取材の映像で高頻度である男が背景に写り込んでいる事に気付く。
そんな事をしているうちに、彼女は受賞後第二作を発表、これも受賞作ほどではないが高い評価を得る。
このペースで内容の伴う作品を連続で書くのはベテランでも無理だろう、
何かあると調べて行くと、文藝マニアの知人が、彼女の二作品と戦後まもない頃にデビューして注目されつつも病か何かですぐに姿を消したある新進作家の作品との類似点に気付く。
その作家のデビュー作はそれなりに注目されたため巻頭で近影が掲載されたが、その顔は彼女の背景に写り込んでいる男の顔そのものだった。
そこに辿り着いた時点で、彼女が交通事故に遭い意識不明の重体とのニュースが飛び込んできた。出版社に第三作の一部を届けに行く途中の事故だった。
同僚の担当編集と共に彼女が搬送された病院に行き、ICU前で彼女の家族から聞いたその作品の内容は前二作と文体も内容もかけ離れたものだった。
「ある文学部に通う女子大生が授業のレポートで、何の気なしに戦後の頃のあまり知られてない作家を取り上げてみる事にした。
それから暫くしたある日、彼女の元に差出人不明で手書きの古びた原稿用紙の束が届く。どうやら文芸作品のようだ。
原稿と一緒に「これを世に出して欲しい」とのメッセージも入っていた。訝しんだが文芸方面で名のある出版社に投稿すると、その女子大生の素性も相まって大々的に売り出される事になった。
そこからしばらく、差出人不明で礼を述べる手紙等が届き、次に発表する用の原稿も届く。
女子大生は世間からちやほやされて浮かれてたが、送り主から「メディアに出過ぎるな」「露出を控えろ、喋り過ぎるな」と警告されるようになる。
彼女は常に監視されている事に恐怖を覚え、この事を世間に発表しようとする。」
話はその書き掛けで止まっていた。
そんな事を編集者たちが考えていると、ICUの扉が開き、そして告げられた。
「彼女が息を引き取りました」
自分は割と分け隔てなくアニメを消費するタイプのオタクだが、このスロウスタートというコンテンツには完全にハマってしまった。
最終回を見た直後の湧き上がる感情とお酒の勢いを借りて以下にスロウスタートの個人的ツボポイントを列挙していく。
なぜそこから、という疑問は置いといて欲しい。
とにかくこのスロウスタートというアニメ、全体的にぬるぬる動く。
このぬるぬる感が非常に見てて心地よいのだ。
特に第2話でヘロヘロのぷらんぷらんになるはなちゃんの動きはGIFにして100回見た。
本題に戻ろう。
このぬるぬる動くスロウスタートにおいて、その恩恵を最も強く受けているのはやはり狂言回しとして画面中を四方八方動き回るたまてちゃんであろう。
あまりにも彼女の一挙手一投足が良すぎて、たまに目をそらしたり一時停止したりしていた。
京塚志温(CV.M・A・O)ちゃんのおっぱいが、、、デカい、、、、あまりにもデカすぎる。
第一話冒頭でこの二つの巨峰が揺れるシーンを見た瞬間に脳内で電撃が走り、その後の記憶があまり無い。
圧倒的な存在感は最終話までその威厳を誇示し続け、見る私全ての脳裏にその光景を焼き付けて止まなかった。
最終話で志温ちゃんが制服を着るシーンがあるが、やはりブラウスを着ていてもその揺らぐことのない存在感には感服した。
「おっぱいはいくらデカくても良い」と彼のアドルフ・ヒトラーも言い残しているが、やはり大きなおっぱいには胸を打たれてしまう。
胸だけに。
OPのサビの途中ではなちゃんがホットケーキにポフっと挟まれるシーンがある。
非常に良い。
参考URL:https://gifmagazine.net/post_images/1326877
何が良いのかと言われると非常に答えづらいが、あえて言うのであれば、この何とも言えない表情をしたSDはなちゃんが、なぜか上から降ってきたホットケーキにぽふっと挟まれる、というシュールな絵面が心の琴線に触れたのかもしれない。
ここまで書いてだいぶ精神が安定してきたので終了とする。
えーこちゃんと先生のラブイチャシーンの良さや第8話で突如出現して私の脳みそに電撃を走らせた超巨乳セーラー服・高橋さん(CV.水瀬いのり)など、他にも山ほど推せるポイントがあるので、ぜひ未視聴の方は一度スロウスタートを全編通しで見て欲しい。
デレステでは無料10連が始まりましたね。さっそく引きました。フェス限SSR本田未央が出ました。
恒常SSR本田未央も持っていたので、本田未央は自分にとって初のSSR二枚持ちアイドルになりました。
しかし使う気にも育てる気にもなりません。
パッション属性のSSRはまだ合計7体程度、捨てるなんてもったいなくレベルも親愛度もMAXにしておいて損はないはずです。
しかしなかなか育ちません。恒常SSRの親愛度もまだ二桁に留まっています。
なぜかというと、本田未央のツラをプレイ中に見ることが苦痛だからです。
トリオやデュオ曲の隅っこに配置してお零れを与えるのが精一杯の状況のためさっぱり育ちません。
本田未央が自分のプロデュース対象になっていることが非常に不快でなりません。
そんな状態をいつまでも続けているとシンデレラガールズ自体嫌いになりそうなので、SSRが二枚も来てしまったこの機になぜこんなに本田未央が厭なのか考えてみました。
アニメです。
アニメで本田未央の魅力をどこにもみつけられなかったことです。
アニメまで、自分は本田未央がどういうアイドルなのかまるで知りませんでした。
アイドルマスターの番組はよく見ていたので、むしろ声を当てている原紗友里女史こそ面白い方として認識しており、その担当アイドルであり、パッション属性である。その程度の知識でした。
そんなモブ同然の理解だったCパートでぽっと出のアイドルが、狂言回しを担い、話を乱し、背中を押す。
非常な違和感を感じつつも、そのうち本田未央の個性や魅力が描かれるだろうと冷静に視聴を続けました。
アニメで本田未央の苦悩は描かれました。本田未央のリーダーシップも描かれました。
ネットの感想を読んでいく中で、ナイスバディが魅力であるらしいことは理解できました。
そこだけでした。
アニメ終了後の自分の中の本田未央は、自信過剰が治ることなく場違いな場所に居座り続け身勝手に自分の幸せを追い続ける市営住宅育ちの取り立てて華のないマイルドヤンキーでした。
まあ、人の好みはそれぞれです。
鷺沢文香も大槻唯も正直大して興味はありませんでしたが、SSRが来て触れ合っていくうちに魅力が理解できましたし、今は愛用しています。
でも本田未央はだめでした。SSRの二枚目が来てしまったとき、一枚目のSSRが一ミリも好感度上昇に貢献していないことに否が応でも気付かされました。
そして考えました。
良い家に生まれ気品よく育った「貴種」の娘が、父親の過ちで労働階級に落とされるも、王子に発見されて幸せな結末を迎える。
シンデレラとして見出される為には、「貴種」である必要があるのです。
アイドルマスターシンデレラガールズでは、その要素を表現する手段として「本人が知らない魅力」を用いています。
しかし自分の理解する本田未央は身の程知らずで自信過剰の万能感の塊です。
なにを実現しても、本田未央の知らなかった本田未央の魅力を引き出すことはできません。
そんな子が自分のプロダクションにいては場が乱れる。一体感が得られない。空気が読めない。
表現はなんでも良いですが、とにかく「自分の空間から排除したい」と思うようになりました。
これがどういうことかご理解できるでしょうか。
そうです。差別です。
理由は自分の思うアイドルマスターシンデレラガールズの世界に相応しいとは思えないから。
さて、差別という受けた教育によっては思考停止を余儀なくされるようなワードに考え至っても、自分はこの姿勢を無理に糺す必要は無いと思っています。
なぜなら、自分のプレイするデレステの世界は、自分だけのものだからです。
そして人の好みはそれぞれです。
しかし、LIVE PARTYで、イベントストーリーで、アニメで、ライブで、街頭広告で、本田未央が現れるのは当たり前のことなのです。
自分が嫌っている事実と、外の世界に本田未央がいる事実は両立しうるのです。
今後本田未央をこの中には入れない。
これは差別ですが、他人の介在しない世界で続ける限り精神衛生上必要なものです。
まだ観てない人は読んじゃダメだよ。
今日見てきたんだが、設定を詰め込み過ぎ & 展開を端折り過ぎ。
総じて、尺の短さに無理があった。
これ宇宙船内のシーンで物語を始めて、地球に引き返してゴジラと一戦交えるまでの話なんだが、
・宇宙人が2種類(宗教的な奴と戦闘的な奴)が突然人類に加勢したけど、やっぱり歯が立たず3人類まとめてボロ負けし、宇宙船で地球から逃亡。
・20年彷徨ったけど住める星が見つからず、船内は物質的・精神的にかなり限界。
はっきり言って尺に対して設定を詰め込みすぎだが、問題は凝った設定にあるのではない。
凝ってるというのなら、スター・ウォーズの方が設定は凝ってるが、あっちは物語描写に注力してて余計な説明をしないので、「それは何か背景がある」って感じで細かい言及をしないで済んでるのだが、
ゴジラの方はそれが出来ずに細かい設定に言及しまくっているのである。
なぜそんな無茶をしたのかは明白で、主人公をあくまで「現代の日本人」という地に足の着いた存在にしたかったからだ。
未来の地球で未来の兵器使ってゴジラ相手に戦いたいけど、主人公は現代の普通の若者にしたい、という無茶苦茶な要求を詰め込んだ結果、
「宇宙船と兵器は宇宙人の技術があるからOK。主人公が普通の若者なのは、宇宙船の状況が割と切迫してるからって事でOK。地球が変わり果ててるのに主人公が現代人なのは、恒星間飛行で時間が何とかかんとかって事でOK」
と無理に理屈をこじつけてるので、その部分を説明しないわけに行かなかったのだ。
こういうのを自縄自縛と呼ぶのだろう。
しかも、お膳立てにこんだけ手間取った上に「変わり果てた地球」を描写したいもんだから、そこでまた植生の変化なんかを説明するのに時間が取られ、
更に2種類の宇宙人(1種類じゃないのは、多分何か伏線的な意味があるんだろうけど)の異星人っぷりを描写するのに時間を取られ、
トドメに「なぜ人類は核まで使ってもゴジラに勝てなかったか。そしてなぜ今回は勝算があるのか」という理屈を説明するのに時間を取られ、
当たり前のように無敵怪獣ゴジラの攻略に時間を取られた結果何が起こったかというと、
主人公もヒロインもいるにはいるのだが、前述のように設定開陳とゴジラ戦で時間取られまくってるせいで、
主人公はなんとか人物像や見せ場を作れたが、「フォースを信じるのだ」的な人間的な葛藤や成長を描く余裕はまったくなかったせいで、
最初から最後まで性格も主張も一切変わらず成長もしないという、ほぼ狂言回しな存在と化しており、
ヒロインに至っては出番の回数もセリフも、扱いが脇役並である。(俺は名前も憶えてない)
そこまで削りまくらなければ尺に収まらない影響は全編に出ており、本来なら一番盛り上がるはずの「日常が壊れるシーン」つまり、怪獣が出現する場面の描写は一切なし。
主人公は両親をゴジラに殺されてブチ切れてる設定なのだが、両親といるシーンも全くなし(というか両親は顔も声も出てこない)。
2種類いる異星人も、片方が理屈っぽくてセリフが長い種族なせいで、もう片方の種族の描写がほぼなし。
ゴジラは一体だけで大して速度も速くないので、倒せないにしても宇宙に逃げなきゃならんほど追い詰められるには相当な時間と経緯があったはずだが、その辺も一切描写・説明なし。
(っつーか、後半でビルならぬ山を崩してゴジラ埋めて動きを一時的にであれ封じるシーンがあったが、あれが通じるなら人類負けてない気がするんだよねー。)
まあその結果、映画本編は、前日譚の設定開陳がてら地球に戻る経緯を描写する序盤。
の3段階のみとなり、一観客としては「もーちょい何とかならなかったのか・・・」という気分でエンドロールを見ていたのであった。
っつーか、途中で「こんなヤバい惑星住めないから、月に基地作って物資だけ地球に取りに来れば良い」的な意見を言ったやつがいたが、
アテのない恒星間飛行に出る前にそっちのプランをまず検討するべきじゃなかったのかね。
残人口4000人って、それもう知識と技術の継承とか出来る人数じゃないし、最早勝とうが負けようが、原始生活に立ち戻る以外の選択肢が残されてない気もするしね・・・。
まず何も知らない人に簡潔に書くと、『アイドルマスター シンデレラガールズ U149』(以下適当に略す)とは『アイドルマスター シンデレラガールズ』(以下適略)というゲームのコミカライズ作品の一つである。
コミカライズとしては原作に対して忠実さ・リスペクトのある作品で一定以上の品質もあるのでファンアイテムとしてはそれなりに良いものだ。一方で、原作を知らない人にとっては取るに足らない凡庸な漫画のひとつに過ぎないという、よくあるコミカライズ作品である。
Web漫画としてサイコミで連載されていて今なら最初から全部読めるので興味がある方は読んでみてもいい。
https://cycomi.com/title.php?title_id=46
こういう前置きをしている私は上記に当てはまらない、アイドルマスターシンデレラガールズの既存のファンである。それを前提にして本題に入る。以降の話は関連作品も含めてネタバレを有することを注意しておきたい。
コミカライズとしては及第点以上を取れていると思う。漫画に限ったことではないが、世の中には自己主張控え目な毒キノコのように見る者を誑かし食することで生命を脅かすように読んだ者の精神の健康を害する作品があることを思えばよっぽど良い。そういうものに金を払った経験はいっそ高度な文明的行いのようだった。
さて、それでも私の周りで似たような意見を聞くのでそれを取りまとめておきたい。
作品の問題に対する指摘はいくつかあるが、ここでは一つだけ取り上げる。
それは物語が繰り返しに過ぎないということ。
ただし、この言葉には二つの意味がある。既存のファンでなくても気付く点、既存のファンにだけ感じられる点の二点において、この物語は繰り返しである。前者を単調であるといい、後者を焼き直しと呼ぶ。この二点において少しだけ掘り下げる。
今ならタイトルページに全ての話が並んでいるのでそれを眺めれば、この漫画や原作のことを知らない方でも各話のタイトルにはより小さな物語の主題とその話の順の数字が割り振られていることに気付くし、そのすぐ後には最初を除いた全てがキャラクターの名前であり、各話がそのキャラクターに焦点を合わせた内容であることを理解する。
これは単調な物語という問題が、表出しているのである。この作品はより小さな物語の3話毎の繰り返しであるのだ。
この9人のプレティーンが自己の存在意義をかけて衝突したり複雑な人間模様を描くということはない。主題になっているアイドル以外は添え物で誰でもいい場合が多い。もちろん例外もあるが、せいぜい一対一の関係だ。ここにプロデューサーという『アイドルマスター』シリーズで要となる役目を持つキャラクターを加えても何も変わらないことは一読すればわかるということも付け足しておこう。
このように個人に根差した問題の解決を3話毎に繰り返している。この個人に根差した問題という指摘は後にも関係しているので覚えておいてほしい。
さて、3話というイテレーションが、序破急が、問題提起・確認・解決という流れが、如何なる読者にも理解できるのはある切実な悪影響を産む。読者の誰もが次の話を更新を待たなくてもどうなるのか、結末は果たして何処へ行こうとしているのか容易に想像できるし、その想像を超えてくることは絶対にない。個人に完結する問題でバリエーションに変化を付けるのは難しい。特にこの作品は主要なキャラクターをプレティーンと限定しているのでそれが顕著に表れる。また、解決の手法に目を惹くものがなくむしろただの会話で済んだりするので盛り上がりや起伏、それによる興奮がない。
読者の期待を煽ることは決してなく、要するにただただ単調なのだ。
どのようなWeb漫画サイトも同様に、序文に書かれるあらすじを読めば誰でも物語全体の概要を理解できるだろう。ここで同作品の最後の文を引用する。
しかし、既存ファンにとってこれは新しいシンデレラストーリーでは無かった。
前項で個人に根差した問題という指摘を行った。これがなぜこの作品が既存のファンの心象に退屈さを塩傷口よろしく塗り込まれる現象となる理由は、それは原作のゲームがもう何年も更新され続けているゲームであり、かつアイドルとそのプロデューサーとして一対一の関係を描いているゲームだからである。
直截的に言えば、そのキャラクターの個人の悩みなど従来のファンには既知の事柄であるし、改めて描かれても新鮮味が無いのだ。
また新鮮味という話であれば、最初の橘ありすの「宣材写真の撮影」に纏わる話は、『シンデレラガールズ』のアニメでもやってるし派生元でも別の派生先でもやってる定番である。その中で言えば解決方法も極めて平凡なのもファンの期待に応えているようで一層下回る。
この作品の最大の特長といえばこれまでフォーカスされなかったプレティーンのキャラクターやそれに見合う矮人族のプロデューサーがいることだ。しかし、如何せんどいつもこいつも真面目に波乱起こす気が無く、二度目になるが盛り上がらない。波乱があればいいとは言わない。しかし波乱が起きないということは、キャラクターという個性を持ち得ないのも同じではないか。ただ低身長の皮を被った誰かの物語に置き換えられる。ただ真摯で優等生でソロプレイでしか活躍できないキャラクターであるのなら、彼らは彼らである必要がなく、他の誰だっていいのだ。皮だけ派手にしたところで、平凡な物語は平凡だ。なぜ狂言回しと呼ばれるキャラクターが生まれるのか、我々は反面教師を以て理解してしまう。
物語は単調な起伏を繰り返すだけ。計画し尽くされた行程は作り手にとっては満足するものだが、受け手にとっては必ずしもそうとは限らない。我儘な顧客であることを承知で言えば、我々は見たことがないものが見たいのだ。アニメもゲームも各々アイドルの成長を描く先駆者だったが故に満足した。そうではない点ももちろんあったが、概ね次の展開を予想できないものだった。しかし本作品はその後追いに過ぎなかった。
我々はこの物語を知っている。恐らく作者よりも。
あまり深く内容に触れずともこの作品が読者を退屈にさせてきたことは説明できただろう。
現時点で19話。イテレーションは5回目で4人目の物語の解決の途中である。連載10か月。プレティーンは全員で9人いるのでまだ残り半分残っている事実に戦慄しよう。
私は最新話の作者コメントが第一話と同じだったことに慄いたが、今見たら差し替わっていたので深掘りしない。その第一話のコメントを引用すると、
お待たせしました!いよいよ「U149」始まります!アイドル達の新たな一面をどんどん見せられればなと思ってますので、よろしくお願いいたします!
新たな一面など無かったということはさんざ書いた。
実のところ、我々が期待していたこのハードルを超える作品では無かったと思う。それでもコミカライズという点では良評価を当たられる。新規の読者にとってはこれも新たな一面になるのだから。
最新19話は良かった。賑やかしでも他のアイドルが出てくるのは良いことだ。ここで出てくるのは誰でもいいが上の主張とは誓って矛盾しない。賑やかしだけでもいいじゃん、という主張はよく見るがこうなると容易に首肯する。なけなしの起伏だって要らねえや。冗談だが一考する余地はある。
しかし最後の見開き、見れば見るほど最終回みたい画だ。つづくって文字が誰かの悪い冗談としか思えない。
もっともアラジンやアナ雪、美女と野獣などタイトルは知っているが、
観る機会がなかった。
ところが、30歳を過ぎてはじめて彼女が出来た。
はじめにアナと雪の女王を観た。
つづいて観たアニメ版の美女と野獣も狂言回し役の燭台と時計の給仕や執事達の話のもっていき方、
伏線の貼り方がこどもたちにもわかるように、そして飽きさせないようにつくられているのに関心した。
塔の上のラプンツェルは、いつも飲んでいるホットワインの銘柄と同じ名前で親和感がすでにあった。
髪をふりまわす様はジョジョの山岸由花子のパクリかと思ったけど、
ディズニーの姫君は屈託がなく、実に生き生きとしている。
あえてアホに作られている。ここが素晴らしい。
思えば日本の作品も時代劇よろしく昔は勧善懲悪ものが多かったように思うが、
アニメしか見てないから原作は知らないけど、アニメで満足してるので原作は読まないけど、すごい面白いと思った。
武装少女マキャヴェリズムを見ていない人にも分かるように武装少女マキャヴェリズムを解説すると、美少女とチャンバラしてキャッキャウフフな学園生活を送るバトル系美少女アニメ(漫画)です。以上
何故ぼくがこのアニメを面白いと思ったかというと、このアニメは「キャラクターが立っている」からです。
銃刀法に喧嘩を売るような学園生活を送る作品が何千何万と作られてしまった今の時代において、ストーリーにおいて優劣が付くことはほとんどないと私は思っています。
余りにも段取りが悪いと目が滑り減点対象となる、程度でしょう。
特にこのアニメの場合は段取りはとても普通、四天王系のキャラクター(天下五剣)を次々に倒しては仲間にしていく、昨日の敵は今日の友って古い言葉もあるけど方式であり、プラス評価もマイナス評価も存在し得ないです。
つまりは、この作品の評価軸はほぼ1つ、キャラクターの立ちっぷりにあるわけです。
さて、みなさんは「キャラクターが立っている」と聞いて何を想像するでしょうか?
「そのキャラクターに人気がある」「そのキャラクターが遠目に見ても分かる」「そのキャラクターが独特である」「そのキャラクターがかわいい(かっこいい)」「そのキャラクターが他のキャラクターと区別できる」「そのキャラクターの作中での役割がはっきりしている」「そのキャラクターの話題だけで何日も話せる人が存在する」「そのキャラクターが登場すると雰囲気が変わる」「そのキャラクターが作品の看板になる」「そのキャラクターでコラ画像が作られる」
様々な物がありますよね。
どれも正しいと思います。
私が今回使っている意味での「キャラが立つ」は「そのキャラクターの作中での役割がはっきりしている」という部分についてです。
ごめんなさいクイズじゃないのにクイズみたいになりました。段取りミスったかもです。
とにかく、私が武装少女マキャヴェリズムを面白いと思うのは、それぞれのキャラクターの役割がはっきりしているからです。
では一度、私の考える武装少女マキャヴェリズムのキャラクターの立ち位置を語ってみます。
納村 不道 ー混沌/善 ー主人公 社会的束縛からの開放を望む視聴者の気持ちの受け皿
鬼瓦 輪 ー秩序/善 ーヒロイン 社会に自分たちを認めさせたい気持ちの受け皿
亀鶴城 メアリー秩序/中庸ーチョロイン チョロインを求める気持ちの受け皿
花酒 蕨 ー混沌/中庸ー狂言回し 姉御肌のキャラクターを求める気持ちの受け皿
眼目 さとり ー混沌/悪 ー中ボス 世界に漂う正体不明な悪意の具現化を求める気持ちの受け皿
因幡 月夜 ー中立/中庸ー雷電 解説担当のキャラを求める気持ちの受け皿
マツコ ー中立/善 ー相棒 男同士の熱い友情を求める気持ちの受け皿
天羽 斬々 ー中立/悪 ーラスボス 宿命的な戦いを求める気持ちの受け皿
大体こんな所でしょうか。
見ての通り、どのキャラがどのような役割なのかがとてもハッキリしています。
微妙に役割が被っている所も無いわけではないのですが、明確な役割被りはありません。
ストーリーの運びもそのキャラクターの役割を崩すことなく進んでいます。
まずヒロインを仲間にし、ヒロインを焚き付けるためにチョロインを用意し、ヒロインレースとは別枠で動けるキャラクターを味方につける、と、やり尽くされた伝統を崩すことなくとても丁寧になぞっています。
まるで伝統芸能の如く、役割のハッキリとしたキャラクターがその役割の通りに動く、ただそれだけの作品です。
しかし、それが私にはとても心地よいのです。
昔の作品をまた見ればいいと思うかも知れませんが、それでは違うのです。
何が違うかと言えば作られた時代が違うのです。
昔の作品にはどうしても、当時の感性、デザイン、流行り、文化、そういった物があるのです。
もしもそれらを今見れば、「懐かしい」という気持ちが生まれてしまうでしょう。
それを求めてみているのならばそれはとても素晴らしいですが、そうでないならば時としてノイズになります。
昨日の森友・籠池氏の長女への公開インタビュー見ていて、いきなりナチュラルに「玉座の間」なんてワードが出てきて思ったけど(「玉座の間」は塚本幼稚園における来賓用の客間のこと)、いつの間にかミステリーやサスペンス小説じみた話になってきていて、その中でも菅野完って完全に、狂言回しで物語を撹乱させるだけの馬鹿な警察かワトソン役の役割だよね~って思った。昨日のインタビューでも、「いつ」「どこで」「誰が」の基本を全く確認せずに「完全勝利」「安倍の首とった」と勝利宣言していたけど、基本の事実確認すら怠ってる状況では、視聴者として呆れて物が言えなかった。(長女のインタビュー自体は、父親の潔白を信じる娘の証言として感動すらした。) 決して、真実に近づいて消されるポジションではない。
無能な警察や探偵がさんざん読者を引っ掻き回した後の、小説の結末といえば、名探偵が登場しての謎解きだ。
森友問題の結末には、京極堂みたいな憑物落としが必要なんだな。
誰もが自分が体験して認識している真実を語っているが、それは客観的な事実にあらず。
みんな嘘を言っていない。けれども、それが事実であるわけではない。
外から、絡み合った個人の認識の違いを解きほぐして、一本の糸に編み直さなければいけない。
その場が23日の証人喚問。
さきの増田で間違えたw
という事。
どういうことかというと、
つまり、この物語は、現実世界で「夢を語れば笑われて、行動すれば叩かれる」作者・西野氏自身が、清くて純真な「夢の残骸(プペル)」の尊さを自分だけが理解し、そして夢を叶えるという概念(空にはホシがあるということ)は自分だけしか知らず、自分だけが夢を叶えることができたという話なのである。
という元増田の主張通りとすると、プペルは最初に出てくる狂言回しにとどまり、ルビッチは主人公として夢を信じて迫害に負けず行動しないといけないんだよね。
が、実際にそうではない。
とある。
そう書いてあるからとかじゃなく、実際の内容からしても、ルビッチは傍観者の立場だね。
そういう理由で、作者とルビッチは同一化しているんじゃないかな。これは架空の物語と読者を繋ぐ役割をするやつで。
(前述のように、作者がルビッチに寄せている可能性がある。元増田の上げた写真はすべて舞台公演の2012年以降)
あなたの話は
それでは、西野亮廣氏は「夢を語るから、行動するから」笑われたり、叩かれたりするのか。
もちろん、そうではない。
という、あなたの中の叩きの正当化がしたいがためのこじつけだ。
念のため述べるが、私はこの絵本はイマイチだと思う。子どものために買おうとは思わない。
買っているのは大人だ。
今回は少年ジャンプ+
全部の感想は書く気起きないけれども、読切フェアの作品どれも意欲的だな。
プロットはとても好みだ。
意外性はないけれども、設定とキャラクターの人格、関係性を丁寧にこつこつと積み上げて、カタルシスに持っていくストーリー構成は、絵と相まって作者の真面目なモノ作りの姿勢すら見えてくるようだ。
まあ、それを加味しても、のんびりとした構成だという印象はあるけれども。
絵のほうも頑張るなあ、というか頑張りすぎているともいえる。
たぶんアレを100%として、それを70%くらいの労力で描いても評価はほぼ変わらない気がする(逆にいえば、それ位には水準が高いともいえるが)。
アニメでいうなら、1話とかで大した演出意図もないのに作画枚数多いシーン見たときの気持ちに似ている。
無駄な努力だなんていうつもりはないけれども、演出意図の希薄な部分での努力は割に合わないっていうのかな。
デジタルなのか、小さい何気ないコマですらすっごい描き込んでいるんだよね。
その反動なのか、大ゴマの特定のシーンとかはむしろ物足りないとすら感じる箇所もある。
演出として機能させるべき描き込まれた絵が、逆に裏目になっているとすらいえる。
まあ、そんな粗探しをしつつも、今回の読みきりフェアでは間違いなくトップクラスだね。
余談だけれども、『中川いさみのマンガ家再入門』でデジタル作画をやっている先生が登場したとき、拡大して小さいものすら描き込めて、気軽にやり直して描けるから、結果的に時間や手間は結構かかっているみたいな話があったのを思い出す。
案外、客観的に物事を見れる人間もそれなりにいたが、それでなお共同幻想に付き合うっていうのが、現状の過酷さを物語っているともいえる。
割と端的に語っているのもポイント高い。
狂言回し的な役割を、でしゃばり過ぎない範囲でこなせているともいえる。
アグニが「人は死んだらどこに行くんだ?」と尋ねるのは、まあ様々な意味があるんだろうね。
自分の近しい人たちの死だとか、自分の行動で直接にしろ間接的にしろ死なせてしまった人に対して思うところがあるのだろう。
死んだ先が良い場所だといわれて笑みをこぼすのは、多少なりに罪悪感が和らいだのか、或いは自分自身に対する死についても考えているのかもしれない。
「読切フェアの作品どれも意欲的だな」って冒頭に書いたけれども、これは例外ね。
プロットも微妙だしギャグもセンスないしで、読んでいて真っ先に「ああ……キャラ漫画だ」と思った。
いや、勝手な俗称だけれども、「キャラ漫画」っていうのは「設定したキャラを、何の変哲もない舞台にそのまま置いただけの漫画」、「プロットもその他の要素も微妙なのに、キャラだけで何とか体裁を成そうとしている漫画」のことね。
2つ目のエピソードでは既にマンネリ感を覚えた(読み切りなのに)。
他の読み切りフェアの作品だと『弓塚さんは今日も的外れ』や『さぐりさん探検隊』もキャラ漫画の傾向はあるけれども、ネタを多彩にしたり設定を作りこんでキャラに深みを持たせたり、構成なり演出なりを工夫しているのに、この漫画にそれはほぼないに等しい。
「キャラを作ってみたはいいものの、実際に漫画にして動かしてみたら思ったほど面白くならなかった」といった失敗をしている漫画はいくつかあるけれども、これもその一つだね。
舞台やその中でキャラクターをどう動かすか、演出するかってことが大事なのであって、キャラクターだけ作れば漫画が面白くなるわけではないのだ。
まあ私はこの漫画に登場するキャラ自体、そこまで面白いとは思わないけれどもね。
ただ、この漫画のウリがどこにあるかって考えるなら、キャラクターくらいしかないなあって思ったから、こういう感想になっちゃったけれども。
今回は少年ジャンプ+
少年ジャンプルーキーのところのは、私はあまり読まないんだよね。
アマチュアを育てる土台という存在意義は大事だとは思うんだけれども、いち読者としては玉石混合すぎて(ほぼ石だけれども……)。
なので、こうやって賞をとったのくらいしか読まない。
さて、今回の一つ目のブロンズルーキー賞は、まあすごい荒削りだけれども、熱量は伝わってくるね。
プロレス大好きな主人公と部活仲間とかの掛け合いは、完全に興味ない人を置いてけぼりにしている位のネタの過剰っぷりだが。
終始、プロレス中心の主人公の言動は一貫していてよろしいかと。
これは……う~ん、評価に困るなあ。
話としては主人公が子どもの何気ない言葉で再起しようという展開で、話もそこで終わってるから内容に関して言えることがあまりない。
恐らく、序盤の主人公の気だるい生活感と、その情緒ある描写が評価ポイントだと思うのだけれども、別段絵が上手いわけでもないから評価しにくい。
前半は二人の会話だけで、絵面としても地味だからあんまり評価できるところはないね。
後半からの怒涛の展開とネタバラシ、そこまでの持って行き方は完全に発想頼りではあるんだけれども、それを見せる技量が作者に備わっているのでちゃんと読ませてくれた。
ジャンプルーキーの作品としては、結構レベル高い部類だと思う。
ただ、編集の人も言っているけれど完全な読み切りだから、仮に連載作品を書かせるとなった時に扱いに困るってのはあるだろうね。
まあ私が気にすることではないのだけれども。
前半の展開は「ま~た作者の悪い癖でてるよ」とウンザリした。
後半は、いわゆる今後の展開を固める上で重要なやり取りなのだけれども、狂言回し役に話の展開を頼りきってて何だかなあ。
ちょくちょく面白いと思える部分があるのに、無意味にヒネたことやる上に構成がグズグズだからノリきれない……。
作風だけじゃなくて、その他もろもろが酷く歪になってしまっている。
プロットがよければ、ね。
気合入ってんなあ。
で、漫画の内容は、まあキャラクター全員くだけた感じが嫌いではない。
どういうゲームかはまるで伝わらなかったが。
まあコミカライズは宣伝を兼ねているからといっても、存在を認知させることが第一だから、極端な話ゲームの内容と剥離していても構わないと思うし。
それにしても、キル子さんのときから片鱗はあったけれども、この作者かなりキャラを描くことが手慣れてきたなあ。
結構な爆弾発言だったが、現状の落としどころとしては友愛扱いになったか。
メタ的に見ればそうせざるを得ないってのもあるんだろうけれども、実際問題「友愛」や「恋愛」とかの様々な愛の形を、明確に区別してかつ自覚するのって難しいだろうしなあ。
で、今回の展開でいよいよ舞台が学校とかにも広がっていきそうだな。
この漫画のテーマとしては恋愛よりではあるのだけれども、ヒロインの背景的に友情とかも描いていくべきだから、この展開は妥当だな。
これまで箱庭的な話だったから素直に期待している。
常々思っていることだけれども、読み切りだとか短編だとかでもない限り、縦軸だけではなく横軸をしっかり描く事は大事だからね。
ましてや、ヴィクトにそれを選択させること自体が鬼畜だっていうのに。
ただでも狼狽しているヴィクトに選択ができるはずもなく、かといって意志薄弱な状態で倒せるわけでもなく。
そして、ここで援軍登場。
そういえば、こいつがいたんだった。
なかなかカッコはついているけれども、正直メタ的にみれば勝てるビジョンが全くみえないのだが。
いつかは、こういう話がくると思っていたが、とうとう来たか。
だが、とんかつ屋としての問題もあるが、DJとしての問題も抱えている。
おー、ちゃんと「とんかつDJ」してるなあ。
しかも、ここにきて大阪で行脚したときの複線が利いてくるとは。
いい展開じゃないか。
色モノ漫画ではあるんだけれども、その実こういうところはちゃんとしてくれるから読めるんだよなあ。
むぅ、一話としてはまた妙な導入部だなあ。
SF要素の設定が、私の中でイマイチまだノリきれていないが、今後どう展開していくかという点では期待感をあおってくれるね。
ミステリのようだけれども、この近未来設定を都合よく使うとミステリとして面白みがなくなるから不安も一層あるが。
あー、他の事業で儲けているから、ちゃんとした待遇ができているのか。
でも、それもこれもアニメのためと。
方向性こそ違うものの、「いいアニメを作りたい」という根っこはやっぱり兄弟なんだな。
1ページのは、ちょっと意味が分からないかな、メタ的にみても。
2ページ目で前回のあらすじを描いているから余計に要領をえない(誰かツッコんでくれないと、そういうネタなのか、単に不条理ギャグなのかどうか分かりにくい)。
おー、プライ丸を焚きつける展開か。
5分で100本は~、3秒に1本のペースか。
現実のフードファイターもそれ位のスピードで食べることは不可能ではないが、それを100本となると現実とフィクションの狭間で揺れ動くから、確かに他のキャラのリアクションはあーいうなんともいえない感じになるな。
あっさりだったな。
過剰に演出するのもどうかと思うけれども、ここはもうちょっと盛り上げるよう描いてもよかったのでは。
裏切り者の件は一旦保留と。
まあ本当に共倒れ目的なら、今回の事件で露骨に邪魔しても問題なかったわけだしなあ。
そもそも状況的に裏切り者がいると考えるのが自然だからそういう推測になっただけで、本当にメンバーの中に裏切り者がいるかも怪しい状況だしね。
深読みかもしれないけれども、裏切り者の話はミスリードな気もするので。
主人公の「わかんねえことは考え過ぎるな」というのは短絡的にみえるかもしれないが、臨むべき課題は山積みだから本当にいるかも分からない相手に四苦八苦してられないしね。
世相を反映して、それを日々日々描く4コマ漫画なんだから、我々と同じ世界観が無い方がおかしい。
うーん・・・
戦闘でも、恋愛でも、成長物語でもなく、キャラの掛け合い(キャラにとっての日常)を淡々と描くのが日常系だと思うんだけどな。
この『キャラの掛け合い(キャラにとっての日常)』を、『我々の(現実的な)日常』に近い形で描いているって認識が、私とはずれてるんだと思われ。
なんだか知らないが大富豪がいて、とんでもない天才がいて、狂言回しの大馬鹿がいて、そのなかで没個性ともとれる普通の人が居て。
それらキャラの存在になんら疑問を持つ必要がない世界で、キャラの掛け合いに特化したような話を展開するのが、日常系だと思うんだが。