はてなキーワード: ケアとは
コミュニケーション能力が無いと配偶者が得られないというのは分かるんだけど、
生きるための尊厳が一切得られないのはどうすれば良いの
どうすれば生きていることを承認してもらえるの
福祉サービスで承認欲求を得ようとしたら俺よりも重い障害の人のケアをさせられたんだけど
俺は疲れるだけだったよ…
いわゆるインセルくんたちが配偶者を獲得できないの、女性の上昇婚志向とか顔とか口説き方とかじゃなくて、普通にコミュニケーション能力が壊滅的なだけでは…
そんなん救えないじゃん
コミュニケーション能力が低いと子孫を残しても……だし、別に風俗で性欲解消しながら静かに消えればいいよ
数時間すると「すぐ飽きそうだし買うほどでもないか…」ってなる
・高い(6000~1万越え)
・強すぎて肌が傷つくとか逆に力が物足りないとか充電がすぐ切れるとかレビューあるしなあ…。
結局「弱者男性」って誰なんだよ。みんな好き勝手なこと言いやがってクソが。
それぞれ全然違う問題なんだから、その処方箋だって全く違ってくるだろよ。次元が違う話を全部一緒くたにして「弱者男性論」みたいに雑にくくるから、話が全然まとまらねえんだ。アホか。経済力の話なら再分配とか福祉とか新自由主義批判でいいだろ。容姿の話ならルッキズムでいいだろ。他の能力の話ならノーマライゼーションとか社会的ケアでいいだろ。最後の非モテ要素以外は全部わざわざ「男性」なんて性別を絡めずに語れるじゃねーか。そうじゃない「弱者男性」ならではの特別な事情があるなら、そこをちゃんと説明しろよ。
弱者男性論をぶちあげる連中の多くからは「俺は弱者なのに弱者性を認めてもらえない」という心の叫びは感じるけど、その「弱者性」ってのがどういう状態なのかぜんぜん共有できてないのに「弱者性のつらみ」という被害者感覚ただ1点で結束しようとするから、話が支離滅裂になってんだよ。
「男が強くあらねばならない社会的規範の中で苦しんでますぅ〜」みたいな男性学っぽい話なら、性別問わずその規範を再帰的に強化してる社会的強者たちに異議申立しろ。「女性にモテないことは弱者男性問題の本質じゃない」と思ってるやつは、白饅頭みたいに弱者男性を非モテの問題に矮小化してる非弱者男性 https://togetter.com/li/1692506 をちゃんと批判しろ。そういう深掘りができねーなら、どんなに「弱者男性論」が盛り上がっても、みんなで目隠しして象を撫でてああだこうだ言い合ってるようなもんだ。そっから生産的な結論が出てくるわけがない。
「女を充てがえ」って論はその後の交際・ケアが完全に抜け落ちてる気がする。
元々学生時代・新社会人時代に彼女がいた人間が転職した事で出会いがないっていう感じで無償の結婚相談所みたいなサービスなら良いと思うけど、
増田とかはてなのいう(恋愛)弱者男性って恋人いたことない、いたとしても学生時代に半年ぐらいとかいう人間でしょ?
そんな人間に「どうぞ貴方と結婚する人間です」っていって女性充てがったところで接し方わからなくて泣いちゃうだけでしょ。
家政婦(ハウスキーパー)補助金、結婚相談所登録補助金(まぁ良い企業はある程度の役職の人に手当を出すらしいけど)でも出してやったほうがいいんじゃね。
弱者たる自分を生かすだけで精一杯な人間からしたら、妻が問題抱えた人でそのケアをしなきゃいけないって事情をさらに抱えるのは余裕が無いってことじゃないかなあ
あてがえ論者が言うところの理想的な美少女を充てがわれたとしてもなお、他者のケアしたくないから嫌だとか言い出す人間には絶対ムリだと思うよ、少なくとも。
充てがわれたとしてもその女性をケアしないといけないだろうから、充てがわれるのもヤダ!
ぶっちゃけそういう女性は主婦業をこなすのも問題ありありだよ(ゴミ屋敷だもん)
でも家族が寛容で家にいて雑用と家族のケアだけを最低限してくれればいいってレベルだと
職場とは違いいじめられずにミスで騒動も起こさずに平和に食っていける
もちろんそんな稼ぎがある男性は少なくなってるから発達障害女性のこのルートも狭き門になったね
凄惨な暴力を含むいじめを受けても、加害者ではなく女にケアを求めたり責め立てる。男は強者男性からの加害を天災扱いして黙って耐え、その鬱憤を男に与えられたケア要員という資源が女であるという認識だからこうなる。いじめを止めずに黙って見てたのは周囲の男(左右や思想問わず)も同じだが、そいつらは責めない。
https://news.yahoo.co.jp/articles/fa3a234e26d0d16de400c37890bd8d5ffe8677d2
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/fa3a234e26d0d16de400c37890bd8d5ffe8677d2
こちらの記事にて一時保護所が話題になってたので経験者としての感想を話そうかなと思いました
自分は一時保護所で救われた側で男で小学校とかでも普通にトイレに行けたタイプでこの記事に出てる女の子とは多分正反対の人間なので
まあ世の中こんな人もいるんだなぐらいで見といてください
まず前提として一時保護所は「虐待等で親から保護された子」「なんらかの事情で今の家に住めない子(ご近所さんがやばい人等)」「両親に連絡つかないので家出した子」「なんらかの非行を働いた子」が混ぜこぜにぶち込まれる場所です
厳密にはちょっと違いますが 犯罪者と被害者が同じ施設に入ってるようなものと考えてもらっても大丈夫です( 非行で補導されるレベルの子なので犯罪者と言ってもそこまで酷いケースも無いはずですが )
一時保護所の名前の通り一旦はここに集めてそこから 児童相談所、親、警察、ケースワーカー、受け入れ先の施設等様々な人が話し合って子供をどうするのが決まります。
そんな施設の特性上、規則はかなり厳しめにしないとまずいのかなーというのが感想です
って感じでした
ただ、規則違反と言っても主に他の子どもに対する加害とかが原因だけのはず
他の子どもに害が及ばないレベルの規則違反で説教部屋はなかった
自分が保護されてる時に、脱走しようとしてバレてしばらく説教部屋に入れられてその後別施設に移された子は居た
これは無かった
恐らく性的虐待を受けた子が過去に居たからみたいな規則なのかなとは思う
自分が居た施設では他者と交流が出来そうにない子は隔離部屋みたいなとこに入れられてた
最初は無理だけど途中から大丈夫そうだと言って自分から出てきた子も居た
これも無かった
ただ、これについてはトイレがある場所が皆が主に過ごしてた場所から近くて
誰がトイレに行ったか、どれぐらい出てきて無いかがすぐに分かるってのがあると思う
個室のあるエリアからトイレは絶対に通路を通らないといけないんだけど消灯時間とかになると
そこに絶対先生(我々は施設の人の事先生って呼んでた)が居たから消灯時間過ぎてからトイレに行く場合も把握されてた
私服が着用出来ないのはあった
入所時に着てた服は入所時に施設側で預かり
風呂入る前とかに 服置いてある場所があってそこから好きに服とか下着とか取って行けー的な運用だった
人権侵害だ!みたいな意見も分かるけど色んな事情を抱えた子供を短期間だけ保護するって名目の施設なので規則に関しては仕方ない気もする
ただまあ、冒頭で書いた通りどちらかと言うと強者側で比較的当たりな施設に恵まれた側の人間の感想なんですけどね
早急にきちんとした施設で保護して学校とかも通わせた方がいい子とかは1~2週間もいないと思います
短い子だと3日とかいました
特に無かったです
兄妹で保護される子も多いので兄妹だけで1室みたいなのもありましたし
ぐ犯少年と言ってもあくまでも補導されるレベルの子しかいないので
この辺りは分かりません
自分から見た限りですが特定の誰かを監視してるとかは無かったと思います
(狭い施設なので誰か一人に張り付く必要が無かったのかもしれませんが)
補導された子はこれ以上やらかすともっと厳しい施設(名称は知りません)やこれ以上罪を犯すと鑑別所や少年刑務所に入れられるのを分かっているのであまり変な事をしないというのもあるのかもしれません
質問内容がよく分かってないのですが
基本は強制です
拒否権は無いです
年間7000頭以上生産される競走馬のうち、天寿を全うする事が出来る馬は1%、競走馬以外の形で第二のキャリアを過ごせる馬が10%くらいと言われている。
Q、残りの馬はどうなるのか?
A、「肥育」=つまりは食肉になる
馬はたしかに可愛いが、牛だって豚だって知能もあれば感情もある可愛い動物だ。だから、可愛い馬を肉にして食うなんてとんでもない、などと寝言を言うつもりはない。
馬主=飼い主には、動物愛護法に則って命を責任をもって養う義務があるのだ!最後まで飼えないのなら飼うな!などと犬猫と同じような理屈(それはそれで正論だが)を言う気もない。
馬を飼育するための費用は膨大で、牧場などに預託する場合は、1頭につき年間100万円近くを要するし、広大な土地も必要であり個人で飼育する事は多くの場合難しいだろう。
しかし、引退する競争馬と他の食肉になる動物たちの違いは、競走馬には自分自身で人間なんかよりも大金を稼いで来たし、これからも馬として働いて稼げる可能性をもっているということだ。
馬たちの持つ経済力や可能性を活かして、馬たちの福祉に利用する道が拡大できないのか?ということを考える方がいい。
年間7000頭もの競走馬は、全国に800ほどある生産牧場で誕生する。
牧場が生産した競走馬の余生を過ごさせることが出来ればいいかもしれないが、生産牧場も非常に厳しい。2000年初頭には1600くらいあった牧場が、この20年余りでおよそ半分にまで減少している。
競走馬は、飼育している牝馬に数千万~数十万円もする種付け料を支払って交配する事で生まれる。セリに出すまでの2年間に、生産から競走馬としての基礎を調教されるが、
仮に1頭に生産者1人が付きっ切りで面倒を見た場合、人件費2年分が乗る形になる。
セリ市は、毎年高値が出たと報道されるセレクトセールとセレクションセールがあり、それぞれ平均売却値が異なるがセレクションセールでの売り上げ平均額1400万程度となることも多い。
飼育に必要な費用や設備投資資金、2年と言う歳月を考えれば、1400万円は高いとは言えないだろう。生産者が全ての引退馬のことを考える余裕はないはずだ。
大きなファームともなると、有力馬を生産し、著名なレースを勝ち1億円以上の賞金額を稼いだ功労馬を繋養していることはある。
種牡馬や繁殖牝馬を引退し、馬主と牧場に多額の利益をもたらすと同時に自らの老後の資金をも稼いだ馬たちだけが、
清潔に保たれた専用の馬房と広大な放牧地を与えられ、時折訪れる往年の競走馬時代を知るファンたちに敬愛の眼差しで愛されながら余命を全うさせてもらえる。
競馬ファンから気にかけられる成績を残せなかった馬たちの中にも、馬主が年間100万円以上にもなる預託料を支払って、養老牧場で過ごさせてもらえる馬主に恵まれた幸運な馬もいる。
預託料の相場としては年間60万円~120万円くらいといったところのようだ。個人で馬を飼育しようとすると、牧草をロット単位でしか売ってくれず割高になるというが、月々8万円くらいらしい。
牧場でまとめて購入する場合は安くなるとしても、日々のケアにかかる時間と手間を考えたら1頭当たりの月々の手間賃は高くはない。
受け入れれば長期に渡って、安定した売り上げが期待できるとは言え放牧地や厩舎を用意するなら、仔馬の生産に使った方が利益になるし、養老牧場は生産者の善意や馬への愛情で成立してるようなものだろう。
同様に馬への愛情や善意のみで成立しているものにNPO団体や、馬と関係があった人、担当厩務員や調教師など、が立ち上げた「○○の会」の様なグループも存在する。
共通するのは一口数千円/月の会費や寄付金によって年間100万円にもなる預託料を得て養老牧場で繋養してもらうという方式だ。
具体名はださないけど、某地方競馬場で連敗記録で有名になった馬も現在はかつてのファンの善意で老後を過ごしていたりする。
NPO団体の会計をみると、100万円のうち会費と寄付で40万円、助成金で60万円ほどを得てギリギリで回していたりするので、こうした事業も難しいのだろう。
競走馬というのは、非常に気性が激しくて速く走る為の訓練を受けているアスリートで、これをすぐさま乗馬にするということは難しいらしい。また全ての馬が乗馬にむいている訳でもないとも。
かつては数億円を稼ぎ、種牡馬としても活躍した馬が、最後に乗馬として売られる事も珍しい話ではない。非常に幸運な馬になると、警視庁騎馬隊の乗馬に転身することもある。
乗馬になる馬は、乗馬クラブなどに1頭あたり200万くらいで競り落とされて、そこで訓練を受けたりするようだ。
岡山には引退馬の乗馬訓練を行って、それをオークションで販売しているような乗馬クラブもあったりするそうだ。
誘導馬として、あるいは観客をもてなすマスコットとして、競馬場で働いている馬もいる。これは本当にまれなケース。
ただ、東京競馬場には、誘導馬や乗馬を含めて40頭程度が生活している。JRAも、引退馬の事はかなりきにかけているのだというのが分かる。
馬事学園や、全国の農業高校、競馬学校などで、教育目的で学生が実習に使う馬もいる。それも決して数としては多くない。
ざっとこんなところか。
7000頭も毎年生産されるのに、馬として最後まで人と共に生きる事が出来る馬は少ない。多くは馬肉になるという現実を知って競馬への接し方や見方は変わってしまうだろうか?
馬はとても可愛いし、賢い動物だ。俺は馬が好きだし、競馬も好きだけど、だからと言って馬肉を食べる事を否定しない。
今後、1頭でも多くの馬が最後まで生きていける為に、人間はどうすればいいのだろうということを考えてしまう。競馬なんてなければ・・・本当は一番なのかもしれない。
だが、農耕馬だって、財布にされるために殺される現実もある。きっと人間の都合で殺される馬がゼロになる事はないんだろう。でも、1頭でも少なくなればいい。俺はそう願ってる。
馬券の販売価格に初めから引退馬の繋養費用に使う金を10%でも20%でも乗せてもらってもいいくらいだし、競馬ファンとしてはそれくらいはしたいって気持ちもある。
そのお金で、海外にでも繋養できる土地を持って、最後まで命を全うさせられる頭数だけを毎年生産するように生産を絞る。それくらいはしてもいいと思うよ。
https://www.youtube.com/watch?v=r2WQDU8DWpo
https://www.youtube.com/watch?v=HVUKxeKg4WQ
はてなでは意外と話題になっていないようだが、アーツ前橋という公立美術館で作品6点が行方不明になる、という事件があった。
館長も辞任して一件落着かと思いきや、その後出た報告書で館長による隠蔽の疑惑が指摘されたり、その報告書に館長自らが反論したりして、泥沼の様相を呈している。
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/23795
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/23803
一般の人にはあまり知られていないかもしれないが、アーツ前橋というのは近年アート業界ではかなり高い評価をうけている美術館である。
たとえばこういう企画展。
https://www.artsmaebashi.jp/?p=13991
堂々と掲げられた「本展のキーワード」の、「周縁性、ローカル、ジェンダー、福祉、ケア、老い、共同体、移民」というあたりが、この館の方向性を端的に示していると思う。
ざっくりと言ってしまえば、社会問題を扱う現代アートを精力的に紹介しつつ、ワークショップによって地域との結びつきを強めていく、というスタンスである。
個人的には、なんか優等生的だなという印象で、反感を抱かないでもない。
しかし、年々予算が削られ、文化政策への風当たりも強くなっている斜陽の美術館業界からすれば、「SDGs」的なアピールによって先端的な雰囲気を放っているアーツ前橋は、地方美術館のあり方として、ひとつモデルともいうべき存在であった。
その方向をカリスマ的にリードしてきたのが、2013年の開館当初から館長をつとめてきた、住友文彦その人である。
前橋市と館長、どちらの言い分が正しいのかは現時点でよくわからないが、すでに美術業界からは擁護の声も出ている。
アーツ前橋作品紛失の最大の原因は、予算、スペース等から、美術館が借用作品の保管場所として外部施設を使わざるを得なかったことにある。その状態を放置し問題に適切に対処してこなかった所管部署の文化スポーツ観光部及び同文化国際課に責任がある。これは専門職の館長ではなく行政職の職掌である。
スペース・予算の確保は行政職の仕事なのに、彼らはそれを怠っており、そのせいで悪環境に作品を置かざるをえなくなったために今回の事件が起こった、という論理である。
これは大局的に見れば正しいかもしれない。
ただ、美術の保管場所というのは確保するのに非常にコストがかかるので、無尽蔵に確保できるというものではない。
それに、少なくとも現状で保管場所がまともでないにもかかわらず、作品を預かることにしたのは、やはり学芸員なのではないか。
まともな環境に作品を置くことすらできないのであれば、そもそも作品を預かるべきではなかったはずである。
他館の学芸員からお話を伺いました。館の作品管理に問題があったと私も思います。それはすでに各所で指摘されており館長も認めているので、私はそれを前提としたうえで報告書の問題を指摘しました。それを館の問題を認めない発言と受け止めた人もいたようですが、それは私の発言の趣旨ではありません。
とはいえ、前橋市の報告書が住友文彦の責任を追及したように、加治屋健司が行政職の責任を追及するという構図には、結局のところ学芸員と行政職の党派性の問題なのではないかという感も否めない。
一般にはさほど知られていないかもしれないが、美術館の学芸員と行政職の人間は、仲が悪いのがふつうである。
なぜそうなるのかと言われると難しいが、技術職と営業職が不仲なのと構造的には同じであると思う。
つまり、理想を求める学芸員とコスト重視の行政職という図式で、利害が一致していないのだから、対立するのは当然なのかもしれない。
両者のいずれが力を持つかというのは、もちろんさまざまな権力関係によって決まるのだけれど、その勢力図を象徴的に表すのが、「館長が行政職か学芸員か」という問題である。
現状で言えば、おそらく行政職出身の館長のほうが多数派なはずで、その傾向は年々強まっているのではないかと思う。
現代アート畑の住友文彦を館長にしているアーツ前橋は、その意味でも稀有な存在なのである。
行政職出身の館長というのもバックグラウンドはさまざまだが、教育委員会などから引退間際のおじいちゃんがやってくることが多く、そういう人の99パーセントは現代アートなど興味も関心もない(のに反感だけは持っていたりする)ため、館長のくせに予算削減を推進する側に立ったりする。
今回の住友文彦退任にあたっても、後任に専門家を置けという動きが出ているのには、そういう背景がある。
後任に現代美術専門家を 「アーツ前橋」館長退任へ 芸術家が署名活動
https://mainichi.jp/articles/20210330/k00/00m/040/038000c
ところで、先ほど「まともな環境がないなら作品を預かるな」と書いたけれど、現実的にはなかなかそうはいかない事情がある。
まず、あたりまえの大前提として、美術館が持っている作品を捨てるということは通常ない。
現実にはゼロではないのだが、やるとなると相当の覚悟が必要である。
だから、美術館の作品は減るということはなく、ひたすら増えていくことになる。
加えて、美術品のほとんどは温度・湿度を厳正に維持した収蔵庫で管理しなければならない。
38度の真夏であっても、氷点下の真冬であっても、24時間365日安定した温湿度でなければならない。
当然これには莫大なコストがかかり、倉庫が広くなればその分お金もかさむ。
つまり、美術作品は増えていくのに、倉庫を増やすのは容易ではないのだ。
地方の美術館に美術作品を寄付する人々というのは、たとえば地域の小金持ちであるが、彼らはしばしばこういう考え方であったりする。
1. 蔵を掃除していたら、なにか絵が出てきた。
「収蔵するか」「捨てられるか」という二択しか、ここにはない。
売るとか、他の美術館を紹介したらどうか、と言うかもれない。
名の知れた人気作家だったら、そういう手もありうるだろう。
でも、蔵から出てくる作品の作者というのは、典型的にはこういう経歴の人物だったりする。
〇〇県出身。上京し美術学校で西洋絵画を学ぶ。卒業後に帰郷し、〇〇県立第一高校で美術教員として教鞭をとる。戦後は〇〇県展の立ち上げに尽力し、後進を育てるなど、〇〇県画壇の重鎮として活躍した。
こういうプロフィールの作家が面白い絵を描くのだろうか、と疑問に思うかもしれないが、まさにご指摘のとおりで、美術史の大きな流れからすれば、なんの意義もない作品であることがほとんどだ。
しかし、地元での功績というのは地域にとって何よりも大切なものであるし、なによりそういう「つまらない」風景画には、地元民の心をこのうえなく鮮烈にうつし出したような、ローカルであるがゆえの価値がしばしばある。
日本の都道府県のほとんどには県立美術館があって、そのそれぞれに多くの「凡庸な地元作家」の作品が収蔵されていることの意義は、そこにあるというほかない。
そのような作品は、まさに、「収蔵するか」「捨てられるか」の二択だったところを拾われてきたのである。
というわけで、いろいろ書いてしまったが、今回の事件は単なるカリスマ館長の不祥事という以上に、美術館業界の抱えるさまざまな問題が関係しているように思われる。
気が重い話である。
その他参照
https://www.city.maebashi.gunma.jp/material/files/group/10/hodo20210324_7.pdf
https://drive.google.com/file/d/1qQmOLCs2XI1VK9XzPgQpWyKlJZH809Yx/view