はてなキーワード: 通過儀礼とは
ちょっと性的消費しちゃってる感出したい腐女子がさあ、「ああ〜この推しくんシコい」とか言ったりするけどさあ、それ文化の盗用だからね
男たちがシコいという言葉を使えるようになるまでに払ってきた犠牲を腐女子は払ってないわけじゃん。人前で自分の性の話とかしたくないってときでも、小さい頃からずっとそれが男社会の文化だという同調圧力によって強制的にコミュニケーションツールにさせられてきたんだよ男は。好きなAV女優とか、童貞なのかどうか、風俗の経験、FANZAの登録の有無、聞きたくなくても耳に入ってくるし、ある程度自分も開陳しなきゃいけない。そういう通過儀礼を乗りこえた上にやっとシコいというコミュニケーションツールが生まれたわけ
それが何だ、自分のマンコの話など一切開陳しない腐女子が「ああ〜推しくんシコい」だあ?ふざけるなと思うね。シコいと言ってしまう文化に乗りたいなら対価を払え。男たちが少しずつチンコ開示に傷つきながら作り上げた文化だ。お前も自分のマンコ情報を開示してから使えと言いたい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%84%E3%82%89%E3%81%AF%E3%81%9F
やらはたとは、日本社会における性的観念のひとつ。「童貞や処女でいてもいい年齢」の表現で、「やらずにハタチ」(性行為の経験が一度もないまま二十歳になった)の略である。
20歳までに童貞喪失や処女喪失をしなければならない理由付けとしては、増田豊が説いたホルモン説(ホルモン分泌が最も盛んなのは17歳から18歳の思春期で、20代に入ると分泌量は少しずつ減少し、ちょっとしたきっかけで不能に陥る危険があるとするもの)をもとにするもの[3]、社会的慣例として大学入学や成人式と同じ通過儀礼として勧めるもの[4]、柴田出の性体験をすることによって人間的に成長するというもの、童貞や処女をコンプレックスとみなすもの[5] などがあった。いずれも根拠は薄弱で、結論ありき的な理由付けであったが、こうした煽動に多くの人が焦燥感を募らせたり、諦めの境地に陥ったりした[6]。
「就活」って聞いて思い浮かべるあの「就活」、多くの人は経験していないのになぜか「普通の日本人ならこなしてきた通過儀礼」のように薄っすら思われている。
もちろん「就職のための活動」は雇用されて働く人なら誰もがしたわけだけど、いわゆる就活はかなり限られる。
まず、「今就活生なんです」と言われると「大学3、4年生なんだな」って気持ちになるので、「就活」は薄っすら大学生の行事だ。
で、就活では、なんとなく合説(ごうせつ、合同企業説明会)に出席して、その後ES(エントリーシート)を出している気がする。
このESを出すというのも、お問い合わせのメールアドレス宛にPDFを送りつけるというのではなくて、マイナビあたりの会社が提供するマイページの定型的な提出フォームに入力して出す気がする。
で、面接は1,2回ではなくて、GD(グループディスカッション)やケース面接、集団面接、人事上席との面接、役員面接(または部長との面接)みたいに段階を踏むことが多い。
このような本選考に進む前に、インターンなる企業主催のイベント(労働というよりイベント)に参加してみたり、OB訪問をしてみたり、リクルーター(学生との窓口になる社員。採用担当者ではないことが多い)から電話が来たり、そこから早期選考が始まったりしている。
ここまで解像度が高くなくとも、リクルートスーツで身を包み、八重洲口を抜け、ドキドキしながら丸の内のでっかいオフィスビルを見上げて最終面接に臨む、みたいなのはなんとなく誰もが想像する「まあ就活ってこんな感じだよね?」な絵面だ。
……そんな感じの「就活」、実は日本人のごく一部しか経験していない。
だというのに、「普通の日本人ならこなしてきた通過儀礼」のように思われているのはどうしてなんだろうか。
創作物でもさも当然のように「就活」の概念が出てくるし、旧2chでも「面接官『○○ですか?』」スレは根強い人気があった。
実際には多くの人が経験していないのに「普通の人は通ってきた道」のように扱われている「就活」。
これって不思議じゃない?
昔は今でいうPVEでネカマに親切な非モテ男性が笑い者でした。
ネカマがモテるのは理解のある彼女だからという正にフェミニストがカチンとなる事実が可視化。
4人以上の同時プレイが当たり前のご時世、「確かにオタク差別は過去もの物だな」となるか「Amazonプライムオプションなし以外のサブスクを受け入れられない老害共はオタク向けゲームと常識人向けゲームの違いがわからん」という事実が可視化されるかの瀬戸際になっていて、「PVPでそこそこ勝ちつつ人に親切にする」が「30年前のこづかいでゲーム機じゃなくPHSを買って人付き合いをする」に匹敵する裏の通過儀礼になっている。
念のために書いておきますますと、純粋にスペックが低く、大衆文学世代の俗物にごちゃごちゃ言われ、理解のある彼くんになれないだけで人生の合間にオタクをやっている(はっきり言って真面目に働いている)常識人ですからね。
ザイオンス効果という言葉を初めて知った。wikiによると以下のことなんだそうだ。
単純接触効果(たんじゅんせっしょくこうか、英: mere exposure effect)は、(閾下であっても)繰り返し接すると好意度や印象が高まるという効果。1968年、アメリカの心理学者ロバート・ザイアンスが論文 Zajonc (1968) にまとめ、知られるようになった[1]。
ザイアンスの単純接触効果、ザイアンスの法則、ザイアンス効果などとも呼ばれる。対人関係については熟知性の原則と呼ばれる[2]。
はじめのうちは興味がなかったものも何度も見たり、聞いたりすると、次第によい感情が起こるようになってくる、という効果。たとえば、よく会う人や、何度も聞いている音楽は、好きになっていく。これは、見たり聞いたりすることで作られる潜在記憶が、印象評価に誤って帰属されるという、知覚的流暢性誤帰属説(misattribution of perceptual fluency)で説明されている。また、潜在学習や概念形成といったはたらきもかかわっているとされる。
図形や、漢字、衣服、味やにおいなど、いろいろなものに対して起こる。広告の効果も、単純接触効果によるところが大きい。CMでの露出が多いほど単純接触効果が起きて、よい商品だと思ったり欲しくなったりするのである。
Z世代に顕著と元増田はいうのだが、上記定義をみると、広く言えば、むしろ日本の集団主義的な組織風土をドライブするメカニズムに関係しているように思えるね。単純接触効果を組織内でうまくつかって「うちわ」の安心感を醸成してゆく、というか。
従来の日本の組織というのは、年配者が半ば強引に、単純接触の機会(パワハラ的指導、飲みにケーションが最たる例)をつくり、すでに組織内で支配している層に居心地のいい「うちわ」感を若者に覚えさせてゆくプロセスを通じて、世代間の組織風土の持続性が図られてきた。80年代、上司の室田日出男が新人部下の中井貴一をオルグして毎晩カラオケについていったように(ふぞろい世代)。
そういう見方をしてみると、要するに、ザイオンス効果をとらえて、Z世代の特徴かというと、よくわからない。
恐らく、ザイオンス効果自体は変わらないけれども、変わったのは環境なんじゃないかな。Z世代以前以後で。
Z世代以前と以後では、世の中の居場所、選択肢が急速変化している。
80年代のティーンの居場所は、学校かゲーセンか、盛り場、塾だったし、学校が嫌になった場合の逃げ場が限られていた。
通信手段も、携帯電話は存在しなかったから、友達からきた電話を親が先にとる時代だった。娯楽も限られていた。
消費者の選択肢が少ないから、メーカーもプロダクトアウトな発想で、繰り返しCMを流し、消費者に刷り込みをかけてマスな製品を作ってしまえば市場を席捲できた。ソニーのウォークマンが典型。これもザイオンス効果のひとつといえる。
マスな動きに取り込まれる(流行に乗る)ことが取り残されない条件だったし、会社でも上司に従うしか、居場所を見つけられない時代だった。
政治選好的にも、当時の自民党VS社会党というのは、絶対的な安心感を与えていて、とにかくうちは自民党、うちは問答無用で、昔っからおたかさんみたいな時代。
そして、学生から社会人など、環境が変わるたびに、通過儀礼的に「その空間での安心感はこれだ、こういうやり方してりゃいいんだよ」と新参者は叩き込まれる。
しかし、90年代以降の動きというのは、情報革新によって、ニッチな居場所、環境が急激に増えた時代。あるいは気が付くことができるようになった。
ニッチな環境がどんどん増えて、自分で居場所を選べるようになった。
政治も細川政権以降、離合を繰り返した。会社組織も働き方や仕事の仕方に、多様性を認めるようになってゆく。その最初のきっかけは80年代、転職というムーブメントだった(リクルート)。
しかし、自分で転職したり、ニッチな空間をみつけて得られる安心感というのは、自分の欲求ニーズにジャストミートをするという意味では安心だが、例えば自民党を疑いもしない時代に比べると、寄る辺のなさを感じるものであり、かつてほど盤石ではなく流動的で、大きくもない。
そしてかつてのような大きな主体に取り込まれることの安心感が少なくなっているんだろうと思う。
昔だったら、そういう大主体は自分から探すものではなく、人生のステージがあがると、会社の上司が象徴するように、待ち構えているものであって、
飲みにケーションの洗礼をあびて、数年で組織に同化していった。同化の過程は最初は激烈でキツイんだけど、集団に慣れると逆に居心地がよくなるのだ。
ザイオンス効果という言葉をあえてつかって、前世代の特徴をいえば、オルグする、という意味で、プッシュ型のザイオンス効果。紙の新聞メディアもその典型で、世の中の標準的な考え方というものをテレビや新聞などのメディアを通じて受け入れるプロセスが存在した。
しかし、情報通信革命がもたらしたニッチな空間、居場所への気づき、というのは、自分から自発的に、その時々で感じている不安・ニーズを解消する場所へ向かえるようになった、という意味。
自分から安心を探し出す、という意味ではプル型のザイオンス効果。簡単に答えがみつかるからSNS依存を深めてしまう。自分の疑問や不安は自分からググればなんとなしに答えが見つかる、という。Togetherは都合のいいようにあたかも大勢の人が考えを共有しているかのような細工をして答えを提供してくれる。電子掲示板やSNSの、自分と似た意見や思想を持った人々が集まる場で、自分の意見や思想が肯定されることで、それらが正解であるかのごとく勘違いする、いわゆるエコチェンバー効果が議論されるようになったのも2000年代初頭。
こういう時代には、何が標準的な考え方で、支配的な考え方なのか、それを新聞などマスなものを通じて確認する、ということが難しくなっている。
SNSなどを通じて自分の求めている何かを見つけてしまえる安心感と引き換えに、いろいろな人がいろいろな場所に安心を見出すようになって、マスなものにピントが合いにくくなってしまった。
だけれど、恐らくザイオンス効果がプッシュ型であれプル型であれ、本質的に、よりマスなものを求めて安心する、という傾向は変わってないんじゃないか。
一方で、プッシュ型のオルグからうけるストレスに、自分で答えを探すことによってすぐにすり抜けてしまう、ここにZ世代の特徴があるかもしれない。
昔だったらほかに選択肢もないことから、ちょっと我慢して順応せざるを得なかった組織も、今ではそのストレスから逃れる手段も選択肢も豊富。
ストレスから逃れた先に、当面の安心感はあるかもしれないが、マスなものに比べれば脆弱だ。
それはパーツパーツでちょっとした安心感を消費するものであって、全体として組織が自分を傘のようにかばってくれるような安心感ではない。
それはむしろ、自分で集めた安心、時代のキーワードを寄せ集め、組み合わせてコンセプトを自分なりに構成していかなければならない。
上司の説教など、プッシュ型を避けてしまえた結果というのは、つまりそういうことだ。しかし、そういう構成力というのは、若者の経験、能力、資質にどうしても依存してしまう。
自分自身をふりかえってみても、そういう試みというのは、一時しのぎになりがちだ。安心をみつけるのはほんとに安易になった時代だ。
しかし、だんだんわかってくる。マスなものも慣れてくる。経験を重ねるとみえてくるものが増えてくる。その経験値の差が今の時代に、なんとなく世代間の差のように映じているんじゃないだろうか。一昔前だったら、そんな個人的な経験値など全くどうでもいいものだったと思う。
若年層の政治的な保守性というのは、保守の理念への信頼ではなく、
寄る辺のなさからなんとなしに選択されているんだろうと思える。
もう一度繰り返すと、ザイオンス効果自体は、安心を求める日本社会において、Z世代を特徴づけるものというよりは、全世代に通底するものかもしれない。
一つの物語に対して一つのファンタジー、というのが大原則ではある。そのファンタジーを基軸にして世界観や物語が構築されて行き、表現したい何かを鋭くえぐり取り表現することができれば最高だ。
だが主人公が好きな「ファンタジーをひとつまみ」は蛇足にしかならない。なんで最後爆発させた?なんで顔をドラゴンにした?特に意味はない。そのファンタジーが作品の芸術性に寄与していない。
だが物語が進むにつれて、母親の爆発オチは無意味な蛇足ではなく、実は意味のあるものだったのだと徐々に明らかになる。
やがて主人公は「身近な死」「作品発表」という二つの通過儀礼を正しくやり直すことで成長を遂げる。めでたしめでたし。おわり。
主人公はずっと「おわり。」を繰り返すが何度も終わり損ねた。ずっとオチを失敗し続けたが、ここで一旦キレイにオチがついた。
死んだはずの絵莉が生きていた。
キレイにオチがついて終わったはずの物語が終わっていなかった。
解:爆発させればいい。
クソみたいな蛇足の物語をクソみたいな爆発オチで吹き飛ばす爽快感。本来なら無意味でクソだったはずの爆発が意味と文脈を持つ逆転のカタルシス。クソみたいなオチに向けて物語が収束していく、パズルが完成したときのような達成感。酷評された爆発オチを物語に昇華させた主人公の真の成長。それが見開き1ページでどかん。
大爆笑させてもらった。
自分の若い頃は、まだネットなんて存在してなくて、つまりエロコンテンツ、「オナニーのオカズ」は、「紙」だった。いわゆるエロ本。
年頃になると、このエロ本を、如何に「自分の部屋の中の、母親に見つからない場所に隠すか?」が、思春期男子の重要なライフハックになってた訳で、まあ自分も、「いかに見つからない場所に隠すか?」に工夫を凝らしたものだった。
そこへ行くと、現代の男子は、エロコンテンツをネットで自在に拾える訳で、「エロ本の隠し場所」に悩むという思春期男子の通過儀礼を全く体験してない訳だ。
エロ本隠し場所に悩んでた元思春期男子、今や中年のオッサンからすれば、「羨ましい」半面、「そういう苦労を味わってない現代男児」が、半分可哀相な気もするのだが。
ていうと、またまたジェンダーが云々、偏見だー、主語デカだーとか言われるんですかね?
オレの小学生時代には、テレビドラマとかで導火線に火がついたダイナマイトをぶん投げるシーンが割とよく見られたせいか、あの数10発が束になってる爆竹をほぐして「小さなダイナマイト」に見立て、火をつけて投げるのが流行した。
イイカンジのタイミングで投げると、空中で見事に爆発してカッコいいし、スカっとするw
でもたまに、導火線の火薬が十分入ってなくて、ジワジワとゆっくりとしか燃えていかないヤツがあって、まだ投げるタイミングじゃない・・・って様子を伺ってると、急に燃焼が加速して、投げそこねて指を爆破されることがあるのだw
一本の爆竹じゃ、火薬の量はほんの微々たるものなので、しばらく指がジンジン痛むくらいで、指を失う者はなかったのが不幸中の幸いであるww
それなりのサイトで女の子がハゲヅラ被ってるテーマの同人誌やサークルを探していたが結局剃髪をテーマとしたものしか見つけられなかった。
ハゲヅラというフェチには直接的にはみやこの全裸.zipによって思い当たることになった。
間接的にはフィメールマスクの着脱シーンや全身タイツ界隈にいた経験の蓄積によるものもあったかもしれない。
ハゲヅラの装着によってその娘のもつボディラインそのものの魅力を強調させ、素材の味というものをより楽しめるようにする。
シリコンの質感と地肌のおでことの絶妙な一体感。あるいは一体しきっていない感じ。
俺なら後背位だな。尻越しに頭で3つの丸み。どれも丁寧に撫でまわすんじゃ。その姿勢で少し悶えた横顔が見えるコマが一つは欲しい。
ヅラをおでこから少し持ち上げて、あるいはずらして前髪をちら見せした格好で前から突くのもいい。パンチラならぬ髪チラ流行れ流行れ(ヒジャブ界隈だとおなじみだろうけど)ここらへんはゼンタイにおいて前髪が少し出てるのを楽しんでる段階からその萌芽があっただろうな。
あるいはヅラの後ろ側から首にかけて地毛がちょろっとはみ出させるのもいい。
厚さが薄めのハゲヅラという設定で少し地毛が透けてるのもいい。
そういうのを経た後でズラを外した状態でのセックス描写というクライマックス感にこちらもドビューっといくんだよなあ。
まあそういう感じでやっぱりフェチってどんどん先鋭化してくんだよねえ。一種の通過儀礼なのかもしれない。
俺だってジャンルとして成長するように働きがけたいところだが絵心からないからどうしようもない。果報は寝て待てなんていうけど、ジャンルが確立されるなんて夢のまた夢だろうなあ…という虚しさに寄せてこの増田を残すことにする…