はてなキーワード: 衆生とは
人々に崇められてるびんずる尊者が本当は人心を惑わして不幸をもたらしてきた悪神で
善神に導かれてびんずるを埋めて封印しようとした物狂いのおじさんのほうが実は正義だった、なんて妄想をしてしまう
びんずるはらだって自らが得意とする神通力をむやみに使ったことで釈迦に自らの救済を奪われる罰を受けた人だから
闇落ちしてその強大な力を邪悪なことに使うようになっていても不思議じゃない気がする
もとは立派な人であったのになまじ大きな力を持っていたせいでそれに振り回されて闇に落ちる、そういう話ってよくあるでしょう
賓頭盧頗羅堕 《(梵)Piṇḍola-bhāradvājaの音写から。不動の意》十六羅漢の第一。白頭・長眉の相を備える阿羅漢。神通に達したが、みだりに用いて仏陀 (ぶっだ) にしかられ、仏陀滅後の衆生の教化を命じられた。中国では像を食堂 (じきどう) に安置して祭った。日本ではこの像をなでると病気が治るとされ、なで仏の風習が広がった。おびんずる。
仏「縁なき衆生は度し難し」
ホットケ「縁なき衆生は度し難し」
最初にblockchain-bitcoinさんのブコメに気づいたのはこの記事のブコメ
「統一教会系メディアとVtuberがズブな件」への肯定的なブコメ
https://anond.hatelabo.jp/20211002172050
「ズブな件」は言い過ぎにせよ。vtuberの一部が統一教会系メディアの仕事を受けてしまったことは事実なんだろ?まずその時点でありえないと思うだが、一連の粘着質な増田は文が鮮明ですね→https://vpoint.jp/column/106210.html
まず「ズブな件」という明確なデマを「言い過ぎ」と一蹴している点や
「どんな事情があろうとも一度でも統一教会関係者と関わっただけでアウト」というぶれない線引き。
そして「一連の粘着質な増田は文が鮮明ですね」という工作員の書き込みを見抜く洞察力
元々の記事に乗せられて批判をしていた多くの人たちが逃亡している中、未だにこのラインを戦場にして戦っている人に感動を覚える。
この人のすごいところは記事を書いた本人が「いたずら目的で関連付けてしまった」と明言しているにもかかわらず
「完全に事実無根のデマ」の範囲について教えてください。あなたではない別の一部のvtuberが統一教会系メディアの取材を受けてしまったことは事実なんですよね?→https://vpoint.jp/column/106210.html
https://b.hatena.ne.jp/entry/4709190343838238050/comment/blockchain-bitcoin
今回のデマの被害者の一人であるバーチャル美少女ねむさんです。
すごいよね、ここまで来てもなお本人にこの質問を書き込めるのって
しかも一度だけじゃなくて
改めて質問ですが、「完全に事実無根のデマ」の範囲について教えてください。あなたではない別の一部のvtuberが統一教会系メディアの取材を受けてしまったことは事実なんですよね?→https://vpoint.jp/column/106210.html
https://b.hatena.ne.jp/entry/4709190576840342082/comment/blockchain-bitcoin
再度の質問になります。「完全に事実無根のデマ」の範囲について教えてください。あなたではない別の一部のvtuberが統一教会系メディアの取材を受けてしまったことは事実なんですよね?→https://vpoint.jp/column/106210.html
https://b.hatena.ne.jp/entry/4709190723943052418/comment/blockchain-bitcoin
と何度も何度もバーチャル美少女ねむさんに質問をしている。しかも「あなたではない別の一部のvtuberが統一教会系メディアの取材を受けてしまったこと」を武器に戦おうとしている。すごい。並の神経じゃマネできない
ここまで「統一教会の危険性に疑義を唱えているのではなく、むしろその危険な統一教会に深く関わっているようなデマを拡散したことが問題視されている」と言われている中でもblockchain-bitcoinさんはぶれない
「でも統一教会はヤバいですよね?Vtuberに統一教会の取材を受けた人がいますよね?」と決して論点をずらさないすごい。
他の連中はだんまり決めて逃亡するかもしくは
RRD いつものようにオタクがエコーチェンバーでカルト化してるだけじゃん?で、カルトの仲間内で勝った勝ったの勝ち名乗り。知らんがや。
2021/10/02
Arturo_Ui 各方面から「危ないよ」との忠告は出揃ったわけですし、昔から「縁なき衆生は度し難し」とも申しますので、あとは自己責任でどうぞ、ということになりますかね。
2021/10/02
みたいな反論にも言い訳にもなっていない言葉で己の精神的勝利を得ることにのみ注力している中でもblockchain-bitcoinさんはぶれない
未だに「統一教会はヤバい」し「そのヤバイ統一教会の取材を受けただけでありえない」で戦ってる
しかもRRDやArturo_Uiみたいに人の少ない増田のコメントでぼそぼそ陰口的に言うのではなくバーチャル美少女ねむさん本人に突撃している
重ね重ねになるが並の神経でできることではない
爾時世尊從三昧安詳而起。告舍利弗。諸佛智慧甚深無量。其智慧門難解難入。一切聲聞辟支佛所不能知。所以者何。佛曾親近百千萬億無數諸佛。盡行諸佛無量道法。勇猛精進名稱普聞。成就甚深未曾有法。隨宜所説意趣難解。舍利弗。吾從成佛已來。種種因縁。種種譬喩。廣演言教。無數方便引導衆生。令離諸著。所以者何。如來方便知見波羅蜜。皆已具足。舍利弗。如來知見廣大深遠。無量無礙力無所畏。禪定解脱三昧。深入無際。成就一切未曾有法。舍利弗。如來能種種分別巧説諸法。言辭柔軟悦可衆心。舍利弗。取要言之。無量無邊未曾有法。佛悉成就。止舍利弗。不須復説。所以者何。佛所成就第一希有難解之法。唯佛與佛乃能究盡諸法實相。所謂諸法如是相。如是性。如是體。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。
自我得佛來 所經諸劫數
無量百千萬 億載阿僧祇
令入於佛道 爾來無量劫
而實不滅度 常住此説法
我常住於此 以諸神通力
令顛倒衆生 雖近而不見
衆見我滅度 廣供養舍利
咸皆懷戀慕 而生渇仰心
衆生既信伏 質直意柔軟
一心欲見佛 不自惜身命
時我及衆僧 倶出靈鷲山
我時語衆生 常在此不滅
以方便力故 現有滅不滅
餘國有衆生 恭敬信樂者
我復於彼中 爲説無上法
汝等不聞此 但謂我滅度
我見諸衆生 沒在於苦惱
故不爲現身 令其生渇仰
因其心戀慕 乃出爲説法
常在靈鷲山 及餘諸住處
衆生見劫盡 大火所燒時
我此土安隱 天人常充滿
園林諸堂閣 種種寶莊嚴
寶樹多花菓 衆生所遊樂
諸天撃天鼓 常作衆伎樂
我淨土不毀 而衆見燒盡
憂怖諸苦惱 如是悉充滿
過阿僧祇劫 不聞三寶名
諸有修功徳 柔和質直者
則皆見我身 在此而説法
或時爲此衆 説佛壽無量
久乃見佛者 爲説佛難値
我智力如是 慧光照無量
壽命無數劫 久修業所得
汝等有智者 勿於此生疑
當斷令永盡 佛語實不虚
如醫善方便 爲治狂子故
我亦爲世父 救諸苦患者
爲凡夫顛倒 實在而言滅
以常見我故 而生憍恣心
放逸著五欲 墮於惡道中
我常知衆生 行道不行道
隨應所可度 爲説種種法
『縁なき衆生は度し難し』て、知ってっか?
真宗宗派は「門徒」で合っております。よくご存じでと申しましょうか、よくお寺での説法を聞いていただいているようで、謹んで敬意を表します。
横からの増田さんからのお返事も拝読して、私も少し分かってきたことがあります。
僧侶増田さんに違和感を感じたり反発したりされている方は、この言葉が非常に不快に刺さっているのだろうと思います。
私の受け取り方(そのおそらくは、真宗宗派の考え方を下地にした受け取り方)は、「切り捨ててしまう」ほど強権的な物言いではなく、しいて言い換えるなら「去る者は追わず、来る者は拒まず」というような意味合いです。
元増田の話でいえば、反発されるご親戚の方々を元増田がいくら説得しようとも、ご親戚の方々が聞く耳をもとうとされないのであれば、元増田もまたそのご親戚の方々の態度・考えを尊重されて、無理矢理にでも納得させるようなことはおやめなさい。無理に引き込んだり、引き込まれたりしても、お互いにわだかまりが残ってしまってはよくありません。・・・僧侶増田の説かれたいところは、そんな説法だと私は受け取っておりました。が、たしかにそれに続く説法の中で、ご親戚の方々に強く当たるような表現もまたあり、そこまで言わなくともという感想は私増田も理解するところです。
宗教・宗派・背景によらず、みんなが分かる考え方・言葉遣いが求められるのでしょうけれども、私増田はどうしても個々人の背景の上に成り立った考え方・受け取り方からは逃れられないとも考えています。
同じ言葉でも受け取り方が、宗派・宗教が違ったり、仏教用語として理解されるか現代日本語として捉えるかによっても変わってきます。真宗宗派でよく話題にされるのは「他力本願」という言葉です。Wikipediaにもある通り、真宗宗派のことば(Wikipediaの前者)として理解されるか、現代日本語(Wikipediaの後者)として捉えられるかによって大きく意味が変わってきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%96%E5%8A%9B%E6%9C%AC%E9%A1%98
・・・などと長々と書いておりますが、私増田は真宗宗派のお寺にお墓があるだけのごく普通の家に生まれた者です。少しだけ、お寺さんでの勉強会に通っていた時期はありますが、正信偈も冒頭が読めるかどうかの程度です。寺の生まれでも、檀家でも、熱心な門徒でもありません。
お近くのお寺で、よいご縁の中で、仏法に出会えるとよいですね。もしくは、ある程度大きなお寺であれば、月1回とか週1回のペースの勉強会を行っているところもあります。なんでもなしにお寺に行くことが難しいのでしたら、そうした勉強会をきっかけに仏法に触れられて、またご同朋やお寺の方とお話するご縁が見つかればと思います。お寺による・檀家によると言ってしまえばそれまでですが、真宗宗派のお寺の多くは、ご縁のある方は暖かく迎え、ご縁のつながらなかった方にもまた暖かく送られる姿勢です。
今一度、お付き合いいただければと思います。
まずは、今回の私の投稿をお読みいただき、重ね重ねありがとうございました。まさかここまでの反響をいただくとは夢にも思わず、ブックマークが1000を超えた辺りから身体が震え出し、喉はからからに渇き、手の痺れが止まらない体たらくで、よくも悪くも注目を集めることの重圧を初めて味わいました。お恥ずかしい限りの有り様です。
「この説法を読んだみんな (元)増田のお祖父さんのリモート葬儀に参列したようなものだ」
「(元)増田さんが勇気を出して書かなければ現れなかったご縁」
とコメントしてくださった方がおられましたが、正にその通りだと思います。
お祖父様の生前のご希望・ご親族のわだかまり・元増田さんの苦慮と懊悩・私が僧侶として学び感じてきたこと……様々な縁が積み重なって因となり、この果をもたらしました。
一連の記事を読まれた方はみな、会ったことも見たこともない元増田さんのお祖父様の死を受け止め、素性も分からぬ私の法話に心を傾けてくださり、それぞれがご自分の「今」、ご自分の「これまで」と向き合った。そのような瞬間に立ち会えたこともそうですが、私がそのささやかなお手伝いができたのだとするならば、返す返すもったいないことであります。
たとえ学んだ経験を持たずとも、皆様は真宗の心をよくよくご承知なのだと、喜ばしく思いました。
しかし同時に、私が一方的にご親族を非難するような語り口になったことで、一部の方にご不快な思いを抱かせてしまい、本当に申し訳ありません。
元増田さんの痛みが少しでも和らげばと思い、思い悩む側に立ってお伝えしたつもりでしたが、その主張に至る論拠も背景も提示せぬまま、語調への配慮もなく投稿してしまった浅はかさ。ひいては、浄土真宗の教義や宗旨そのものに対する誤った印象を広めかねない軽率さを、深く悔いております。
身口意の三業(しんくいのさんごう:苦しみを生み出す元ともなる、身体と言葉と心の在り方)を正さなければならないのは私こそだと、改めて皆様からお教えいただきました。
今回の投稿を機に、様々な声をお寄せいただきました。その中からいくつか、私が個人的にお伝えしたい、或いはどうしてもお答えしなければならないと感じた点について、一つ一つ書き綴っていきたいと考えました。
ところが、お答えしたいと感じたコメントも、それに対してお伝えしたいと考えているお話も、あまりに膨大な量になってきてしまったため、今ここでそのすべてを書き記すことはできません。
そこで、ある方からコメントでご希望をいただいたこともあって、note等の他媒体で一つずつ回答を掲載してゆく形を取れないかと検討しております。今しばらくお時間とご猶予いただければ幸いです。
また、すでに書き終えた箇所については、以下に記しますので、暇つぶしがてらご一読いただきたく思います。
お同行(どうぎょう:人生をよりよく生きたいと願い、共に歩む仲間たち)の皆様に、何か少しでも響けばと願って。
合掌
お釈迦さまがご存命の頃、覚者として名高いお釈迦さまの噂を耳にしていた方が、お釈迦さまの姿を見掛けるなり、突然敬いの態度を取られたそうです。その方に対してお釈迦さまは、
と仰せになりました。
お釈迦さまという人間(物質)そのものは何も尊くなく、その姿をただ拝んだところで意味はない。仏を本当に敬う心というのは、仏からもたらされた法 (= 真実 = 悟り・気付きへと至る教え) を深く信ぜられる心があって、初めて沸き起こるのだということです。
100人いれば100通りのものの見方が生まれます。なぜなら私たちはみな一様に、自分の都合のいいように物事をねじ曲げて捉える色眼鏡、「邪見(じゃけん)」の持ち主だからです。
信じる方もいれば、信じない方もおられるでしょう。私自身は信じられなくとも、一向に構いません。後はあなたのお好きなように受け取ってください。
信じてくださった方には、
とお伝えしたく思います。
法務が忙しく、自坊で取り入れることは現状難しいですが、私は賛成派です。
どんな形であっても、そこで出遇うのは人と人です。これまで仏縁をいただくはずもなかった方のお宅を訪ね、仏事作法・死生にまつわるお悩みに、私どもの信ずる教えをお伝えできる機会を賜われるとしたら、ありがたいことです。
という言葉を遺しておられます。理想的とはいかないまでも、それぞれに合った形で、仏法は平等に一切に施されるべきなのです。
これは浄土真宗の三大経典のひとつ、大無量寿経において、お釈迦さまが弟子の阿難(あなん)に対して、
と、身も心も改めるよう告げられた場面に由来しております。
我々僧侶は、法務に臨む上で、常にこの阿難に求められた姿勢を貫くことを責務としています。
さしたる戒律も持たない浄土真宗を“寛容”と捉えるのか、“険しい道”と捉えるのかが、俗世と求道者の大きな分かれ目となるのでしょう。
たとえば、もしもあなたが、
「世間の人たちが当たり前にしてることをあなたもしていいよ、それであなたも仏になれるよ」
と言われたとして、あなたはその言葉をどれほど信じられますか?
「他の宗派みたいに滝に打たれたりとか山籠りとかそれっぽい修行しないんですか?(笑)」
「何なのその髪の毛? ありがたみが足りないね」
と好き放題になじられ続けて、それでも自分は間違いなく仏になれるのだと、あなたは胸を張って言い切れますか?
我々の求道の在り方は、甘えでも寛容さでもなく、「覚悟」です。
世間は常に、自分たちで勝手に作り出した意味もない物差しに、自分たちで勝手に縛り付け合ってああでもないこうでもないと罵り合い、争い合っています。そんな人々の下世話な好奇の目や嘲りにも耐えて、たとえ自力聖道門の尊いお坊様のような修行は積めずとも、ごく普通の人間と変わらぬ平凡な生活を営みながら、それでも間違いなく仏になれるのだと、己が第一に身をもって証明していく勇気を見せなければならないのが浄土真宗の僧侶なのです。
という言葉で表され、また
と仰せになり、決して退くことのない浄土への道をひたすらに歩まれたお方でした。
であればこそ、親鸞さまに救われた私もまた、親鸞さまと同じ生き方を願い、その道を皆様と共に歩みたいと思うのです。
ありがとうございます。しかし、現実の私はそのような人間ではありません。何しろ私は、この教えに出遇わなければ死を選ぶしかなかったほど、弱く、もろく、そして愚かなためです。
もしもあなたが私の書き込みに何らかの功徳を感じてくださったのだとして、ではその功徳をもたらしてくれたのは誰で、どこからきたものなのでしょうか。命を断つしか選択のなかった、世間と人間社会を呪うしかなかった私のこの頭から、口から、心から、仏の教えがこぼれ出てくるという不可思議な現象は、なぜ起きたのでしょうか。
今回の場合は、すでに冒頭で述べた通りです。私が言わんとするところはつまり、私自身が尊いのではなく、私のような者に教えを語らせた諸々のはたらき、「わたし」と「あなた」の間に結び付きを与えてくださる種々のはたらきが尊いのです。
すべては響き合い作用し合い、そして悲しみやよろこびを生み出しています。
私はできるだけ悲しみを減らすお手伝いをし、できるだけよろこびを増やすことを務めとして生きてゆきたい。そう願っています。
と、開祖である親鸞さまが仰せになったように、煩悩具足(ぼんのうぐそく:煩悩に満ちた状態)の凡夫(ぼんぶ:弱く無力で自力で悟れない愚かな存在)の身には出過ぎた願いではありますが、様々な縁によって助けられ支えられ励まされ慰められ育てられて生きてこられた、その力だけは、私には絶対の事実です。私は私以外からもたらされた力を一心に信じさせていただき、今日まで生かされております。この歓喜と慚愧の念に頭が下がり手が合わさる心を、他力本願といいます。
真に功徳に満ちているのは、真にありがたいのは、私たちに「あなたが救われて欲しい」と種々にはたらきかけてくださる、阿弥陀如来さまであります。南無阿弥陀仏。
件の投稿よりももっと長く書き綴っていた文章が、残り数行というところでうっかりページバックボタンに触れてしまい、全消失しました。あまりのショックにじたばたと暴れ、ウワー!と叫びました。
「諸行は無常、こんな記事を書いたところで誰が読むでもなし、諦めて他のことをしよう」
と思って立ち上がった途端、リングコンを握り締めながら涙をこぼしている増田さんの姿が脳裏に浮かび、いやこれでは駄目だ、多少は簡素になってもいいからお伝えしよう、と踏みとどまりました。
結果、この拙文によって一部の方を戸惑わせたり憤らせもしてしまいましたが、多くの喜びの声を受けて、私が信じてきた教え、私に教えを授けてくださった諸仏と数多のご先達が、私に微笑みかけてくださるような感慨に胸が熱くなりました。本当にありがとうございます。至らぬところも多く、本当にごめんなさい。南無阿弥陀仏。
現時点では、以上のコメントについて、今後時間をかけて回答したく思います。
準備ができ次第、こちらの投稿に言及する形で戻って参りますゆえ、今しばしお待ちください。
最後になりましたが、皆様とこのような法縁に恵まれるきっかけを与えてくださった元増田さんを始め、すべての方のお命とお心に、敬い申し上げます。
坊さんがご親族を悪しざまに罵るのはどうなんだろうね。あいつらは縁なき衆生ですから、って、それ宗教家が言う言葉かね?
「リモート葬儀で仏教は台無しになりません」と僧侶の立場から名言することには意味があるかもしれないが、そもそも元増田は僧侶の説法なぞ必要としていない。当人の後悔や懸念は「親戚から非難された」「母親が落ち込んでいる」点がメインであって、故人の冥福や仏教の神聖性云々については特に心配していない。であれば親戚関係と母親についてはもはや坊主の出る幕ではないので、ブコメに書いてる人もいるが、対話し関係修復を図るしかないと思う。
で、それはそれとして、坊さんが「みんななかよく」みたいな話しかできないのはどうなんだろうね。下記とか。
仮にご親族が正しかったとして、実際に葬儀場に遺族知友が寄り集まり、そこで増田さんの危惧した通りに感染者が出たり、最悪死者が出たとしたら、どうでしょうか。お祖父様の死によって、お祖父様に連なる命がさらに失われてゆくことになってしまいます。遺族知友が命を危険に晒すリスクを負うことを心から望んで、お祖父様は何が何でも葬儀式を執り行って欲しいと願われたのでしょうか。
そうではなくて、「自分の死(一生)を大事に受け止めて欲しい」。それこそがお祖父様の本当の願いだったのではないでしょうか。
まずあなたがお祖父様の何を知ってるんだって話だし、こんな通り一遍の話しかできないならそもそも怒りを表明するべきではないんじゃないですかね。俺は友達いないから自分の葬式についてはわからんけど、「旅立ちに際し大勢に見送ってほしい」という気持ちは理解できるし、もし仮に俺が葬儀される側で、事前に「遺族知友が命を危険に晒すリスクを負うことを心から望んで、何が何でも葬儀式を執り行って欲しいですか?」って聞かれたとしたら、「密を避け、換気を徹底し、感染リスクに注意して開催していただきたい」って答えたと思うよ。政治家みたいな言いぐさだけど、でもまあそうでしょ。そうした身勝手で不合理な欲望なり怒りなり悲しみなりに寄り添うのが、アウトサイダーたる僧侶にしか果たせない役割なんじゃないんですかね。
東日本大震災の時に中島義道っていう人が新聞に書いてた話だけど、美談が覆う真実もあると。ちょっと引用すると:
被災した小学校から、泥だらけのランドセルが回収されたという出来事が美談として報道されましたが、学校が大嫌いな子も級友からいじめに遭っている子もいるはず。それなのに、すべての子は学校や勉強や友達が大好きだという「神話」が真実を覆ってしまいます。
目下メディアをにぎわしているのは "心温まる家族間の話" であり、そこに登場してくるのは、原発の作業員と妻、妻を失った被災者の夫、祖母と声を掛け合って助かった孫など法的に認められた家族だけです。不倫相手を失った愛人とか、同性愛の恋人を亡くした人などはまったく抹殺され、天涯孤独な人も、家族を激しく憎んでいる人も切り捨てられた「健全な」家族の美談だけです。
もちろん、ほとんどの人は「健全な」社会を望んでいるし、メディアもそれに配慮して取材対象を選んでいるのでしょうが、それが「多数派」あるいは「普通派」の暴力であることを自覚してほしい。日本は言論が自由な国とされていますが、この点ではまったく違うのです。
(中略)
震災後、さまざまなイベントや行事が自粛され、それは他人にも同様の自粛を求める「他粛」の風潮になっていますが、みなそれを無自覚に受け入れて、互いに自粛し合い「いい人」しか出てこないいまのような言論状況が、私には不気味な感じさえします。
仮にお祖父さんやご親族が従来通りの、親戚が一堂に会する形の盛大な葬式を望んでいたとして、それは現在の社会情勢からすれば批難されるべき欲望であるんだろうが、その欲望を「故人の死が自分たちに何を訴えているかも受け止めず」「ろくに理解もできていない宗教の『神聖さ』とやらを根拠に」「葬儀らしいことをやった気になりたいだけ」などと口を極めて悪罵しながら、増田に対しては「明日からまたあなたを続けてゆきましょう」「それもきっと、お祖父様がかつて願われたことのひとつのはず」程度の当たり障りのないことしか言えない、これは中島義道が言うところの「多数派の暴力」というやつではないんですかね? いやいいんですよ、多数派は多数だから多数派なんであって、ほとんどの人は健全な社会を望んでいます。大変結構。でもその多数派の代弁って坊さんがやる意味ありますかね?
不慣れなため、先ほど書いた文章がすべて消えてしまい心折れかけましたが、やはり大事なことなので、増田さんに伝わればと願って改めて書き直します。
お祖父様のことをお悔やみ申し上げるとともに、今回このような形で、増田さんやお母様が悲しまれる結果になってしまったこと、痛惜に堪えません。
結論から言わせていただくと、リモート葬儀それ自体に否はありません。そんなもので台無しになるのが仏の教えならば、仏法は2500年も受け継がれたりなどしません。
私から言わせれば、死者を軽んじ、葬儀を台無しにしているのは、ご親族の方だと思います。
葬儀とは「弔(とむら)い」であります。弔いとは元来、「訪(とぶら)い」という字を用いました。これは遠近様々な場所から死者の元へと人々が訪れる様子を意味していますが、決してそれだけではありません。
死者に出会うということは、まだ生きている自分自身と出会うということです。やがては我が身も命尽きてゆく存在である、ということは誰しも頭では理解していますが、近しく親しい者の死を前にでもしなければ、そうした厳然たる事実さえも忘却してしまうのが私たち人間の本質です。
そんな私たちが死者の元に集い、故人の人生の意味、人の生き死にの重さや儚さ、そしていつかは同じように必ず死んでゆく私たちの進むべき道や生き方について、死者の姿に「問い」・「訪ねる」こと。
仮にご親族が正しかったとして、実際に葬儀場に遺族知友が寄り集まり、そこで増田さんの危惧した通りに感染者が出たり、最悪死者が出たとしたら、どうでしょうか。お祖父様の死によって、お祖父様に連なる命がさらに失われてゆくことになってしまいます。遺族知友が命を危険に晒すリスクを負うことを心から望んで、お祖父様は何が何でも葬儀式を執り行って欲しいと願われたのでしょうか。
そうではなくて、「自分の死(一生)を大事に受け止めて欲しい」。それこそがお祖父様の本当の願いだったのではないでしょうか。
ご親族の方々は、ろくに理解もできていない宗教の「神聖さ」とやらを根拠に、「普通の」葬儀が営めなかった戸惑いや苛立ちを、増田さんにぶつけたのでしょう。
このような時勢の中、増田さんやご両親が取った苦渋の選択に理解を示したりねぎらうどころか、自分たちの思い通りにならないことに腹を立て、挙げ句の果てには職業を理由に非難の眼差しさえ向ける。お祖父様の生きた証でもある子や孫に対して、いまだ生き残った者たちのする仕打ちがこれです。故人の死が自分たちに何を訴えているかも受け止めず、自らの愚かさや罪を顧みない姿を、わざわざ露呈しているようなものです。
従来の葬儀式や、死者の元に人が集うことにも、もちろん大切な意味があります。しかし、いちばん大切なことは、遺族知友が故人の死を「無駄にしないこと」です。
人は死を前にして生と出会います。普段は照れ臭さ・煩わしさ・遠慮・怒りや嫌悪で、身近な人にはなかなか真正面から向き合えないのが私たち人間です。しかし、いつかは私も周りの人も、故人と同じように冷たくなり骨となってゆく。そのことを思えば、自分自身の今までの他者に対する接し方や身の振り方にも、自然と目が向けられます。そうして自分の姿を見つめ直し、振る舞いを思い直し、そのきっかけを与えてくれた故人とはたらきとに手を合わせ、まだ生かされた者同士が手を取り合って明日からを歩んでゆく……それこそが仏の道であります。
ですから、本当に故人の死や一生を受け止めようとする心に、現地もリモートも関係ありません。むしろ、「葬儀らしいことをやった気になりたいだけ」の方が、よほど問題です。
これではお祖父様が報われません。自分が命尽きたその後で、遺族が葬儀の形どうこうで争いを起こすのならば、お祖父様は一体、何のために生まれて、生きて、死んでいったのでしょうか。
死後の遺族の姿勢次第で故人とそのご生涯の意味が決まる訳ではないとしても、あまりに嘆かわしいことです。
お釈迦さまはかつて、「縁なき衆生は度し難し」という言葉を残されました。どれだけの言葉や思いを尽くしても、死ぬまで気付けない・分かり合えない人間というのは、古今東西必ずいるものです。そういう人たちはお釈迦さまにもどうすることもできない存在でした。何故なら彼らは自分から目を閉じ、耳を塞ぎ、心を閉ざしているからです。そうであれば、まずは他者よりも、「わたし」自身が目を開き、耳を傾け、心を開かなければなりません。
増田さんにおかれては、お母様を悲しませてしまったつらさ、ご自分の配慮が望まぬ結果をもたらしたつらさにうなだれていることと拝察致します。
しかし、だからこそ、お祖父様のことを今一度思ってください。お祖父様がいなければ、お母様も増田さんもこの世に生を受けることはありませんでした。授かったその命を、どうすれば願いと喜びの中で全うして終えてゆけるか、見つめ直す時間を受け取ってください。人がひとり死んでも、傲岸不遜に振る舞ってしまえる人間の恐ろしさを学んでください。分かり合えない人間から植え付けられる理不尽の怒りや悲しさを、自分自身が他の誰かに繰り返さないよう身口意(しんくい:身と口と心の振る舞い方)を正してください。切られる縁もあれば、そこから始まる縁もあることを信じてください。
それらを増田さん自身がもしも「ああ、そうだな」とうなずけたなら、あなたこそ仏の道をまっすぐに歩んでゆける方です。
つらい気持ちはリングコンにぶつけて、涙も汗も流したら、美味しいものを食べて、温かいお風呂に浸かって、よく眠り、あなたのお命を大切に、明日からまたあなたを続けてゆきましょう。口にはしなかったかも知れませんが、それもきっと、お祖父様がかつて願われたことのひとつのはずです。
こうしてはてなという場に一石を投じてくださった増田さんに、心から敬意を表します。私たち仏に仕える者たちも、此度のことをよくよく考えねばならないと衣服を整える思いです。
合掌
(ご親族に対して少し冷たい言葉を選びすぎたかも知れませんが、彼らもまた、そういう態度や振る舞いしかできないだけの縁を受けて生きてきたのだということを私自身うなずき直すとともに、増田さんにもそのことを、どうか頭の片隅に留めていただければと思います。お祖父様から受け継いだ命を、分かり合えない人との不和を嘆いたり、他者を憎んだり呪ったりすることに使うのではなく、あなた自身の本当のプログラムを人生に打ち込むことに使ってください)
縁なき衆生は度し難し、て知ってっか?
その中で、私達はサイクルの回し方を痛み取りしか知らないのでしょうか?
そんな筈はないですよね?って煽っても、きっとそればかりを教わってきたのでその事だけを一心に続けてきた事でしょう。
ご苦労さまです。
今、私達がしなければいけない事、それはより多くの証明の行、覚生の行の方法を確立することです。
誰に対して?はっきり言っておきます。
まずは世間に目を向けてみましょう。いつも読まなかった雑誌や雑学、そこから生まれるこんな事してみたら?と思える智慧の数々。まずは自身の生命に聞きながら、学びながら。
あなたの中の生命がこんな使い方もしたい、あんな使い方もしたいって、騒ぎ出しますから。五月蝿いですから(笑)
涙を流すのはもうやめましょう。
流すなら笑い涙にしましょう。
悔やまないでいいですよ。
見失ってる人もいるでしょう。
ほら。あなたの中でね。
待ってますよ。
言い訳などいりません。
楽しんでくださいよ。
それでは。
願以此功徳 普及於一切
僕の好きな仏教系の挿話に「火事で燃えてる家と赤児の話」というのがあって
どんな話かというと、とある家が火事になっているとする――。その燃えている家の、崩れた瓦礫の隙間に赤ん坊が取り残されているとする。赤ん坊はどうやら周囲の状況にあまり気付いていないらしく、指を咥えてぼんやりとした面持ちのままその場に座り込んでいる――。まだ火の手はそれほど近くにまでは来ていないから、何らかの手段を講じれば赤児の命を助けられるかもしれない、みたいな話。
でも、瓦礫でできたスペースは小さくて、その奥まった場所に取り残されている赤児の元へは、大人の体では大きすぎて辿り着くことができない。また、その瓦礫を除けようも、ちょっとしたバランスの変化で瓦礫は崩れ落ちそうに見えるくらい、その均衡は危うい。つまり、その時赤ん坊を助け出す手段としては、赤ん坊自らの力によって瓦礫の外へと這い出してもらうより他に方法がない、という状況である。
さて、この時赤児にアプローチするには幾つか方法があって、この挿話によればその方法は主に二つである。一方に関しては、これは失敗が決定付けられた最も愚鈍な手段であるんだけど――次のようなものだ。
「火事なんだ! すぐ傍にまで火の手がやって来ている。だから早くその場所から逃げ出すんだ。さもないととんでもないことになるぞ!」
当然この方法は赤児の命を救うことができない。それは無論のことで、赤児はまだ大人の冷静な言葉を解するには年齢や知能の発達が不十分で、その言葉を正しく理解することなど到底できないから、正しい指示を送ったところで何の役にも立たないということなのだ。
また、そこにはもう一つ細かい問題というのもあって、この挿話ではそれについて次のように述べている。大人が必死な目をして、必死な声で赤児に対して叫ぶのを見て、むしろ赤児は言うことを聞くどころか怯えて、泣き出して人事不省に陥ってしまうなり、あるいは、間違った方向へと這いずって逃げ出してしまうなり、むしろ事態が悪化する行動を取る結果にしかならないだろう――とこの挿話の語り手は述べるのである。
さて、そのような具合に、「正しい情報を与え、正しい指示を行う」といった方法はこの場合何の役にも立たないことが示された。それどころか、より事態を悪化させることにしかならない、という結論が述べられた。勿論これはあくまで仏教的な挿話の範疇で示唆されていることではあるんだけれども。いずれにせよこちらは失敗にしか傾斜しない、二者のうち一方の愚鈍極まる手段ということであった。
では、もう一方の手段とは何か。
それは、「何か音の出るおもちゃを持って、笑顔で赤児に呼びかける」である。
上手くいけば、赤児はそのおもちゃに興味を示して、出口の方へと這いずって自ら正しい方向へ歩むことができるかもしれない。少なくとも、何ら言語を解さない赤児に向かって、「逃げろ」だの「火事が迫っている」だの叫ぶよりはずっと結果はマシになる筈であろう、とのことであった。因みにこの方法を用いる理由として一つ、さらに重要な前提があって、つまりそれは赤ん坊はよくも悪くも自分自身がおかれている状況に無自覚であるということである。そのため、赤ん坊は火事の危険を知らず、余計な恐怖や危機感によって泣き叫んだり人事不省に陥ったりする心配は今のところ無い――つまりは割と平然としているということが、この第二の手段を更に正当化する理由となるのであった。
時間制限は確かに存在する。火の手が回る前に、迅速な判断が必要な場面ではある。とは言え、自らの膂力によって瓦礫を除けたり、あるいは赤児の取り残された小さな隙間に入り込むといった手段を使えるわけでもなし、正しい指示を送ることは怯えさせるだけで役に立たない――そんな時に用いるべきなのは、本当は「おもちゃの音色と、同時に浮かべられる朗らかな笑顔」なのだというのが、この挿話の結論であった。
賢明な読者の皆様はお気付きであると思うが、この「火の手が迫り今にも崩れそうな家」と、「状況を理解していないし、また言語を解すこともできない、取り残された赤ん坊」は、現世と衆生にそれぞれ対応した比喩となっている。もっと言えば、それは我々の世界と我々自身についての比喩なのだ。
(あるいはこれは、悟りや涅槃(救い)というものと、それを理解できない衆生の対比になっているとも言える。)
いや、こんなこと言ったら気分を害する人もいるかもしれないんですけどね、まあ仏教というか宗教全般は大体そういう通底した考えとか世界観があるのはしゃーない。正しい言葉で語りかけても、衆生は危険を認識するどころか怯えて遠ざかり、尚の事炎の害に遭う可能性が高まるので、何らかの便宜的な他の手段(この場合はおもちゃと笑顔)を講じるべき、というのが、仏教側のスタンスだということでした。まあいずれにせよ昔の人は面白い喩え思いつくなー、とかそういう話なんですねはい。