はてなキーワード: 色即是空とは
増田を含めた我々は三次元の世界にいるとされる。その三次元の世界において太陽などの光を遮ることによって影ができるが、その影は平面である。
では、四次元の世界において四次元の太陽が照らした光が描くものはなんであろうか?
この世というものは実は四次元プロジェクターが照らし出す三次元の影ではないか? とすれば角度とかを変えてみることによって世界も如何様にも変わっていくのではないか? といったことを仮定した説が冒頭のホログラフィック仮説だな。
般若心教にもあるだろう。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色と。これは即ち「実態があるように見えるものは空であり、空であるように見えるものでも実態があるように見える」ということだ。
つまり、増田が見ているものが全て真実であるとは限らないってことなんだよ。
「上位次元の何者かが」太陽の向きを少しずらしてしまうだけで増田の見ている現実なんかは簡単に変わってしまう。
本質を見誤ってはいけないよ。漫画の本質は絵ではない。絵は影であり色にしか過ぎない。もっとコアな何かが、増田にも見えているはずだ。
――きっとな。
面白い考え方だとは思ったけど、それ以上に言葉遊びというか、哲学遊びな気もするな。
「マイナスは確実にあるが、もしかしたらプラスもある」より「確実にマイナスはない」のほうが合理的と言うけれど、
誰もが「限られた時間」や「あり得た未来」という代償を支払い続けて生きている以上、マイナスのない行為など存在しない訳で、
代償を恐れることは即ち生きることを、何もしないことも含めた全ての事象を恐れるに等しい訳で、
・車には交通事故という、他者の権利を侵害するマイナスがあるから倫理的に廃止した方が合理的
・インターネットはそれによる犯罪の誘発という、他者の権利を侵害するマイナスがあるから倫理的に廃止した方が合理的
もっと言えば、
・現代人は限られた資源を一方的に使い捨て、将来や発展途上国の人が活用する余地や権利を侵害しているから科学技術自体を廃止した方が合理的
・限られた食物を消費することは他の誰かが食べられた食物を、特に貧困地域の人の生存権を奪う事に繋がるから生命活動も廃止した方が合理的
これが「出生」というセンシティブな大事に適用されてるから、物凄く鋭敏に聞こえはするのだけれど、
世界は色即是空でプラスもマイナスも存在せず、苦痛の存在しない楽園では快楽も認知・定義・存在することはできず、
人の認識が生み出す虚構の世界に対し、絶対的で普遍的な価値を見出そうとするが故の苦悩と言うか、
ある種の『悲劇のヒロイン症候群』的な思考遊びでしかない気がする。
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「出生による苦痛」を特別視して、且つその前提条件を割と当然のように語られる方が多い印象だったので追記。
これはもはや宗教的な話になってくるのだけれど、
何故、「生まれてくる前の世界が、苦痛も認識も存在しない“無”である」ことを当然のように前提にしているの?
例えば『六道輪廻』みたく、今より悪い世界から現世というより良い,より苦痛のない世界へ生まれ変われるという可能性は?
これは別に宗教論議をしたい訳ではなくて、現代科学では出生前も死後も“あること”も“ないこと”も分かっていない以上、
上:NAVERまとめにパクられ
「このメール内容の無断転用、転載を禁止します」とか専門用語で8ページの発信者情報開示書類とかで泣き寝入りする人も多いんだろうし、それを狙ってこうしてるんだろうなぁ。間違った日本語での確信犯ってやつか
先人への尊敬よりも、自分の気持ちを肯定補強してくれる概念をつまみ食いするタイプの人の文章みたいに見えるのがな……。文章のプロではないからしょうがないんだろうけど。
もう世代が変わるとスクショがハードコピーでエビデンスなんだよ。文字のコピペは「編集」が可能だから元URLが必要って認識程度はあるだろうけど、スクショは写真であり証拠能力ありなんだよ
息をするようにパククネ
例えば性の目覚めについて改めて考えたときに、それは必ずしも異性とセットでは無いというか、むしろ目覚めは性差の自覚前に来るのが普通なのでは、と思い至った訳です。
例えば上り棒で性に目覚めたとしたら、何かチンコ気持ち良いと思っても、セックスの知識は無いわけなので、この衝動は何に対してのものなのかわからんわけです。
そう考えると性の衝動は、概ね自己に対して始まるとも言えるのでは無いでしょうか。
つまり、のぼり棒で気持ち良い俺、「えっ!気持ち良い…、何これ俺!、俺…何か変だよぅ…」
というのが出発地点になるわけで。
そう考えると、男女関係なく、エゴの発芽というか、承認欲求やら自己顕示欲とか、自意識の肥大する過程、何てのが、先ずはナルシシズムから始まるのは、無理からぬことでは無いのか、と。
そういった自我の発芽に快楽という圧倒的な後押しから目覚めた後に、それらは他者に受け入れられなければ、自己の澱から一切昇華することは無い、という現実を知る訳で。
そこからさらに諸行無常だの色即是空だのという気付きを得るのさ、たぶん中2くらいまでの頃に。
まぁでもそれを許すあの手この手を、金で成り立たせるのが現代なわけで、それら性衝動すら商売にして特化してきたこの国の出生率が上がらないのは当然な訳だ。
この世(宇宙)の始まりは知性とともにあった。即ち「光あれ」(※1)の言の波とともにこの世が生まれたとあるように、「光とこの世」の前に存在したのが知性なのだ。この状態は混沌というわけではない。知性とは「Cogito ergo sum」※2 が個に生じた状態であり、その思念こそが創造の源となる。
自己を知覚した存在が「光」を欲すれば、「光」が生まれる。そして「光」の前に存在した「言」(※3)こそが、知性が行動を起こしたときに生まれる「想い」、即ち「思念」なのだ。知性の存続は時空間という概念を超えたところにある。つまり「Cogito ergo sum」という瞬間がいずれかの時空間軸で萌芽した時点でそれは「有る」。またそこに「有り続ける」。結果として、知性の存在は「場所や物質的なものに一切依存する必要のない」(※4)、言い換えれば、知性は時空間という概念から独立して存在しうる。つまり、これは世に出現するあらゆる現象(色)は本質ではなく(故に「空」であり)、世におけるあらゆる現象から独立して存在する知性(故に「空」)こそが本質(故に「色」)であること--「色即是空、空即是色」(※5)を意味する。
知性の繁栄とは、複数の知性が如何に結びつくかを示し、そこには2つの類型しかない。一つは、相互依存による共存共栄による知の拡大である。もう一方は、一個性による他、そして多の支配による侵略の拡大である。一方は永遠なる存続と相互補完により実現する存在であり、他方は、一個性の支配下により存続が左右される。
Cogito ergo sumは一般的に「我思う故に我あり」と訳されるが英語などでは、「I think Therefore Iam」、直訳すると「I think Therefore Am」となるためより「I」の存在そのものを強調した表現となっている。
※5 般若心経
このエントリはボンバーマンジェッターズのネタバレを含みます。まだ見ていない人は今すぐ見てきてください。その後この増田を読むかどうかは関係なく今すぐ見てください。
さて、7つ目のボムスターをシロボンが与えられたとき緑色の光を発しましたが、アレと同じ色の光が作中で出てきたことがあります。
決死の覚悟を決めボンバーマンとしての使命を貫く瞬間、マイティが投げたボムの色がまさにあの緑色なんです。
そのボムの名は「サニティボム」、サニティ、つまりは正気という意味。
ですが、ゼロに残されたマイティの姿はまさに正気そのものだっのです。
人々の期待に応えるために自分を見失っていたマイティではなく、自分の大切な人を守りたいという思いに燃える、優しく気高いかつてのマイティだったのです。
ボンバーマンはボムスターを集めていくなかで、ボムスターを集めたことによる慢心、そして真のボンバーマンという栄光への思いに取り憑かれていきます。
シロボンも何度となくボムスターを手に入れる事を焦り、ボムスターを手に入れたことに驕っていました。
これは私の勝手な妄想ですが、7つ目のボムスターはその真逆の方向にあるのではないでしょうか。
手に入れてきた物に囚われず、栄光に目をくらませず、純粋に自己実現を求めていた頃の思いこそ、7つ目のボムスターなのではないでしょうか。
シロボンが7つ目のボムスターを手に入れたとき、その気持ちは純粋に今目の前にある世界の危機を見つめていましめ。
人を助けたい気持ち、人々を守るボンバーマンのあるべき姿でありたい気持ちが極限まで高まっていました。
そこに最後のピースとして、マイティが与えたモノが、マイティの弟であり、マイティが信頼するシロボンであることの再認識、つまりは自分ならば出来るという自信です。
人というものは自信がないと、様々な理論武装を固めてしまい、心が硬直してしまいます。
かつてマイティが己を見失ったのも、自分が心のボンバーマンに相応しいかどうかという事に迷い、自信を失ったからです。
そのマイティを救ったのは、シロボンの純粋な憧れの目、自分への絶対の信頼でした。
そして、物語の終わりで、マイティがシロボンに送ったものも、シロボンの純粋さひたむきさへの純粋な信頼なのです。
自分を真っ直ぐに信じることから生まれる、ある種の悟りのような状態こそが、7つ目のボムスターなのです。
さて話は表題へと移ります。この世界には悟りも悟りに対する無知すらもないと語る教えこそが般若心経です。
そのマントラに「ぎゃーてーぎゃーてはらぎゃーてーはらそーぎゃーてーほーじーそわか」というものがあります。
これは「行きなさい行きなさい彼岸に行きなさい、彼岸に行くものよ幸あれ」という意味だそうです。
これの意味を詳しく語ることは私には恐れ多くて出来ません。
それはさておき、この言葉が7つ目のボムスターと近しいものように私は感じるのです。
7つ目のボムスターを手に入れよう手に入れよう、手に入れた者こそが真のボンバーマンなり幸あれ、どうでしょうか?
7つ目のボムスターを手に入れたボンバーマンこそが、真のボンバーマンです。
しかし、真のボンバーマンに執着していては7つ目のボムスターは手に入らないのです。
ですがそれは悲しいこととして描かれていません。
真のボンバーマンであるということは、そこがゴールであることを意味します。
今より自分を高めたいと願い純粋に日々を励む人生にこそ、曇りのない幸福があるのでは無いでしょうか。
今よりよい明日を信じて祈るように、ボンバーマンは日々7つ目のボムスターを探すのです。
そして、その境地に達した者が、ただ純粋にボンバーマンの使命感に燃え、自分の限界を引き出そうとするとき、真のボンバーマンとなるのではないでしょうか。
そして、その者が真のボンバーマンであるがゆえに、日々をよりよく生きようとする願いに応え、7つ目のボムスターは再び姿を消すのではないでしょうか。
ふと夜中に寂しくなり、唐突に子供向けアニメの考察をしてしまいました。
どうもお目汚し失礼いたしました。
すでにこの映画を見て2週間は経つ。鑑賞直後の雑感は箇条書きで記してはいたのだが、一応もう少しまとめようと思い立ったのでここに記す。
おそらくほとんど人の目には留まるまいが、ネタバレを含むので、ここから以下はぜひ本作をご視聴の上でお読みいただきたい。
また、私自身はこの作品を1度しか視聴しておらず、またこの映画に関する情報はパンフレット以外ほとんど(ネット上の評論も含めて)目にしていない状態であるので、思い違いや抜け、または同様の結論に至った他の方の評論がある可能性があることを了承されたい。
また、本文の後半でいくつかの仏教的用語を使用している。が、恥ずかしながら私の仏教知識は全くの独学であり、また理解もかなり浅いものである。もし仏教用語または知識に間違いがあれば、ぜひとも私のツイッターアカウント(https://twitter.com/gachikibou)またはメールアドレス(gachikibou@gmail.com)あてにご叱正をいただきたくお願いする次第である。
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これまで、私は新海誠監督の映像作品をいくつか観た(すべてテレビかDVD)が、どれも見ていていたたまれない気分にさせられるのがいやだった。今回も「新海監督作品」というだけで拒否感が強かったのだが、それを良い形で裏切ってくれる作品であった。
この映画の良い点については、映像作品素人の私でもいくつか挙げることができるが、この文章では、私が「この映画が多くの人の心に深く響いた理由」であると確信した、ある「仕掛け」について取り上げたい。
私がこの映画で見事な「仕掛け」であると考えるのは、「入れ替わっていた時の記憶は夢のように消えていく」という設定である。
ご視聴いただいた方にはわかる通り、この設定は脚本の構成上必要不可欠であり、それ自体が新海氏の作品テーマの一つである「すれ違い」を生むポイントでもある。
しかし私は、この設定そのものが、多くの観客に非常に深い共感を覚えさせるための、きわめて重要な「仕掛け」であったと確信している。
さて、その「仕掛け」について考える前に、まずは一般的な、夢の「記憶」について少し考えたい。
そもそも、人間が見るほとんどの夢は、目覚めた時には忘れられてしまっているし、たとえたまたま夢を覚えていたとしても、目覚めた後しばらくすると、その記憶が朝のルーチンな行事などによって急速に塗り重ねられていく経験を、多くの人はしているはずだ。
そしてそれは、非常にインパクトのある強烈な夢であっても、実は例外ではない。
例えば、前日見た怖い夢について友人に話す時、どうしてもその「怖さ」を伝えることができないというもどかしさを感じたことがある人は多いはずだ。
それにはいろいろな理由が考えられるだろうが、そもそもそうした場合に思い出している夢の「記憶」というのは、実際にはその時の夢に対するおぼろげな「あらすじ」と「『感動』を体験したという『記憶』」を元に、目覚めてしばらく経ってから再構築された、いわば「レプリカ」である。
それは本来の「記憶」ではなく、自分自身によって作られた本来の「記憶」の「代替品」である。そのゆえに、自分自身でもその「記憶」を、生の体験として感じられないのだ。
では、なぜ人は、わざわざそのようにもろい夢の「記憶」を、再構築してまで取っておこうとするのだろうか。
それは、その人が、その夢の中で何らかの「感動」(それは「喜び」であっても、人によっては「恐れ」であってもよい)を体験したからである。
ある夢について、人が「いつまでも覚えている(実際には再構築したレプリカを取っておいている)」のは、その人がその夢の中で、時には現実以上に「感動」させられたからだ。
(つまりは、面白かったテレビドラマやアニメをDVDなどで保管しておこうという行為と同じである)
しかし、そのとっておきたい夢の「記憶」そのものは、前述のように実に「もろい」のだ。
「感動」は個人の心にとって極めて重要な体験であり、その存在を保証する「記憶」は、ある意味「自分そのもの」でもあるのに、夢の「記憶」は、いくら手放すまいと抱え込もうとしても、どうしようもなく風化し、変質し、最後には消えてしまう。
すると最後には「『感動』を経験したという『記憶』」という、ある意味抜け殻のようなものだけが手元に残るのだ。
しかし、人間はそれでも夢の本来の「記憶」をあきらめきれない。
なぜなら、強く「感動」したという事実は、人にとって極めて重要だからだ。
だからこそ人は、無意識にでも夢の「記憶」を、抜け殻である「『感動』を経験したという『記憶』」を元に再構築して「レプリカ」を作り、それを代替品として残すのだ。
たとえ残しても、その「レプリカ」が、本来の生の「記憶」には及ばないにもかかわらず。
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さて、ここまで、夢の「記憶」が本来の記憶から「レプリカ」に置き換わっていく過程を見てきた。
多くの人は無意識のうちに気が付いているのだ。
実は、夢の「記憶」に限らず、人間の実体験から得られたものを含むすべての「記憶」も、年月が経つと消えてしまう「もろい」ものである、ということに。
「よかったことの記憶は美化される」というが、実際には美化という「脚色」ではなく、後に再構築された「レプリカ」かもしれず、場合によっては「レプリカ」の「レプリカ」である可能性すらあるのだ。
「記憶」は、同じ時代の別の「記憶」や、新しい「記憶」、またはその人自身の心境の変化などによって絶えず影響を受け、さらに年月とともに風化する。
そうして形の崩れた「記憶」を、人は心の棚から引き出して眺めるたびに、足りないところや影響を受けたところを成型しなおし、「ああ、あのころはそうだった」と納得して、引き出しに仕舞う。
仕舞った途端に、その「記憶」はまた変質を続け、風化していく。
そのようなものに、果たしてその「記憶」が生み出されたころの、生の部分が残っているだろうか。
そしてその「記憶」がもろく変質し、最初のものと変わってしまっているという事実は、最終的には自分そのものの「はかなさ」にたどり着く。
自分があの時得た喜怒哀楽の「感動」を保証する大切な「記憶」が、年月を追うごとに変質し、「レプリカ」に置き換わっていく。
さらにその「レプリカ」すら、風化に耐えられずに「レプリカ」の「レプリカ」に置き換わってしまう。
それは人間の記憶システムの限界であり、そのような「はかない」ものに立脚している人間存在の限界であり、どうにも抗えない無情な運命である。
この残酷な「はかなさ」を前に、人は多かれ少なかれ、悲しみと恐れを抱くのだ。
しかし、いくら「はかない」ものであっても、人はやはり「『感動した』という事実」を保証する「記憶」を手放せない。
それを手放すことは、過去の「感動」を手放すことであり、つまりは「自分自身」の一部を手放すことに等しいからだ。
「自分自身」を手放したくないという強い思い。これは、人間という存在の持つ、根源的な欲求の一つといってよい。
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この作品で、主人公たちは人格の入れ替わりという「夢の体験」に近いものを体験する。
入れ替わっている時の「記憶」は、(夢の「記憶」と同じく)極めてもろく、曖昧なものであることが劇中の様々な演出や、女性主人公の祖母の経験から示唆される。
また、主人公二人が入れ替わっている最中のことを把握しようと相互に残した記録すら、「世界の修正力」とも呼ぶべき現象によって、問答無用に消されていくのだ。
この演出は、夢の中で強烈な「感動」をしながら、夢の「記憶」が消えていくのを経験した人々(たぶん非常に多いはずだ)に、夢の「記憶」の「はかなさ」、どうあがいても失われてしまう焦燥感と苦しさを思い出させる。
この映画において、入れ替わりの「記憶」は、夢の「記憶」と同列にできるものではない。
なぜなら、その「記憶」は(時間軸のずれはあるにせよ)現実世界での体験によるものだからだ。
ここで視聴者は(特に、視聴者層として想定される若い世代にとっては無意識のうちに)、自分の持つすべての「記憶」そのものも「はかない」ということに気づかされる。
そしてその「はかなさ」は、前述のようにこれまで確かだと思っていた「自分自身」、つまり「自我」の「はかなさ」へと続いているのだ。
この作品が、単なる「恋愛のすれ違い」を描いた作品でない点は、ここにある。
この作品の入れ替わりの記憶に関する「設定」そのものが、人が「自我の存在のはかなさ」に知らずのうちに触れる、という高度な「仕掛け」となっているのだ。
そしてさらにさらに、この仕掛けにかかった視聴者は、「自我のはかなさ」を抱えながら、大災害から人を救いたいという強い想いの結実と、主人公二人の恋の結末を追っていくのである。
「自我のはかなさ」という「無常」を自覚しながら、それでも捨てきれない「感動」を最終的には得るのであり、これをあえてたとえるなら、大乗仏教における「色即是空」の一端を突き付けられながら、それと相反する「自我」を、恋の思いを主軸にした「感動」として体感させられているようなものである。普通の人間にとって、これが強烈な体験とならないはずがない。
この作品を、「何か『高尚な深み』がない」とか、「ヒットする要素が盛りだくさんで鼻につく」といって評価しない人がいるようだが、前述の「仕掛け」が意識されるならば、その評価は間違っている、と言えるだろう。
確かに、ストーリー上はこの作品は恋愛物であり、その結末そのものに何らかの「高尚な思想」は存在しない。
最終的に二人は再会し、そして新しい「記憶」が生まれるだけである。
しかし、上記の「仕掛け」による、実は仏教的ともいえる「無常」と、それと対立する「自我」を強烈に意識した構成は実に見事であるし、十分に評価に値すると、私は考える。
何より、「無常」と「自我」の対立、というよりは映画のエピローグの流れてとしてはむしろ「対決」を、恋愛ドラマをもとにしながらも、とりわけ若い世代の視聴者に体感(おそらく初経験だ)させるなど、尋常の映画ではない。
この点で、私はこの映画が日本のアニメ映画の中でも特筆すべき存在であると考える次第である。
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この映画に関して、もちろん上記以外優れた点は数多くある。
今回記した部分はあくまでも私が特に注目した点であり、冒頭に述べた鑑賞直後の箇条書きの全体量で言えばせいぜい1-2割といったところである。
新海監督の特徴である映像の意図的な美しさや、おそらく何度も検討を重ねて練り上げられた脚本など、評価するところはまだまだあると思う。
しかし、私自身まだ一度しか視聴していないこともあり、また映像や脚本に関してはより以上に素人であるので、それ以外の評価は他の方にゆだねたいと思う。
そして、私はやはりこの映画は、10代から20代の「無常」に関して初心(うぶ)な若い世代に鑑賞していただきたい。
この映画で抉り出されるものは、少なくとも2500年ほど前から人類が立ち向かっている、非常に大きく根源的な問題の欠片である。
ちょっと前に「記事をスクショされてtwitterで拡散されると本記事にアクセスが入ってこない!やめて!」と叫んでいるブロガーがいた。
彼の主張は正しい。許可無く誰かの著作を切り貼りしてアクセスを吸い上げるのは隣家からパイプで電気や水道を盗んでいるようなもので、ことによると法にさえ抵触するかもしれない。
だが、その主張のやりかたが正しくない。もっといえば、主張という行為自体が正解といえない。
なぜならネット民は野蛮だ。倫理がない。そんな懇請記事などまず読まないし、読んだとしても「なるほど。では明日から行いを改めるか」とはならない。
彼らはカルフォルニアンイデオロギーを知らずしてその精神を体現している。ネットとは、そもそもがそのように設計されたものだから。
よって、彼らをシヴィライゼーションするにあたっては「お願い」などではなく、法律かシステムによって縛るしかない。
いうまでもなく法制化はハードルが高い。整備に時間がかかるし、ロビイ活動にも励まなくてはならない。あなたが孫正義か誰かならあるいはこれが一番の近道なのだろうが、ブロガーは孫正義になり得ないからブロガーなのであって、一個人に世の中を動かす力など無い。
というわけで、ユーザーを縛るシステムを構築するしかない。Webのいいところは、住居のオーナーだけでなく、借り主にも一定の装飾の自由が付託されている点である。
たとえば、現状でも一部歌詞サイトではコピペ不可能な仕様を取り入れている。
もちろん突破しようと思えばいくらでも手のある他愛のない防壁だが、闕乏した精神を持つ蛮人はそこに壁がそびえているだけでめんどくさがるものだ。
twitterで手慰みに他人の生産物を万引きしているような輩をくじけさせるには十二分以上だろう。
問題はスクショを撮影不可にする技術は現存しているのかということだが、あったとしても、すくなくとも現状ブロガー程度の知能を持つ生き物が弄することのできないのはたしかだろう。
彼らはtwitterの万引き犯と同程度に無能かつ怠惰だ。あらかじめブログにビルトインされた機能しか使えない。
そんな彼らに何かしらの新しいシステムを期待するなど無理な話だ。スクショ禁止にかぎらず。
ではもはやどうしようもないのだろうか?
やはりネットとは常在応仁の乱、野盗と鼠賊が持ちたるノーマンズランドなのだろうか?
いや、もうひとつだけ手はある。
日本人が殺人を犯さないのは刑罰を受けるからではない、村八分にされる恐れがあるからだ、と去年まで近所の雑貨屋であやしい北欧アイテムを売っていたロブは言っていた。
空気さえ作れれば最強になれる。
ところが現代は同じ等質の空気をみなで吸うということが難しい社会だ。クラスタ化だ。大きな物語の消失だ。
そもそもブロガーの説く倫理が蛮族に通じないのは互いに違う空気の場所で生きているからだ。
いや、ある。
あるのだ。
アイドルになればいいのだ。
日本人はアイドルに弱い。アイドルの言うことならなんでも訊く。アイドルの発する言葉はデルファイの巫女の託宣に似ている。アイドルとは現代のブッダだ。ブドーカンの壇上にならぶ、数十のブッダ。(ウィリアム・ギブスン『あいどる』より引用)
アイドルのファンは慈悲深い。かつて、彼らを裏切ったある人気アイドルが公衆の面前で頭髪をすべて剃り落として許しを乞うたとき、その哀れな姿を見たファンたちは本来衆合地獄に相当する罪を犯した邪淫の女を涙ながらに寛恕したのである。慈悲、慈愛。これからのネットに必要な倫理とはつまりこれらである。
しかし、輸入することはできる。
アイドルになることで。
その輝きの向こう側へ至ったとき、あなたは三つの真理を悟ることだろう。
色即是空。
諸行無常。
一切衆生。
アーメン。
わけもわからず生まれてきて、生きて、死んでいくのは同じなんだな
死んだらどうなるかわからないが
神がいようが魂があろうが輪廻転生があろうが
子供を残そうが、偉業を残そうが、長い目で見ると
俺らがやってきたことなど何も残らない
俺たちが俺たちの先祖のことを知らないように、
子供がいるほうが40代以降の苦しい労働と孤独、死の絶望に耐えられるかもしれないけど
子供がいてもいなくても長い目で見るとやっぱり何も残らない
宇宙的に見るとかなり珍しい素敵なことが起こっていると思うから感謝すべきだと思うけど
長いように見えて短く、終わったら何も覚えてないし残らないとか
寝る時に見る夢よりも
ちょっと長くてはっきりとしていて、沢山の人が同時に見てる、
それくらいしか違いはない
人生など夢に過ぎない
何も残らない、残せない、意味もない
でもそれが俺たちのこの世界の全て
苦しいこともコンテンツの一つとして消化しながら…