はてなキーワード: 公言とは
>「嫌い」であることを言えない世の中より、お互いの「嫌い」という意見を許容しあえる世の中のほうが自由だと思います。
これは互いの関係性によって決まってくることでは?
(多くの人は、親しい人からでも見知らぬ人からでも「嫌い」と言われたら、不快を覚えると思う。)
もっともと言えばもっともな意見に聞こえるが、ちょっと実際的ではないと思うな。
>コメントでもいくつか見られるように「嫌いと言われるのはかまわないけど、言われたら反撃する」という考えが許容されていることにどうしても疑問が残ります。
疑問を敷衍した方が良いぞ。
「反撃」の定義についても述べてほしいな。
>社会的多数派に対してであれば「嫌い」と公言する自由は制約されないのでしょうか。
誰に対しても、法令等に違反しない限り、または判例に示されない限りは制約されないと思うが。
>究極を言えば、差別的イメージによって「嫌い」と言われることも許されるべきだと思うんです。
>もちろん、表明するだけで、それによって不利益が生じることは良しとしないとした上で。
それは無理だと思うよ。それって、ある意味、コミュニケーションを放棄してるのではないかな?
お前の考えが、他人に何ら批判されたくない、何ら反撃されたくないとする考えであるならば、それは、俺は間違ってると思うよ。
>わたしがいいたかったことは、どちらの立場であっても、お互い心理的安全を約束した上で、「嫌い」という言葉を堂々と言い合える世の中のほうがいいよねということです。
それは、記事の冒頭に掲げるべきことだったな。
あと、先にも述べたが、理想論としては結構だが、実際的ではないと思うよ。
「嫌い」という言葉の意味が変わるか、人間同士の関係性が変わらないと、それは多分実現しない。
>お互いにどこが「嫌い」なのかを素直に言い合うことによって、はじめて異なる存在自体が歩み寄れると考えているからです。
それは、お互いの関係性が深まって、親密になった先にある段階じゃないのかな?
「(内心で)嫌う自由」と「(偏見に基づいて)嫌いだと口にする自由」は全く別のことだよ。
もとの文章には偏見にもとづいているとは書いてありません。「マイノリティを嫌いになるのは偏見でしかない」とmuchonovさんも偏見に基づいているのではありませんか?「増田さんの嫌いは偏見だ」と根拠のない前提をおけば、増田さんに対して、偏見を口にするなとmuchonovさんは言えますが、増田さんの心には届かないでしょう。
増田は「私の自由は規制されている、私を規制するな」と主張するけど、「偏見にもとづいてマイノリティを嫌いだと公言する自由をよこせ」というのは「彼らを黙らせる自由、彼らを抑圧する自由をよこせ」と言っているのと同じなんだ。
なぜ同じなのでしょう?誰かひとりからでも嫌われているなら、彼らは黙らなければいけない、という掟があるのですか?
容姿に恵まれない、知性に欠ける、収入が乏しいなど、人は簡単に嫌われますが、これらに関して嫌いを公言するのも、muchonovさんにとってはダメなんですか?
で、自由民主主義社会の価値観のなかでどちらが優先されるべき自由かと言えば、〈誰かを公に差別する自由、嫌いと表明する自由〉よりも、〈誰かが(他者の同じ権利を侵害しない限り)自分自身として存在できる自由、本来のかたちで生存する自由〉のほうだ。
差別と嫌いと表明することは、違いませんか?
muchonovさんはあるコメントで
ここ重要。批判≠規制>「左翼やリベラル派の中で、最近、「問題だと思われる表現」に対して、それを批判していくことと、表現を規制することが混同されてしまう傾向が出てきていて、正直かなり気になっていました」
と書いています。「嫌い」は批判と同じように規制ではありません。増田さんは嫌いだから規制しよう(規制する社会にしよう)とは書いていません。この重要な点をmuchonovさんは無視して、嫌いと規制を混同していないでしょうか?
このコメントでmuchonovさんは
自分はチキ氏と逆で、他大の院から成城大学大学院の博士課程に行きました
と書いています。大学院で学問を修めたのであれば、自分の主張に便利な前提や置き換えを使わず説明し、自分が重要と考える点を踏まえたほうが良いのではないでしょうか?
嫌いである自由~みたいなエントリのやつ読んで思ったんだけど、自分の気持ちひとつで相手をコントロールしたいっていうワガママを表面に出さないために、自由であることを強調したいのかなぁと。
何かを思う時に、相手の立場になって考えてみなさいって言う人もいるだろうけど、それが出来たら好きだの嫌いだのってことで揉めなくて済むでしょ。
やっぱり「自分の身体的、または精神的な実害を与えそうなもの」っていう無意識の選別はしてしまうし、だからといって嫌いだと公言する覚悟もないから増田に投下したんだろうなと。
まあ自分も増田に居座ってる時点で匿名という恩恵に浸って意見を言ってる同じ穴のムジナだけど。
釣りだったら盛大に釣られたー!!って笑って済ませられるんだけどね、残念ながら「差別」という言葉がある限りは差別はなくならないんじゃないかな。
anond:20210301102544 LGBTを嫌う自由はあるのか、に対する b:id:muchonov 氏の意見 anond:20210302093544 について、
結論に関しては同意しなくは無いものの、やはり倫理学的にみてロジック部分に引っかかる部分があったので指摘 & 自分の意見を書きます。
マジョリティがマイノリティーに対する嫌悪を公開することを悪的行為としているが
そもそもマイノリティーがどっからマイノリティーなのか、というのは実は非常に曖昧ですよね。
日本においては男女の人口比は 49:51 なので この論だと「男は嫌い」という意見も差別ということになってしまいますよね。
(もちろん、はてぶで見る過度なブコメはまずいと思っていますが)
そもそもマジョリティもマイノリティーも切り取るコンテキストによって大きく立場が変わりますよね。
前述したように切り取るコンテキストによって勾配の傾きは変わる以上、ロジックとしては非常に危ういんですよね。
何より、その理屈でいえばマイノリティーがマイノリティーに対する嫌悪は問題ないということになるのでは。
ゲイ本人が自身のもつ特性に嫌悪感がありそれをもって「ゲイの人間はクソだ」と言うのは問題ないんですか?
むしろその属性が持つ本人がいうことにより、偏見が社会的に強まりません?
表現をするものの属性のみによってその表現の道徳性が変わるのは倫理学的におかしいですよね。
だから社会的少数派へ嫌悪を表明してはいけない、というロジックはいささか問題ありますよね。
内心で嫌う自由はある。マジョリティに100%保障されたその自由を、存分に享受してほしい。それって、すごい特権だと思わないか? だってマイノリティにはさまざまな社会的抑圧や差別によって、内心ですら自分自身を100%受容・肯定することがままならない人達もたくさんいるんだぜ
まるで性的マイノリティは内心の自由すら無いような表現だけど余計なお世話。
本当に余計なお世話。
なんで他の人と違うんだろうとか自分が受け入れてもらえないとか悩むけど、その悩みがあることと内心の自由の権利の有無は別の話。
社会的抑圧のせいで自分の性を肯定できないでしょ、って言わんばかりの上から目線というか。
マイノリティーだから内心の自由が制限されているはず、という id:muchonov 氏の意見の方が内心のあり方に関する干渉にしか感じられない。
そこは人によって違うし性的にマジョリティであっても様々な要因でうまくいかない人もいるはず。
(突き詰めていくと自己決定はどこからか、という話になるんだけどそれを言い始めると全ての人に話がおよびますよね)
もちろん、嫌いの公言の仕方にもよります。なんらかの先入観や偏見を伴った言説を元に嫌いだとか排斥運動するのは
あと、「LGBTを禁止する社則/校則を作って欲しい」とか言ったりするの。
でも、そうーいうのをさけ、「男のくせに女の格好しているのは嫌いだ」とかの話は
ただ、この日本においてはTVのバラエティ番組などでLGBT、
というか特にホモセクシャルは面白おかしく扱われ、自分の性的指向を公開することをためらわせる
exclusive な流れがあった/ある、ということはご理解いただけると思います。
「私たちはあなたたちがこの社会の中で当たり前に存在することを許さない」という価値観の表明で、それは彼らに対する抑圧に直結する
とまでは言う気は無いものの、やはり結構きついものがあります。
なのでできたらやめて欲しいのです。
これを強制するつもりは無いですし、なによりできないでしょう。
何が言いたいかというと、あなたがLGBTを嫌いであったとしても敬意を持って欲しいということです。
敬意持って欲しいとは偉いと思ってくれってことではなく、僕もあなたと同じように仕事をしたり、遊んだり、
日々いろんな悩みを持って駆け回ったりしていて
ただ性自認があなたの想像と違うだけでそれ以外はほとんどあなたと同じ人間である、ということを認めて欲しいということです。
本来、多様性やダイバーシティとか言われることの根幹はそーいうことですよね。
だから、id:muchonov氏の元増田の考えを悪と断罪する考えは同意しませんし、
避けられた本人が「自分の属性が××だから避けているんだ。これは差別だ」と訴えた時に
「それは差別かどうかわからない(差別ではない)決めつけるのは駄目だ」と本人に言う勇気がいる。
俺にはない。
増田が現時点では嫌悪の公言がまかり通ってる層の人間なのは分かる。
増田が生きてる間に社会がその層への嫌悪の公言を抑えることも控えることもないであろうということも分かる。
だから増田は生きてる間に少なくともその点については救われることはないということも分かる。
就活では実際には美人の方が多分有利だし、ブスがゴスロリ着てたらふざけんなって言う人は一定数いる。ブス嫌いと言い放つ人だって沢山いる。
でもブスは結婚を禁止されるわけではないし、少なくとも表面上はブスを理由に就労の機会を明示的に制限することは許されない。ブスだからといってゴスロリを着ることを止めることはできない。
そういう意味で、ブスはのびのびと自分らしく生きられるかというとちょっと違って、ある種の生きづらさはどうしてもついて回るのが現実である。でも、やろうと思えば割と何でもできてしまうのも事実。マイノリティマジョリティ関係なしに。
差別がないというのは最低限の権利であって、残念ながら社会から諸手で歓迎されることを保証しない。
そういう意味で同性婚が認められていないのは差別的だなと思うけど、元増田が個人的に嫌いと思うことは別に駄目とも思わない。
でも気心知れた者同士でブスマジつれーわって言いあうのは自由でも、政治家が公の場でブスしんどいですって言ったら駄目だよね。だって公的な差別を正当化しかねない。あの人がああ言ってたからブスお断り!なんて世界は地獄だけど案外人間容易に世論に流されるものだ。
ましてまだ当たり前の権利が色々と保障されてないLGBTなら尚更。社会的影響力のある場で公言するかしないかの差は大きい。
(余談だけど、政治家でない一個人であっても、Twitterなんかはバズればニュースになったりもするから意図せず影響力を持ちかねないのが怖い。あそこは自分の本音を垂れ流す場所じゃないよね…)
横だが
誤爆ってねぇと思うぞ
被差別マイノリティ「だから」表明しちゃいかんとか、そういう話じゃねぇ
じゃねぇだろ
オタクや中年オヤジをキモいと表明していいなら、同じような偏見でLGBTをキモいと表明して良いだろ
LGBTをキモいと言ってはいけないなら、偏見でオタクや中年オヤジをキモいと表明するのもダメだろ
「嫌いと公言したがるあなたが嫌い」って人がうじゃうじゃわいてきて炎上してどうにもならないの見てきたでしょ
差別主義的言動をしたいのならせめて鍵のかかるSNSで身内だけに言ってください
自分は高みにたてているつもりで「嫌い」と平気でいうのに「嫌い」いわれるとギャーギャーわめき出す
答え:できません。
この増田 a.k.a. id:muchonov は決定的な間違いをしています。
たとえば、僕は身体障害者ですが、「身体障害者キモイ」という人に対して、実力でその口を塞いでも免責されることはありません。また、警察に通報しても相手にされません。そして、これらが立法を通じて規制できるようにすれば、憲法違反になる可能性があります。なぜならば、この発言に「具体的な権利侵害(含む内心の静穏の権利)」や「明白かつ現在の危険」があるとは言えないからです。
これは、「オタクキモイ」でも「LGBTに生産性が無い」でも「黒人は犯罪者ばかり」でも「朝鮮人は帰れ」でも、同じです。
もちろん「〈誰かが(他者の同じ権利を侵害しない限り)自分自身として存在できる自由、本来のかたちで生存する自由〉」を尊重するべきだという主張は尤もです。しかし、それらの自由を一切侵害しない表現しか存在をゆるされない(=規制しうる)のでしょうか? そんなことはありません。たとえば、ポルノ雑誌やSNSにアップされるエロイラストの存在は、女性の自由を阻害しているかもしれません。バリバラのような、障害者のエンパワーメントのための番組が、却って羞恥心や社会への恐怖を煽る結果になってしまう人だっているかもしれません。あるいは、ピンカー研究がマイノリティの申し立ての力を削いでしまうこともあるでしょう。
増田 a.k.a. id:muchonov の見解に従えば、これらは容易に規制可能でしょう。違うと言うならば、何を規制出来て、何を規制できないかということを明確に説明しなければなりません。
さて、しかし、「社会的少数派を偏見に基づいて「嫌いだ」と口にする自由は制約される」ことはあります。たとえば、何度も事件を起こした暴力的な差別主義団体の指導者が、その集会で具体的な日時を示して、マイノリティが集住する地域の襲撃を扇動したような場合です。しかし、逆に「KKKの指導者が、集会で白頭巾被って十字架を燃やしながら、抽象的に黒人を差別する発言をした」場合は、アメリカで合法(規制は違憲)であるという連邦最高裁の判例があります。これは、有名なブランデンバーグ基準の基になった裁判です。
はっきり言いましょう、増田 a.k.a. id:muchonov は、「マイノリティを嫌いだと公言する」こと一般が、規制しうるほどのことかを証明する必要があります。もし、論旨を変更して「特に甚だしいものだけ」といった条件を付すとしても、その条件を明晰に説明しきることが必要です。なぜならば、これは「規制」、つまり「人権の制約」の話だからです。仮に、曖昧な基準で雑に人権が規制できるなら、それは特別高等警察の仕事になるでしょう。
なお、「周囲から総攻撃を食らった」ことを「社会的に制約されること」と評していますが、これは、単に個々人は当該の発言に対して批判をする自由があるというだけのことです。当然に、「社会的な制約」として、リンチによる暴力行使、逮捕監禁、威迫、契約に基づかない契約解除、不当な懲戒処分、村八分行為などを行えば、むしろその違法性・不法性が問われることになるでしょう。よって、あくまで問題は「権利の制約」を合法的に行いうるのか、という部分になります。
自分がそうであるという情報を発信してレスポンスを求めているのではないですか?
これは自分が情報を発信したいという、情報を体から発することで得られる感覚を求めているわけではなくて
あなたが「周りからそういう目で見られる、扱いをうける、意に沿った扱いをしてもらえる」事を期待しているのではないですか?
自分が誰かを嫌いだ、と言いたいのではなくて、嫌いであるという意思について、対処を求めて、その対処の必要が発信者である自分にはあるけれども、という問いかけを
「その扱いをしてくれる何か・誰か」に受け取ってもらいその結果を受けられることを期待して、しかしその依頼先が自分では認識できていないため
「公共の場を利用している第三者のうちのだれかにそれを伝達する仲介を頼みたいないしはそこに期待する人物や団体、層があることを期待して」情報を発信しているのではないですか?
夕日に向かって叫びたい、のであればプライベートビーチや人のいない海岸、葦の生えそろった河原に穴を掘って叫んだりしても良いのではないですか?
その情報で行動をする人が出てくることを、自分としては自分に寄り添ってくれるだけでいいと思うのですが、「障害を排除してやろう」とか「その利権は私も求めていた」という人が寄り添ってきたり
望んでいない結果に至らせようという行動の一助としてその声を利用したりする可能性があると思います
純粋にあなたの心のケアのために故も知らぬ誰かの前で、公然で気持ちを吐露する必要性が、関係のない第三者にあなたの普段見せ得ない内部を露呈させることに快感をもっている人でない限り好きとか嫌いとか言う欲求が言いたいという欲求のみであるとは思いにくいのですが、もしあるのならばそうであると言っていただけると、それは仕方のないことだと私も納得します
拳銃や刃物を隠し持っていても実際に使わなければいかにそれを隠れて使用したり練習したりして練度が高まっていても取り締まられることはまずないと思います
検査をされる場所であったり、されるような行動をしていて呼び止められたときは問題になるかもしれません
公然でそれを使用しようとしたり、実際に使用するとすぐにそれを抑止しその行動を抑圧し停止させ妨害しようとする動きに遭遇すると思います
それは「なにかしらの自由とやら」を侵害したり喪失させたり抑圧する目的ではないですよね
「使用した結果が発生しないように」他者のなにかしらの多様な自由と権利を守るためにそれらを損なわせないために取られる措置は「自由を蹂躙する差別」とは呼ばれず「治安行為」とされますよね
なぜ人を殺す自由を阻害されるのか、差別を発言して他者の行動を発生させる原因を作る自由を問題とされるのか、自由とはなにかみたいな事になるかとおもいますが
自由とはあなたが思ったことをなんでも解放していい という事ではなくて
ではないでしょうか
犯罪者にもなれますし差別者にもなれます 結局行動はできるわけで他者の自由や権利はあなたの行動を阻害する要因とはなりえません
自身の考える倫理や道徳にしたがって行動をすることができます 両手が拘束されているわけでもなく外にでたら警察が後ろをついて回るわけでもありませんから
これは「していい」ではなくて「した結果どうなるかを得る事ができる」自由なのではないですか?
もちろんそのためには「する」必要があるわけで、他者に影響のある場所で行動をすると他者はその行動について何らかの影響を受けるはずです
あなたが影響をあたえてだれかが影響をうけて、だれかが影響をあたえようとしてあながた影響をうける、これらの行動をする自由と結果を得られるのは自由です
あなたが損をしないために、不自由を感じたりしないために、自由であるために、行動を選択しましょう、と言っているのは抑圧でも規制でもなく、自由を拡張し満喫するためのガイドとなっていると思います
もしそれを行動にうつしたらどうなるのか、ということを実際の行動以外で表現する手段もアートという形で認められています
そこまで出来てなぜ実際に行動してはならないのか といわれると してもいい けれども結果如何では社会的にあなたを自由を「抑制なき行動で他者の権利と自由を損なわせる可能性がある」ことから遠ざけるべきだと措置をされる可能性もあるということです
あなたが嫌いだと行動したその目的と同じことを、あなた自身が受ける可能性があるということです
人を呪わば穴二つ、とはことのことですね
他者の墓穴を掘る分にはかまわないのですが、そこに人を落とし込んだら、そういう行動をする人むけにあらかじめ墓穴が用意されているのでそこにあなたが押し込められる
人を憎しと殺したら、殺すような人はいかしておけないと殺されてしまう
そういうことではないでしょうか
私は20代くらいからゲイの友達が多く、とっても楽しく過ごせたので彼らのことが好きだ。
もちろん女の私をめちゃめちゃに嫌ってくる人もいて、当然そういう人とは仲良くなることもない。
一つの属性に仲の良い人も仲の悪い人も存在するわけで、一概に括って好きとか嫌いとか語らないようにしている。
話は変わるけど、私はラーメンが嫌いだ(塩強くて翌日胃もたれするから)
猫は可愛くて好きだけど、犬は嫌いだ(子供の頃に噛まれたから)
属性に対して嫌いと言っても許される範囲は「モノ(広げて人間以外の動物まで)」じゃないだろうか。
もちろんラーメンが好きな人のことも、犬が好きな人のことも何とも思わない。
面倒を避けるために面と向かって、その人が好きなものを否定したりもしない。
私の親友は筋骨隆々の男性が好きだ。私はあんまり好みではない。どちらかというとシュッとした細い身体つきがタイプだ。
でも、それをもって「マッチョ好き」とか「マッチョ嫌い」とは話さない。心の中で思うだけにしている。
ネットなんかだと好きという話を書き込んでも、嫌いというリプライが飛んでくることが多い。
自分の好きな人が、雑に属性でまとめられて嫌いと言われるのは耐えられない。だから、好きというのも公言しない。
中学の時にイジメられたことがあった。イジメた同級生の女子を私は一生許さない。
今でも大嫌いだし、同窓会で会ったら水をぶっかけるかもしれない。
なんかブクマ集めてるけど、納得できないわ。
だって現実では、かわいそうランキング(権力勾配認定)でそんなにかわいそうじゃないとされてる奴らへは、嫌悪の公言すら許されてるじゃないか。
君がトラバで書いた内容は、「心の中で嫌う自由と、その嫌いを公言する自由は別で、公言する自由は制限されるから気を付けよう」ということだと理解した。
これが、現実で一律に通用してるルールならある程度頷くけどさ。というか昔は俺もそのシンプルな切り分けに頷いてて、他人をその理屈で説得しようとしたことすらあったけどさ。
でも実際には、あいつらに対しては嫌悪を表明してもよい、と扱われてる対象が沢山いるじゃん。
サムいダジャレをいう奴、仕事ができない奴、コミュ障アスペ傾向空気読めないオタク、チンピラ、ホスト、ロリコンショタコン、メンヘラ、アル中パチ中、服装のダサい奴やだらしない奴、体育会系、オッサンオバサン、デカくて腕力ありそうな奴、老害、富裕層、強大な国家としてのアメリカ、など。(これだけあげた中には一個や二個反論が思いつくかもしれんが、それは俺が例示をミスっただけで話の大筋は覆らんからな)
「サムいダジャレばっか言う人ってマジでキツいわ」「体育会系のノリが嫌すぎる、近寄らんとこ」みたいなのは、Twitterに書いてもエッセイに書いても友達との会話で出てもほぼ問題がない。
たしなめられるにしてもマイノリティを嫌った時の猛烈な責められ方とは違う。
これって結局、権力勾配があるからマイノリティや弱者は手厚く保護されるべきだが、マジョリティや強者への保護は薄くしますよっていう、しょっちゅう非難されてる逆差別じゃないか。
こういう話をすると、これからだんだんとマジョリティへの攻撃や嫌悪表明も咎められるようになっていくでしょうみたいに言う人もいるが、そんな理想的未来が来ることはまずありえない。
どんな層への嫌悪も咎められる社会って、持続ができないだろ。一歩一歩地雷を踏んでないか確かめるようなコミュニケーションを日常からやるなんてコストがかかりすぎて崩壊する。
だから「この弱者層への言及で地雷を踏んだら致命的に咎められるので気を付けましょう、それ以外は強者だし言及で地雷を踏んで咎められてもダメージ少ないのでリラックスして語っていいっす」という逆差別がどこまでいってもまかり通る。
老化で鈍感になり、センスや気遣い力が落ちたやつらは弱者じゃないのかい。
ギャグの面白さはたまたま世間と違う好みに生まれ育ったんじゃなく自分の意志で決めてることで、サムい人は「つまらないこと言うぞ!」とわざと顰蹙を買ってるから、そこら中で嫌いと言われるのが妥当なのかい。
俺は、老化で足腰が衰えたり、たまたま男だけどバレエが好きに生まれ育ったりたまたま普通に話す時どもったり顔や体がゴツくて怖いのと近い、仕方のない要素だと思うけど。
(以前、センスが悪いなら黙ってればいいだけだろなんていう、ある種の人間は楽しい会話への参加を求めず沈黙しろってヤバい抑圧を無自覚に書いてる奴も見たが)
もしも強者弱者認定がそこそこきっちりできたとしても、強者なら嫌悪を公言されても受け入れろという非対称性を盾にした逆差別の問題は残るしな。
それにしても、こういうかわいそうランキングの線引きや逆差別の問題って指摘されすぎて、してる側の方が一つ覚えって言われそうだが、それでも問題が残ってるなら指摘されるべきだわ。
あと一応言っとくが、だから弾圧や差別もオールオッケーにしろとは言ってないぞ。
そういう趣旨だと思って読んでた奴は、正義vs悪とか差別vs反差別みたいな、白黒わかりやすいイデオロギー闘争に夢中になりすぎだから自覚しときな。
逆差別なり恣意的な弱者強者認定なりの問題があることを認めろ、そこを見ないふりした説教や説得はするな、そういう不誠実な説教の尻馬に乗るな、自分たちは正しく筋が通った考え方をしているという安心感を捨てて、「ワルモノ」からの疑問や反論があったらちゃんと自分たちを疑え、それでも総合的に考えて犠牲はあっても断罪の剣をふるうべきと判断したなら構わないがその剣を振るうのは最小限かつ手加減するくらいの理性を持て、可能ならアフターケアもしろ、という話だ。
こういうこと書いてる俺自身は自分を疑ってないんじゃねえのという点については、その自問自答も入れてたらクソ長くなるので省略してるからな(自問自答が十分である自信は確かにないが)。
少なくとも今日の俺はまだわずかに世の中や社会に期待しているから、こういう立場だ。
まあ、この記事にトラバしてるやつにはすでにすっかり絶望してもっと過激なこと言ってる増田がいて、俺はその絶望と諦めにも大いに同情するけどな。精神病の調子が悪い時の俺はもっと破壊的な気分になる。
ブクマカ 元増田の趣旨は「マイノリティを抑圧してはいけない」で、マジョリティへのヘイトは許されてるとは書いてない。お前の主張と何も矛盾しない。書いてないことを読み取るな。
書いてなくたって、マジョリティや強者(と認定された層)への悪口が甘く見られている現実は目を開けりゃ見えるだろ。
いわば議論の前提だ。
紙幅にも文章書く元気にも限りがあるので何もかもカバーした話をしろなんてことは言わないが、強者叩きは許されてる現実があるってのは重要だろ。
不都合だからって重要な要素への言及を避けて、都合のいい部分だけ使って綺麗な断罪の剣を研ぎあげる、その輝きに人々が群がって正しいと持て囃す、そういうことのズルさと危うさを問題視してるんですよ俺は。
法務省のHPに記載されてるヘイトスピーチに関する記述(http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken04_00108.html)を読んだ限りでは、「祖国に帰れ」「○○を殺せ」など直接的な排除・排斥の意思表示となる言動がヘイトスピーチで、単に「嫌い」を公言するのはセーフっぽいんだけど、どうなんですか?
ご丁寧にありがとうございます。
わたしが嫌いとする根拠が差別的であったということは指摘されて理解しました。素直に反省しています。
ただ、本来自分がそうしたいと思っている振る舞いを抑制するのは、マジョリティ・マイノリティに関係がないと思うんです。
そこをあえて「嫌い」と公言しあえることで、「嫌いな人」が多ければ抑制、少なければ自由にっていう使い分けもできると思います。
今の世の中は、「嫌い」の公言が抑止されていることで、自分の振る舞いや出で立ちを「嫌いかもしれない」という考えにかえって抑圧されてしまっていると思うのですがいかがでしょうか。
「嫌い」であることを言えない世の中より、お互いの「嫌い」という意見を許容しあえる世の中のほうが自由だと思います。
それよりも、コメントでもいくつか見られるように「嫌いと言われるのはかまわないけど、言われたら反撃する」という考えが許容されていることにどうしても疑問が残ります。
あと、わたしは残念ながらマジョリティ側の人間ではありません。かといって、マイノリティなら「嫌い」だと表明する権利があるというのも少し疑問が残りました。
わたしは当然不自由の中で生きていますが、全ての自由を規制するなとは考えていませんし、特権がほしいとも思っていません。
あくまで、「嫌い」と公言することが差別であるのか(わたしの中では差別的だとは思っていません。)、「嫌い」と公言した人間を差別的であると攻撃する正当性はあるのかと言う点に論点を絞っていたつもりでした。
嫌いとする根拠が差別的であったことで論点がずれてしまったことは反省しています。
もし差別というものが社会的多数派から社会的少数派にのみ行われるものだとするのであれば、わたしの認識違いだったかも知れません。(問題として取り上げられるのはそうだと思います。)
社会的多数派に対してであれば「嫌い」と公言する自由は制約されないのでしょうか。
自分でも屁理屈見たくなってしまっていることは自覚しています。すみません。
ごめんなさい。あと一言。
究極を言えば、差別的イメージによって「嫌い」と言われることも許されるべきだと思うんです。
もちろん、表明するだけで、それによって不利益が生じることは良しとしないとした上で。
差別的なイメージであれ、自分は今の段階で嫌われているということを知り得ることってとても大切なことだと思うと、やはり「嫌い」と公言することが「差別的である」として抑止されるべきではないと思います。
なので、自分の中ではすでに決着がついているので、反論を試みたわけではないということをご理解下さい。
わたしの心が折れたのは、「彼らを内心で嫌う自由はある。マジョリティに100%保障されたその自由を、存分に享受してほしい。それって、すごい特権だと思わないか? だってマイノリティにはさまざまな社会的抑圧や差別によって、内心ですら自分自身を100%受容・肯定することがままならない人達もたくさんいるんだぜ。」という内容で締められているにも関わらず、その意見に沢山の賛同や称賛が得られているという現実に対してです。
この一文には、日本において差別問題を考える上で最も解決を困難にしている絶望的な溝が端的に言い表されています。
なぜならば、「自分たちは差別されないマジョリティ側にいるのだから、マイノリティ側を刺激するような表現はやめよう」という、差別を受けたことがない側による一方的な事なかれ主義的な意見でしかないからです。
これによって、「自分たちは差別をしていない。だから日本には差別がない。」と堂々と言い切る日本人を沢山見てきました。
それは違います。
これはまさに、「自分たちが言わないのだから、あなたがたも言うわけないよね。」という社会的多数派による少数派に対する迫害です。
少なくともわたしが見てきたマイノリティな人たちは、ただ単に「嫌い」と言われることに対してネガティブな反応をすることはありません。
「嫌い」であることを理由に、暴力や迫害などによって存在が脅かされることにのみ恐怖と怒りを感じています。
わたしがいいたかったことは、どちらの立場であっても、お互い心理的安全を約束した上で、「嫌い」という言葉を堂々と言い合える世の中のほうがいいよねということです。
お互いにどこが「嫌い」なのかを素直に言い合うことによって、はじめて異なる存在自体が歩み寄れると考えているからです。
確かに正しさを量的に判断する民主主義には向いてないかも知れません。だとしたら、民主主義における差別問題の限界がそこにあるのではないでしょうか。
増田の文章の中では、直結させちゃいけないこと、混ぜちゃいけないことが色々と混ざって、飛躍した結論を導いてるけど、社会的少数派を「(内心で)嫌う自由」と「(偏見に基づいて)嫌いだと口にする自由」は全く別のことだよ。
まず、女性的男性について。「男性なのにクネクネしていたり、男性なのに女性みたいな服装をしたりしているのはどうしても受け入れられない」。非典型的なジェンダー表現・所作を身に付けた男性がゲイだとは限らないし、ゲイがみんなそうしてるとも限らないけど、まあとにかく増田はそれを気持ち悪い、受け入れられないと思っている。で、それが「わたしが彼らを嫌いだということも認められるべきだ」と繋がる。主観として何かを気持ち悪い、受けいられないと「思う」ことと、他人(その中には当然、LGBTの人達もいるかもしれない)に向けて彼らを嫌いだと「言う」ことは全然別だ。
次に、アフリカ系の男性について。「わたしは正直に黒人男性が怖い。体も大きいし、意思の読み取れない表情も怖い。黒人男性を怖がる自由はわたしにのこされているのだろうか」。それが偏見に基づいている感情だとしても、増田が何かを怖いと感じること自体を規制する方法はない。その意味で増田は「黒人男性を怖がる自由」を持っている。でも、「黒人男性は体も大きいし、意思の読み取れない表情も怖いから、彼らが嫌いだ」と公に「言う」ことは、それとは次元の違う話だ。
「思うこと」と「言うこと」は全く違う効果を持つ。特にマジョリティがマイノリティに対しての嫌悪や恐怖を公に「言う」ことが当然のように許されたら、増田の言う「差別のない世界」=「誰もが当たり前に存在して、誰もが当たり前に自分に正直でいられる世界」は成り立たない。社会的多数派が少数派を「クネクネしてて気持ち悪い」とか「表情から意志を読み取れない」から「嫌い」だと公言するのは「私たちはあなたたちがこの社会の中で当たり前に存在することを許さない」という価値観の表明で、それは彼らに対する抑圧に直結する。
増田がそういうことを公言し、それを誰もが咎めず暗黙裏に合意するような社会空間では、たとえば本当は女性的な所作・表現も交えつつ生活したい男性(繰り返すけど、それがゲイとは限らない)は、本来自分がそうしたいと思っている振る舞いを抑制したり、(ゲイやMtFTSGなら)セクシュアリティや性自認を隠さなければならなくなるだろう。これは明らかに「誰もが当たり前に自分に正直でいられる世界」じゃない。
増田は内心で思っていることを「言わない、言えない」という状態が著しい自由の制約だと感じているのかもしれないけど、世の中には「自分が何者なのか隠さない」という自由すら持っていない人達がいっぱいいる。増田は「私の自由は規制されている、私を規制するな」と主張するけど、「偏見にもとづいてマイノリティを嫌いだと公言する自由をよこせ」というのは「彼らを黙らせる自由、彼らを抑圧する自由をよこせ」と言っているのと同じなんだ。で、自由民主主義社会の価値観のなかでどちらが優先されるべき自由かと言えば、〈誰かを公に差別する自由、嫌いと表明する自由〉よりも、〈誰かが(他者の同じ権利を侵害しない限り)自分自身として存在できる自由、本来のかたちで生存する自由〉のほうだ。
だから増田は、社会的少数派を偏見に基づいて「嫌いだ」と口にする自由は制約される(ヘイトスピーチ法/条例に抵触する範囲では法的に制約されるし、そうした見解を批判する立場からの言論によって---増田が「周囲から総攻撃を食らった」ように---社会的に制約されることもある)けど、彼らを内心で嫌う自由はある。マジョリティに100%保障されたその自由を、存分に享受してほしい。それって、すごい特権だと思わないか? だってマイノリティにはさまざまな社会的抑圧や差別によって、内心ですら自分自身を100%受容・肯定することがままならない人達もたくさんいるんだぜ。