はてなキーワード: こんにちはとは
本日、某学校の説明会があったため、午後休を取って子どもとともにとある学校へと赴いた。
「こんにちは」
「中に入れるのは学生さんだけです」
……は?
疑問に思いつつ、子どもだけ正面玄関へと向かい、受付を済ませた様子。
校門の前には、子どもに付き添いで来たらしい親だけがぽつんと取り残されている。
疑問に思った別の親が、
「控え室はないんですか?」
「ありません」
「親は入れないんですか?」
……ねぇ、それだったらさ、ホームページに最初からそう書いといてくれないかな。
ホームページでの受付の時も「一学生につき一保護者まで」とかで受け付けてたんだよ。
普通、親も入れると思うよね?
途中、方針が変わったのなら、ホームページなり、メールなりで前もって知らせてくれれば、少ない有給を捻出してまで午後休を取らなくて済んだのに。
さすがにその文句を案内してくれている学生くんに言うのは筋違いだと思ったのし、私もいい加減、大人にならなければと我慢して、とっとと帰ってきたのだけど、どうして学校というのはそういう案内が足りないのか。
こういうところで今後の学校生活が垣間見えるな、と思って、私の中ではこの学校は第二希望へとランクダウンしたのでした。
ちなみに、きちんとした学校は説明会で必要な持ち物など、HPに別紙に(PDFでだったけど)書かれていました。
今日行った学校はHPをさんざん探したんだけど、すぐ見える場所にはなく、それも不親切だと思いました(結局のところ、ないみたい)。
まあ、常識的に考えて、スリッパと筆記用具だろうけど、当たり前と思っても、書いておいて欲しいですね。
最低限、必要なものはだれもが分かっているだろう、というのは通用しないのです。
学校側の人たちが常識でも、それは外では非常識なこともあるし、当人たちが当たり前のことでも、他の人たちには当たり前ではないのです。
今日の出来事は自分への戒めということで、でも、記名式だとどこのことを言っているのか分かってしまう可能性を考えて、あえて匿名で書かせてもらいました。
※まあ、今回の出来事は学校だけではなく、会社や社会にも言えることなんですけどね。
ついでに愚痴。
このコロナ禍で、学校見学会の申し込み予約がなかなか取れません。
枠を制限しているため、人気がある学校はすぐに枠が埋まってしまいます。
見学なんてしなくていいかなと思ったのですが、今回のことを考えて、「入った後に後悔すること」になる可能性があるので、事前見学は必須だなと感じました。
皆様におかれましては多様性の時代に呼応した多種多様な権利のための議論に身を投じていらっしゃることとかと存じます。
さて、私は表題にもありますように唐辛子の権利を考え、主張する者であります。
唐辛子。皆様ご存知でしょうか。中南米を原産とするナス科トウガラシ属の果実であり、この果実を原料とする辛味のある調味料も含めて「唐辛子」と致します。
この果実・調味料は、時に保存料や臭み消しとして、時に食事のアクセントへと、人類と共にその歴史を歩んできました。
一方で、現代では罰ゲームとしてエンタメの要素で消費されることが多くなりました。
「超激辛」や「地獄」などの文言を掲げて、ドッキリや罰ゲームとして雑に消費されているのです。
唐辛子は生き物です。植物ではありますが、確かに大地に根を降ろし、果実を実らせ、生存戦略のもと生き残り、現代も種を残し続けることを叶えられた物のうちの一種なのです。
人々の権利を考え主張する団体があります。動物の権利を考え主張する団体もあります。
これは素晴らしいことです。
しかし、植物はその礎と言わんばかりに消費され、敬意を表されることなく、活用されているにもかかわらず、空気のような存在として特に意識されることはありません。
唐辛子においては、前述の通り、まるで「おもちゃ」のような扱いを受けています。
お金を理由に太鼓とかお祭りだけではなくて、忍者・侍・相撲みたいな日本的ベタなものが出なくて、あやとりダンスが出てきたのは何故なんでしょうか?
そして、それでもイマジンがどういう歴史の中で流行った楽曲かと考えたら、現状はイマジン入れる理由がない。MIKIKO先生の金あまりの代から、日本の楽曲を何故、使ったり作ることを検討しなかったのでしょうか?過去には『東京五輪音頭』や『世界の国からこんにちは』とか作っていたのに、洋楽を好んだ日本の短いサブカルの歴史総決算ってまとめになったのは何故でしょうか?
結局、各演者が自分の中のサブカルの歴史を表現することに躍起になって、五輪憲章を遵守し、各国をもてなし、日本の未来に向けて長い目で見て全体の繋ぎを構成する監督がいなったんですよ。
みなさんがめがねっ子が好き!と反応している写真や画像の大半は、エセめがねっ子です。
みなさんはめがねっ子が好きという気持ちになっているだけで、じつはめがねっ子が好きなわけではありません。
いうなれば、イチゴミルクを飲んでイチゴが好き!と言っているようなものです。
イチゴにしてみればイチゴミルクと一緒にされることはあまりにも理不尽で、イチゴミルクが好きだからイチゴが好きと言われても嬉しいどころかむかつくだけです。
みなさんが好きだとするめがねっ子の写真や画像を思い出してみてください。
ほとんどの場合、メガネに手や指がかかっているのではないでしょうか。
これは嘘です。めがねっ子はこんなポーズ求められない限り絶対にしません。
「気取りやがって。」「頭のいいふりをしやがって。」そんな偏見と常に戦い続けているのです。
その偏見を助長させるのが、まさにあの、メガネに手や指をかけるポーズです。
みなさんはそれをめがねっ子らしさとして受け入れていただいているようですが、大半の場合、あのポーズをすると周囲を苛つかせます。
その結果、真実のめがねっ子は、人前でそのポーズを取ることを極端に嫌がるようになります。
ならばずれた眼鏡をどう直せばよいのか。
わたしの場合は、少し下にうつむきながら両手のひらでメガネの両脇を挟むようにして前髪を治すような仕草で位置を直します。
それ以外にも眩しいときに片手でひさしを作るようにして、親指と薬指でメガネの両端を挟んで位置を直します。
他にも目尻に人差し指の背を当てるようなふりをして直すこともあります。
間違っても、写真や画像にあふれるような、テンプルやリムを指で挟んだり、ブリッジを日本指でクイと上げるような仕草はしません。
何か別の仕草に偽装するようにして、誰にも気付かれないように直すのが真実のめがねっ子仕草なのです。
それなのに、嫌がるどころかまるでそれがめがねっ子だと思いこんで人前で喜んでその仕草をするのは、にわかめがねっ子である証拠にほかなりません。
一人のときはめちゃくちゃします。だって楽だし一番しっくり調整できるから。だけど、一度でも外で無意識にその仕草をしたときにありえないくらいの冷たい視線を送られたことがあるめがねっ子は、二度と人前で気安くそんなメガネの直し方をしようだなんて思わなくなります。
みなさんがそのポーズを好きなのと同じくらいに、そのポーズが嫌いな人は存在しているのです。
だから、めがねっ子の写真や画像を見るたびに、「またか」と落胆します。
どいつもこいつもエセばっかり。
めがねっ子不在でめがねっ子が語られることの残念さが理解できないとはいわせません。
そんなわたしの一番萌ポイントの高いめがねっ子モーメントは、ふと振り向いたときに少しずれたままのメガネに拭き忘れた指紋を一つ見つけてしまった瞬間です。
ただ、エセポーズ以上に絶対に許せないのが、眼を見せたいためにリムの上半分が切り取られているレンズのないメガネです。
それはメガネではない。お前はスイカの皮だけ渡されてそれがスイカだと納得できるのか。
ひろゆきも、中田も、Daigoも世の中の難しいことを「小学生にでも分かるように」「面白く」しゃべるのが共通してる。Daigoは面白くはないが、中田が書籍を紹介するのに対して、より難しい論文をわかるように短く紹介してるのがいいんだろう。
そもそもひろゆきの動画挨拶は「(日本では)学校行ったり働いてる時間にこんな酒飲み動画をみてる、子ども部屋おじさんと子ども部屋おばさんのみなさん、こんにちは」だ。見てる人全員を低学歴バカという前提で、うんこの話しかしてない。
https://www.youtube.com/watch?v=LlImC7873CU
ひろゆきはこういう自覚らしいが、これも中田が「俺の意見じゃない、この本が言ってることだから!」と専門性のない浅い理解の責任逃れをしてるようなもんだ。
ただまあ、本を読むのも時間なくて忙しいし、中高で英単語は覚えたがやはり忙しいから英語の論文は読む時間ないし、ひろゆきが暇な時間で調べた膨大な雑学を元に勝手にいろいろ調べて面白おかしく教えてくれるなら聞いてやらんでもない。俺がGoogleで調べても間違った情報を選別するのめんどくさいから、せいぜい鵜呑みにはしない程度に人力おもしろGoogleとして使ってやろう。
勘違いしないでほしいが、ひろゆきぐらいの雑学は俺でもしゃべれる。専門なら俺のほうが詳しい。なのになんであいつはわざわざフランスまでいって、ゲームして映画ばかりみて、こっちがあくせく働いてる間酒のんで働きもせず何億も稼いでるんだ。そこはどう考えてもおかしいよな?
最近の話題にやたら詳しかったりするが、それはあいつが暇人だからだ。ネットは暇人のもの。あいつは暇人の王様。調べるつってもネットで調べれる範囲だけなんで、1割も2000年のままアップデートできず間違ってたらみんなで袋叩きにしていい。100点の発言以外許さねえのが正義だ。親が過去に間違った触れられたくないことを「あんた、あのときこうだったよね」と事あるごとにほじくり返して心削っていくように、みんなで一生ひろゆきの間違いを粘着して間違いを正してやってくれ。毒親とかマウントじゃなく、正義の親心ってやつだ。大丈夫、世間からみたらはてなは正義で、ひろゆきは老害だ。賠償金、賠償金。
「顔がいい」というブコメあったが嘘だろ?
最近公共の場でマスクをすることが常識となりました。一般常識は社会の情勢に沿って変わっていくものです。新型コロナの猛威が衰えを見せない現状では、マスクにまつわる常識も変わってまいります。
そこで皆さんに覚えておいて欲しいことは、冠・婚・葬・祭といった公共の正装が必要な場の、マスクのマナーについて。
何色のマスクをつけるべきか、ご存知でしょうか? 「マスクは白色が当たり前。だから白」と無意識に考えていませんか?
残念ながら、それはバツです! 大間違いです! いわゆる礼装(れいそう)を求められる場でのマスクの色は「黒」です。特に男性と、女性であっても葬儀の場合は、黒一択となります。
冒頭で「一般常識は社会の情勢に沿って変わっていく」とお伝えしました。コロナ禍以前ならば、白いマスクしか世の中に流通していませんでしたから、公式な場であっても、風邪気味の時は白いマスクをつけるしかありませんでした。
いえ、それには語弊があります。
皆さんの昔の記憶には、冠婚葬祭の場にマスクをしていた人はいないのではないでしょうか。
なぜなら、正装が求められる場では、たとえ多少咳が出ていても、「マスクをしないこと」が正解だったからです。
冠婚葬祭の場は、清浄であるべきなので、他人に風邪を感染させる可能性があるならば、出席を遠慮するのが「常識」でした。
欧米でマスクをつけることを大勢の人々が拒絶し、嫌悪反応を見せたのも、人権意識の強い欧米では、(マスクをつけるような)病人は休むべきであって、外に出るべきではない、というのが常識だったからです。
ところが時代が変わりました。新型コロナの蔓延による影響で、今は健康な人が感染予防のために、マスクをするのが当たり前です。マスクが病人の証明ではなくなりました。
その結果、マスクはあくまで、服装の一部となったのです。人々の嗜好に合わせて、様々な色や形のマスクも市場に出回っています。白色以外の色を人々が自由に選べるようになったのです。
マスクが「病人の証明」から「誰でもするもの」「ファッションの一部」へと大きく意味を転換させた現代。
冠婚葬祭の場やフォーマルな場では、マスクに別の意味を与えねばならなくなったのをお分かりでしょうか。
それは「病気ではないこと」「病気を持ち込まないこと」を逆に証明しなければならなくなったのです。
つまり、自分がつけているマスクは、「病人の呼気に含まれる病原菌を感染させないため」に使用している本来的なマスクではありませんよ、私は病人ではないですよ、病原菌をこの神聖な場に持ち込むことはありませんよ、という意思表示をする必要がある、ということです。
病院や療養の場で、汚れを目立ちやすくして取り替えやすくするために白にしているマスクは、病人や治療者の象徴でもあります。
危険な現場と切り離された安全な場でなければならない、フォーマルな場には、白いマスクを持ち込んではならなのです。
結婚式に友人として出席する女性ならば、カラフルなドレスを着るでしょうから、ドレスに合わせれば良いのです。しかし男性ならば、フォーマルな場では黒のスーツや黒の燕尾服で臨むのが当然。
となれば、その場での礼装としてのマスクは、スーツに合わせた黒一択となるのは、お分かりいただけたのではないでしょうか。
清浄で有るべき場に、ケガレ(病気等)を連想させるものを持ち込まないこと。そう心がければ、当然の結論ではないでしょうか。
最近はバイデン大統領が、よく、黒のマスクをつけていらっしゃいますよね。さすが世界一の政治家。マナーを心得ていらっしゃいます。
記事を楽しく読ませていただきました。東京都内だったら自分にもそのようなキャリアがあったのかと思いました。正直に申し上げますと、嫉妬しております。
それはさておき、傍から見て自分の主張はどうでしょうか。やっぱり、年収が低いのは甘んじるほかない人材だったのでしょうか。率直な意見が欲しいのです。もはや、テック系の業界にいることが不可能となった今、2014年ころに戻ったらどのようなキャリアがあったのか、知りたいのです。
こんにちは!東京オリンピックのチケット払い戻しをずっとしたがっている増田だよ。
東京、神奈川、埼玉、千葉、北海道の会場は無観客になったので、払い戻し申請をしなくても自動的に払い戻しの対象になるようだ。
しかし、肝心の返金方法は大会終了後じゃないと教えてもらえない。
早く返金してもらいたいが、待つしかないのだ。なお大会終了後に返金する旨について、今のところ購入者に対するメール連絡はない…。
昨年11月に一度払い戻し期間を設けただけで、
7月6日に申請受付予定→7月10日申請受付予定→退会終了後に返金の通知
という流れで結局返金されないので、詐欺にあっている気持ちだ。
なお観戦が有効になっている場合の払い戻しは、本日7月10日から7月20日(火)午前11:59までの申請なので、気をつけて欲しい。
https://mticket.tokyo2020.org/Service/NewsDetail?NoticeSeq=76
皆さん、こんにちは。
最近は、少しずつですが、気持ちを整理しています。私にとって、自身のメンタルヘルスの状態を告白するのは、とても勇気のいることでした。この問題には、これからも向き合い続けていかなければならないと思っています。
ウィンブルドンは欠場させていただきました。東京オリンピックは出場します。なぜなら、日本は私が生まれた大事な母国だからです。
日本での思い出はたくさんあり、私の生き方や考え方に影響しています。今回、日本代表としてオリンピックに出場できることに誇りを持っております。
物心がついた頃からずっと、二次創作は私にとって身近な存在だった。
シンデレラ、白雪姫、ラプンツェル。気に入った話があればすぐ「続きは?」とせがむ私に母はよく即興の続編を聞かせてくれた。
本を読んでくれるのは昼間だが、続編を聞かせてくれるのは眠る前の布団の中だった。
お話をしてもらえない日の夜は、仕方ないので自分の二次創作妄想で眠りにつくまでの時間を埋めた。母の語る話には遠く及ばないが、神が書いてくれない日は自分で書くしかない。私は今でもそう思っている。
お気に入りの妄想は、シンデレラや白雪姫が王子様に嫁いだあと、隣国の王子が姫を奪いに攻め込んでくる話だ。
自軍が不利な戦況になり、さらわれそうになったシンデレラが、果敢に剣術で立ち向かい隣国の王子を斬り捨てるシーンが特に好きだった。
隣国の王子を殺したあとは、隣国の家臣から銃殺されることも少なくなかった。
母のお話では主人公は死なないので、軽率に死ネタ妄想ができるのはひとりで寝る日だけの特権だった。
まあ、そうやってお話で寝かしつけられていた私は、下の子が生まれると今度はお話をしてあげる立場になった。
内容は好きなアニメや絵本、漫画のキャラクターがよその世界に遊びに行ったり、冒険をしたり、無人島に漂流したりする、雑多なクロスオーバーだったように思う。
小学生の発想力なんてそんなもんだ。
私がおはなし上手だったのか、それとも下手なのか、今となっては確認するすべもないが、当時はそれなりに喜ばれていた。
もうお話してあげないよ!と言って下の子を脅したり、言うことを聞かせたりしていたかもしれない。最低がすぎる。界隈でROM専相手に横暴きわめる同人女かよ。
「あの…そういう方に私の作品をお見せすることはできません。これからはリスト限定公開とさせていただきます。」「こんにちは!〇〇さんの繊細でありながら大胆な絵柄が大好きです!よろしければリスインお願いします💦」「初リプ失礼します。いつも〇〇さんの作品に元気をいただいています。昨日上げられていた✕✕の△△も、なんと申し上げて良いのか…すごいの一言です。もしご迷惑でなければリスインしていただけないでしょうか。」「初めまし
いやまあなんでも良いけど。
私はほぼ毎晩のようにお話をした。家族で伊勢海老を食べに行った日は、セーラームーンが無人島で釣った伊勢海老をエビグラタンにする話をしたし、幼稚園の運動会が近いときは、テレビで見たキャラがみんなで運動会をやる話をした。
大玉転がしの玉の下敷きになるハム太郎の話に、かけっこで水の上を走るバジリスクの話。応援テントで酒盛りをしているアガサ博士と毛利小五郎の話。バジリスクはダーウィンが来たに出ていたのを一度見ただけだが、かなり気に入っていたのでどの話にもちょいちょい出した。
いくらでも作れたし、思いついた話を笑って聞いてもらえるのはとても楽しかった。
しかし私がどんなお話をしようと、界隈の神は揺るぎなく母であった。
特別な夜にだけしてもらえる母のお話は、いつも夢中になるくらい面白くて、私なんか台詞、ストーリ、構成。どれをとっても母には敵わなかった。
私の話はキャラ萌えと勢いの良いギャグだけが売りの、とっ散らかった話だ。毎日連載し続けた根性はともかくとして、行き当りばったりで筋の通ったストーリーが一つもない。
まあしかし、特に私は母に嫉妬するでもなく、たまに母のお話が聞ける日をとても楽しみにしていた。
そんな私がジャンル撤退するきっかけになったのは、別の神との出会いだった。
10歳の頃、初めて使ったインターネットで、なんとなく好きなアニメについて検索していたら、同人サイトに入ってしまった。
同人サイトの主は原作によく似たきれいな絵を描く人で、私はたちまち彼女の虜になった。
そこから私は「寝る前のおとぎ話界隈」という平和な世界に彼女の解釈や妄想をそれとなく持ち込むようになった。
下の子は世界観のアンバランスさに文句を言いながらも、はじめは許容してくれていた。
でも私が「同人サイトで出会った神」から得たネタを使う割合が増えるに従って、「寝る前のおとぎ話界隈」はどんどん崩壊していった。
それまでハリーポッターにもおじゃる丸にも濱口優にも等しく見せ場があったはずなのに、私が「新しい神」に毒され好きなキャラばかりを贔屓し始めたからだ。
やがて、「寝る前のおとぎ話界隈」は、かつて神であった母からの「あんたたちいつまで一緒に寝てるの?」という言葉により終了した。
そのとき既に私の関心は新しい「神」に移っており、特に未練はなかった。
産まれてから10年。私に二次創作の楽しさを教えてくれた本当に長い付き合いの界隈であった。
まああれから十数年経った今も、私は好きなジャンルの同人界隈に属し、二次創作を書き散らかしている。
下品なエロを書くこともあれば、原作のほんの一コマを補うなんでもない話を書くこともあるし、昔みたいに推しをシンデレラにする日もある。
しかし「寝る前のおとぎ話界隈」にいたときほど自由に、のびのびと活動できることはもうないと思う。
性欲とか、原作レイプとか、解釈違いとか、神への嫉妬とか、スランプとか、評価とか、感想とか、ネタ切れとか、文才とか、表現力とか、完成度とかそんなことは一切考えずにただ思いついた話を語り、それを聞いてもらうだけで楽しかった「寝る前のおとぎ話界隈」
二次創作は全部オタクの戯言だとか、他人の褌で相撲を取る下劣な妄想だとか言われると、まあ今の私は怒らないけど、10歳の私はきっと怒るだろうなと思う。
あの頃の私は原作を神だなんて思ったことはなかったし、世に出されたキャラクターは読者みんなのもので、ルパンも桃太郎も鉢かつぎ姫もひとたびお話に出してしまえば全部自分のものになった。
キャラクターはみんなのものだと言いたがらないミッキーマウスは嫌いだった。絶対お話には出さなかった。
増田:"『受け攻めとかいうポルノフェチの押し付け基地外文化』が英語圏で一般的って主張でいいか?"
だからいいですけど
↓
▼ サウスパーク
校長「えー、今日はアジア系の子達が描いてくれた絵を紹介しようと…そこ!うるせえぞ!!さっさと口を閉じろ!!
絵を、生徒会長:ウェンディ・テスタバーガー司会で紹介しようと思う。」
ウェンディ「皆さんこんにちは。うちの学校にアジア系の新入生が来たのはご存知ですね。そこで今日は、彼女達の文化である「ヤオイ」というアートスタイルを紹介しようと思います」
▼ 英語圏二次創作投稿サイトAO3の使い方
http://otakucrossing.com/how-to-use-ao3-fanfiction/
AというキャラクターとBというキャラクターであれば、Aが攻めでも受けでも、同じようにABと書きます。
どちらのキャラクターが手前に来るかには、これという決まりはなく、語感や、なんとなく攻めっぽいキャラクターが前に来る傾向がありますが、表記ぶれも多くあります。
AB、BAどちらの記載順になるかは、検索ページの「Relationship」の欄でキャラ名を入れると、そのキャラを含むshippingの一覧が表示されるので、そこで把握することができます。
ABと書かれていて読んでみたら、実際にはAが受けだった……とか、同じ作品内でABが立場を入れ替えるいわゆる「同軸リバ」、ということも多かったり。
日本ではたびたび、どちらが受け攻め論争だとか、ABとタグづけされた作品に「素敵なBA」とコメントする是非などが議論になっているのを目にしますが、
英語圏においては、そもそも受け攻めという概念や、そこへのこだわりが日本ほど強くないようです。
この理由についてはよく海外のアニメファンの友人とも不思議だよねと話すのですが、
一つにはpolitical correctness(ポリコレ)と呼ばれる、「政治的社会的問題の観点から物事はかくあるべき」という暗黙の了解によって、関係性は対等であるべきで、一方に「攻め」や「受け」の役割を押し付けるべきではない、という価値観を英語圏の人々が持っていることが一因ではないかと考えています。
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