はてなキーワード: 指向とは
ソニーと言えば、アニプレックスを要し、ソニーミュージックでは積極的にアニメとのコラボをやってきた企業グループ。
特にアニプレックスは、当時まだ事例が少なかった時代から、パブリッシャー自らスタジオを開設し、比較的高い待遇を掲げて、アニメーターらの待遇改善にも先頭に立ってきた。
ノイタミナなど、予算を厚くコンセプトを強くした作品を作るが、芸術性の高い実験的なアニメから、アニオタが喜ぶHENTAI作品まで幅広く手がけ、あまり自重しない。
近年では自社のアニメスタジオを増強すると共に、買収などを進めながら、過去に自殺者なども出してしまった反省も踏まえて待遇改善と生産性改善に、バックオフィス改革やアニメーターが使用するソフトの内製を目指すなど、行動している。
そうして作成したコンテンツは、海外で強力なアニメ流通網をもつ。
代表的にはCrunchyrollを自社グループに有し、自社グループ系だけに留まらず、幅広いアニメを海外で流通させ、現在のアニメ業界の海外進出を強力に牽引している。
日本で作成したコンテンツを幅広く海外で販売することを指向する。
また、海外ではソニーピクチャーズを持ち、これは世界最大手の映画が会社の一つであり、音楽会社も持つ。コンテンツビジネスに精通している。
従って、ソニーはKADOKAWAを買収したとしても、コンテンツビジネスのことはよく分かっているから、今まで通りに好きにやらせることだろう。もちろん、それを海外に売り込むなどして収益を強化する活動はしていくだろうが、それは悪い事ではない。むしろ望ましいだろう。
振り返って、KADOKAWAも海外への日本コンテンツ輸出には積極的であり、北米に強いソニーと、アジアヨーロッパで強いKADOKAWAという棲み分けがある為、今回のKADOKAWA買収はシナジーが強いと感じられる。
さらに、従来からKADOKAWAとソニーのコンテンツ部門は比較的良好な関係を築いており、様々なコラボレーションで成功している。これらがより深化することが望まれる。
ソニーと言えば、PlayStationだったが、PS3時代の経験から、その中心をPS4の時代に日本からアメリカに移した。その結果、ビジネス全体がアメリカの理論で進むようになっており、
オリジナリティの高い作品を製作していた日本のスタジオを相次いで閉鎖するなど、国内体制の縮小が続いる。
ただし、ソニー全体のゲーム部門は好調であり、高い収益を上げているため、市場の意思としてはこの路線が維持されている。このことが逆に日本向けにリソースを割くこと、日本向けに特別な対応を行う事のモチベーションを低下差させている。
これがファンの目には、日本のゲーム市場を軽視しているように映っており、また国際基準に従った内容の規制、ポリティカル・コレクトネス対応などによる表現の規制なども日本の価値観からすると納得がいかない結果になることが多く、
しかし、外国市場のほうが何倍も大きくなってしまった今、日本向けに特別版を作られることも減った事から、不満が高まっている。
従って、大企業のコンプライアンスを押しつけ、融通が利かないように見えている。
ソニーがKADOKAWAを買収すると、これらの基準をKADOKAWAに入れてくることによって、KADOKAWAのコンテンツもポリティカル・コレクトネス対応などを求められ、歪んでいくのではないか
日本部門への投資が絞られて、単に過去のIPを売るだけになってしまうのではないか。
また、日本発のIPが放置されたように、ソニーはIPの使い方が下手である。ビジネスとしては個別のIPを積み上げるより、シェアを広げてプラットフォーマーとして君臨する方が儲かるのであろうが、しかし、
ファンとしてはそれらのために、現在楽しんでいるコンテンツを潰されたらたまらないので、やめてほしい。
ソニーミュージック系(ピクチャーズなど含む)が主導する買収なのか、SIE系(プレステね)が主導する買収なのかによって大きくちがうんやろなと思いました。
で、報道を見る限り、ソニーミュージック系の買収じゃねえかなって思うのでそんなに心配いらねえんじゃねってのがアニオタの俺の見え方なんだけどな。
だって、SIE系がKADOKAWAが持つゲームが欲しいなら、KADOKAWAとしてはゲームは本業じゃない訳で、そこだけ売却に応じると思うんだよ。すぐに金が欲しいならね。
でも実際にはグループ全体の買収にかかってるんだから、ソニーミュージック系が主導してるんじゃないかなって思うんだよね。
まぁ、空騒ぎですが。
マジどうなるんだろうね。
AIにとってイラストはドット単位の色の集合体であり、そこに意味はない。そこに意味を感じるのは人間であり、読み取るのが観客であり、読み取りやすく指向的にドラマを仕込むのがイラストレーターと呼ばれる絵を描く人間の仕事だ。
無茶苦茶わかる…結局AIって線を引いて色を塗っているだけなんだよね。
AIがあれば綺麗な線と綺麗な色が濡れる。でも絵ではない。絵をかける=意味を見出せるのは人間だけだから。
AIはAGIレベルまで行かんと意味を見出せないだろうし、結局「良い絵」がみたいなら人間が描いた(監修した)ものでないとダメだし、監修できる人間の9割9部が普通に絵を描いてる人間なので…となるのでまあ、普通にやっていれば普通に仕事はあるはずなんですよね。他人を犯罪者呼ばわりしたりしなければ、いらすとや以下の影響だったんですよあんなの。まあ同業他社は増えるだろうが。
結論から言うが、生成AIが広まることによってイラストレーターを含めた絵を描く人間(面倒なので以降まとめて絵師と略す)の需要も価値も損なわれることは決してないし、恐らく寧ろ向上する。ただし一部の層のみ。
最近話題の生成AI、いわゆるクリエイター界隈ではあっちらこっちらで話が広がって、しかも誤解や間違いもどんどん広まって、いったいどうしたことかと混迷を極めている。見る人が見れば本当に面白い状況だろう。加えてXの唐突な規約変更(と誤解されている)で投稿画像が無断学習されると騒ぎになり、SNSは今や群雄割拠の戦国時代みたいになっている。自分もXのフォロワーがやれブルースカイ、クロスフォリオに移行するやら、今後のイラストはすべてポイぴくを挟むやら、創意工夫をもってAI学習の手から逃れようとしているのを眺めていた。
これらの行為率直に言って、無駄だなと思う。無駄ではないがあんまり成果の出る行動ではないな、と思う。むしろAI学習から逃れられない上にインプレッションが下がるだけなのでどちらかというと損失の方が大きいだろう(人はURLをタップして新規ページにアクセスするという一手間をとんでもなく惜しむ、自分も画像直貼りなら見る絵も、URLクリックになった場合はサムネが余程好みでない限りほぼ100%見ない。これについては論文出てるから興味ある人は読んでみるのをお勧めする)
まずこの情報社会のインターネットという大きな箱において、データ収集されないで済むものの方が少ない。基本インターネットに上げた時点ですべて情報社会の餌になると考えた方が逆に健全だ。デジタルタトゥーとか言うだろ、使い方も意味も違うが、構造自体はほぼそれと同じだ。原則として「セキュリティ保護(パスワード認証)のないデータはすべて学習の対象となる」と考えた方が良い。これはインターネットという性質を考えれば自明の理だ。AIのスクレイピングを阻害するプラットフォームに上げたとて、基本人が自由にアクセス出来るのにAIが学習出来んわけなかろう。人間が自由に見れるものはAIも自由に見れる。これが基本原則であることを分かってない人が多すぎる。勿論サーバーにAI学習を阻害する設定を相当しっかりやっていればだいぶ軽減はされるが、まあ最終的にアクセス出来れば学習は出来る。これは変わらんと考えておいた方がいい。むしろXはAPI制限などをbot対策などを相当労力掛けてやったので(ユーザーからは不満たらたらだったが)そういう意味ではAI学習対策がなされている方だとも言う考え方もあるようだ。X自体の学習は防げなくても、X外からの学習は防げるからなあ。こればっかりは何を良しとするかだけど。
話がそれた。
まあそうやって他SNSに移行しようとどうしようと基本的に生成AIからの学習は逃れられないし、それはインターネットという情報社会の性質上仕方のないことだといえる。まあ仕方ないという理由で諦められないから絵師の一部はみんな怒ってるのかもしれないが。ただひとつ間違えないでほしいんだが、そもそも学習して誰しもクオリティの高い画像が出力出来るようになるのは悪いことじゃない。これは学習が法的権利として制限されていないからだとかそういう小難しい話をしたいのではなく、単純な社会全体としての話だ。
「”一部の人間しか出来なかったもの”が、簡単にちょっとの手間で”皆が出来るようになる”のはいいことだ」
レトルトや時短料理なんて最たるものだろう。ホテルのシェフが時間かけて、時には数日かけて作っていた料理が、かつて圧力鍋、今では自動調理鍋なんてもので似たようなクオリティが一瞬で誰でも出来る。材料入れてボタン押すだけ。シェフ監修がいわゆる偏向学習LoRAだとするなら、自動調理鍋や圧力鍋が生成AIに当たる部分だ。この例えに色々モノ申すところはあるだろうが、細かいところが問題なのではなく、論旨は「誰にでも出来るようになるのは社会にとって絶対的”正”だ」ということだ。
この視点において、この先も生成AIが大きく制限されることは恐らくない。だって社会にとって悪いことではないからだ。かつて裕福な家庭しか画家を雇い自画像を残せなかった時代が、技術の発展でカメラが生まれ、カメラも高価で専門職に頼む必要があったものが、インスタントカメラになって世間の多くに普及し、絵の具や鉛筆がなきゃ美術を成しえなかった人たちが、パソコンとペンタブという十万程度の投資で無料のYoutubeを見て誰もが絵を描ける環境を整えられるようになった。お金が無くても、技術が無くても、環境が無くても、苦労が無くても「出来る」ということは、社会にとってはその社会の技術が熟成した証拠でありその結実でもある。人間はそういう歴史を積み重ねて文化を発展させてきたのだ。そういう意味において、生成AIの在り方は正しいと言える。
ただし、ただしだ。
ただ、それでは絵師たちは自分たちの努力が無価値と感じ、自分たちの成果が使い潰されていると感じるだろう。仕事は取られ、搾取されるだけ搾取され捨てられてしまうんだ、と。もうここまでの文を読んで反AIの人間は多くが読むのをやめたと思うが続ける。本当にそうだろうか。本当に絵師たちはそんな無価値なものなのだろうか、と思う。
結論を言う。そんなことはない。
だってみんな圧力鍋で美味しいビーフストロガノフを作れるようになったらお店で出るビーフストロガノフは売れなくなるのか。みんな簡単に手軽にスマホで写真が撮れるようになったら、写真家の仕事は無くなるのか。無くならないだろう? 無くならないんです。写真という技術が生まれてなお、未だに筆を執ってキャンバスに写実風風景画を描き続けてる画家がいてその作品が売れているように、どれだけ高精度の生成AIによって高クオリティの絵が乱立しようと絵師と呼ばれる人たちの生み出すオリジナルイラストの価値が損なわれることはないんです。
ただ、弱肉強食とも言える淘汰は発生するだろう。「淘汰」とは即ち、プロとしてのクオリティレベルの向上を指す。単純に言えば、これまでのようにちょっと絵を描いてお小遣い稼ぎみたいのは出来なくなる。なぜならそのレベルなら生成AIでいくらでも個人が作成出来るようになるからだ。写真家が普通の風景写真を売ろうとしても売れないように、イラストもただ絵がちょっとうまいだけでは売れなくなる。プロに頼むからにはプロのクオリティを求められる。
ここまで読んで気付いた方もいるかもしれない、特に今プロとして第一線で働いているイラストレーターの方。
そうなのだ、プロであり技術があるほど、生成AIがあろうとこれまでと変わらないのだ。
生成AIは少し見れば分かる通り、とにかくコンセプトアートに弱い。「猫耳娘」とか「セーラー服の美少女」とか汎用的なお題ならいくらでも出力出来るが、「猫耳娘のイヤリングが彼女が猫の頃を彷彿とさせる飼い主の想い出の品がモチーフになってる」とか「セーラー服の美少女の足元には好きな人との思い出の公演が映っており、画面に添えられた花言葉はふたりのこれからの関係を暗示している」などといった、「一枚絵でドラマを読み解かせる」という構造がとにかく不得意だ。生成AIの構造と成り立ちを考えればそれは至極当然だ。AIにとってイラストはドット単位の色の集合体であり、そこに意味はない。そこに意味を感じるのは人間であり、読み取るのが観客であり、読み取りやすく指向的にドラマを仕込むのがイラストレーターと呼ばれる絵を描く人間の仕事だ。
だからこそむしろ、イラストレーターはより重宝され、求められることになる。人間はドラマやストーリーに魅力を感じる生き物だ。そういう意味で、どれだけクオリティが高かろうと、重要な場面でのイラストは現状絶対にAIに任せられない。色んなジャンルでよくある「周年絵」であれば、これまでのドラマや記念コンセプトをふんだんにあしらいたいだろう。こういうものこそイラストレーターに任せていくようになる。
もちろん、そういったコンセプトを生成AIが表現できないのは「現状」の話だ。時代は変わる。コンピューターの普及、スマートフォンの普及で情報社会レベルが格段に変わったように、やがて生成AIもコンセプトアートをきちんと表現していく時代も生まれるだろう。もう十年は先の話だろうが、ただ十年後はそうなるかもしれない。それにはもう少し時間が掛かる。それまでに絵師としてのポジションをどう確立させていくかは、今現在絵を描いている人間に求められている課題だ。そんな課題と向き合うことなくこれまで通りの世界でイラストを描き続けたいというのは、残念ながらただの停滞思考に過ぎない。時代は変わる。どう足掻いても。それに適応していかなければ廃れるだけだ。それに適応しなかったものから、絵を描いて仕事をする、というポジションから脱落することになってしまう。
ちなみにAI生成なんかじゃなくて絵を描く楽しみを知るべきだ! というのはお門違いである。
「自動調理鍋を使わずじっくり数時間かけて煮込んでこその料理だ!」「一瞬の風景を何時間も掛けて描くことに意味があり、写真なんて偽物だ!」「ピアノを習ったことないやつがデジタルで曲を作るな!」とは誰も言わないだろう。求めてるものがそもそも違うのだ。じっくり料理をすることに、じっくり観察して絵を描くことに、楽しみを見出す人がその手段を選べばいい。生成AIで絵を出力することが「絵を楽しんでいない」とイコールにはならない。もちろん主張したい気持ちも伝えたいことも一定の理解はある。だがこれを読む貴方だって「音楽とはホールの生演奏を聴いてこそすべてだ」と言われても困るだろう。そうじゃない、手軽なものはいくらだってあっていいのだ。そうやって多くの人間が手軽に楽しめるようになることが文化の発展であり、先人たちが作ってきた成果なのだ。
だから生成AIでイラストレーターの仕事が奪われるとか、そういうデマは少し落ち着いた方が良い。もしこれからも絵を描く仕事を続けていきたいなら、どうやって生成AIと共存していくか、それを考えてみてほしいと思うよ。学習を「無断学習」とか「窃盗」とかいうのも、考え直した方がいい。情報社会はデータの集積で成り立つ社会である以上、収集されるのは貴方たちのイラストに限らない。すべてだ。検索履歴・ワードすら貴方たちのデータはデータベースに集積されている。それが嫌なら電子世界から手を切れ。ネット回線を閉ざした山奥に籠れ。便利な通販があるのも、いつでも繋がれるSNSやアプリがあるのも、そういう情報解析の技術の末のもので、我々がいるのはそういう社会なんだよ。
とはいえ、生成AIによる成果物の取り扱いについては早く文化庁が結論を出してある程度法規制してほしいとも思うよ。悪用する人間はどんな技術に対してもどこにでもいるからね。あと、生成AIイラストと声優業界の生成AIボイスの問題は別物だと思ってるぞ。あれは声という一個人の尊厳の侵害に障る部分が多いからな。言った言わないは千年前から現在に至るまで人間の問題になる議論だから慎重に取り扱わなければいけないと思う。刑事犯罪立証に関わることもある部分だからね。ただ声帯を失くした人への補助AIとかはどんどん発展してほしいね。
ご回答いただきありがとうございます。
あなたが思っておられる「多くの書店に共通する」点は、多くの書店で努力しているものの解決が難しい、あるいは実情とは異なるご指摘ばかりでしたので不思議に思ったのですが、なるほど、ご自身の大型店指向に基づいた個人的な要望をポストしておられたのですね。理解しました。
お気付きのように文化事業としての大型書店は持続不可能なビジネスです。これはいまに始まったことではなく、日本の出版流通の歴史的背景があってのことです。
一地方の書店チェーン運営に関わったわたくしからすると、東京や大阪などの大都市圏ですら副業による収入がなければ大型書店経営が成り立たないのは既に明らかなことで、また、公共図書館に専門性の高い書籍の蔵書を求めるのも無理があります。
地域の中小書店の維持存続ではなく大型書店になんらかの充実を求めることと、公共図書館へのアクセスを容易にすることはまったく別の話であります。
また、「 新刊書籍の流通市場で寡占状態により競争が少なくなっている」がなにを指していて、それが公益とどう関係するのかはわかりませんが、なんにせよ「自分の住む街の小さな新刊書店を必要なインフラだと思っていな」いことのほうがよほど公益に反するし、かてて加えて残念ながらあなたが望んでいるであろう大型書店のクリオティが上がる未来が来る確率は低いと思います。
はたして「社会全体」が考えてくれるかなぁ。
そうはならんやろ。
今回の総裁選・代表選では右寄りの高市、左寄りの枝野が落選した。
仮に高市、枝野が総裁、代表になっていたならば維新と国民民主がその中道の票を食って躍進するだろう。
しかし現実は逆だった。中道がレッドオーシャンになり、そこをターゲットにしている維新と国民民主が苦戦し、無関係な共産は我が道を行く。
ここまではわかる。
まず、立憲民主は組織がバラバラでトップが野田でもリベラルは我知らずと勝手な動きをする。ここが自民と大きく違う。
共産と同様に中道に抱きついて政策実現を目指す左派は、今はおとなしくしていても憲法や防衛の話になったときに正体を表すことをみんな知っている。
中道に支持されているのは野田であって立憲民主党ではないのだ。大統領や知事選ならわからないが総選挙で入れることはないだろう。
石破、野田ともに大きな政府指向ではあるが、金を使う方向性が全く異なる。
社会資本に投資して地方の成長の土台作りを目指す自民と、困っている人にお金を配る立民では真逆ともいえる。
高市は政治的に右派だが、経済は石破も高市も右派で、むしろ経済左派の岸田が異質だった。
だから岸田おろしは必然で、裏金発覚まで政党支持率が横ばいなのに内閣支持率が低下一途だったのは自民支持層から支持されていなかったからに他ならない。
岸田なら可能性があったかもしれないが、石破では立民左派が期待するばらまきの可能性がないことを知っているので立民左派も自民に入れることはない。
自民支持層も岸田が下りた今、自民に入れない理由がなくなっている。
なので、支持者の入れ替わりはあり得ない。
ほらね。原因はアホなオッサンと悪魔化して思考停止しちゃってるでしょ。
このことを言ってるの。わかる?
個人の自由な指向ってね、たとえば女性は美大とか音大とか行きたがるでしょ?
イラストレーターとかネイリストとか保育士とか介護職とか目指しちゃうでしょ?
ああいうのが、女性の平均賃金低下に加担しているのね。彼女らが女性差別(と言われているもの)を生み出しているの。
だから女性差別(と言われているもの)をなくすには、アパレル店員になりたいとか言ってる女の頬を引っ叩いて、
投資銀行とか商社マンとか経営者とかコンサルを目指させないといけないの。個人の自由な指向なんかに任せちゃいけないの。
今度こそ、ほんとにわかった?
もう少しお勉強ができる知性があれば、差別は主に「個人の自由な指向・選択が積み重なった結果だったり、明文化されない経験則としてそれがうまくまわる仕組み」と思い込まれてる何かのことで、悪意がない差別が多いことを大前提にしている、というのが分かるだろうに
ハンロンの剃刀に似た話で、女性が差別問題に言及するとき、原因としてありもしない悪意を見出して、やり玉にあげるから解決のめどが立たないんだよね。
ほんとうは個人の自由な指向・選択が積み重なった結果だったり、明文化されない経験則としてそれがうまくまわる仕組みだったりってことの方が現代ははるかに多いのに。
まあ、社会的な責任のある仕事についた経験や、調停役として丸く収める役回りをまかされることが統計的に少ないみたいに、昔の差別というかジェンダーロールがそういう思考のクセの遠因としてはあるんだろうけど。
でもさ、誰かを悪魔化して気持ちよくぶん殴る快感に酔いしれている姿をこれだけ見せられると、普通の社会性のある人たちはドン引きなんですわ。
私は34歳であり、身体的には男であるからして、まあ、おっさんである。
しかし、幼少期にまわりから「かわいいかわいい」と言われて「わ~!僕ってかわいいんだ!うれしすぎ~」となった結果、
未だにかわいいと言われたいし、かわいいと思っているおっさんになってしまったのである。
思春期は身体が男になっていくことが嫌すぎて、性器を切り落とすことや、ホルモン注射を打とうかとも日々考えていたが、
そうしたとしても自らの身体と精神の不一致が解消することはないだろうと考え、なるがままに任せることにした。
私の心はずっと美少女なのだが、鏡に映るのはおっさんである。かなしい。
更に、同じく子供の頃に、理性的な人間であることを旨として生きた結果、
これまで自慰をしたことはなく、いかがわしい妄想をすることもない。もちろん童貞である。
(アダルトコンテンツに対する忌避感などは特になく、他者に対して潔癖であるわけではない)
そういうかわいくてかっこいい白馬の王子様にさらわれるのが夢である。
さて、本題はこんな私が誰かと恋仲になることは現実的に可能なのか、ということである。
現在、私には気になる人がいるのだが、普通に考えてこんなやべーやつに想われるのこわすぎるだろう、と思うのである。
自分は、素直でいいこ(かわいい❤)なのが長所なのだが、外見がおっさんというだけで全て短所に変換されてしまうのだ。
すべてを隠せば普通の人間として扱われるのかもしれないが、自分はこうなってしまった自分も愛おしいのである。
それに好きな人の前で素直に過ごせないのも辛すぎる。私が愛おしいと思う私も好きになってもらいたいのである。
でもそうなると一気にハードルが上がるのだ。詰んでいるのではないか。
まあ、まだ「気になる人」とも数ヶ月の付き合いなのでこれから発展するのかもわからないのだが、
この問題は今後も続いていくので、どこかで答えを出したい所存である。
因みに、別に普段は恋人がほしいとか結婚願望があるとかではなく、
元気なときは自殺するくらいなら今の環境を投げ出して生きればいいじゃんとか、どうせ死ぬなら豪遊とか短絡的に幸せなことをしてからでいいのにとか漠然と思ってたんだけど、現況を壊す勇気がないから自殺するんだなあって。
みんながみんな一緒じゃないと思うけど、俺の場合は自分という存在がかなり不明瞭になっていて、そんな"自分"を保てる唯一のコミュニティに少しばかりの拒絶をタイミング悪く突きつけられた瞬間に『死ぬこと』が気楽な選択肢になった。
俺は小学生中学生の頃に軽いいじめを受けた経験があったり、生涯にわたって自分でやり遂げたものがない。だから常に自分に自信がない人生で、最近とある出来事から少しずつメンタルが壊れていって、その過程で気づいたのがアイデンティティの重要性だった。
俺は、小中学生の自分、高校生の自分、大学生の自分、社会人の自分が少しずつ違う。何かしら鎧をまとい、その場しのぎで自分をこしらえた。その反動は、強い反抗期だったり、落ちぶれそうな同期に対する態度だったり、様々な場面で発露していたと思う。セックスに溺れた時期があったんだけど、それも自分を表現する一環だった。
ただ、そんななか、家族といるときの自分はおそらく"素の自分"だったはずで、壊れかけたメンタルがようやく上昇指向となり、もちろんその根源であり拠り所は家族といるときの自分だったんだけど、日曜日にものすごい勢いで妻に否定されてしまった。
世の中にいるヤバイ奴。暴力的だったり、奇想天外な行動をするやつだったり。それが対外的な行動であるものは全部『自分がここにいること』の証明だ。誰しも拠り所とする"自分"はどこかにあるわけで、大小に関わらず唯一のミュニティから拒絶されることで発狂する。
以上ここまでアルコールにほぼ溺れていない自分が書いた文面で、俺はこれから少しずつ他人を試しつつ、自分に価値がないことを証明しながら自死への扉を開いていくのだろう。今日はその第一夜に過ぎない。はじめてアルコールを含みながらしごとをして、壊れていく自分を見据えながら。
俺は公共の場でハッテン行為をしたことはないが、お仲間たちにハッテン場扱いされてる公共の施設を「社会見学」と称して冷やかし目的で利用すること、その利用中に実際にハッテンと覚しき行為を目撃すること、知人から公共の場でのハッテン体験談を聞くことは結構ある。
なので公共の場でハッテンするゲイの思考の一端を推測を交えながら紹介することで、元増田のブクマに寄せられてるノンケブクマカ諸兄たちの疑問に答えてみようと思う。
俺はそういう行為を実践してないし肯定もしてないしさっさと警察捕まれとも思っているが、そういうゲイのアングラな生態を大いに面白がってもいるので、こういうリテラシー低めの人間が無理な方はバック願います。あと当然ながら露骨な性描写も含む。
ゲイのハッテンにもグラデーションがある。アナルを使ってのバックプレイからただ互いの勃起を見せ合うだけのプレイまで、行為のハードソフトの濃淡もあるし、ラブな気持ちにも濃淡がある。
アプリで出会った2人が意気投合して、あるいは事前にリクエストして初ベッドからカップルのようにイチャイチャプレイすることもゼロではないが、基本ハッテンは「性処理」が目的で皆ドライなのだ。
例えば現場がトイレだと、小便器で互いの奮い立った逸物を確認したあと目と目で通じ合えば個室に籠もり、手や口を使って発射して立ち去るまでお互い一言も発しないなんてこともザラなんだそうだ。
そういう濃淡の淡のほう、サクッと抜きたいときにタイプの男の手や口を借りるだけ。その処理にわざわざ移動して金払ってラブホには行かないのだ。
あとハッテン場扱いされてる公衆トイレや一般銭湯・サウナに行くと指にキラリと光るものをお持ちの殿方が結構多い。いわゆる既婚ゲイ・既婚バイ諸氏であり、ゲイバレしたら困る人たちである。
既婚ゲイの秘匿・隠密行動度合いにも個々人でグラデーションがある。例えば後述の有料ハッテン場はゲイタウンじゃない繁華街でも雑居ビルの上階にひっそりあったりするのでバレ率はそこまで高くないから利用するが、ゲイ向けマッチングアプリは家族のスマホチェックや誤爆投稿、マッチ相手からの個人特定が怖いから利用しない、といったようなリスクの捉え方は人それぞれだ。
それでいうとラブホに男2人は現場押さえられたらもう言い訳できないのである、本人の感覚としては浮気でも本気でもなくただの性処理なのに。
だから外回り中の駅トイレや退社後の一般サウナ等、ノンケ男が出入りしても問題無い場所でそそくさとハッテンするのである。俺としてもそっちの方が通報されたときのリスクがヤベーだろどんな判断だよ!とは思っているんだが。
実際若い世代は真剣交際目的でもヤリ目でもゲイアプリやXのDMを駆使して出会っている、健全でよろしい。アプリ自体の普及もあるが、コロナ禍初期の行動調査や燃料費高騰による入場料値上げで若い子が有料ハッテン場から足が遠のいたのもアプリ全盛の一因である。
しかし同じヤリ目でも女子を落とすゲーム感覚だったり、多少タイプから外れていても女性器ついてれば興奮するからOKだったりするノンケ男子と違い、ヤリ目ゲイ男子は男の好みが細かいのである。ヤるだけなので収入や性格は無視して問題ない、要は顔とガタイとチ●ポの好みである。
マッチして顔とガタイとチ●ポの画像交換したあといざ待ち合わせしても、「おめー過去の全盛期のマッチョ画像送りやがったな!今ガチムチ通り越してピザデブじゃねーか!」ってこともしょっちゅうである。
そうすると互いに顔・ガタイ・チ●ポさらした状態で即マッチ即ハッテン出来る有料ハッテン場が楽チンすぎて恋しい……でもお金ないから頻繁には行けない……そうだ一般銭湯なら低価格で全部見放題!という思考回路に実際なるのかは、俺はもう若くないのでほぼ推測だ。ただそういう話をぼかしてジョークの体で語る20代知人はいる。
有料ハッテン場にも店ごとにいろいろ入場コードがあって、先ほど言及したプレイの濃淡の淡、ライトなプレイ専門の店も無くはないが、シャワー完備の店はアナルプレイ指向の客がほとんどで、手や口でサクッと抜きたいだけの人が公共施設なんて使わずお行儀よく出向いたとしても以外とマッチしづらい。
抱きたい・抱かれたい男たちからのバックプレイのお誘いを一回一回断るのもなかなかしんどいのである。(タチネコのポジションをロッカーキーのバンドをどこに付けるかでアピールするタイプの店だと、バック無し希望もバンドでアピールできる場合もある)
そしておそらくここが一番のポイントなんだが、全世代ウェルカムなハッテン場はそこまで多くないのである。
旅館業法の宿泊拒否にあたるからかどうかは知らないが、しっかりした個室で宿泊できるタイプのハッテンサウナは年齢制限がない一方、
クルージングスペースと呼ばれる、簡易なシャワー室と仮眠室(という名目のプレイエリア)だけあるタイプのハッテン場は、すぐヤれるノリの良い空気感を維持するため、来店頻度の高い性欲ギンギンの若い顧客のマッチ率や満足度を高めて利益をあげるため、大抵40歳以上の入場を制限する。
鍛えていて筋肉ムキムキなら多少トシいってても可のマッチョ専門ハッテン場なんかもあるがそれでも大抵40代までだ。ゲイのおっさんには若いゲイとサカる権利がないのである。
そしてゲイおじは当然全世代向けのハッテン場でもアプリでもハブられなかなかマッチしないので残る道は2つ。
1つは金で解決。ゲイ向け風俗、通称売り専のコア顧客層が50代おじになるのはこのためである。
もう1つはゲイ市場から抜け出す、すなわち公共施設でハッテンするのである。もちろん公共でヤる若いゲイにもタイプはあるしおじのモテ度もそう変わらないんだが、
ハッテン場の入場料ほどコストを払ってないし本番プレイでは無いぶん「サウナでオナニー見せ合うだけだし別にこのオッサンでもいっか」と妥協する子も稀にいるし(ヤリ目ゲイは好みが細かいという前段での話と多少矛盾してしまうが、プレイの濃淡で相手の許容範囲が変わる子はいる。痩せてるチビの巨●なら咥えてみてもいいが抱かれるのは嫌だとか)、
「トイレに籠もって何本咥えられるかチャレンジ」みたいなタイプとかオッサンとか関係ない変態趣味の子も極々稀にいるそうだ。そういう子をゲイおじはデマだらけの出没予告書き込みからモノホンを精査して日々ハントしているのである。
とはいえどんな理由があろうとも迷惑行為には違いない。ノンケ諸兄に迷惑かけない場でいちばんライトなハッテンがしやすい場所はどこだろう……脱ぎ系ゲイバーとゲイクラブイベントだろうか。自分はあまり出向かない業態なのでそれほど詳しくないが説明してみる。
脱ぎ系バーは下着一枚になった客同士が酒を飲みながら交流するゲイバーの形態で、店のコンセプトによって褌やケツワレ(ジョックストラップ、スポーツ向けの布面積少ない下着)等のドレスコード指定もあったりする。
服を脱いでゲイの心も解放する!のが主目的の健全なバーも多いが、広い店だとなぜかバーエリアの手前、ロッカーエリアの裏手に薄暗いダークルームがあり、そこに意気投合した2人が吸い込まれていったりする。
脱ぎ系クラブイベントも同様に下着一枚に着替えた客がクラブのフロアで踊りつつ、何故かフロア端の薄暗いダークエリアに消えていくスタイル。
もちろんバーでヤってもクラブでヤっても公然わいせつだし店側もはっきり「禁止」と告知してるのだが、要は「客同士が勝手にやってるだけで店は関知してないしサービスとして提供してない」のポーズのための告知で、現場はほぼお目こぼしされてる状態だし、過激を謳うクラブイベントだとフロアど真ん中、ミラーボール輝く下で尺八がおっ始まるのである。
妊娠の心配がないのと現在はおハーブも大っぴらには出回ってはないことから「風紀の乱れ」的な当局の摘発はないが、まあ本気出されたらしょっぴかれてもしょうがない乱痴気騒ぎだとは思う。
そしてここまでハッテンの舞台はすべて東京を想定して語ってきたが、地方の田舎はゲイ人口も少ないので当然有料ハッテン場も脱ぎ系バーもゲイクラブも商売として成り立たないから存在しないし、男同士でラブホに入ってるところなんか目撃されたら瞬く間に噂は広がり即死である。(繰り返しになるが公共施設でわいせつ行為を目撃通報されても即死の筈なんだがな)
そういう訳もあって公衆浴場でのわいせつ行為で逮捕というニュースは地方発のものが多い印象がある。(東京のローカルメディアが警視庁発表の同様の事件をわざわざニュースとして取り上げていないだけかも知れないが)
タイトルに簡単に言えば「趣味的な本屋の販売量だけでは、現在のシステムを維持出来ず書籍文化が崩壊するから」という事になる。
これは他の経済活動でも同じで、趣味で採算度外視、あるいは薄給でもやりがいだけでやっています、と言うようなものが蔓延ってしまうと、後は滅ぶしかない。
一度滅んだ後に残存者利益が出てくると、改めて採算が取れるようになるのだが、その時は今の豊富で豊かな出版文化はなくなっているだろう。
と言うわけで、いただいた反応の中からいくつか補足としてワイの考えを述べておく。
上客、太客だから。
書店の顧客は、他の小売店と違い、売上の8割を2割の客が買っている、と言う極端な構造がある。色々な調査でひとりあたりの本の購入量の統計を取ると、左に大きなピーク、右に小さなピークの崩れたM字型になることが知られている。一つ目が年に数冊しか本を買わないライトユーザ。そしてもう一つが欲しい本があれば、後先考えず際限なく本を買ってしまう病人である。つまりワイら。
そして、わざわざリアル書店で客注を出すような顧客というのは、大抵後者なのだ。
「 客注は最速でも2,3日かかるのならば、ネット書店に勝てないのではないか」という話もあったけれども、こう言う後者の顧客は、あえて意識的にリアル書店を使っている。そしてお願いした本を仕入れてくれるという体験を求めている。
確かに単体では儲からないが、その先にある最も儲かる「コンスタントに本を買ってくれる客」を育てる事に繋がるから。
客注というのは今も昔も単体で儲かる仕事ではない。しかし、顧客サービスとしてはコスパが良いのだ。
日本の書店は委託販売という仕組みであり返品が自由、在庫リスクがない一方で、利益率がかなり低くなっている。概ね売価の7割から8割ぐらいが仕入原価で、20%~30% ぐらいが小売店の取り分になる。ここから店の運営経費を賄うことになり、概ね原価率は9割を超える。一般の食品スーパーで利益率目標が2割以上を指向することを考えると、利益率は低い。
そのため、一冊売る程度では全然儲からない。文庫本1冊注文されても仕入原価-売価が100円であり、客注対応の為に店員をひとり増やしたりすると赤字、と言うレベルである。
が、当然ながら、人件費は固定費に近い性質を持つのでこんなにシンプルではない。例えばコンビニで郵便はがきを売る・宅急便のサービスをするのは、それらを利用するお客はついで利用を促すことが主だが、似たような性質と言えばイメージしやすいだろうか。
さて、ネットの方が早いし面倒がない、と考える方の意見が多く見られており、これは事実である。増田をみる様なユーザであれば尚更だろう。しかし、ネットとリアル書店の間の配送期間というハンデがほぼ同じになる瞬間がある。
それが「新刊」である。新刊の発売日は統制が進み、現在ではネット書店ではフライング発売はほとんどない。
習慣的に本屋に行き、あるいは新刊が出ると、とりあえず自店で購入してくれる顧客をどれだけ確保できるかが店の成否に繋がるのである。
そして、たくさんある書店の中から自店を選んでもらうには、価格統制がされている書籍では「体験」を育てるしかなく、客注とはそのための重要な機会なのだ。ネットで買えばすぐに届くし、そうでなくてもコンビニコピー機で注文すれば早い事を知りながら、あえて書店を使う顧客を捕まえるチャンスなのだ。
これはほとんどの場合間違っている。利益はでない。と言うのは、以下の様な性質があるためだ
またイベントを開くと
しかし、これらを承知の上で、上客を得るために実施するのは悪い事ではない。
が、それはいつもちゃんと本が買える、要望に応えてくれるという基礎があってこそであるので、そこを蔑ろにしたままやってもよくない。
さらに言うと、いつもちゃんと本が買える、と言う事に対して、イベントを開催するというと言うことは対立してしまうことがある。
本屋とは、ものすごい指向に幅があることを扱っているのが通常だから。指向に合わないイベントをやっていると邪魔に感じることすらあるので結構気をつけなければならない。イベントで顧客をゲットと繰り返したら、そのイベントの指向が自分にあわないと、居心地が悪く感じて顧客が離れてしまうと言うとは、残念ながらよくある話なのだ。
大手書店が専用のスペースを設けるなどして、かなり気を遣っているのはこのためである。
出版社や書店がフェアやイベントに消極的だ、という事ではない。売れない事が問題なのだ。売れずにやりがいだけを消費してしまって持続性がないことが問題なのだ。
これはそう。
でも、Amazonの一番早い便でも半日後であることに比べると、本屋の店頭で買うのは見てすぐ実物を手に取れるので最速だし、本を読みたい欲を一瞬で満たしてくれるのはメリット。
ん?電子書籍? んん?ヨドの店頭受け取りだと30分でいける? まぁそれはそう。
Amazonやヨドと比べられるとそれはそうなんだが、これでも他の小売業界向けの卸としてはめっちゃ早い。
Amazonやヨド、紀伊國屋などが取次在庫ありの場合、即配サービスより早いのは、彼らは自社で取次の倉庫まで取りにいっているからです。そこまでの出荷は一緒です。
それから、大都市圏だと、午前中に出した客注が当日出荷になって翌日に届くことも仕組み上あります。
新刊の配本のうち8割以上が既にパターン配本でなくなっているので、認識がだいぶ古い。
パターン配本の批判が強まり、出版社が指定した配本が行われるようになった。
が、結果から言うと、返本率が増加し出版社も在庫を抱える事になった。
そこで現在、取次は出版社や書店に積極的にデータを開示し、配本を支援するシステムを用意して提供するようになった。取次のパターン配本だけに頼るのではなく、自分たちでも判断してもらおうと言う事である。
これによって、中小の出版社側もその注文に乗っかって大丈夫かと言うことをシステム的に判断するようになりつつある。
この状況で本が来ないと言うのは、出版社が数を減らしていると言う事だ。
結局は自分の店で売れるものは入荷するが、売りたいだけで売れそうにない本は入荷しないというだけ。出版社はベストセラー倒産などしたくはないのです。
ただ、最近は買い切りの条件で注文数そのまま出荷する取り組みをやっている所も無いわけではないが、広がってはいない模様。
これはもう間違い無い。
一般小売で考えると、趣味でやっていてきちんと経営していない店相手であると、卸売り業者は普通ここまで付き合わないが、取次という業態、あるいはその出自から考えて、半公共団体のようになっている面があるから今まで付き合ってたわけだが、それが限界に達しているのが今だ。
利益率という点では、実は取次の取り分(仕入原価-卸売り価格)は書店よりもさらに低く、5~10%程度だと言われている。ここから経費が引かれて利益率になるとすると、一般卸売業者の利益率の半額程度になってしまうと言う状況だ。
統計に寄れば、書店の販売額は立地と坪数でほぼ決まると言われている。好立地の所では、ひと坪あたりの月商が13万円だという。仮にこれで15坪の小規模書店とすると、約200万円の売上げになる。さて、この書店から取次が得られる粗利(諸経費を一切含まない)は20万円が最大と言う計算になる。アルバイトひとりも雇えない金額だ。ここから、人件費、運送費、配達比、様々なリスク費用、システム費用などを支払って利益になる訳がない。
取次が利益を上げるには、仕組み的に規模の商売を追求する一方で、流通コスト削減(これには返本率を下げる、と言った活動も含む)ぐらいしかやりようがない。小さな書店が商売できる様に支えるのはほとんどボランティアである。
儲かっていたころは良かったが、限界が近付く中、少なくとも黒字になること、自社が用意したサービス(即配や、データドリブン経営を行うシステムの提供など)をきちんと使いこなしてくれる事を条件に、それ以外の自然淘汰を止むなしと考えているのはそうなのだろうと思われる。
この取次の利益率が固定されている中で、一般流通流通のスピードを上げろと言うのは無理だ。物流のコストが上がりすぎているからだ。中小書店への配送を維持しつつコストをどう下げるか、そのためにはサービス水準を下げることもやむを得ないだろう。
そのような状況下で、その代わりに用意した早く配達するサービスも、追加で送料を負担せよと言うことも難しいと言われ、さらに即配サービスについて暴利を貪っているかのように言われるなどの状況で、手の打ちようがないことも理解してほしいところだ。
取次は多くの書店の親会社でもないし、経済的合理性を考えた時には付き合う必要は全く無いのだから。純粋に儲けるだけなら小規模書店を全部捨てた方がよいぐらいの状況だ。
そう考えている人は少数派でかもしれない。市場の動きは違うようだ。
まず、ユーザー数、習慣的に有料の電子書籍を購入するユーザは30%~40%ぐらいが限度で、これ以上は伸びないことが知られている。
日本の統計も、アメリカ・ヨーロッパなど先に普及した統計などを見てもこの傾向で、電子書籍の市場はほぼこれで大きな変動なく推移すると言われる。
また、販売量としても、雑誌を除く印刷書籍の販売量はじわりと減っているが大幅な減少がみられない。特にコミックスを除くと、ここ10年ほどは横這い程度だ。
電子書籍が増えている、好調だ、という事の正体は、雑誌の減少と、それを補う電子コミックの伸びによるもの。電子書籍が印刷書籍を置き換えると言う動きにはなっていないのだ。もちろん数十年単位ではわからないが、ワイは現在の話をしているつもり。
具体的にどこの書店のことを言っているのか分からないのだけれど(少なくともワイの文章は特定の書店を念頭に置いたものではない)
勝手にどこかの書店を想定して、事実の説明に対して、勝手に怒る方がよほど失礼では?
おそらくはちゃんと内容を読んでいないし、構造も理解できてないからこういった結論になるのだろうと思うのであまり説明しても仕方が無いのかなと思いながら、なのだけれど、以下は一応認識しておいていただきたい。
趣味でやっている・やってないにかかわらず、取次が消えたのに、中小書店が残ると言うことはない。
同時に出版社の多くも吹っ飛びます。こちらは中堅どころまで存在できなくなる。
Amazon・ヨドバシ・紀伊國屋も維持できなくなります。特にAmazonは取次を通さないイメージを持っている人も多いようだが、実際には取次在庫への依存度は高いまま。
もちろん数十年単位での緩やかな変化の先にはありうると思うが、この話は現在の話をしているつもり。
出版業界なんて残さなくていい、町の書店なんていらない、滅ぼしてしまえばいいと言うなら、Not for youですね。それこそ客じゃないのでお呼びじゃないです。客目線で話をしているので。自分が客じゃないと言う認識をしてほしい。
それは、そう。
確かに「お母さん」になった女性は仕事と家事で猛烈に働かざるを得ないわけなんだけど、それも元を正すとお父さんたる男性が長時間労働で家事をする時間を持てないからなんだよね。あと最近の共働き指向もそう。
とはいえ男性が定時で帰っても家事の手伝いをしないってパターンもある。それは社会の風潮として「男性は忙しいから家事をしないのが当たり前」→「男性は家事をしないのが標準的」という風潮になってしまっているから。
だから男性の仕事量を今より減らして、その状態を標準として、男性だって家庭を支える一員なんだ、そのためには仕事をセーブすることも大事なんだという考えを世の中に浸透させなくちゃいけない。
それを踏まえての「男性は働き過ぎている」という主張なんだよ。男性を職場で働かせ過ぎないようにして、仕事にだけ打ち込む男性像というのを壊すことで女性も回り回って楽になったらいいと思ってるってわけ。
男性に多くを望むと、今度は女性にも多くを望まれるようになるじゃない。だから女の待遇改善のためには、男の待遇改善を狙うべきだと思ってる。