はてなキーワード: 忠告とは
創世記第19章
ソドムとゴモラは滅ぼされることになった。なんでそうなったかって?ロトに関係ないから省略した第15章~第18章の間に、神がそう決めたのだ。ちなみにゴモラも街の名前だ。
神はソドムに二人の天使を遣わした。ソドムの門で彼らを見つけたロトは、彼らを神の使いと察してひれ伏し、彼らを自分の家に招き入れて歓待した。しかし夜になると、ソドムの街のあらゆるところから老いも若きも住民の男たちがぞろぞろ出てきて、ロトの家を取り囲む。戸口に出てきたロトにソドムの男たちは言った。
「今夜お前んとこに来たあの野郎共、出して俺らに会わせろや。そしたら俺ら、あの野郎共を知る(意味深)からよ」
これにロトはこう返した。
「私には、まだ男を知らない(意味深)娘が二人おります。娘たちをあなた方に差し出しますので、どうかあの方々には何もしないでください」
だがソドムの男達は女よりも男の方が好みだったのか、「よそ者のくせに生意気なんだよ!」とロトの申し出を断ってロトの家の扉を破ろうとした。
だが、二人の天使はあっさりロトを救出しソドムの男達を撃退。そして、ロトに「これからソドム滅ぼすんで。身内とか居るなら一緒に逃げた方がいいよ?」と告げた。これを聞いてロトは、娘たちをめとる婿たちに一緒に逃げるように誘いに行った。しかし、彼らはロトの言葉を信じなかった。
朝になって天使たちは、「早く逃げないとお前たちも巻き込まれるよ」と急かすが、ロトはまごついている。仕方なく天使たちは、ロト、その妻、二人の娘の手を引いてソドムの街から逃げ出させた。その時天使は「振り返って見てはならない」と言った。
そして神は、ソドムとゴモラの街に硫黄と火の雨を降らせ、これらの街の全ての建物、住民を滅ぼした。
ロトと二人の娘は助かった。だが、ロトの妻は天使の忠告を守らずにその光景を振り返って見てしまい、塩の柱と化してしまった。
ロトは小さな町に逃げ込んだのだが、その町に住むことを恐れるようになり(何が怖かったのかは聖書にも記されていない)、町から出て二人の娘とともに洞窟に住むようになった。
その洞窟での生活の中で、ある日二人の娘の内の姉が妹にこう言った。
「この洞窟にはお父さんしか居ません。こんな洞窟には他の男が訪ねてくることはありません。じゃあ仕方がないからお父さんを酔い潰して、それからお父さんと寝ましょう。そうすればお父さんの種(意味深)を授かるでしょう」
二人はこの恐ろしい計画を実行。一晩目の姉の時にも、二晩目の妹の時にも、ロトは完全に意識を失っており気付かなかった。そして二人の娘は父親の息子を孕み、出産した。
継ぎ足し継ぎ足し続けた秘伝のタレがついになくなってしまいました。恐れていたことがついに現実になり、主文を後回しにされ死刑判決を待つ死刑囚がどんな気持ちなのか、わずかばかりにも理解できた気がしました。
ご存知の方は少ないかもしれませんが、秘伝のタレはNTTの基盤を支える大事なものです。NTTの基盤とはなにか。それを知りたがる方は多いです。これを読んでいる皆さんも知りたいでしょう。老婆心ながらに忠告しておきましょう。今から私が教える以上のことを知ろうとしてはいけない。それは命にかかわることです。どうか好奇心を鎮めてください。
NTTの基本構想が練られていたのは戦後間もなくのこと。戦争で荒れ果てた国を見て、農家の三男坊である宗田門左衛門は嘆きました。このままじゃいけない。必ず日本を立て直すと。こうして宗田は小学校を落第した頭で一生懸命考えて、日本再生計画を練っていったのです。
8年後、宗田は日光の山奥にいました。猿を捕まえるためです。日本再生計画は挫折しましたが、猿は今後絶対に必要になります。猿がいなければ天狗に負けてしまいます。勢力を拡大し続ける天狗軍を止めるべく宗田はここから10年間野山を駆け回りました。
宗田は天狗との戦いの最中に死にましたが、宗田が捕まえた猿の活躍によって日本は天狗軍団からの侵略戦争に勝利することができました。戦後、猿は殺処分されました。宗田は活躍が讃えられ西郷どんの隣に宗田どんとして銅像が建てられました。
私は宗田とともに日光の山奥を駆け回った戦友の一人です。戦後、私は毎日のように宗田の銅像の元へ通いました。それほど私は彼のことを尊敬していたのです。
ある日、私は宗田の銅像の尻の部分からとろとろした茶色の液体が流れ出ていることに気づきました。それはチョコレートのようでしたが甘い香りはなく、むしろ刺激的なにおいが漂っていました。私は思い切ってぺろりぺろりとなめてみました。全身を突き抜ける稲妻。痺れる舌。まさに革命的な味でした。
これこそがNTTの前身である日本うんうん公社の基盤となった秘伝のタレなのです。
1.脅しや威圧なく、意見や要望として穏便に中止を求めるのであれば無罪。脅迫や威圧、侮辱、威力業務妨害がともなえばアウト。
2.個人情報出してるからアウト。それによって運営が邪魔されるようなら威力業務妨害でアウト。
9.無罪。ただし入場を許すかどうかは主催者側の判断。入場拒否されたらスゴスゴと帰ること。
無理に入ろうとしたり、その格好で抗議行動などをすれば威力業務妨害でアウト。
12.誰に要求するの? 警察? 主催者? 穏便に忠告するだけなら問題ない。取り合ってもらえないと思うけど。
前々から思ってたけど、こいつ適当なことばっかり書いてるな~。
過去の書物を調べたり漁ったりしていて、それをネットに上げる努力には頭が下がるけど、文字面の解釈だけなのか実践が伴わないのか理解のレベルが浅い感じだな。
現在の高段者はまだネットと親和性低いから、先んじて情報をだすのは出さないのよりは益があるように見えて、こんな間違いだらけの屑情報並べられると害悪の方が大きいなぁ。
特に若い人に忠告するけれど、教本は読みにくくて理解し辛いから、このサイトは読みやすいんだろうけど、はっきり言って、このサイトは間違いだらけなので鵜呑みにしないほうがいいよ。
来年くらいには30年ぶりくらいに教本一巻が改訂されるみたいだから、こういうニセ情報に流されないように、読みやすくしてあげて欲しいなぁ。
3
3日目 午前
旅先では余り眠れない事が多い。
今日が今回の台湾旅行で最後の朝だけど、グッスリとはいかず、7時前に目が覚めた。
ボーッと窓の外を眺めていると、部屋の外からオバちゃん2人の声が聞こえて来た。
お客さんかな?ベッドメイクかな?
それにしても、楽しそうによく笑う。
朝食を済ませた後、ホテルのすぐ隣にあるコンビニで、スイカ牛乳、japan walker、烏龍茶を買った。
昨日も女性誌を買ったけど、現地の雑誌というのは興味を唆られるものだ。
昨日、台北車站の地下街を歩いているとき「中山地下書街」という掲示を見たが、午前中の地下街は人の流れもまばらで、場所がよくわからなかった。
烏龍茶を飲んで「美味い!」と呟いた。
あとで再購入したときによく見ると、材料表には「香料」もあったが、それは台湾人の嗜好としてこの香りが重要という事だし、美味ければ大きな問題は無い。
ホテルの窓際でこの旅行記を書いていると、ザっと雨が降って来た。
台湾は雨が多いので、雨具を持って来ていたが、旅行を通して行動に困るほどの雨がなかったのは幸運だった。
雨はすぐに小ぶりになったけど、窓の外にはまだ傘の花が咲いている。
あと数時間でチェックアウトだ。
午前9:45分。
雨はとっくに止んでいる。
定刻にはまだ数時間あったけど、チェックアウトする事にした。
空港への送り迎えのため、ここには21:00にまた戻って来る事になる。
3日目 午前
世界に展開するグローバリズムの象徴、スターバックスはここ台北にもある。
わざわざ海外に来て、世界中にある店に入り、ローカルの微妙な違いを見るもの楽しいものだ。
150元を支払い、アイスのカフェモカ、グランデサイズを受け取って2階に上がると、そこでは男女がラップトップを開いていた。
コーヒーを飲んだ直後で大してのども渇いてなかったが、入ってみる事にした。
入り口には行動を禁ずる、べからず集が書いてあり、犬とハンバーガーにバツ印が書いてある。
その下に「禁止打牌」。
ペットを連れ込むな、食べ物を持ち込むなはわかるが、「トランプするな」は新鮮だ。
ドトールで頼むものといえば、ミラノサンドのA以外ありえなく、これはスタバのドヤリングと同じ様式美なのだが、残念な事に、11:00以降しか頼めないようだった。
少しがっかりして、70元を支払ってアイスの紅茶を頼むと、何も入れなくても甘かった。
旅行を通して概ね正しいエリーさんの助言に一つ違を唱えるなら、台湾版suica、悠遊卡についてだ。
エリーさん曰く、チャージした金額の有効期限は2年だし、デポジットの100元が勿体無いので、頻繁に台湾に来るのでなければ購入を勧めないとのことだったが、実際に使ってみると、メチャクチャ便利。
複雑な購入手続きで切符を買う必要なく、地下鉄も台鐵もバスもピッとやるだけでOK。
多少の損を補って余りある便利さの悠遊卡なので、台湾に来る際は是非購入を勧めたい。
帰りの便までまだまだ時間があるので、悠遊卡に100元チャージして、地下鉄で台湾北部の景勝地、淡水に向かった。
3日目 午後
駅前を歩けばすぐ海岸で、晴れ渡った空の下、おっちゃん達が釣り糸を垂らしていた。
ふと見ると赤い看板。
「本河岸遊客衆多
為維護遊客安全
本路段禁止甩竿汉示」
さて、初日の寧夏夜市で食うつもりで、メモまで描いたが、食えなかったものがある。
「千と千尋の神隠し」で、千尋の両親が食って豚になってしまったモノではないか、と言われている謎のプルプル、肉圓だ。
海岸から山の方に上がろうとして通り掛かった海の家で、「肉丸」と書かれた看板が掲げられていた。
昼時で丁度いい、食おう。
「それだけでは足りない」とエリーさんが言っていた肉圓だが、いざ食って見ると、正体不明のプルプルは意外とお腹にたまり、1杯で小腹を満たすに充分な量だ。
こんなものを大量にガツガツ食えば、それは豚にもなってしまうのかもしれない。
台北についたのは午後14:00過ぎ。
今なら人に流れについていけば「中山地下書街」を見つけられるかもしれない。
やがて中山站を過ぎると、右手に地下街にそって長い本屋が見えて来た。
「中山地下書街」
やった、本屋だ。
「誠品書店」に入って見ると、平積みにされていたのは、謝馬力 著「女子翻轉」
台湾版Sex and cityか?はたまた中国のジェーン・スーか。
ほとんどの本が何を書かれているか、全くわからないんだけど、1冊、ピクルスの作り方に関する本があった。
これならなんとか分かるかもしれない。
分からなくても、開いているだけで楽しそうだ。
買って帰る事にした。300元。
これは是非行かないといけない。
新光三越に着くとデパ地下はどうやら地下2階。日本より小ぢんまりとして、お菓子などが中心ではあるが、これぞデパ地下という光景があった。
色々な店が軒を並べる中、お茶の店があり、白磁の蓋碗がディスプレイされている。
日本に帰って、同僚とお茶を飲む為に、何か茶器が欲しかったから丁度いい。
560元は、多分日本より安い。
3日目 夕方
あと5時間で迎えが来るが、台湾でやりたい事リストの最後の項目がまだだった。
台湾で清粥といえば、飲んだ後に食べるものらしく、店が開くのは17:00からだった。
最近、アルコールに弱くなったし、台湾では心置きなく食いたかったので、旅行中は一切、酒類は飲んでいなかった。
この店では、ショウウィンドウの中からおかずを選び、それにお粥が付いてくる。
どれにしようか?
ショウウィンドウ越しでハッキリ見えないが、美味そうな炒め物を頼んだ。
席に着くと、鍋一杯のお粥。
さあ食うぞ。
しかし、運ばれて来たおかずを見て一瞬たじろぐ。
もっとよく見りゃ良かったぜ、ここは屋台ではないが、エリーさんの忠告を思い出す。
これを食えばあとは帰るだけとはいえ、もし飛行機の中で降せば大きな問題を抱える。
最悪当たるにしても、迎えのくる21:00までにスパっと終わるか、自宅に帰り着く翌10:00以降にしてほしい。
恐る恐る口に運んだ牡蠣は、豆豉の風味が効いて美味く、お粥は歩き通しの身体に優しかった。
無名子 清粥小菜を出て、おそらくこの旅で最後の地下街を乗り継ぎ、ホテルの最寄り駅に出ると、道路はしっとり濡れていた。
参ったな、あと一息で雨だ。
でも3日間で学んだのは、台湾の雨はすぐ上がるという事。
意を決して歩き出すと、どうも降っていたのはさっきまでだったらしく、殆ど雨には当たらなかった。
3日目 夜
ホテルのフロントでこの旅行記を書きながら迎えを待つと、女性2人の親子連れが入って来て、フロントに尋ねた。
日本語だ。
そんな基本的な事を聞くって事は、多分今日 このホテルに着いたのだろう。
自分は今夜、日本に帰るが、今日、日本から来たかもしれない人がいる。
ここでは毎日、入れ違いで人が行き交うのだろう。
しばらく待っていると、また日本からの家族連れがフロントにやって来た。
お父さんが、自分の胸を指差して、現地で買ったTシャツになんと書かれているか聞くと、フロントの男性は、ちょっと戸惑いながら答えた。
話しているのは中国語で、スーツケースの大きさから見ると、多分大陸の人だ。
一団はひっきりなしに喋っていて、声も大きい。
この旅行であった人たちの中で、もっとも賑やかな人たちかもしれなかった。
嵐のような一団がフロントを過ぎると、迎えのツアーガイドがやって来た。
「英語名はありますか?」と聞くと、「無いですね、僕も英語は喋れませんし」どうもみんなに英語名がある訳では無いらしい。
チャンさんは人当たりが良く、風貌もイケメンというか、今風で、ちょっとチャラい感じといえなくも無かった。
空港までの車の中で、たくさん起きたことを話し、少し疑問だった事も答えてくれた。
台湾の男性が機内でメガネだったのは、ちょっと上の世代で伊達メガネのブームがあった事。
台湾で男同志の性愛を描いた映像作品を観たのは、おそらく同性結婚が法的に認められたのと関係がある事。
ドトールのトランプ禁止は、解禁するとギャンブルをやっちゃうからである事。
ついでに、チャンさんは実は以前に日本に来たことがあり、出逢いを求めて相席居酒屋に行ったら、40代以上の女性ばかりで少しがっかりした事も教えてくれた。
やっぱりちょっとチャラかった。
チャラいけれども、仕事をきちんとする好漢のチャンさんは、チェックインまで付き合ってくれると、出国手続きや再両替についても教えてくれた。
台湾で出会う人は素晴らしい人たちばかりで、チャンさんもまた例外では無かった。
もう直ぐ台湾を去る。
台湾でしたい事の全てが予定通りに行えて、多くの予想以上があった。
「全てが掛け替えのない3日間だった。ここに来て本当に良かった。」
でも、最後は、滞在中に助けられ通しだった方法以外にあり得ない。
「じゃあ、僕はここで」と微笑む彼に、ホテルの部屋で朝に書いた、最後のメモを見せた。
「太棒了、台湾」
「何なの」って書けば教えてもらえると思っているあなた、あなたの持っている機械を使えば大抵のことは調べがつくはずだよね?
なのに「何なの」と書いて恥ずかしさも覚えない? あなたはそれをおかしいと思っていないようだけど、よく考えたらおかしいよね。
赤ん坊じゃない限り、自分のことは自分でできる、何ならできないこともできると言い張ってイキって、周りの大人や目上の人に当たり散らしてきたあなた、
同じあなたがネットの上ではどうしてこんな○○(伏字)のような醜態をさらして恥ずかしげもないのだろう。それはあなたがそういう振る舞いを「学習した」からだよね。
この言い回し、あなたがゼロから発明したわけではないでしょう。むしろ、ネットで人を挑発し、実は自分がろくに知識のないジャンルでも
「知っている人」を知を特権化してひけらかす奴として批判対象にするのに都合のいい言い回しとして、便利だから真似て使っているのでしょう。
なるほど確かにその言い回しは便利だよ。「何なの」って問いかけながら、何かを説明したとたんに「的外れ」「そうやって知識の無い人間を見下してるってことの気づいてないのが云々」と言い、閉口して説明を放棄したら「説明できないんじゃんwww」とマウントとる。確かに便利だわそのおもちゃ。
だけどね、そういう言葉は便利なほど危険なんだ。そういう言葉を使えば使うほど…つまり戦略的にバカのふりをすればするほど、あなたはネットで醜態をさらし、そして実際どんどん馬鹿になってるってことに気付いているかい?
だから、そういう「学習したバカのふるまい」は捨てたほうが良いよ、それはあなたをどんどん不自由にする、と私はあなたに忠告するわけだけど、
あなたはその便利さにしがみついて、かえって「お前は自由を標榜しながら俺が『何なの』って言葉をつかう自由を制限する!」とかいうわけだ。
奴隷に足の鎖を外さないと不自由だよって言ったら、「こんなかっこいい鎖をつける自由を奪うのか」って言われるわけだよ。
分かるかな。君がわかっていないこと、わかる必要があるのはそういうことだよ。
本当に日本「だけ」かは知らないけど。
今回の事件だけでなく過去の類似案件でも自己責任論でのバッシングがありまして、同様の帰還者を「英雄」として迎えた国との温度差で海外メディアがびびったとか。
そもそも日本はアメリカみたいに多民族が入り乱れる社会じゃないので「地域唯一のコミュニティに入れない=死」みたいなところがありました。出る杭は叩かれたら終わり、必死に叩かれないように生きてきた。
そんな所謂「恥の文化」の中で、最も重い罰はコミュニティからの追放です。「村八分」といいます。
そんな価値観があるため、わざわざ忠告も無視すらして捕まりに行った安田さん、「自分からコミュニティを抜けた奴とか知るか」、「自己責任だ」ってのはわりと自然な感情だと思います。
国の機能としてはもちろんそうやって無視するわけにはいかないので、救う方向で動き、そこで感情的な価値観と現実に差が生まれるわけです。
唯一の例外として国の機能が感情的な価値観に基づいているのが死刑肯定論です。国際的には死刑廃止の方向に動いている中、「コミュニティからの逸脱者には人権が適用されなくなる(死刑が許される)」のは今も日本的な価値観に基づいているのではないでしょうか。外患誘致には死刑しかないってのがわかりやすい。
何が言いたいかってこの案件を第一印象として「自己責任だ」と思うのはわりと自然なことだって話です。感情としてそう思う、ということ自体はなかったことにするべきではない。
いきて虜囚の辱めを受けず
か
安田は「命の危険がある」という勧告を嘲笑って戦地に行ったのだから、その時点で迂遠な自殺をしてるようなもの。
横ですこんばんは。
増田さん自身が、「他人と違う部分(他人に興味がないか、そのように見える)」を指摘されたから、増田さんが気にしている状態であり。
・指摘した人が増田さんへの嫌がらせ(嫌味)ではないでしょう。
むしろ忠告、他人に興味が無さげに見えることは、人間関係でのマイナスになる場合がある。
・他社とのcommunicationに対して億劫なのか、自分だけが特別に他人に対して冷たいのか、と感じての意見のようにお見受けします。
増田さんは
「他者に対して興味を持っているふりをしないと良くないのかな?」
「自分は薄情なのかな?」
このへんについての意見求めているようにも感じたのですが(どうなのかなぁ)
飲み会に誘われた。
お断りした。
先週、出血したんだ。春にも1回出血した事が有って、久しぶりだった。
春の時と同じ肛門科に行ったら、マスクを掛けた先生が最初から最後まで
にこーっとした目つき(マスクをしているので口元は分からない)で、
「お酒です」、「止めないと治りません。」と、前回と同じことを言われた。
痛みも何もない、ただたまにどっと血が出る。
内痔核Ⅰ度とのことだが、Ⅲ、Ⅳ度と進むと手術の必要が有るらしい。
1、2日だけ酒は止めていたが、量を減らしただけで毎日少しだけ飲んでいた。
以前言われた事は、
「大なり小なり、酒飲みは皆痔を持っている。内痔は一種の静脈瘤で、酒のせいでうっ血し、裂けると出血する。」
「それが進むと痔核になり、肛門外に飛び出る事が有る」、「少なくとも休肝日を設けないと...」。
治まっていたから忘れていた。
憂鬱だなあ。
毒親エピソードはたくさんあるけども、一番大きなものは「ママが正解」の呪いだった。母は私を育てる上で「何事も自由に選ばせた」と思っているだろうし、表面上はそうなっている。しかし実際は母が望んだもの以外を選べばたちまち気分を害し、相づちがおざなりになり、もしその後私の選んだものに少しでもケチがつけば「やっぱりママが正解だった」と笑った。
この「やっぱりママが正解」は今でも私の根底に残っており、何かを選ぶ時(特にその選んだもの・ことを母に見せる予定がある時)には母の反応を必要以上に気にしてしまう。また、母の望んだもの以外を選択した時にはひどい罪悪感、人でなし感に襲われ、何かあると「やっぱり母の言うことが合ってたんだ」と思ってしまう。そんなの気にしなくていいと笑われるだろうが、幼少期からの刷り込みなのでもう一生振り切れないだろうと諦めている。今となっては実害もないし。
そんな中で私が唯一幸運だったのが、「自分の母親はおかしい。そしてそれは周りの人に気づかれない方がいい」という自覚があったことだ。毒親という言葉もない時期に、早い段階でそれに気づけて本当によかった。無事に逃げられたのもそのおかげだと思う。というのも、大人になって気がついたのだが、私の母のような過保護タイプのソフトな毒親に育てられた人は一定数存在する。ただ、それを口に出すかどうかで周囲からの印象は大きく変わっていく。
私が最も気の毒だと思ったのは、以前勤めていた職場で40歳近い女性が「門限があるからごめんなさい」と飲み会への参加を断っていたのを見た時だ。ごめんなさいと言われた幹事の男性は「◯◯さんちはお母さんが厳しいからなぁ」と笑い、女性は「そうなんですよ、もう」と困り笑いで返していた。
ごめんなさい、母が。
ごめんなさい、母が。
飲み会以外の話題でも、彼女は毎回毎回繰り返してきたのだろう。その結果、彼女は職場で「少し変わっている」というポジションにおさまっていた(もちろん大人なので皆あからさまにはしないが)。
また、この女性は「映画を観に行ったら上映直前で母から電話があり、帰らなければならなくなった。しかたないから映画はあきらめた」というかなりパンチの利いたエピソードも持っていた。それを笑い話として職場で話してしまうのもまた彼女の不運であったように思う。
私も毒親持ちとして、彼女の話にああ〜わかるわかると思ったことが何回もある。しかし、私がひそかに共感する部分でほかの人々は「えー!?」「それはやりすぎだ」と驚いていた。これは推測だが、彼女は母の話をして周囲から驚かれるのをどこか特別なことのように感じていたのかもしれない。
「そろそろ独り立ちしなくっちゃ!」
しかし、私はそれを聞くたびに彼女がその忠告を受け入れて独り立ちすることはないだろうと確信していた。なぜなら、彼女の中には私と同じく、そしておそらく私より強く「やっぱりママが正解」の刷り込みが存在しているはずなのだから。
何かを決める時、親が基準になっていませんか?何かを断る時、親を理由にしていませんか?周りにいる人々は、あなたとおなじくらい親の話をしていますか?親子仲がいいのは悪いことではないし、毒かどうかの基準は人それぞれだ。職場の彼女だって、望んで母親のそばにいるのかもしれない。
それでも、自覚なく縛られ続けている人々が少しでも減ってくれればと思う。