はてなキーワード: 推理小説とは
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4.それに対する反応
仮にもジェンダー研究で大学教授のポストにある人が、
「私はLGBTは気持ち悪いと思う。しかし、あなたがそのように在る権利は命をかけても守ろう」
「私は殺人は気持ち悪いと思う。しかしあなたがそうする権利は命をかけて守ろう」を等価の命題として捉える程度の人権感覚と論理力ではまずいでしょう。 https://t.co/S5QhRe53Uv— 山口貴士 aka無駄に感じが悪いヤマベン (@otakulawyer) 2018年9月16日
一応解説しておくと
「殺人を気持ち悪いと思う権利」→内心の自由
「殺人を小説に書く権利」→表現の自由
「殺人をする権利」→そんな自由はない。牟田先生しかそんなことを言っていないし、それをラノベやLGTBと置き換え可能にするの大丈夫??— 白饅頭(光属性・バーチャルツイッタラー) (@terrakei07) 2018年9月16日
5.これらを見たわたしの所感
コミュニケーションが失敗していて、また無駄に煽りあっている。
白饅頭(光属性・バーチャルツイッタラー)氏の解説が、青識亜論氏たちの受けとり方としてわかりやすい。
一方、意見を発した側の牟田和恵氏の意図はそうじゃないとわたしには読める。
牟田和恵氏は、
そもそも、ラノベ表紙の「表現の自由」を主張とLGBTに対する生存権を置き換え可能な概念ではないという想定を持っている。
だから殺人を行なう自由をそこに加え、置き換え可能ではない殺人を行なう自由を並べるくらい無意味なことだよ、と皮肉ろうとした。
その原因のひとつは、
牟田和恵氏が「殺人を小説に書く権利」を加えてしまったことだろう。
「殺人を小説に書く権利」は別に普通だし推理小説書くたび捕まってたらたまらない、と皆、思うからである。
一方、ラノベ表紙の「表現の自由」を主張とLGBTに対する生存権を置き換え可能な概念という想定を持っている青識亜論氏らは、そもそもその想定を疑うことができない。
だから牟田和恵氏の「そもそも、ラノベ表紙の「表現の自由」を主張とLGBTに対する生存権を置き換え可能な概念ではない」という主張が伝わらず、
何言ってんだおまえ……的な反応になる。
ここで脱力したり、伝わらないことに腹をたてたりせず、自分が「殺人を小説に書く権利」という不要な例を挙げてしまったことを詫びて、対話を続けるのが最善。
ラノベ表紙の「表現の自由」を主張とLGBTに対する生存権を置き換え可能な概念ではない、は正しい。
それを、白饅頭(光属性・バーチャルツイッタラー)氏の先ほど引用したのと同じTweetが説明の仕方を示してくれている。とてもわかりやすい。
でもそこになぜ、LGBTを入れてくれなかったんだろ。
「表」に対して「裏」を想像してそこで満足する貧弱想像力の持ち主なだけでしょ。
「裏」と思わせて実は「裏の裏」って可能性もあるし、「裏の裏と思わせた所を横から来る」みたいなパターンだってある。
本当に想像力を働かせられる人間ほど、あらゆる状況において「この程度のヒントではまだ結論は絞りきれないな」って結論を下せるもんだ。
いきなり「これしかない!」っていい出すのは推理小説に出てくる噛ませ犬の雑魚探偵と同じ存在だよ。
別に俺は噛ませ犬の雑魚探偵でいいよって言うなら勝手だが、それならせめてそのポジションに相応しいレベルまで声のトーンを下げてくれないかな。
悪いのは犯人で男は違う
性犯罪や児童殺人事件が起こるたびに「推定無罪!」「逮捕されてないのに犯罪者扱いするな!」「逮捕段階ではまだ犯人だと決まってない!」「冤罪ガー」ってあれ程言われるのに、
ドンファン事件の嫁はあれ程メディアから犯人扱いされて過去とかプライバシーとか暴かれてるのに推定無罪とか騒がれないのは何故なんだ。
中学時代部活やめたとか、一人暮らししてたとか、そんな人間ごまんといるだろう。「犯人はオタクだった!」とか言われたら怒り狂うくせに。
AV出演の過去がどうのと言われてるが、そんな時に限ってAV強要の時に湧いてたAV女優を差別するな論者はだんまり。
だいたい毎月百万もらえるのに殺すメリットあるか?
※この増田では、「常識」=「その業界にいるなら絶対に知っていなければいけない知識である」と定義します。
その業界にいるなら常識を知っていなければいけないと言いましたが、外からやってきたばかりの人間が常識を網羅している可能性はほとんど0です。
たとえば、日本語がネイティブレベルで出来る人間しか認めない人間の集団の中で働くには日本語を母国語レベルで習得しているのが必須であり、いわば「常識」となります。そして、その中に翻訳アプリ片手に四苦八苦する外国人が来れば、その人物は「常識に欠けた部分がある」と評価されてしまいます。
さて、こういった場合、1つの対策として「常識を知らないやつは最初から完全に排除する」という道があります。
「日本語を母国語にする」という比較的ゆるい条件を満たせば乗り切れるようなものを「常識」とするならこれでも問題はありません。
ですが、「我が社のマイナールールを習熟する」を「常識」とし、それと同時に「常識知らずは全員排除する」という道を選べば、そこに未来はありません。
絶滅危惧種の動物が全員ホモになったようなものです。たった一回の世代交代を乗り切れることなく死滅します。
一世代で畳むから問題ないというコンセプトの組織であるならそれでもいいでしょう。
実際、そういった「すでにある程度知っている人間のためだけの」コミュニティは点在していますしそれなりの需要があります。
ですが、それでは問題があると言うのならば、「誰かが常識を教える」という道を選ぶしかありません。
人類が存続しているのも、赤ん坊という常識知らずに頑張って人類の常識を叩き込んできたからに他なりません。
断言してしまいますが、全ての企業や行政機関には「ただのローカルルールでしかないが構成員に習熟を要求している常識」が存在します。
そして、全ての組織が「誰が新人に常識を教えるか」で喧嘩しています。
考えてみれば当然です。
「常識知らずとなんて口を聞きたくない」と考えるのが普通なのですから。
2ch(5ch)でメ欄に「sage」を入れない人にレスをしたいですか?
私はゴメンです。
とりあえず警戒します。
遠くから眺めているだけならいいですが、自分がレスをしたくないです。
2chのメ欄sageルールはちゃんとした観察力があれば自然と身につきます。
ですが、多くの社内ルールや官庁ルールは観察力だけで習熟するのには無理があるほどに膨大で複雑でなにより根拠に乏しいです。
「理屈と膏薬はどこへでもつく」という言葉をご存知でしょうか?(ご存じない方、ググる必要はありません。「軟膏≒オロナインやボラギノールのようなものがどこにでもベッチャリくっつくように、屁理屈をこねてさも筋が通っているかのように見せかけるだけならいくらでも理屈のこねようはある」という意味です)
世の中はよく出来た論理パズルのように頭をひねれば答が1つに絞れるようなものばかりではありません。
出来損ないの推理小説のようなガバガバな思いつきが積み上げっているだけのようなものをさも「これこそが私のロジック」だと言い張って提供してくる輩はあとを立ちません。
それ故に新入りが自力で「常識」を学ぼうとするとそれは分の悪い「脳内あてゲーム」にしかならないことがままあります。
となれば、誰も「常識」を教えること無く新入りが「常識」をマスターするのはほぼありえないことになります。(メ欄sageのようなよっぽど簡単なものの場合は除きます)
つまり、誰かが新入りに「常識」を教えるまで新入りは「常識知らず」としてその組織で振る舞うことになるのです。
そして組織は「常識知らず」というストレス源を抱え、新入りはそのレッテルに苦しめられていつしか嫌になって組織を抜けるか、組織に残るも全ての気力を使い果たしたフヌケになりヤケを起こしながら適当に日々を過ごすようになるでしょう。
それを防ぐには誰かが「常識」を教えねばなりません。
ではそれが誰なのか?
とはいえそれを解決しないことにはその組織に未来はありません。
誰かがやらねばならない。
では誰が?
二銭銅貨を読んだ。
物語というものを読む機会が少なく、最後に読んだのも学生のときの授業中の気がする。しかし、何か退屈であり、お手軽に驚きという体験がしたかった。そこで、とりあえず有名な推理小説でも読んでようと思い、読んでみた。
江戸川乱歩がいつに生きていた人なのかは知らないが、たいへん読みやすい。私の知識料不足から、数回辞書を引いたが、この物語だけなのか分からないが難解な言葉もなかった。一点、強いて気になったのは、「のみならず〜悪い気はしないものである。」。これは、「悪い気はしなかった」とかではないと、誰が悪い気をしていないのか分からないのではない気がするものである。まあ、些細な問題である。
さて、内容であるが、実際騙された。けれども、ふーんという感じだ。他の作品が読みたいとかなく、なんともない感情である。
謎解きが始まる前に、自分でもどんなトリックが行われたのかを考えたのだが、何も思いつかなかった。それで読み進めると、考えたところで分かるトリックではなく、推理小説とは考えさせるものではないのだなと思った。まあ、この話の場合はトリックなんてどうでもいいからかもしれないが。
自分はコミュニティに男性が多い娯楽をいくつか趣味としてもっている。
エロゲみたいに明らかに男性向けのものではないが、それを趣味とする人は男性が多いもの。
ただ、ネット上では男性ばかりのコミュニティに女性がいると色々とトラブルに会いやすいので、隠している。
ネット上で一般的と思われる、独身男性の「おまえら」的な人格を身にまとう。
そうすると、ホモソーシャルなコミュニケーションを垣間見てしまう。
垣間見るとか言って、そんなに会話するわけじゃないから、そういう感想を見てしまうだけなんだけど。
見に行ったSF映画の感想が知りたくて調べると「隣にいた俳優目当てのスイーツ女どもにはわからない、骨太な映画」
「真の男のための○○」「男のロマン」
なんか、そんな感じだ。
別の言い方もある。
「こんな趣味は女にはわからないからモテないよ」「女はこんなことよりブランドのバッグとかスイーツとかが好きなんだよ」
そういう時、自分の居場所がないような気がしてすごく寂しくなる。
同じ娯楽を好きな、同好の士のコミュニティから女子供である自分が排斥されていることが悲しくなる。
すごく共感できる、参考になる、面白い感想を読んでいたら、急に突き放される。
多分彼らの多くはそんな深いこととか、ミソジニー的な事を言いたいわけじゃないと思う。
なにか「骨太」であるとか、「力強い」、そして、「本物」であることの言葉のあやなのはわかっている。
でも、お前は所詮格下の属性で、本物を理解する我々の同志ではないのだ、と言われている気がする。
愚者(あほ)が出てくる、村外(とかい)が見える――『屍人荘の殺人』批判に答える
第28回鮎川哲也賞を受賞した今村昌弘『屍人荘の殺人』が話題になっている。私も読んだ。
夏休みに大学生たちが山荘を訪れて、その場が閉鎖状況となって連続殺人に発展するという、設定だけなら片手で数えられる以上の似た作品を諳んじることができよう。
しかし、本作はその閉鎖状況の構成要因が変わっている。それが閉鎖状況下で発生する第一の(一見平凡な)密室殺人や第二の殺人を、この状況下「だからこそ」の、より不可解な謎を生じさせている。
(余談になるが、この構成要素に関して、小説の興趣を削ぐからと箝口令を敷く空気が流れているが、要素そのものが真相でもなく、そこから推理小説としての面白みに繋がるわけだから、過敏になる心証がよくわからない。だって、みんな有栖川有栖『月光ゲーム』の内容紹介に火山噴火のことが書いてあるからって怒らないでしょう?)
そして、謎解きの段に於いても、用意された設定が存分に活かされたうえで意外性のある真相へ導かれていくのだから、新人のデビュー作としては文句のない出来だ。
選考委員の一人である北村薫氏が選評でも書いているように、年末のミステリ・ランキングにもランクインすることだろう。江戸川乱歩賞受賞作が出なかった2017年に至っては最大の新人である。票が集まる可能性は高い。
なお、これより先の文章は『屍人荘の殺人』の結末に言及することになる。よって未読の方は注意されたい。そうは言うものの作品分析とは違うので、そういうものをお望みの方には本文章は無用である。ほかの小説や評論を読んでいるほうが、よほど有意義な時間の使い方というものだろう。本格的な『屍人荘の殺人』論は私も読みたいので、その仕事はほかの方にお任せしたい。
それでは本題にはいろうと思う。
あらゆる作品に言えることだが、普段そのジャンルの読者を標榜する輩が仲間内で褒めているうちは、実際の読者数はそんなに多くないというのが常だ(そういう輩は自分の村の外には碌に目を向けられない田舎者で、声だけは無駄におおきい)。
一方そういったジャンル読者のなかから以下のような記事(詳細はリンク参照)を書く者が現れ始めると事態は変わってくる。田舎者が批判するのは他所者と相場で決まっている。つまり、彼らの仲間以外の人々がその作品について(読んで)語っていて、その感想へのカウンターとして下記のような記事は生まれてくる。これはより多くの読者を獲得しつつある、要は売れる兆しと言える。
http://rikuriaikawa.blog.fc2.com/blog-entry-28.html
本人のtwitterを拝見する限り、文学フリマでは200頁超のミステリ評論も頒布したらしい。熱心な書き手である。残念なことに自分はミステリ評論のほうは手に入れていないのだが、それほどの分量なのだから、すくなくとも労作であることは間違いないだろう。
もし、そのミステリ評論も先に紹介した記事と同程度の読みの確度であるなら、物を書くことに徒に時間を浪費するより、余生は別の趣味を見付けることをお勧めしたい。
読者の疑問に対して、作者が答えられる機会はそう多くない。作者一人に対して読者は数千数万といるわけだし、アホな質問にいちいち答えられるほど作者も暇ではない。
なので、ここでは氏の疑問に対して僭越ながら自分が答えたいと思う。
もちろん私は『屍人荘の殺人』の作者ではない。ましてや作者の知人でも、インタビューして伺ったわけでもないので、あくまで氏と同じ読者の立場から作者の意図を拾って回答するかたちとなる。ここでの回答が作者の望むものとは同じでないことは(こんなこと本来は言うまでもないことだが)留意してほしい。
「『屍人荘の殺人』を読んで16の疑問」という記事を書いた藍川陸里氏は、冒頭を読む限りでは、まず『屍人荘の殺人』が「過剰に絶賛されて」いる状況に疑問を持っている。本作が完成度以上の賛辞を得ている点には、私も反論はしない(とはいえ、その現象に対して私が差し挟む疑問や意見もない)。氏は本作に関して「さすがに不備が多すぎるんじゃないか」と、本人曰く「辛口のレビュー」を展開している。
しかし「レビュー」とは言ったものの、「手落ち感のあった16の箇所」を列挙しているだけなので、いわゆる書評の体裁からは程遠い。「手落ち感」という予防線を張った書き方も気になるが(明確に「手落ち」と言えるのであれば手落ちと書けばいい。取って付けたようにオブラートに包むことで批判を「雰囲気」に回収して最初から退路を用意する書き方は、物を書く(それによって批判する)者のスタンスとしては最低である)、ここは氏のやり方に倣って自分も箇条書きにて回答したい。
念のためもう一度注意を促すが、これより先の文章は明確に『屍人荘の殺人』の結末に言及することになる。よって未読の方は、このくだらない文章を読む前に、興味があるなら作品を読むことをお勧めする。世評や他人の感想ばかり集めて読んだ気になるのは、読書に於いて最大の愚行である。
……登場人物のひとりが話す(映画における)ゾンビの特徴を実際に発生したゾンビに当て嵌めて話を進めるのは納得いかない、と氏は批判している。しかし、謎解きの道具である特殊設定(現実では有り得ない設定)の説明に筆を割けば割くほど、物語における主従が逆転して本末転倒になっていく。氏の指摘は尤もだが、これは特殊設定を活かしたミステリ全般が孕む問題であり、本作に限ったものではない。ほかにもそういう作品があるから本作でも問題にならないというわけでは勿論ない(こういった問題をクリアしている作品もちゃんとある)。本作はミステリ研究会の会員が作中でミステリについて言及するなど「お約束」を踏まえた舞台づくりになっていて、更にそこに加えられた異常な状況を、ゾンビ映画の「お約束」で説明している構図になっている。自己言及的なこういう遊びは、すれっからしのマニアもにやりとさせるためのサービスなのだと考える方が多少は面白く読めるというものだ。読書はすこしでも楽しい方がいい。
当該記事のなかでは数少ないまともな指摘なので、あまり長くなっても仕方ない。ここで止めておこう。
……記事から引用しよう。「第一の殺人ではゾンビがなぜ部屋から消えたのかは犯人からの自白によって落下したということが明らかになるけれども、さすがにそこは落下したという証拠を元に推理をして探偵が独力で辿りついて欲しかった」
端的に言って、この指摘は誤りである。まず、犯人指摘より前の段階、第一の殺人の真相が明かされた直後に探偵役は「詳しい状況はわかりませんが」という留保のうえで、「星川さんは進藤さんと揉み合いになり、手すりを越えて下へと転落したのでしょう」と推理している(267頁2-3行目)。この推理は厳密には真相と異なるが、星川麗花(ゾンビ)の落下に関しては自白の前に既に推理が為されている。何より、第一の殺人直後の現場検証に於いて「ベランダの窓は外に向かって開け放たれ、足跡というほど明確な形ではないが何者かが歩いたような血の跡がベランダの外へと続き、手すりにもべったりと付いていた」と手掛かりまで書かれている。
また、この項目のなかでは「最後に犯人を指摘する際、葉山か静原のどちらかが犯人だというところまで来て、結局しズはらの自白により犯人が決定したのも手落ち感があります。この腐対rのどちらが犯人なのかという所はちゃんと推理で絞って欲しかったです」と指摘が続く(誤字まで原文ママ)。
しかし、これに関しても、用心深い読者なら頁を遡って「彼女に見送られて俺は部屋に戻り」(191頁8行目)という記述を見付けたことだろう。この記述から、最後に自室に戻った人物(=犯人)が静原美冬であることは明白である。語り手の意図によって一部欠落した記述はあるが、彼は嘘はついていないので、上記の箇所も手掛かりとしては有効だ。ここまで親切に手掛かりが用意されてあるにも関わらず、確認もせずに批判する人間がいるとは思えない。もし確認したうえで上記のような批判を出しているのであれば、氏は真に恐ろしい書き手である。
……探偵役が提示した「全員が死ぬか生きるかという追い詰められた状況で、わざわざ密室の中の進藤さんを殺す必要があるのか」(142頁6-7行目)という謎の提示に対して、氏は「その真相が「こんな状況じゃなくても元から殺す予定だった」っていうのはさすがにしょぼすぎる」と批判しているが、これも正しくはない。
まず、第一の殺人(進藤殺し)の犯人は「元から殺すつもりだった」(290頁16行目)静原ではなく、ゾンビとなった星川である。よって静原の動機は、ここでは本来関係ない。
また、第一の殺人における眼目は「なぜ殺したのか?」に見せかけた「誰が殺したのか?」である。犯人が人間ではないという真相が明かされることによって「なぜ殺したのか?」も明らかになる。明かされる事件の構図から考えても、「動機がしょぼい」という批判は的外れとしか言いようがない。
……「推理の根拠となったのがただ1つ「布団の裏側に血がついていた」というものだけ」とのことだが、2.の回答でも書いた通り、そんなわけがない。
そもそも、この疑問自体がほとんど2.の重複で、さして意味のないものである。きっとこの項の手前で氏は一度記事を書くのを中断したのだろう。途中まで書いた内容を忘れて、同じ疑問を書いてしまったに違いない。
5.1つめの殺人の顔が食べられた謎
……このあたりから、箇条書きの見出しも日本語が怪しくなってくる(係りが不明瞭である)。
進藤の顔がゾンビとなった星川に「噛みちぎられた」理由は解決編で犯人が話している通り「星川さんに口づけをした」からである(292頁14-15行目)。氏は本当に解決編を読んだのだろうか。
……この項にいたっては、該当頁の典拠さえ誤っている。他人の文章をあげつらう労力の何割かを自分の文章に向けることをお勧めする。
7.登場人物の名前をゴロ合わせで覚えやすくしているけれども意味がない。
……難癖以上のものではない。
8.キャラの書き方が雑すぎる
……言い方を変えてはいるが、新本格に対する「人間が描けていない」という批判と何が違うのか。ここで繰り返すのも馬鹿らしいことではあるが、謎解きを主軸に据えたパズル・ストーリイに対して、心理描写の多寡をあげつらうのは的外れも甚だしい。こういう時に出てくる「深み」という言葉は、どうしてこれほどまでに浅薄に聞こえるのだろう。
9.音楽の伏線の回収は面白かったけれども、伝聞であるのが良くない。
……このあたりから作品評を離れて、遂に難癖をつけること自体が目的となってくる。氏によれば、探偵役とワトソン役が体験した以外に集めた手掛かりはぜんぶ信憑性はないそうだ。それでは、探偵役が証言を集める事自体が意味はなく、安楽椅子探偵は頭から存在を否定されることとなる。
10.最初のワトソン役の推理がものすごく適当な推理をする意味が分からない
……氏曰く「偽の推理をさせる場合は最低限納得できるものにしてほしい」とのことだが、こういうのは可能性の消去であって、推理に於いては当たり前の手順である。
……だから、どうしたというのだろう。
読者を驚かせることが推理小説の第一義でない以上、犯人の予想がつくことは瑕疵とはなり得ない。
何よりメタ読みは推理でもなんでもないので、それで犯人がわかることを殊更に主張する真意がわからない。
……叙述トリックが本筋でないことは誰が読んでも明らかだ。これもまた的外れな批判である。
……「――あげない」
強い口調。
「彼は、私のワトソンだ」(302頁15-18行目)
この箇所にすべてが書かれてある。氏が、こういうロマンティシズムに感興の湧かないひとなのだと思うだけである。
14.3つめの殺人の毒の入手方法は面白かった。けれども、毒を仕掛ける部分の描写がさすがに不足している
一から十まで書かれていないと理解できないのだろうか。書いてあることも理解できていないのだから、仕方ないのかもしれない。
15.屋上まで逃げた時に、丁度ヘリコプターが来るのはさすがにずるい
……「救助のヘリが現れたのはそれから四時間後」である(303頁18行目)。
何がずるいのかさっぱりわからない。
それでは、何時間後にヘリコプターが現れるのが現実的だというのかご教示いただきたい。
……読みやすさは、ひとつの美徳である。「引っ張ってくれない」と作者の「もてなし」を求めるのは、「お客様は神様だ」と宣うことと何が違うのか。こういう考えを抱く読者が改心することを願って已まない。
ここまで氏が指摘した「手落ち感のあった16の箇所」に対して回答したが、その後も熱心に指摘が書き連ねられている。
それらのひとつひとつに付き合う程私も暇ではないが、看過できない指摘もある。
「選評で北村薫が「奇想と本格ミステリの融合」と評しているのだけれども、ただゾンビを出しているだけだと思います。化け物が出てくれば何でも奇想とするのはさすがにどうかとは思いました」
……恐ろしい。とうとう選考委員の北村薫氏まで批判の対象となるのである。
推理小説に於いて「奇想」という言葉が謎の不可解さや意外な真相を形容する語として用いられることは、多少推理小説を読み慣れている者には周知のことだろう。もちろん北村氏も、ここではゾンビの存在を踏まえたうえで事件の不可能趣味や真相の意外性を以て「奇想」と評して、それが本格ミステリの作法に則って書かれているから「融合」と賛している。
決して「ゾンビ」が出てくる事自体を「奇想」と評しているわけではないことは、前後の文章を読めば大半の読者にはおわかりのことと思う。文脈が読めない読者というのは、作者にとっては脅威以外の何物でもないだろう。
田舎者も村の外を一歩でれば、自分の価値観や考えが偏ったものと知ることとなる。
そこで考えを改めるか、それともこれまでの考えに固執するかで人間は分かれる。
すくなくとも、村の外に出ることなく、出ていった者や訪れてきた者を思い込みで批判する人間は、内と外どちらにとっても害悪以外の何物でもない。
まずは卑小な自意識を捨てて、村の外に出ることを勧める。(WY)