はてなキーワード: 証左とは
正直に言うと私は夢見りあむのことが嫌いだ。大嫌いだ。なんで嫌いなのかはっきりさせるために夢見りあむの嫌いなところを書き出して分析したメモなんかも残っている。真剣に嫌いだ。
全部は書ききれないので省くが、アイドルという職業をなめているのか? とか、生まれ持った資質(胸がデカい、顔がカワイイ、実家が太い)のおかげで今まで自分が享受してきた「得」を過小評価して、マイナスの側面にだけスポットを当ててぬるく生きていそうだ、とか、夢見りあむが登場してからしばらくずっとそういう(おそらく嫉妬込みの)負の感情がぐるぐるしていた。
しかし同時に、夢見りあむが好きな人もたくさんいるだろうなとも思っていた。
こういう言い方だと語弊があるかもしれないが、「たかがフィクションのキャラクター」である夢見りあむにここまでの強い感情を持ったという事実、私の「夢見りあむが嫌い」という感情が、むしろ夢見りあむというキャラクターの持つ「力」を私自身に証明することとなった。
私のTwitterにも「夢見りあむ」という新人アイドルを愛し、楽しんでいる人たちがたくさん流れてきたし、そういう空気に水を差すのは本意ではなかったから、夢見りあむについて積極的に言及することは避けてきた。
だが、今回の選挙の夢見りあむ周りの動向を見ていて、夢見りあむ(とその周囲)に対する感情が爆発したのでここに書いている。
人気投票や選挙というのは、(大規模なものであればあるほど)「空気を作ったものが勝ち」という形になりがちだと思う。だから、界隈の空気を見ている中で、素朴に「今回の総選挙は夢見りあむが上位になりそうだな」「下手したらCGになるかもしれないな」という予感はあり、今のところその予想は当たっていて、それについて特に衝撃というものはなかった。なかったはずだった。
それなのに、夢見りあむが上位にいることが、なぜかとても悲しく思えた。
まず、夢見りあむというアイドルに対する雑感を述べる。
夢見りあむは、表面的には現代の世相を強く反映したアイドルであると思う。所謂「メンヘラ(もどき)」や「サブカル」を全面に押し出したアイドル。髪色や服のデザイン、ドルオタ設定など、絶妙なリアリティバランスの上に成り立っていて、それゆえに彼女と共通項を持つ人間の感情やらなんやらを仮託されやすい。「夢見りあむ〇〇してそう」みたいなオタクの意見には彼ら彼女らの実体験が多分に含まれているように見える。そういうことを狙ったキャラ造形であると思うし、その試みは上手くいっていると思う。
彼女はアイドルの持つ「使い捨ての消耗品」としての面を認識したうえで、それでもアイドルになろうとした人物だと思う。
「アイドルは使い捨ての消耗品」という夢見りあむの発言は悪い意味でよく取り沙汰されるが、これも「アイドル」というものが確かに持っている側面には違いない。そしてこれは、夢見りあむが「こうなりたい!」という強い憧れからでなしに、完全なる消費者、客の目線でアイドルを見ていた時代があるからこその発言であると思う。
そりゃ若さゆえの見通しの甘さもあっただろうし、「ちやほやされたい」という、「なめ腐った」と言われてもおかしくないような動機、恵まれているのにつらいだのやむだのほざく甘ったれた態度に、嫌悪や憎悪を抱く気持ちは痛いほどわかる。私もそうだから。しかし、そんななめ腐った動機で、負の側面を認識しながら、そのうえでアイドルとなった夢見りあむには、その覚悟に見合った輝きが備わっているとも思う。私は大嫌いだけど。
ここで総選挙に話を戻す。
Twitterなどにおける夢見りあむの扱いを見ていると、総選挙で夢見りあむが上位に食い込んだことに、某五条さんや某コイルやの騒動のときのような大衆心理が全く影響しなかったとは、残念ながら思えない。
勿論、夢見りあむに投票した人が全員愉快犯的な感情でそれをしたわけではないだろうと思う。真剣に夢見りあむを愛して夢見りあむに票を投じた人だってたくさんいるはずだ。
しかし、愉快犯の浮動票が流れなければ、夢見りあむがここまで上位に食い込むことなどなかったに違いないという確信はある。
そして、浮動票を投じた層の大半は、きっと一年も経てば夢見りあむのことなんて忘れて別の楽しいコンテンツで遊んでいるのだろうなと思う。
今回夢見りあむに投じられた浮動票は、多くの人々から夢見りあむが「使い捨ての消耗品」として扱われていることの証左であると思うのだ。
「アイドルは使い捨ての消耗品」と口に出した夢見りあむがまさしく「使い捨ての消耗品」として利用されていることに、痛快な皮肉を感じている人もいるだろう。
私は夢見りあむが大嫌いだが、夢見りあむのこの皮肉な動向に対しては苦しさを覚える。
夢見りあむの一連の発言を見るに、彼女は確かにクズで意識が低くて甘ったれたクソ女ではあるが、オタクの目線や心理に対する主観的な理解と、アイドルという仕事に対する客観的な理解を持った新しいアイドルであるとも思う。
「オタクちょろい」と言いながら、そのちょろさが飽きやすさの裏返しであることを彼女は理解しているはずだ。理解しながら、それでもその一過性のちやほやを喜ぶ。夢見りあむにはそういうところがある。
「炎上でもいい!目立ちたい!」は紛れもなく彼女の本心だろう。様々な事情のもと歪んだ承認欲求の正直な発露だろう。しかしそれは、一時的に満たされてもそこから先に繋がることはなく、また新たな飢餓を生む「欲」でしかなくて、「何に代えても実現したい夢」ではないはずだ。「炎上『でも』いい」ということは、炎上でない方法で目立つ方が嬉しいということなのだから。
だからこういう「その場のノリ」みたいなもので唐突に上位になってすぐ飽きられるネタ枠でいるうちは、夢見りあむ本人は永遠に満たされない、穴の開いたコップのままのように思えて、それが悲しかったのだと思う。
「炎上アイドル属性」とか、「アンチの行動が全部りあむの燃料になる」とか言って夢見りあむを持ち上げてる連中は、夢見りあむについて真剣に考えたことがあるのか? 夢見りあむが何を考えているのかとか、夢見りあむが何を望んでいるのかとか、そういうことに欠片でも興味を持ったか? 夢見りあむのことなんて流行りのネットのおもちゃぐらいにしか思ってないんだろ? シコれる野獣先輩程度にしか思ってないだろ?
どうせお前ら一年後には夢見りあむのことなんてすっかりさっぱり忘れてるだろ。私もきっと忘れてる。私は「嫌い」というところからそれなりに真剣に誠実に夢見りあむに向き合ったつもりではあるけれど、それでもやっぱり一年後には忘れていると思う。
でも、たぶん年に一度くらい、命日にふと故人を思い出すように夢見りあむを思い出すんだろうなという予感もある。悲しい。
2週かけて傑作アニメを2本、ほぼ毎日各1話ずつ見るというのは、十分贅沢に含まれると思うのだがどうだろう。
なんでそんな事になったのかは今でもよくわからないが、とにかくゾンビランドサガとケムリクサを同時並行で見始め、昨日見終わった。
てか、リアルタイムで話題になる程度に人気だった両作を、1~2シーズン遅れで見ることになった理由の一端は、半年前にこれまたふと始めたアズールレーンに、通勤時間と家で起きている時間の多くを取られたことにあるのは間違いない。
現代人のオフタイムはアニメ・ゲームがごたまぜになって、ユーザ時間の取り合いでしのぎを削るという現実の証左かも知れない。
ちなみにアズレンもずいぶん遅れて始めたあたり、自分が筋金入りの流行遅れなのは確かである。
ともかく、熱心にやりこんでいて気がつけば寒さも緩み、お陰様でゲームも9章まで行って個人的に一段落したタイミングで、魔が差したかのように上述のアニメに見入った次第。
その感想を一言で言い表すなら、とにかくすげー疲れたに尽きる。
出遅れて見始めたアニメを一気見する人は多いと思うが、傑作の理由の1つである密度の濃い作品を、しかも全くジャンルが違う作品を2つ立て続けに見るのは、相当にエネルギーが要ることを思い知らされた。
もちろん、仕事の疲れや駄作につきあわされる徒労に比べたら、遥かに心地よい疲れだったが。
むしろめったに出来ない贅沢な経験という意味で、ここまで素晴らしく心地よい疲れを提供してくれてありがとうと言うべきかも。
なんでゾンビランドサガを見ることになったのかは、今以てよくわからない。
わからないが、当初は物凄い事故に遭ったかのような衝撃、いや笑撃だった。主人公もいきなり衝撃を受けて死んだわけだし。
マジで冒頭の軽トラ、あれ初見で笑わない人なんているのだろうか。
興味はあれど全く楽しむ気ゼロの状態で見て、それでも初っ端から声を上げて笑った作品なんて、もしかすると、ハルヒのみっくるんるん以来かも知れない。
ちなみに2周目もう1回あのシーンを見たら、今度はしっかり悲しかったので一安心である。本来人が死ぬのは悲しいことだし。
さすがは傑作。
ただし、じゃあ2018年のアニメとして、宇宙よりも遠い場所やゆるキャン△、はたらく細胞より凄いかといえば、そこは微妙。
気になったのはラスト3話。ラブライブ!第1期でやらかしたことまんまじゃねーか。
ラブライブ!でもラスト3話は当時から評価が微妙だったのに、また繰り返すってどういうこと?
問題は、あの話を描くことで主人公さくらのファンが増えるのか?という疑問。
この展開の先行者たるラブライブ!で主人公の高坂穂乃果は、件の展開が原因かはわからないが、特に女性ファンからの人気がワーストだったと聞く。
ゾンビランドサガの源さくらは、そこら辺どうなるんでしょうね?
でも、それ以外は本当に面白かった。
1話からどんどん盛り上がるその勢いは、間違いなく2018年アニメでは最高のアツさだったと思う。
そして一番の山場が中盤の6話7話。アイドル経験者の純子と愛、pixivでは純愛コンビと言われている2人のエピソード、まさかアイドルアニメで「尊い」気持ちにさせられるなんて思ってもみなかった。
特に純子の可憐なルックスにお淑やかな喋りと、低くパワフルな歌声のギャップにはやられた。
対する愛の、今となっては懐かしいゼロ年代JKなルックスとキャラに、種田梨沙氏のキャスティングは本当に見事。
無理矢理まとめるなら、これは正しくラブライブ!2.0になるかもと思った(サンシャイン何それ美味しいの?)。別にそれが一番言いたいことじゃないけど。
ともかく2期は見逃せない。今から楽しみにしておこう。
けもフレという「他人の褌」から決別し、ケムリクサを作ったたつき監督はまさしく天才現るという形容が相応しい。
たつき監督の作風の根幹は優しさであるとは各所で言われてきたが、その真骨頂は会話劇だろう。
どうやったらこんなに、不快なキツさのない会話が展開できるんだ?と思わずにいられない。もはや異能という他ない。
赤い木の発端も、その根っこには真剣な想いが流れていることを、誰の言動にも怒りを感じることなく見進められたのは、今振り返るととんでもない完成度と言わざるを得ない。
てか、個人的にはこういう展開を途中で白けず、逆にかなり真剣に見入ってしまったのは、実は色々アニメを見てきて初めてかも知れない。ちゃんと作られてれば面白いんだね。
もちろん、絵も素晴らしい。
物凄いディストピア感溢れる世界なのに、不思議と見ていて退屈だったり辛かったりというのがない。
これまた逆に「ここって、元々こういう場所かな?」と思いを巡らせたのだが、これも個人的には滅多にないことである。
そこに来てラストのあの光景、まさに「驚きの白さ」であり、絵だけで喜びと安らぎが余すことなく表現されていたと思う。
ちなみに最終回といえば最後の歌、エモかった。あんなに歌が神々しく聞こえちゃっていいの?みたいな。
というわけで、たつき監督が未来の宮崎富野押井レベルに到達するまで、頑張って生きてみようと決意した次第。
宮野真守氏・野島健児氏ともに、あんなに難しい人物を完璧に演じていた。
どちらも一歩間違えれば、かなりサムい、イタいキャラになりかねないし、そうなったら作品としておしまいと言っていいくらい、物語上重要なポジションである。
目に見えてわかる身体障害者です。シチュエーションは違いますが、よく譲られるのを断るので、その時に思っている勝手な理由をいくつか書きます。
全然関係ないのはわかりますが、今日は2度ほど辛い思いをしたので、ここに吐き出す感じで。
1) 目的地が近い
座るのがそもそも面倒なパターンですね。リュックで通勤しているので、余計に。
2) 優先席前に立っていて、目の前の人が狸寝入りを決め込んでいて、その横の人に譲られた。
目の前の人が譲ってないのに、別に横から譲る必要はないですよって思ってます。もちろん目の前の人が体調が悪いケース、内部障害があることはわかります。
ただ、私の杖や障害箇所に目がいった瞬間に目を閉じ、駅につくたびにまぶたを動かして様子を見る(見てるとよくわかる)人を、ほぼ毎日見ていると、心が歪んでいくものです。
3) 期間駅付近まで座っていて、「もうすぐおりますから」と譲ってくれる
たまにおられます。(2)の狸寝入りさんが「あ、すみません!気づきませんでした!」と言って合わせ技をしてくるケースが多いですね。おきてる方は見てればわかります。個人的には優先席を譲るつもりなら寝るな、イヤホンつけるなと思いますし、私も重度の障害を持つ方のために基本起きてます。
こういう申し出は断っても執拗に「いや、降りますから」と勧められるのが本当に辛い。勝手な話だと思いますが、心情的には絶対座りたくないやつです。
N=1ですが、通勤時間帯はみなさん消耗しているのか、痛い目や心が削られる目にあうことが多いですね。何度も転ばされましたのでもう慣れましたが。今日も空けていただいた優先席に座ろうとしたら、横から女性にヒップアタックを食らって、転びかけましたし、乗り換え後も譲っていただいた席に座ろうとしたら、イヤホンをつけたサラリーマンさんに席を持って行かれました。
個人的には優先席は不要だと思っています。日本は個人主義的すぎて、このような余剰リソースを弱者のために用意する施策はうまく行かないと思っているので。モラルのない人が余剰リソースを掬い取っていくのをみなさんも色々なところでご覧になっていると思いますから。
もし「周りの人はもっと善意にあふれている」なんて思うなら、みなさんも杖を買って、通勤時間帯に電車に乗ってみてください。きっと心がささくれ立つ思いができること請け合いです。
追記:
予想通りの読み方をされて満足しています。私は「譲れ」「恵んでくれ」ということを書いたのではなく、優先席前の人の行動を通して、普段見えない人の悪意に触れてしまうのが辛いだけです。普段普通に歩いているあなた方が気づかないような。「座りたい」とは一言も書いていませんのでおわかりいただける方もいらっしゃるかと思いましたが。でも満足です。いつも見ているものがそこまで間違っていなかったとわかりましたので。
個人主義が蔓延、と記載いただきましたが、日本人は明治時代まで超個人主義の国であって、未だそれが色濃く残っているだけだと思っています。これについては言及する書籍がたくさんありますし、社会保障関連のアンケートを見ればよくわかると思います。
所得については、同世代の男性の平均以上いただいているので、そこは皆さんと同じかなと思っています。障害年金も受け取ってませんし、控除も受けてません。というより、このような言及が出ること自体「個人主義」の証左であるとも思いますが。
うわー、マジで読んでない人だ
認定も何も、君が差別主義者でないと言える理由が一つでもあったかね?
人の、虐げられるKKOの痛みがわかるなら「メリット」なんて利己的な発想すら出てこないわ。ましてや、人を「キモい」と思う感情が惜しいなんて「虐げ続けたいです」という宣言以外の何?それ以外のどういう意味が?
私は神ではないのだから差別の維持を決める権限など持ち合わせていない。
君の言う「真にKKOが救われる方法」とやらが実現されないのは荒唐無稽だからに他ならない。
「すべての人類が感情の一部を禁じられる」ことが荒唐無稽でなくてなんだというのか?
人類が「キモい」やそれに類するものを捨て去る日が来るのを待っていればいい。
元増田です。
増田さんが「叩く」「攻撃」という言葉で何をさしているのかをはっきりと定められないままお返事するので、ずれた返答になっていたら申し訳ありません。
あの祝辞は東大新入生男子を差別の直接の加害者として責めるものではありません。差別を含む構造の中で自分が有利な位置に生まれ育ったラッキーを自覚してほしいというだけです。個人の罪の話ではなく、社会構造の話です。
===上野と意見を異にするフェミニストをいさめる責任について===
例えば東大入学式で祝辞を述べた有名人である映画評論家の蓮實重彦には、町山智弘の映画評論について逐一何か言う責任があったのでしょうか。なかったと思います。それと同様です。例が古くてすみません。
そして、上野の主張によってラディカル・フェミニストや表現規制推進派やいわゆるツイフェミの主張が変わらないのは、上野に「本邦フェミニズムの旗手」というほどの影響力がないことの証左であると私は解します。
上野のリベラルorマルクス主義的フェミニズムの主張にはまた別の突っこみどころがありますが、それはそれとして別個に批判すればよいでしょう。例えば下記のページのように。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-5924c7.html
増田さん曰く「女性専用車両賛同派のロジック」である「叩かれたくなければまず身内の罪人を叩け」については、男性に対してもフェミニストに対してもその他いかなるカテゴリーに対しても、かような言い草は不毛な八つ当たりだと私は考えます。八つ当たりをくらった増田さんが八つ当たりし返したくなるほど怒るのはもっともだと納得もし、私の行き届かない文章でその怒りに油を注いでなしまったようであることに申し訳なさも感じます。
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あと一つ、純粋に不思議でおうかがいしたいのですが、東大新入生男子は男女差別をしない賛同もしないと増田さんが信じる根拠は何でしょうか。他大学の男子と同程度には、差別をする人もしない人もいると思うのですが。
高橋洋一の記事には必ずこういうブコメを付ける者が湧くが、こいつらが経済学の知見をもって高橋洋一に反論しているところを見たことがない。
タイトルに「高橋洋一」と書いてあるだけで、読む価値ないと分かる良心的な記事。
http://b.hatena.ne.jp/entry/4666836493299956834/comment/masasia0807
おそらく、こいつらは高橋洋一を「憎きアベの仲間」と認識しており、問答無用で高橋洋一を否定したいという党派性根性だけで動いているのだろう。
実際に高橋洋一を否定するためには、論説を熟読し、理解した上で、経済学の知見に基づいた妥当な反論を述べなければならない。だが、こいつらにはそれを行うだけの経済学の知見がない。高橋洋一が何を言っているのか理解できないし、理解できないから反論もできない。だから、最初から読まないというなんとも情けない戦術を選ばざるをえなかったのだろう。具体的な反論をせず、定型文で人格を否定することに徹しているのがその証左だ。
読まないのは個々の勝手だ。だが、論敵だからといって、何の検証も反論もせずに周囲に無視を呼びかけるような行為は慎むべきだ。それは、反民主主義的行為であり、知性の退化でしかない。高橋洋一が気に入らないなら、その論説を読み解いた上で、真正面から反論を挑むべきだ。
・文章を書くときは主観的になりきる(感情移入する)必要があるが、プログラムは客観的にメタな考え方でつくる必要がある
⇨コンピュータやシステムの立場になって考えている。UMLのユースケース図は証左。たぶん、増田がコンピュータに感情移入できないから、そのように思うのだろう。クルマを愛車と呼ぶのか、単なる移動手段の一機械としか思えないか。どちらが良い悪いは無いけど。
・プログラムは意味や内容がわかっていないことについて書けない
⇨かつてはやり直しコストが高かったのでウォーターフォールモデルが主流だったが、現在はWYSIWYGのごとく、コードを書いて、動かしてみて、検討しなおしてコードを書く、といった繰り返しで調整して作っていくこともそんなに変ではない。
作りたい成果物が決まっているのは、文章も何らかの意図を持って書くのだから一緒。
私の結論:プログラム言語は、英語にも増した世界共通の言語(よく変わるけど…何処かの進学塾のセンセが書いていたけど、数式のほうがさらに普遍性が高い)
女の考える男女平等とは、雇用機会の均等や企業・役者などの組織における昇進などを平等にしてほしいという文脈での男女平等。
それとセクハラやパワハラなどの雇用環境の改善も男女平等の改革の範疇に含まれている。
しかし男が考える男女平等とは、上記の内容も含めた上での更なる内容が含まれているのだ。
その意味では、男の考える男女平等の方が、女の考える男女平等よりも厳しい。
例えばデートでは割り勘が基本で、もしくは女が男に奢ってほしいと普通に考えている。
男に対して経済力や甲斐性を求める女は、恋愛対象・結婚対象からすぐに排除する。
仮に日本で徴兵制が再導入されたとしても、その対象が男だけだったとしたら、猛反発が起こるだろう。
今までの「男社会」では、男だけが徴兵や納税の対象だったので、男女平等はむしろ男の方が強く望んでいる傾向が強い。
男だけに過度の負担や責任が押し付けられる代償として、女の人権を少なくして公平感を持たせていた。
男の不細工は努力次第で立派な社会人になれる保障があるのと比べて、女のブスは最初から人権が与えられていない状況だったこともその証左。
看護師とか療法士とかの他人の生命を預かる仕事、教職のように他人の人生を預かる仕事ができる精神状態には見えないし性格的に向いてないように見える。
知りもしないのに決めつけて見下すなクズが、と反論されるかもしれないが、匿名と言えどもそういう反応を他人に返してくることが何よりの証左。
患者や生徒に気に入らないことされたり暴言吐かれた時に、どう対応する気だ?
年齢的になれるかどうかより、人間性で適性があるかないかからまずは考えた方がいいんじゃないかな。
他人への共感力がある、EQが高い人なら看護師とか療法士とかの病人を支援する仕事が向いてると思う。
コミュ力に難があるサイコパス系なら医者、弁護士、あとなんだったかな?