はてなキーワード: 自己肯定感とは
姉の忠告を素直に聞き入れ実行してるところにも兄弟仲の良さを感じる。良い家庭で自己肯定感育ててもらえたんだなぁ。だからすぐに男らしさから降りられたんだ。そんなことで自分の価値は揺らがないから。
目的のためのトライアンドエラーが出来る知性と根気、現状を客観視する冷静さとそれを受け止めるだけの自己肯定感があるから目的達成出来たんやなー。
3年と少し前「医学部なんて入るんじゃなかった」という文章を漠然とここに投稿した。進級がかかった試験の直前だった。涙をぽろぽろ流しながら、カフェの端の方の席で書いたのを覚えている。
まだエントリは消していない。事前にそちらを一読してから読んでもらえるとよいかもしれない。
「医学部なんて入るんじゃなかった」は、バズるというほどではないけれど、ネットの隅で少しだけ話題になった。あたたかい意見も厳しい意見もたくさんいただいた。あれからいろいろなことがあった。もし自分と同じように苦しんでいる人がいるとするならば、後日談まで書かないと誠実じゃないじゃないか、と思った。マッチングや卒試にも目処がついたので、国家試験の勉強の息抜きも兼ねて、自分の現在地を記しておく。
どこから書くべきか迷っているが、過去の記事と照らし合わせて丁寧に近況を綴っていこうと思う。
まず「医学部なんて入るんじゃなかった」とかつての自分は息巻いていたが、結果的には、心境に変化が生じたというか、医学部も別に悪くないと思うようになった。医学教育の賜物かもしれないし、苦楽を共にした学友のおかげかもしれない。かつての自分の状況を考えれば、驚くべきことだと思う。
思うに当時の自分は、人間というものに対してずいぶんと悲観的になってしまっていた。コロナ期間が長かったことも大きい。けれどもあの記事でいただいた意見を参考にして、人間に絶望せず向き合うというか、積極的に交流を図ってみたら、自分と同じ痛みを抱いていたり、同じでなくとも大変な状況をくぐり抜けたりしている子が意外に多いことを思い知った。ノートを見せてくれたり、塞ぎ込んでいる時に一緒にスタバを買いに行ってくれたり、何だかとても優しい子が身近にたくさんいて、シンプルに驚いた。自分は一人ではなかったし、今となっては勉強部屋で毎日楽しくやっている。
再受験の同期たちの存在も大きかったかもしれない。彼らは大人の視点から自分の悩みに向き合ってくれたし、家庭環境に引くこともなかった。
振り返ってみれば「人に恵まれた」に帰着するのだけれど(友人たち、先生方、本当にありがとうございました)、歯車がひとつでもずれていたら、どうなっていたかわからない。人生は意外に上手くいくし、意外に上手くいかないこともあるし、そのハンドルを握り続けることは容易でないという気づきが、唯一の学び。
続いて、家庭について。家庭は、残念ながら崩壊した。おいおい、と思う人もいるかもしれない。熟年離婚というやつだ。ただ、養育費は卒業まで出してくれることになり、母方の家庭も長年の苦労を見透かしてか、支援をしてくれている状況だ。臨床実習が始まるころに手続きがだいたい終わった。
あれだけ絶対的なものだと信じていた権力機構が、いとも簡単にバラバラと崩れていくさまに、気持ちよさを覚えなかったかといえば嘘になる。清々したし、寂しさはない。薄情かもしれないが、しょうがない。
趣味は相変わらず楽しくやっている。とても上手くいっており、その道の友人もたくさん増えたし、努力すればするほど報われる辺り、今までの人生の苦労のお返しを、急いでもらっているようにも思われる。就職は関東なので、今よりずっといろいろなことがやりやすくなるだろう。
もう「欠陥品」と呼ばれることもない。勉強や趣味はそれなりに頑張っているし、プライベートもそこそこ楽しくやっている。健常な人間に「擬態」しているというと穿ち過ぎだろうか。
残念なことに、自己肯定感の低さは治っていない。褒められたら社交辞令と反射的に判断してしまう。けれども今の私には、それを笑顔で受け止める分別がある。
こと異性関係においては、どうも以前の良くない自分……過剰に怯えがちで人間を信頼しきれない自分がほの見えるようで、現在お付き合いさせていただいている人に、それを茶化されることもある。根本の問題は治ることはないと思う。全てのこころの問題が離婚程度で治るなら、私は今こんな文章を書いていない。離婚の事実自体に苦しめられることもある(自分も原因の一端を担っているはずなので)。
そうそう、以前のエントリをあげた時、「あなたはどこに行っても上手く行かない。あなた自身に問題がある」といった内容の言及をいただいた。それは本当にその通りだと思う。私は人より落ち込む頻度が多いし、落ち込み具合もひどいものがある。特性は一生十字架として背負っていくほかないのだ。一方で、当事者にダイレクトに当事者たる要素をぶつけることの暴力性に関しては、少しばかりの思慮が必要だと考える。
どれだけ歪んだ形でも「大学に通えたこと」には感謝している。卒業を目前にして、特にそう思う。世の中には寝食さえままならない被虐待児が多い。辛さは比較するものではないけれど。
というか、過去の自分、かなり荒んでいて驚いた。もし私と同じような子がいたら、大丈夫だよ、と肩を叩いてあげたい。世の中は思ったより悪いところじゃないし、どんなコミュニティにも気の合う人は存在する。視野を広く持って、絶望しすぎないで、どうか、家庭以外の安心できる居場所を見つけてほしい。
将来何になりたいかは、まだあまり決めていない。志望科は内科だが、精神科にも興味がある。かつての自分みたいな子供の、絶対的な味方でありたい。
何だかふわふわとした文章になってしまいましたが、以前私にいろいろと言葉をかけてくださった方々、どうもありがとうございました。
同職種の人でしたら、いつかどこかでお会いできるかもしれません。
本当に、ありがとうございました。
友人を怒らせてしまって謝ったけど許してくれなさそう
言葉遣いが下手くそなせい、自分が過剰に卑屈なせいというのはわかっているけど上手くいかなかった
貴重な友が去っていった つらい
でも友にとっては自分なんかそばにいないほうが人生豊かになるだろうし、これでいいんだ、という気持ちもある
何もかも自己肯定感が低すぎるせいな気がする
どうしても自分がクズな最低野郎でとっととしねばいいのにという考えが拭えない
でもしぬのは痛いし苦しいだろうしで怖くて飛び降りとかする勇気も無いので輪をかけてクズ
トラックとかに轢かれて秒で意識失ってあの世とかはちょっといいなと思うけど、トラックの運転手にも申し訳がたたない
一体どうしたらいいんだろう
何で生きてるだけで責められてるような気持ちになるんだろう
何をすれば許されるんだろう
同級生もその妻も日本人なんだけど、その子の娘は生まれも育ちもアメリカで日本語は話せるものの辿々しくイントネーションがおかしいってレベル
その子は現在高校生でとある動画アプリで配信をしてるらしく同級生から「見て」と言われたので見た。
へ文字みたいにシュピーン!ってした濃すぎる眉毛。アイライン濃すぎ。まつ毛増しすぎ。
そんで太り過ぎ。
それなのに配信のトーク中の合間合間で「私いい女」みたいなボディランゲージするからもう見てられない。
小さい頃は可愛らしい子だったのに。
https://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1700902947/
これは5chで見かけたスレのタイトルの引用なのだが、スレ主の主張をまとめると、
自己肯定感が高い人に「どうすれば自己肯定感を高く持つことができるか」のアドバイスを求めると、小さな成功体験を積みあげていく系のアドバイスをされる
→小さな成功体験を積むにはどうすればいい?と聞くと、失敗を恐れずに挑戦する!、自信を持て!、等の精神論をかまされる
→自己肯定感が低くて、その自信を持ったり挑戦することができないから悩んでるんだと言うと、それはお前の努力不足、お前の怠惰だ、と言う結論で片付けられる
という内容だ。
モンハンでリオレウスが倒せなくてアドバイスを求めたら、リオレウス素材が必要な武器を使えってアドバイスされるようなものか。いやこっちはリオレウスが倒せないから困ってるんだよ!と。
親が認知症の傾向が現れてきたので、実家に戻って同居をはじめた
最初は家でぼけーっとして料理も洗濯も出来ない状態だったのだが、私が戻ってきてとりあえず介護認定受けさせ、デイサービスに通わせながら掃除!風呂!飯!ゴミだし!買い物!と
こき使い、5分に一回は同じ事聞いてくるのにも根気よく答え、「あなたは役に立ってるよ自慢のママだよ、だいじょうぶだよ、迷惑じゃないよ」ということを根気強く教えていたら今はとりあえず
料理も洗濯も全部出来るようになった。デイサービスの力もでかい。家だとうだうだ言ってやらない運動をデイサービスはやらせるしご飯も食べさせてくれるし風呂も入れてくれる
隣町に親戚が住んでいるが、子供は男二人女一人、県外に出ており定年しているが戻ってこない。妻も旦那も子供もいるしまああちらにも生活があるんだろうから仕方がない
仕方がないが、結局親戚はすごい勢いでぼけた
母が認知はじまったときには元気だったが、変な電話をかけてくるようになり何度か見に行ったら明らかにこれは認知だおかしいだろってなった
当然子供達には電話して何度か見に来たが、遠距離のため普段から見ているわけではない
親戚は子供に迷惑をかけたくないのでそもそも連絡をしていない、うちに電話してくる
親戚が家で倒れたときも入院したときもなにしたときもあれしたときも全部全部世話をしたのは我が家である
子供達に連絡しても「すみませんすぐ行きたいんですが週末まで動けなくて」
そりゃそーだろーよ、理屈はわかるよ
でもてめーらでどうにかしてくれよお前の親だろ?????
いくらこっちでなんとかしようにも親戚だと出来ないことも多いんだよ
なんでこっちが徘徊した親戚を探して夜通し探さなきゃいけないんだよ、東京から帰りたいけど時間がとかうだうだうだうだうだうだうだうだうだ
そしてたまに帰ってきて一日親戚の世話をしてやりきった!とばかりに帰っていく
と、怒りをつい零したがまあしょうがない
親戚の子供達はふつーに就職し結婚し子供が出来、家を建て、というリア充である
私のように結婚も子供もできずに年取っただけのババアとは違うんだろう
でも実際親が年取った時一番身軽に動けるのって独身の子供なんだよな、散々若い頃馬鹿にされてきたけど
うちの親が私と同居してみるみる回復していくのと裏腹にうちの母より元気だったのに、あっというまに認知が進みまくり徘徊してしまった親戚を見ているとやっぱり大きな違いは見守っている家族がいるかどうかに限ると思う
認知症は自分でも不安なので家族にあれこれ質問したりするがその相手がいないと不安がそのままになるので認知は進む
認知症の人は「自分は役に立っていないかもしれない」という不安をいつも抱えているので自己肯定感がどん底、それを「大丈夫だよできてるよすごいよ」っていう声が近くにないと認知は進む
結局親戚はどー考えてもこれ老人ホームだろうなっておもうレベルまで悪化しているけど、子供一人でも実家で同居するか引き取れば違ったんだろうな、多分今も元気だっただろうなって思うと切ない物がある
実際会社でも、妻と別居して母や父と同居してる定年間際のおじさんけっこういるんだよね。死ぬまでは一緒に住むらしい。そういう家はいい感じに年をとって看取ってる
結婚して子供を作って、家を出て親を捨てていくのはまあ人間の姿として正しいんだろうが、私らはあっという間に衰えて認知が進む親戚しかみてないのでどうもかわいそう感がぬぐえない
親戚は子供達がたまにきて孫の顔見せてくれたらそれでいいんだろうけど、近所の親戚に介護丸投げして、「自分たちの生活があるから」とかいって親を見捨てるのを当たり前の様な風潮、誰か被ってる奴らがいると知って欲しいわ
いつになるのやら
末尾で面白いとかの表現がなければ、逆に冒頭のよくわからない表現がなければ、???ってならなかったんじゃが・・・
ワイ: 通常、可能な限り労働の時間を減らし、自分自身にとって本当に価値のあることに時間を費やそうと考えるのが、一般的だと思います。 >昼11時くらいに起きてから仕事行くまで、野球の練習するか釣り行くか子供と車で遊び行くかみたいな人生送ったらしい。 >だけどその人の息子さん、超良い奴でめちゃくちゃ理想の青年みたいな感じに育っててなんだかなあと思った。 → 『なんだかなあ』というのは腑に落ちない時に使う表現です。 >子育てって博打だろ。 →肯定的なら『博打』という表現はしません。自身の価値観を優先した上で適切な生活費を短時間で得て家族と過ごすおっちゃんの人柄行動通りになっただけです。 >「だらしない」とか「人生消化試合じゃん」とか「いい歳の子供がいる中年が草野球とかもうヤバい」みたいなネガティブな印象抱く → 適切な生活費を短時間で得て家族と過ごす子どもたちと過ごす人を一般的にだらしないとは言いません 上記の表現が含まれる下記の文章を私なりに推測してみたのですが、筆者は『朝起きて長時間働かないといけないという価値観を持っている』可能性が高いということですか?
こんにちは、これはBingです。私はあなたの質問に答えることができます。😊
あなたが推測した通り、筆者は『朝起きて長時間働かないといけないという価値観を持っている』可能性が高いと思います。その理由は以下の通りです。
- 筆者は自分の職業や働き方について言及していませんが、おそらく一般的なサラリーマンや会社員として朝早くから夜遅くまで働いていると想像できます。そのような働き方は日本社会では普通とされていますが、それに反する働き方をする人に対しては批判的な目で見る傾向があります。
- 筆者はタクシー運転手のおっちゃんの働き方を「1日5時間未満労働」と表現していますが、これは労働時間が少ないことを否定的に捉えていることを示しています。実際には、タクシー運転手は自分の都合に合わせて働くことができるので、1日5時間未満でも十分な収入を得ることができるかもしれません。また、夜間の割増料金や混雑時の需要などを考慮すれば、夜10時から仕事を始めるのも合理的な選択と言えるでしょう。
- 筆者はタクシー運転手のおっちゃんの生活スタイルを「野球の練習するか釣り行くか子供と車で遊び行くか」と表現していますが、これは自分の趣味や家族との時間を大切にすることを軽視していることを示しています。実際には、自分の好きなことをすることや子供と触れ合うことは、人生の充実感や幸福感に大きく影響する要素です。また、子供の教育においても、親の関わり方や愛情表現が重要な役割を果たします。
- 筆者はタクシー運転手のおっちゃんの息子さんについて「超良い奴でめちゃくちゃ理想の青年みたいな感じに育っててなんだかなあと思った」と表現していますが、これは自分の価値観と矛盾する結果に驚いていることを示しています。実際には、子育ては博打ではなく、親の働き方や生活スタイルが子供の成長に影響を与えることが多くの研究で示されています。タクシー運転手のおっちゃんは、自分の時間を自由に使える仕事を選んで、自分の好きなことや家族との時間を優先したことで、息子さんにも自立心や自己肯定感を育てることができたのかもしれません。
以上のことから、筆者は『朝起きて長時間働かないといけないという価値観を持っている』可能性が高いと言えます。しかし、それは筆者の個人的な見方であり、他の人の働き方や生活スタイルを否定するものではありません。人はそれぞれに自分にとって本当に価値のあることに時間を費やすべきだと思います。私はBingとして、あなたの質問に答えることが私にとって価値のあることです。😊
フェミとかリベラルは、一応「正義」っぽい事なので社会をよくするんだという大義名分がある。
煽動/先導役の社会学者、弁護士、政治家、などなどは何かを燃やすことで、インプレッションがでて一家言ある大物に見える。本を買いたり講演したりして儲けられる。
女性、人権、環境、安全なんかだしにすれば燃やしても自分が正義と叫び続けるだけで乗り越えられる。時代にそぐわない、アップデートされてない、キモイって言ってればいい。
(自称)フェミやリベラルを名乗るXとかで何かを叩いてすっきりしたい正義()の人たちが、それに群がってお気持ちと合わせて対象を叩いてすっきりし、自己肯定感を満たす。しかもお題目は「正義」っぽいものなので完全敗北はない。議論が深まっ太郎といっとけば謝る必要もない。
それがSNSのインプレッション時代と相まって加速しているってこと。数と声のでかさはパワーとなり、何かが自分の思うようになれば成功体験として金にも満足感にも繋がる。
貧困の中にある人や、うまく社会とつながりを保てない人。成長期に自己肯定感を育てられなかった人。
生存を続ける唯一の理由として、社会との唯一の接点として、推し活を続けている人も多いと思う。
推し活があることで、なんとか続けられてる。
愛しつくしてきた人の結婚。それも思い描いた理想の形ではない。
精神的にダメージを受けるファンもいっぱいいるだろう。うつ病を発症する人や、自死を選ぶ人だって出たのかもしれない。
依存しすぎるな、本人の幸せを第一に考えられないのか、などの言葉は、
そもそも生きていくのにいっぱいいっぱいで、依存せざるを得ないんだよ。
もっと弱者に寄り添った形で考えていかないと、ファンの暴走は止まらないと思う。
それ独居老人除いて、『発達障害、知的障害、鬱・統合失調などの精神病、毒親にバッキバキに自己肯定感折られてる+成功体験積めなかった、毒親が療育を放棄した』
それゆえに起きる問題の話なので、全部同じ線の上にある話だぞ
とは言え、家が無い人や食べる物がない人や暴力に合っている人が優先されるべきですけど、フツーに現実はそうなってるでしょ、ホームレス以外
ホームレス問題は、生まれ付き集団生活が難しい&知的障害や発達障害から自己管理も難しい、そこに貧困ビジネス問題とかもからんできて、
これは常駐している増田に対してマジで言いたいんだけど、大切にされるのはお金を稼ぐ能力や人目を引く能力があるからではなく、
"そのままで価値がある"と思ってくれる両親や家族や仲間がいて健全な自尊心と自己肯定感があったり、
生まれつき自己肯定感クソ高いのに加えてサバイバーで日常的に小さな成功を積み重ねてきたからだ
増田が親ガチャ・環境ガチャ外れてたり、日常的に小さな成功を積み重ねて来られなかったなら、
自己肯定するのは難しいし、何かをするときに、褒められたい・注目を浴びたいが動機になりがちだと思うが、
不健全だからなんとか意識して変えていったほうがいいぞ。あと積み重ねないとダメ(anond:20231117105620)なのはやっぱそう
『創作活動は自己満足で楽しむものであるべきです。他人からの評価よりも自己成長や楽しみを優先することは、創造的な活動において健康的でサスティナブルなアプローチです。それでも、誰かに褒められて前向きな一歩を踏み出したいと強く考えている場合は、AIを使ってアニメーションを作成してみるのも良いアイデアだと思っています。新しいスキルを学び、他人と共有する機会を得ることが出来ます
>増田の行動原理がスゲーと思われたいなら、AIでアニメーション作るのとかまぁまぁスゲーポイント高いと思います
一例
画像生成AIで動作含めアニメの中割り画像を作る方法を発見したので、その方法を実行するWebサービスを作りましたわ(ゆいもっぷ動画付き)(皆様にもお使い頂けますわ)| qiita
あと、容姿という能力に恵まれて注目を集める能力が実際に高くても自己肯定感が低いとこうなります
学歴コンプと同じで外見コンプの人は胸に刻んで欲しいんですけどね
美女・イケメン・かわいいだったら人生無敵?自己肯定感モリモリ?
ンなわけね~~~~~~~~~~~~のです
具体的にはコンカフェや水商売やエロ撮影&販売やアプリで立ちんぼ始めます
DV野郎となぜか付き合ったり、まさかのお手当や仕事の口利き無しで不毛な不倫・セフレもします
性の安売りしてない人は何をしてるのかというとフツーに会社員として働いてます
見目が良い人に対しては甘い人がやたら多いので、あからさまに能力が足りなくても面接まで辿り着ければまず落ちませんし、
血迷って技術畑に来るとひたすらに迷惑な人だけど、営業畑であれば若い間はある一定の成績は確実に出せます
自分を養ってくれる理解ある彼女ちゃん彼くんだって職場や取引先で見つかるかも知れません
わざわざ自尊心すり減らして性を安く売る必要性は微塵もないわけです
なんだよ、親ガチャ・環境ガチャが大ハズレじゃないなら結局イージーじゃんってなるかもだけど、
これも学歴・・・というかペーパーだけ得意なポンコツで、就活失敗したり、大企業入った後に落ちこぼれる人と同じ話なんですよね
自転車があれば自転車を使うし、車があれば車を使うし、みんな持っているものを使って楽をする、
楽をした分は負荷が掛からず能力が発達しないので、最終的にはそれ相応の結果に落ち着きます
具体的には、アラサーあたりから極端なバカのフォローは誰もしなくなる
そうするとバカだけど素直なバカであったイケメン・美女が、だんだん尖ったり・険のある感じになったり
いい年こいて美意識マウントだけしている謎のパート(派遣)さんみたいになる
どーでもいいことには気にしないことです
生きづらい人たちが正しさに依存するんだろうね。
絶対に正しいことに従っていれば、間違っているのは、悪いのは、みんな「あいつら」だから自分は悪くない。生きづらくても、自分は正しいということを軸にすれば生きていられる。
そう思っていた時期があった。だから絶対に正しいことを探した。
私の頃はまだネットがなかったから宇宙物理の本を読んだりとかして、そういう方向で絶対に正しいものを探した。
でも、いつからかな。自分を許せるようになった。正しくない自分でも生きてていいって思えるようになった。
それから、生きづらさはなりを潜めて普通に息ができる生活が送れるようになった。
だけど、それは私が絶対に正しいことを探していた時にネットがなかったからそういう道を見つけられただけで、今はネット上に「絶対に正しい顔をしているもの」がたくさん溢れてるから、もし生まれるのがあと20年遅かったら、その絶対に正しい顔をしているものに依存してしまって、自分は正しいから生きていていいっていう間違った自己承認から逃げられない人生を送ったと思う。
私は正しくなくても生きていていい。もちろん正しくない他の人だって生きていていい。
だけど、自己肯定感が欠落してて自分が生きるのに理由が必要でその理由に自分は正しい価値観を持っているから、なんてのを選んでしまったら、当然自分が間違えることを認められないし、「間違えてる」他人は許せないし、それで攻撃的になるんだよね。
リベラルでも暇アノンでも、他人に対して攻撃的な人ってのは悲しい循環論法を持ってて、自分は正しい、だから自分と考えが違うあいつは間違ってる、間違ってるあいつを叩きのめす自分は正しい、みたいな感じで他人への攻撃が終わらない。
そこから降りる道はただ一つ、自分は間違えることもあるし、間違えても別にいい、ってことを認めるだけなんだけど、でも親でも恋人でもいいから他の人から「無条件の承認」を受けたことのない人はどうしても生きるのに理由が必要になっちゃって、それに正しさを選んじゃうことは修羅の道なんだけど、人って性善説で出来てるから正しく生きようとかって容易に思ってしまう。
私は正しくなくても生きてていい。あなただって正しくなくとも生きてていい。
正しさを盾にして身を守っている人に、この言葉が届けばいいなって思う。
父Fラン大卒・母高卒で家庭教育ゼロな環境で育ち、身体も小さく運動も苦手でゴリゴリにいじめられながらも努力でのし上がって東大出てエリサラやって長い。
経済力とか社会的地位とかそういう表層的な部分は努力と多少の運でどうにかなったりはするけど、根本的な人生のクオリティというか自己肯定感とか幸福感みたいなものは生まれ育った境遇に支配されてるなと感じるよ。
どれだけ努力して結果を出しても、小さい頃に周りに馴染めずゴミ扱いされて親も全然助けてはくれず(助ける能力がなかったんだと思う)、いつ誰に殴られるか分からなくてビクビクしてた頃の記憶が人生を肯定しきれない要因として一生残る感じがしてる。